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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
20. それぞれの戦い
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愚かな恋① レフ

 アンネミーケ王妃は慌ただしく席を立って退出していった。王太子妃は、どうやらシャスティエを見舞った折りにイシュテン王の主張を伝えていたらしい。()()()()()()もらえるかもしれない、などという希望を与えたのだとしたら確かに余計なことだ。王妃の不興も理解できるし、一刻も早く叱責したいという気になるのも分からないでもない。レフだって余計なことを、とちらりと思ってしまうほどだ。


 だが、一方で、王妃と王太子妃はまたとない好機を作ってくれたことになる。彼が何度乞うても、王妃はシャスティエと会わせてくれなかった。身重の彼女を慮れと言われたし、シャスティエの方でも望んでいないと伝えられたから。

 黒松館での惨劇に、ブレンクラーレまでの旅路で幾度となく繰り返した口論。正論を述べているつもりで言いすぎたり、却って彼女を怒らせたりしたことがあったのは確かだが、こうもシャスティエの信頼を失っているのかと思い知らさせるのは苦しいものだった。


 だが、今日はアンネミーケ王妃について同じ部屋に入ることが許された。シャスティエの婚家名の意味を知っているという、証人の役割を求められたということだろう。というか、シャスティエが彼の存在に気付いて止める前に入り込んだ、という方が正しいのかもしれないが。とにかく、久しぶりに彼女と話すことができる。今は分かり合えないのは仕方ないとしても、彼の想いを伝えることができる。


「シャスティエ――」


 期待に逸り、身を乗り出すようにして呼び掛けたのだが――


「帰って。話したくないの」


 シャスティエはふいと顔を背けてしまった。先ほど話すことなどないと言った態度は微塵も揺らぐことなく、雪の壁のように彼を拒んでいる。ただ、頑なにイシュテン語を通された黒松館での時とは違って、今は懐かしいミリアールト語を使ってくれている。動揺のあまり、祖国の言葉が口からこぼれているというだけかもしれないけれど。でも、血が繋がった相手に異国の言葉で話しかけられる余所余所しさよりは大分マシだった。


「私に怒る資格がないのは分かっているわ。貴方の立場なら()()するのが当然だということも。でも、許すことはできない。……これで、どうなってしまうか……!」


 それに――覚悟していた通り――シャスティエは確かに怒り、彼を拒絶していたが、以前のように彼を責め立てることはなかった。言葉の上では詰っていても、戸惑いが怒りを上回っているようで声には力がない。彼女も心が揺らいでいるのだ。ほんのわずかな、髪一筋ほどの微かなものであっても、希望と感じることができる。


 ――シャスティエは一度心を変えてしまった。でも……だからこそ。もう一度変わって――戻ってくれれば……!


 だからレフは何度か深く呼吸をし、努めて感情を抑えようとした。シャスティエの神経を逆立てることなく、閉ざされた心の扉を、再び開けさせることができるように。


「……王妃陛下はあくまでもイシュテンと戦うつもりだ。側妃の名の意味を知れば、イシュテン軍の足並みも乱れるだろうから」

「…………」


 まずは彼女の疑問への答えを与える。どうなるのか、という問いに答える、アンネミーケ王妃の意図、恐らくはシャスティエも恐れつつも予想しているであろうことを。――これで、イシュテン王のもとにはもう戻れないと気づいて欲しい。

 次いでレフはシャスティエの膝元に跪いた。女王に対する礼のように、口づけするために手を差し出してもらうことを乞うように。そして続ける。


「僕も戦場に行く。この国に戦いを招いたのは僕の責任でもあるからね、そうしなければ許されないだろう。でも、理由はそれだけじゃない。この手で、父と兄の仇を取りたいんだ。君は……僕の無事を願ってくれるか?」

「嫌……そんなことは止めて……」


 シャスティエがゆるゆると首を振ったのは、レフの懇願を拒絶したというよりは戦いそのものを忌避してのことなのだろう。それでも、すぐに頷いてくれないことで彼の心を引き裂いてくれたけれど。でも、苛立ちも悲しみも表に出してはならない。それは彼女を頑なにさせるだけ。辛抱強く、彼女の情に訴えて彼にも心を向けてもらわなくては。


