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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
20. それぞれの戦い
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最初の反逆 ウィルヘルミナ

 ようやく書き上げた手紙を改めて眺めて、ウィルヘルミナは溜息を吐いた。何度も文章を考え直し、その都度紙を無駄にして最後に仕上げた、恐らくは一番マシなもの。それでも筆跡の(つたな)さ不揃いさはどうしようもない。


 ――もっと勉強していれば良かったのかしら。


 父が彼女に許したのは、教養としての最低限の読み書きだけだ。といっても、彼女の方でもさほど不満に思ったことはない。子供に読み聞かせるために物語を多少読めれば良い、難しい本を読み解くのは自分には無理だ、と。でも、もしも少女の時に父に食い下がって頼んでいたら、今夫の役に立つことができただろうか。シャスティエに対して負い目を感じずに済んだだろうか。

 娘――に限らず他の者全て――が逆らうのを好まない父のこと、ウィルヘルミナが望んだところで叶ったとは限らないけれど。何も考えず何もせず生きてきた数十年のこと、その間に失われたこと、できたかもしれない諸々のこと。今になってその重みが彼女に圧し掛かってくるのだ。


 ――エルジーが代わりに書いてくれることもあったわ……。


 何か実家に言付けしたいことがある時などは、エルジェーベトはさらさらと彼女が思ったことを紙に書きとめてくれたものだ。文字を綴るのも、文章を纏めるのも、ウィルヘルミナが考えるよりもよほど早く(こな)れていたから、つい甘えてしまっていたのだ。エルジェーベトは、彼女の頼みならいつでも何でも喜んで聞いてくれたことでもあるし。


 子供の頃を振り返れば、彼女の乳姉妹は主以上に勤勉で物覚えが早かった。時折様子を見に来た父が手放して褒めるほどで。ウィルヘルミナはそんなエルジェーベトのことを誇らしく思ったものだし、賛辞を送った時の控えめな笑顔も好きだった。

 でも、今となっては思い出は微笑ましいものではなくなってしまった。エルジェーベトの優秀さは、多分並々ならぬ努力の賜物だ。それも、全てウィルヘルミナの――役に立つように。彼女のためにエルジェーベトが自分を殺すようなことを、決して望んではいなかったのに。折角身に着けた機知や知識を、父の悪事に加担するために使って欲しくはなかったのに。

 これもきっと、ウィルヘルミナの無知がもたらしたことのひとつ。エルジェーベトの人生を狂わせたのは、愚かな主の咎にほかならない。


「早く……封をしないと……」


 とはいえ、自身の下手な手跡を眺めて嘆息してもこれ以上のものが書けるはずもないし、過去に思いを馳せても現在が変わることはない。だからウィルヘルミナは自明のこと、これからしようとしていることを、あえてわざわざ口に出した。


 紙片を畳んで収めた封筒に、蝋を垂らして印を押す。その行為さえも、父の所業を思い出させて彼女の胸を沈ませるけれど。ウィルヘルミナが幼い頃から間近に見て親しんで来た、ティゼンハロムの紋章が、シャスティエと生まれる前のフェリツィア王女を害そうとした罪の証拠として挙げられた驚きと衝撃――それは、今も彼女の息を乱れさせる。しかも、父は印章を使い分けるという細工によってその罪を問われることから逃れたのだ。長年に渡って父は()()()紋章と父個人のそれを使い分けていた。公の書面には個人のものを使い、後ろ暗く危ういやり取りにだけ、ティゼンハロムの紋章を使う――そうすることで、万が一ことが露見した場合に無実を訴えるつもりだったのだろう。


 由緒ある紋章に相応しくないがゆえに敢えて異なる紋章を常用していた、との父の言い分を信じることは、今のウィルヘルミナにはできない。あの時は堂々と反論した父の勢いに呑まれてしまったけれど。でも、その勢い、主張の隙のなさこそが、父が本当に罪に相当することに手を染めていて、あのような――追い詰められる――場面を常に考えて備えていたのだろうと思わせるのだ。異なるふたつの印章という、動かぬ――造られた――証拠があるから声高には言えないだけで、夫もシャスティエも世の人も、同じように思っているに決まっている。黒松館の襲撃だって、きっと父が裏で手を回したのだ。――夫は、やはり証拠がないと言っていたけれど。


 父の本性を知る人々は、ウィルヘルミナのことはどのように見ているのだろう。同じ性根だと思って蔑んでいるのか、親のことさえ知らない無知を嘲っているのか。いずれも反論などできないこと、娘としては恥じ入るほかない。臣下としてはもちろん、人の(みち)を外れた行いは、たとえ恩ある父であっても諫め止めるのが道理のはずだから。


 ――私に、何かできるのかしら……。今からでも、遅くないのかしら……?


