愚かな恋② レフ
客人として、レフは鷲の巣城の一角に棲み処を与えられている。恐らく、本来は外国の使節などを受け入れるためのものであろう、ささやかな屋敷だ。イシュテンと行き来をしていたせいでそう長く滞在していた訳ではないが、とりあえずはここが彼の居場所ということになる。特に、シャスティエを連れ帰ってからは鷲の巣城を動いていないこともあって、ようやく自室という認識を持てるようになってきていた。
分かり合えないままシャスティエと別れた後、しかし、彼に休む暇は与えられなかった。王太子妃ギーゼラのもとから使者が訪れて、以前も彼女と会った庭園に来て欲しいとの言伝てをしてきたのだ。
――王妃陛下はもう話を終えたというのかな?
シャスティエに対して余計なことを言ったらしい王太子妃は、義理の母から叱責を受けていたはずだった。まあ、アンネミーケ王妃も多忙なのだろうし、くどくどと長引かせることもないだろうから既に解放されていたとしてもおかしくはない。とはいえ、その直後に彼を呼び出す理由は今ひとつ分からない。慰めて欲しい、とでも言うのであればまずは夫君のマクシミリアン王子を頼るべきだろうし、何より彼にとっては面倒臭い。
――でも、あの方の機嫌は損ねない方が良いだろうし。
先ほどの広間では、嘘を吐いてまで彼の後押しをしてくれたのだ。無論、彼女の期待に完全に応えることなど彼には不可能なのだが。それでも、一応は礼を言っておいた方が後々のためになるだろう。
言われた場所に赴くと、王太子妃はひどく青褪めた顔色でレフを待っていた。彼を見ても微笑むこともない、その沈み切った様子に、やはり叱られていたのだな、と予想が裏付けられる。
案の定というか、ギーゼラ妃は挨拶もそこそこに切り出した。
「義母と話していました。先ほどの、広間でのこと……それに、あの方のことで……」
「ああ……」
そうでしょうね、などとは言わない方が良いのはさすがに分かった。相手の目蓋がいつもよりも腫れぼったく、涙を拭ってこの場に現れたことが察せられたから。高貴な女性が人前で涙することなど、普通はあり得ない。この方もそれを知っているからこそ、ぎりぎりのところで踏みとどまっているのだろう。下手に刺激するようなことを言って泣かせてしまったら――恥をかかせてしまったら、と思うと頷く言葉にも慎重になってしまう。
「私があの方と何を話したとしても……だからといって、あの方は何もできなかったはずです。何も知らせたくなかったのは、お義母様に後ろめたいことがあるからなのでしょう? それに、私は、義母のためになることをしたはずです。あの方は望んでここにいる訳ではないと、本当のことを言っていたら……。あの方が広間に現れるようなことがあっては……良く、なかったのでしょう? 義母が……その、助かった、のは私のお陰のはずです。違うのですか?」
「妃殿下はまったく賢明なことをなさいました。王妃陛下も喜んでおられたのでは?」
ことの成り行きがようやくおぼろげながら掴めて、レフはやっと相槌を打つことができた。ギーゼラ妃の言い分も、広間での件に限れば嘘ではない。王妃は、シャスティエへの発言については不快に思ったのだろうが、助けられたのを否定することまではできないだろう。息子の妻に対して賞罰などと言うのもおかしいが、ギーゼラ妃の行いは、広い目で見れば相殺できている、のかもしれなかった。
――では、何があったんだ……?