「君はイシュテン王のことばかり心配しているようだけど。僕には、優しい言葉のひとつも掛けてくれないの? 死ぬかも……殺されるかも、しれないんだよ?」

「貴方は戦わなくても良いでしょう……! 王妃陛下の使者とやらを、止められないの? 私が戻れば王は兵を退くかもしれない。少なくとも犠牲は少なくて済む。貴方はブレンクラーレに仕えるか、こっそりミリアールトに戻れば……そうすれば――」


 シャスティエの碧い目が真っ直ぐに彼を見下ろして訴えてくる。間近に目を合わせて見つめてくれるのも久しくなかったことで、それだけでも胸が熱くなってしまうほど。――だが、口にするのは相変わらずあり得ないことばかりで思わず苦笑が漏れてしまう。


「そんなことをしても意味はないよ。敵を前にして逃げろと? それに、君を奴に渡したままだなんて」

「……王は話せば分かるはず。ミリアールトだって悪いようにはしないはず。王妃陛下の方がよほど信用ならないわ……!」


 そして多分レフのことも信じていないのだろう。イシュテン王について語るのだって、はず、ばかりで根拠があることではないのだろうに。復讐なんて名乗った癖に、遠く引き離されて、更には秘密を暴かれようとしているのに、どうしてこうまで盲目になれるのだろう。これが恋というものなのか。だとしたら、何て忌々しくも愚かなことだ。


「僕は君を諦めないよ。どうしてもと言うなら、僕だってどうにかして君の名の意味をイシュテンに漏らす。寵愛深い側妃に裏切られていたと知ったらイシュテン王はどうするか――殺されると分かっていたら、君だって帰ろうとは――イシュテンが君の居場所とは思えないけど――言い出さないだろう?」


 声を荒げては意味がない――そう思いつつも、言葉から完全に皮肉の棘を除くことは難しかった。それにどう取り繕ってもこれは脅迫にほかならない。絶対に、シャスティエがイシュテン王のもとに()()道を塞いでやる、という。

 否、これは脅しなどではない。ただ事実を説明しているだけだ。もうイシュテン王に会うことはできないと――諦めがつけば、シャスティエだって分かってくれるはずだった。


 だが、シャスティエは頑なに首を振った。蒼白な表情で、イシュテン王の怒りを想像して怖れは感じているのだろうに。


「いえ……殺されるとしても。何も言わないでいるよりはマシよ。私は、王と話をしなくてはいけない。本当のことを、伝えなければ……!」


 一度言い出したら聞かない強情さ――こんなところは変わっていないのを、喜ぶべきなのかもしれない。だが、こうもイシュテン王に固執するのはやはり彼女らしくないとしか思えなかった。彼女の想いの深さをこんな形で知らされて、レフの忍耐も少しずつ削り取られていく。シャスティエの激しやすさは、血の繋がりによって彼にも伝えられているのだろうか。


 ――本当? 本当のことって何だ? 愛しているとでも!?


 気付けば、口からはあからさまな嘲笑が漏れていた。


「バカげたことを。君の子だって殺されるってことだぞ? そんなに大事そうにしてるのに……! その子だけでも助けようとは思わないのか!?」


 シャスティエの胎の子だけでも――つまり、イシュテンに残された王女はイシュテン王や臣下の怒りに任せて殺されるだろう。彼が言ったのはそういうことだ。母親にそんな残酷な予想を聞かせてもますます平静さを喪わせるだけで何の利もないと、口にした瞬間には気づいていた。

 しまった、と。慌てて口を(つぐ)んでシャスティエの表情を窺うと、顔色は一層青褪めて、唇までもが色を失っていた。倒れてしまうのでは、と手を伸べようとして――しかし、意外なほど力強く振り払われた。彼を拒絶した白い手は、膨らんだ腹をしっかりと守るように抱えている。


「シャスティエ……?」

「子供たちなら、大丈夫」


 不審に思って呼び掛けると、シャスティエの声も、動揺を拭い去ったしっかりとしたものだった。何よりも――認めるのは癪だけど! ――慮っていたはずの娘のことを、どうして諦められるのか。理解できないまま見上げた彼女の顔は、少しだけ微笑んでさえいた。


「王はミーナ様――王妃様を、ティゼンハロム侯爵の娘でもあるあの方を、父親の罪とは関わらず妃として扱い続けるつもりよ。あの男は親の罪を子に問うことはしないの。だからフェリツィアも大丈夫」

「イシュテンの……王妃……?」


 今まで気にも懸けてこなかった女の名を初めて聞いて、しかし記憶に残ることはなかった。何か心の拠り所を見つけたように、シャスティエの態度はもはや悠然としているようだった。それが不思議で、不穏で、不満だった。彼女はイシュテン王や娘を諦めるどころか、彼らのもとに帰るのだという決意を固めてしまったように見える。そんなことはできないのに!