 心を塞ぐ思いに、手の動きは鈍る。それでもどうにか無事に手紙に封をし終えたところで、ウィルヘルミナは控えていた侍女に声を掛けた。


「ラヨシュを呼んでちょうだい。お使いを頼みたいの」

「かしこまりました」


 恭しく目を伏せた侍女は、ティゼンハロム侯爵家に縁ある家の出ではない。ただし、ウィルヘルミナの知る限りにおいてだけ。死んだはずのエルジェーベトでさえ、名と出自を偽って王宮に押し込むことができた父のことを思うと、今の彼女には周囲の誰も信用できない。

 実家や、嫁いだ姉たち。あるいは親交のある婦人たち宛ての手紙なら、何の問題も滞りもなく届けられるだろう。でも、宛先がそれ以外の者だったとしたら。そして、託した者が父と繋がっていたら。彼女の手紙は必ず途中で開封されてしまうだろう。


 だから、ウィルヘルミナは決して言いつけに背くことがないであろうラヨシュを頼ることにしたのだ。何よりも守りたかった相手、夫に嘘を吐いてまで庇おうとした相手――それもまだ子供を、彼女は利用しようとしている。その卑怯さ勝手さには我がことながら嫌悪を感じずにはいられないけれど。


 でも、彼女には他に術がないのだ。




「お呼びでしょうか、王妃様」

「ええ。とても大事な話があるの」


 ほどなくしてウィルヘルミナの前に現れたラヨシュは、子犬のように真っ直ぐな目で彼女を見つめてくる。あまりに真っすぐで、気後れや後ろめたさを覚えてしまうほど。愚かな女には不相応な信頼と忠誠は、子供の無分別ゆえか、それとも母であるエルジェーベトに言い聞かされたことを信じ込んでいるのか。いずれにしても、この子は周囲の大人に翻弄されていることになる。

 ウィルヘルミナも、紛れもなくそんな大人のひとり。ラヨシュが長く母親と離れて暮らしていたのはエルジェーベトが彼女に仕えるため王宮に住まっていたから。そしてやっと親子で暮らせるようになったのもまた、彼女のせいだ。――()()()()()()、父がエルジェーベトに恐ろしい罪を犯させたから。自身の罪を幼い子供に打ち明けるのが怖くて、ラヨシュには何も知らせないまま、彼の身の振り方を決めてしまった。これもまた、何て浅ましくて身勝手なことだっただろう。


「この手紙を届けて欲しいの」

「はい。喜んで。……どなたに、でしょう?」


 手紙を受け取るラヨシュの表情は晴れやかで、仕事を与えられたのを純粋に喜んでいるのだと分かる。王妃の命令を光栄とでも思っているのだとしたら、エルジェーベトと同じくあまりに盲目、あまりに彼女の本当の姿が見えていない。ウィルヘルミナは、ただの女に過ぎないのに。


「アンドラーシ様に。奥様のご実家を訪ねていらっしゃるから、そちらへ行ってちょうだい」

「え? ですが……」


 けれど、手紙の宛先を聞いて、ラヨシュは流石に首を傾げた。王からウィルヘルミナたちの警護を命じられたアンドラーシが王宮を長く空けるはずもないから当然だ。手紙を届けるのに手間を掛けるくらいなら、帰りを待った方が早いくらいかもしれない。


 少年の不審を少しでも宥めようと、ウィルヘルミナは懸命に、何気なく見えるように微笑もうと努めた。


「ええ、かえってご迷惑かもしれないけれど。でも、フェリツィア様にお見舞いを差し上げたいと思い立ってしまって。お菓子や玩具を届けるつもりで、その使いは別に立てるのよ。アンドラーシ様には、お詫びというかご説明も兼ねて、私からひと言お伝えしたいの」

「はあ……」


 ラヨシュはやはりきょとんとした顔をしているが、あえて更に疑問を述べようとはしなかったので、ウィルヘルミナは笑顔の影でそっと息を吐いた。苦しい言い訳なのは承知している。王妃の立場を良いことに突飛な思い付きを通したがるのだと、納得してもらえれば良いのだけれど。

 フェリツィア王女の様子が気懸りなのも、菓子などを用意したのも本当のこと。ただし、ウィルヘルミナが何よりも届けたいのはこの手紙だ。それも、実家の者には決して見られてはならない。彼女の立場でできることはないか、考え抜いた末に試みる――策、と言えるのかどうか。ラヨシュやアンドラーシの力に頼る部分があまりにも大きいことで、自身の非力さをまた痛感させられる。