ギーゼラ妃はレフの方へと手を伸べようとして、そして引っ込めた。さすがに縋りつく訳にはいかないと気付いてくれたらしいのは幸いだった。シャスティエに対して不貞の噂を流した彼が、ブレンクラーレで同じ醜聞に巻き込まれるなど、悪い冗談でしかないだろう。彼の想いが向くのは美しい女王に対してだけ、ギーゼラ妃に対しては、同情から幾つか優しい言葉を掛けただけだというのに。
警戒して距離を取るレフを、一瞬だけ恨めしげに見てから、ギーゼラ妃はまた口を開いた。切々と、彼の憐れみを惹こうとするかのように。
「義母は私に感謝しても良いはずだ、と思いましたの。私、だからレオを返して欲しいと頼んだのです。私は息子さえいれば良いから……。でも、義母は私には任せられないと……! 私が嘘を吐いたのは国のためでも夫のためでもないから、って……!」
「王妃陛下も酷いことを仰る。妃殿下は、もちろん陛下の――ひいてはご夫君の御立場を慮って言われたのでしょうに」
シャスティエと同じく、ギーゼラ妃も我が子のことをこの上なく気に懸けているようなのが彼には理解できなかった。否、イシュテンに娘を置いてきた――というか彼が置いてこさせた、と彼女は認識しているのだろうが――シャスティエが言うのは、まだ分かる。だが、ギーゼラ妃の子、レオンハルト王子については同じ王宮の中でごく安全に健やかに育てられている。別に会うのを禁じられているという訳でもないだろうに、なぜ返す、などという表現になるのか分からない。アンネミーケ王妃だって、別に実母から赤子を奪ったつもりではないだろうに。
――王太子殿下や……この方に、ブレンクラーレの世継ぎが任せられないのは、まあ分かるし。
やや意地の悪い分析は、もちろん口に出すことはなく、レフはギーゼラ妃を慰める振りをした。真心などないから真摯な言葉とは言えないけれど、せめてそれらしくは聞こえるように。
「今は戦いの前、イシュテンの軍も迫っていることですし、王妃陛下も気が昂っておられるのでは……? もう少し、諸々のことが落ち着いてから改めてお話されれば、お答えもまた違うでしょう」
正直に言って、我が子が大事と言うならば、王太子妃の言動は確かに迂闊だ。レフ自身も彼女が彼を追う視線、そこに篭る熱を感じてしまうほどなのだ。マクシミリアン王子などならいざ知らず、抜け目のないアンネミーケ王妃ならば気付いていてもおかしくはない。
「……義母は、私が貴方のために証言したと思っているようなのです。あの方を、イシュテンに返さない……ただ、それだけのために……」
「もちろん否定なさったのでしょう?」
「ええ、もちろん。でも……信じてくださらないのです……」
事実、ギーゼラ妃はレフの予想を肯定してくれた。当たっていたからといって何ら嬉しいということはないが。必死な目で縋るように見つめながら、王太子妃は彼との距離を一歩詰める。彼は一歩下がって距離を保つ。
――まあ、実際そうなんだろうしね……。
王妃の心証は既に定まっているのだろうし、王太子妃の普段の様子からして義母を説得できるほどの確かな言葉を述べることはできなかったのだろう。だから、ギーゼラ妃の望みに反してレオンハルト王子は祖母の手元に囚われたまま。望みを叶えるために、彼女は次にどうするつもりなのか――呼び出された理由が薄々察せられてきて、レフは内心でうんざりした。
「あの……レフ様から……」
「僕はもう王妃陛下に睨まれていますから。口を出したところで拗れるだけでしょう。王妃陛下も誤解なさっているようですし」
肉体の距離に加えて、心の上でもレフははっきりと線を引いた。ギーゼラ妃が面倒なことを言いだす前に、余計な希望や期待を持つ前に。アンネミーケ王妃の言い分は誤解などではなく、はっきりと息子の妻の――言ってしまえば――移り気を咎めているのだと、この方だって分かっているだろうに。なのに、なぜまた義母を怒らせようとするのだろう。
――それとも、僕のせいだとでも言いたいのかな?
レフの気を惹きたくて嘘を吐いたのが裏目に出てしまった。だから責任を取れ、とでも仄めかしているのだろうか。ならば全く迷惑なことだ。ギーゼラ妃の好意を利用した覚えが全くないとは言わないが、それも別に無理強いした訳ではないし。結局は彼女の選択で為したこと、義母の不興を買う恐れが見えないほど愚かな方でもないはずだ。
「……母君とご子息のことなのですから、ご夫君に執り成しを頼まれるのが良いのではないでしょうか」
「あの方は、お義母様のことを信頼なさっていますもの。レオを預けても何の心配もないと、そればかりで……! あの方に、私の気持ちは分かりません!」
――僕だって分からないよ。