「――だから王と話すのは何としても必要よ。私がしたこととミリアールトを、分けて考えてもらわなくては。……そう、最初に戻るだけ。最初から私の命で祖国を贖うつもりだったもの。子供を得ることができただけ幸せだったのでしょう」

「そんな幸せがあるものか!」


 シャスティエの揺るぎない静かな口調は、死を受け入れたから。復讐を名乗ったこと――手段はともかくイシュテン王の非道に対する正当な感情を、償うべき罪として認識しているから。イシュテン王の怒りをひとりで負って、祖国のための犠牲になろうとしているから。イシュテン王との間の子を、あの男との婚姻の結果を、生きた証にしようとしているから。


 そうと気づいて、レフは声を荒げていた。それだけではない。弾かれるように立ち上がるとシャスティエの肩を掴み、噛みつくように怒鳴りつけてしまう。


「そんなことはさせない。君はイシュテンに帰れない。僕はイシュテン王を討つ。そうすれば誰も君のことを咎めたりはしないんだから。ティゼンハロム侯爵の孫ではまともなイシュテン王にはなり得ない。ミリアールトを取り戻すことだって、難しいことではなくなる……!」

「ブレンクラーレの後援のもとで、ね。他国に介入して乱を起こさせるような方のこと――信用できないと言ったでしょう」


 これまで何度か触れた度に思ったけれど、シャスティエと体格がさほど変わらなかったのは昔のことだ。彼女の肩は細く、対して彼は力をつけて背も伸びた。部屋の隅や扉の外に控える者さえいなければ、このまま押し倒すのも簡単だと思ってしまう。でも、たとえ本当にふたりきりだったとしても、彼女の目に嫌悪が浮かぶことを思うと決してそれはできないのも分かってしまう。


 だからレフがシャスティエの心を動かすために頼るのは言葉だけだ。それも、見込みがないと分かっているが。それでも一縷の希望を賭けずにはいられなかった。


「でも、そうなる。君はここから出ることなんてできないんだから。君にイシュテン王の首を捧げよう。父と兄たちにも。それから、ふたりでミリアールトに帰るんだ」

「……そうならないように願うわ。願うし、行動する。王妃陛下の思いのままになるなんて許せないもの」

鷲の巣城(アードラースホルスト)から、ひとりで逃げられるものか。赤子も抱えてならなおさらだ。……君が、諦めてくれることを願っているよ」


 ――今は、これしか言えないのか……?


 イシュテン王が生きている限り、シャスティエはあの男のもとに戻ろうとするのだろうか、と。レフは苦い敗北感を噛み締めた。無論、アンネミーケ王妃が彼女を逃がすはずはないけれど。シャスティエの心を奪われたままだとしたら、肉体だけ傍にいられても何の意味があるだろう。


「……貴方だって、もう危険なことはして欲しくないの。こんなことは止めて欲しいのに……」


 こんなこと、とは一体何を指しているのだろう。心当たりが多すぎて分からなかった。とにかく分かるのは、シャスティエがいかに乞おうとも彼が止まることなどあり得ないということだけだ。


「どうせまた会ってくれなくなるんだよね。戦いが終わったらさすがにちゃんと話ができると思いたいけど。もう一度聞くけど……僕の無事を願ってくれるか?」

「ええ。常に願っているわ」

「そう。ありがとう」


 彼が立ち上がっても、シャスティエが見送りのために腰を上げてくれることはなかった。ただ、腹を抱えて眉を顰めて、彼を見上げるだけで。無事を願うのも、勝利を願うということではなくて戦いを避けて欲しいという意味でしかない。

 ただ、たとえ彼が望むようなものでなくても、少なくとも彼を案じる言葉だけは引き出すことができた。完全に嫌われて疎まれているのではないと、確かめることはできた。


 それだけを収穫として、レフはシャスティエの前から辞した。

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