「――必ず、アンドラーシ様にお渡ししてね。貴方から、直接」

「…………」


 だからラヨシュに頷いてもらえなければ、全てが始まらない。やや声を低めて念を押せば、ラヨシュはさすがにおかしいと気付いたようで表情を強張らせた。母であるエルジェーベトにも相談してはならないと、言外の命を汲み取ってくれたのだろう。この少年は、母と主とその実家を、どれほど分けて考えてくれているのだろう。もしもそれぞれが全く同じ考え、同じ望みを持っていると信じているとしたら、この命令にどれほど戸惑うことだろう。


「王妃様。あの……」

「お願い。どうしても貴方でなければいけないの」


 ラヨシュの混乱を慮って胸を痛めながら、ウィルヘルミナはそれでも懇願するように念を押した。エルジェーベトが罪を犯したのは彼女のせい。ならばせめて、その子までも巻き込まれることがないようにしなければ。

 ――そう思うことさえも、彼女の勝手であることは分かっている。彼女自身も父への思慕を捨てきれないように、全てを知った後でもなお、ラヨシュは母を慕うのかもしれない。やっと再会できた親子の間を裂くような真似は、許されないことかもしれない。


「ラヨシュ……」


 でも、たとえ知らなかったことであっても、親の罪は確実に子供の心に重く()し掛かるのだ。知らずに関わったこと、加担したこと、罪の理由になったこと。エルジェーベトの開き直ったような悪びれなさは、ウィルヘルミナには信じられないくらいだけど、ラヨシュにそこまでの覚悟があるとは思えない。だから、できることなら今のうちにこの子をエルジェーベトからもウィルヘルミナからも離しておきたい。大人が勝手にすることで、子供に余計な重荷を負わせたりしないように。

 本当なら、父のしたことエルジェーベトのしたことを全て教えた上で、選ばせなければいけないのだろうけど、それもできない。詰るためだろうと真偽を問うためだろうと、ラヨシュがエルジェーベトのもとに走ったりしたら、ウィルヘルミナの思惑が知られてしまいかねないから。


「お願いよ。どうか、聞いて欲しいの」


 詳しく説明することもできないウィルヘルミナにできるのは、ひたすらに乞うことだけだ。母に教え込まれた忠誠ゆえに、ラヨシュが断ることは難しいのを知った上で。


「……はい。分かりました。必ず、あの方にお届けします……!」


 彼女の必死さを汲み取ってくれたのだろうか。しばし躊躇った後、ラヨシュはしっかりと頷いてくれた。――つまり、彼女の()は、最初の一歩を踏み出すことはできたことになる。




 ラヨシュに手紙を託した後、ウィルヘルミナは自室にエルジェーベトを呼び出した。


「マリカ――ミーナ様。お召しをいただいて、大変嬉しいですわ」

「そう……」


 待ち構えていたのかと疑うほどの参上の早さに、満面の笑み。婚家名で呼んでくれたことから見ても、乳姉妹の機嫌は良いように見えた。口論のようになってしまった先日のことを忘れたかのような態度に、ウィルヘルミナの方は緊張を解くことができないというのに。


 王宮を去って、罪を悔いて生きて欲しいと懇願して通じなかったあの日以来、エルジェーベトとはまともに話をしていなかった。王妃である彼女が望めば侍女のひとりを遠ざけることくらいはできるのだ。でも、それが何の解決にもなっていないことはウィルヘルミナにさえも明らかだった。

 エルジェーベトは、きっと父と通じる手段を確保した上で王宮に上がった。ならば父も娘の裏切りと忘恩を知ったはず。今までのように娘が思い通りにならないことに気付いた父が、次は何をするか――ウィルヘルミナには老獪な父の考えなど想像することはできないが、彼女と(マリカ)と夫にとって、良くない事態になるであろうことだけは分かる。


 だから、父が動く前に動かなければならない。父よりも自分を選んで欲しいと言ってくれた夫に迷惑をかけたくない。息を潜めて隠れていても、もう何にもならないならば。彼女から、行動を起こさなければ。危ういことは、百も承知。それでも、異国で戦う夫や攫われたシャスティエにくらべれば何ということもないはずだ。

 ラヨシュとアンドラーシならば、多分大丈夫。ラヨシュは彼女の頼みを聞いてくれる。そしてアンドラーシは、敵の娘のためというよりは、夫への忠誠のために。


「あのね、エルジー……お父様と、お話をしたいの。この前も話したことについて。貴女よりもお父様に言わなくてはいけないことだから。だから、迎えを寄越すようにお父様にお願いして。私から外に出ることは、多分難しいから……」


 そう、自分に言い聞かせてもなお、考え抜いたことを口に出してエルジェーベトに告げる時には、声が掠れて震えてしまった。

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