血が繋がった従姉、愛するシャスティエの心でさえ測りがたくて悩まされるのに。この上、たまたま異国で多少関わっただけの女性の心の裡を汲む余裕など、彼にはないのだ。恋をすると女は不可解に不条理になるものだとするならば、もしかしたらギーゼラ妃の心を読み解くことでシャスティエの思いを知ることもできるのだろうか。――否、シャスティエの気の強さ頑なさはギーゼラ妃とは全く違う。それに囚われの身であっても変わらない誇り高さも。そう、やはりふたりを比べるなど思いもよらないことだった。
「では、臣下の方でも。王太子妃殿下のお力になりたいと思う者は多いでしょう」
結局のところ、彼はこの国で、この王宮では異邦人でしかないのだ。戦いで死ぬかもしれないし、イシュテン王を斃すことができたならシャスティエと共にいずれミリアールトに帰る。たまたまブレンクラーレにいる時に不遇な王太子妃に手を差し伸べただけ、いつまでもあてにされても困るのだ。
だから頼るなら自国の者に。そう告げたつもりなのに、ギーゼラ妃は頑なに首を振った。
「そんな人はいません。いるように見えるとしたら、私や殿下、レオを利用しようという人たちだけです。誰も、本当に私のことを思ってくれる人なんて……!」
「お立場には同情しているのですよ」
レフは、広間でギーゼラ妃に証言を促した男を思い出していた。あの男は、どうやら王妃を嫌っていて、権力の座から追い落とそうとしていたようだった。もしかしたら、ギーゼラ妃はあの手の者に擦り寄られているということもあるのかもしれない。マクシミリアン王子に諌言するよりは、嫁姑の不仲を利用した方がよほど話が早そうだし。ミリアールトでの彼はもっとも年若い王族だったから、政争だの陰謀だのを身近に感じたことはなかったけれど、ブレンクラーレほどの大国になれば人の暗い思惑に触れることも多いのかもしれない。
また目を潤ませ始めているギーゼラ妃は、彼の目にはごく普通の若い娘に見える。そのような方に、宮廷での生活は向いていないのだろうと思うと哀れみを感じない訳ではないが――
「ですが僕はミリアールトの人間です。だからミリアールトの女王を一番に考えなければなりません。そして今は国と女王の未来がかかった戦いの前。申し訳ありませんが、お力になることはできません」
それでも、レフが命を捧げる相手は別にいる。同情が献身に変わることは、決してないのだ。
はっきりと首を振って見せると、ギーゼラ妃の顔から血の気が引いた。拒絶された絶望か、彼が戦場に出る未来を恐れたのか。あるいは、その両方だろうか。唇を虚しく喘がせる姿は、シャスティエの反応とどこか似ている。容姿も性格も、まったく似通ったところはないというのに、こんな表情をする理由だって違うだろうに、不思議なことだ。願わくば、ギーゼラ妃と同じ理由でシャスティエがこんな顔を見せてくれれば良い、と思う。
「戦いなんて……貴方が赴く必要は……」
「シャスティエをこの国に連れて来たのが僕であることに間違いはありませんから。それに、僕としてもイシュテン王と戦いたい」
レフの答えも、シャスティエに聞かせたこととほぼ同じ。それを聞いた相手が眉を顰めるのも。ただ、ギーゼラ妃の反応はシャスティエよりも激しかった。こぼれ落ちそうだった涙はどこへやら、ギーゼラ妃は頬を紅潮させて叫んだのだ。
「あの方は、イシュテン王のことを想っていらっしゃいます! 貴方がここまで尽くしているというのに、その御心を踏みにじって! どうして、あの方のために、そこまで……!?」
詰め寄られて掴まれそうになるのをどうにか躱しながら、レフは素早く周囲に目を走らせた。そもそも王太子妃が夫以外の男と会っているのがおかしいのだが――だからこそ、なのか、幸いにもしっかりと人払いはされているようだった。
それでも念のために、更に一歩距離を取って、ギーゼラ妃に向き合う。
「愛しているから。そうとしか言えません」
「――……っ!」
ギーゼラ妃は声にならない悲鳴のような音を喉から絞り出した。シャスティエほど細くはないけれど、苦労を知らない白い手が口を覆う。
――泣かせてしまったか……!?
こぼれ落ちそうなほど見開かれた目を前に、女王だから、と答えるべきだったか、と密かに悔やむ。だが、これは紛れもない彼の本心、彼の真実だ。王太子妃が何と言おうと変わるものでもないし、偽れるようなものでもない。
嘘で繕えば面倒がないのに、それができないとは――恋によって愚かにさせられているのは、彼も同じなのだろうか。
とにかく、これ以上ギーゼラ妃と話をしても無駄だろう。彼は彼女の力にはなれず、望む言葉もかけてあげられないのだから。
「――まだ、何かありますか?」
「いえ……」
「信頼できる者にご相談されますように。御心穏やかに過ごすことができるよう、祈っていますよ」
「…………」
ギーゼラ妃の唇がもの言いたげに――あるいはもの欲しげに――動き、しかし言葉が紡ぎ出されることはなかった。何を言ってもどうしようもないのだと、彼女も分かってくれれば良いのだが。
相手が黙ったのを幸いに、レフは丁重に礼を取るとその場を後にした。