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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
20. それぞれの戦い
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閉ざされる道 シャスティエ

 ジョフィアは、軟らかく煮た野菜を、色鮮やかで目新しい感触の玩具とでも思っているのかもしれない。泥遊びでもするかのように、皿に盛りつけられた野菜を手掴みしては小さな手でこねくり回している。


「こら……ちゃんと食べなさい」


 大の大人ならば、もちろん許されない無作法――でも、強く叱る気になれないのは相手が赤子だから。それに、いかにも楽しそうな笑顔を見ては咎めることなどできるはずもない。まだ道理が分かっていないだけなのだから、今は健やかに育ってくれれば良い、と思う。

 それに、匙で口元に運んでやれば、ちゃんと美味しいものだと気づいてくれるようで、今度は手ではなく口を動かすのに夢中になって貪ってくれる。高い声で甘えるように次のひと口を強請ってくるのも、開いた口から生えかけの歯が小さく白く覗くのも、可愛くて抱きしめたくてたまらない。汚れた手で掴まれても何の嫌悪もなく、むしろ喜んで(よだれ)を拭ってやることができることには、シャスティエ自身が驚くほどだ。


 実母を奪ってしまった後ろめたさを別にしても、赤子の成長を間近に見守ることができるのは虜囚の身にあっては得難い喜びだった。たとえジョフィアと彼女自身の衣食がアンネミーケ王妃の施しに頼らざるを得ないとしても。ジョフィアの成長を見る度に、同じように育っているはずのフェリツィアを思って胸を引き裂かれるとしても。――これは、ただ現実を忘れて甘い夢に浸っているというだけではないはずなのだ。

 匙に食いつくジョフィアの力強さを感じながら、心の中で自身に言い聞かせる。


 ――ジョフィアはちゃんと大きくなっている……行きの時よりは、安心して旅をできるはず……!


 ライムント伯爵夫人アマーリエ。そう名乗った女は、シャスティエを鷲の巣城(アードラースホルスト)から逃がしてイシュテン軍に通じさせる手はずを整えると言っていた。国を挙げて兵を動かしたイシュテンが、側妃を取り戻しただけで引き下がるとは思えないけれど。でも、アンネミーケ王妃に囚われたままの状況よりは夫の庇護のもとにある方が安心できる。何より、イシュテン軍に身を寄せれば王妃の陰謀を証言できる。アマーリエたちの思惑通りに王妃を失脚させることができるかどうかはともかくとして、停戦のためのまたとない手札を提供することができるはずだ。


 ――戦いが終わったら……王と話す……。まず謝って赦しを乞わなくては……。


 何もかもを黙っていたことに対して。レフのことも、ブレンクラーレの介入のことも。それに、彼女の婚家名についても。全てを打ち明けてからでなければ、次に進むことはできないから。


 ――その次は、ミリアールトのことを聞く……。


 レフがいっそ得意げに言っていたこと――ミリアールト語を禁じる政策について。本来ならば激怒しなければならないのだろうけど、シャスティエは夫が何か納得できる理由を教えてくれることを期待してしまっていた。レフが言うようにミリアールトを虐げる意図ではなく、已むに已まれぬ事情があるのではないか、と。それを言ってくれない理由も、分からないのに。


 ――でも、私も言うべきことを言っていなかったから。


 敵同士として出会い、最初は憎しみの対象でしかなかった。今もあの傲慢さには頷きがたい部分もある。でも、どのような経緯があろうとも、王とは夫婦になってしまった。信頼し共に歩むべき相手だと思ってしまった。これからもそのようであるために――今までの歪みは、ここで正さなければならないのだろう。


 フェリツィアと再会できるのはその後だ。そして次の子が生まれる時には、もっと穏やかな心持ちでいたい。果てしなく思える道のりにくらりとした目眩を覚えながら、シャスティエはこちらも確実に膨らんでいる腹を撫でた。




「王妃陛下が……?」

「はい。すぐにいらっしゃいます」


 道は遠くとも、少しずつ進んでいるのだと思っていた。だから摂政王妃の急な訪問の申し出にシャスティエは戸惑った。しかも打診ですらなくこれから行くという宣言だ。囚われの身に断る余地はないのだと思い知らせている、などと思うのは穿ち過ぎだろうか。


 ――最初の時しかお話してないのに……。


 アンネミーケ王妃がわざわざ彼女を訪ねてこなかったのは、まず第一に多忙だからだろう。失礼ながらマクシミリアン王子は有事の際に頼りになるようでもなし、常の政務に加えてイシュテンの――シャスティエの夫の軍に対応しなければならないのでは、文字通り寝食の暇を惜しんで当たらなければならないのだろう。


 でも、きっと実際上のものだけが王妃と会うことがなかった理由ではない。恐らくはシャスティエの顔など見たくない、とも思われているに違いないのだ。鷲の巣城の門を潜った最初の日、シャスティエは宮殿の実質的な主であるあの方に対して大層無礼な態度を取ったものだから。レフの行いを救出ではなく誘拐だと詰り、王妃の言葉では不足と言わんばかりに王と神の名による誓いを求めた。シャスティエとしては正当な憤りだったし、イシュテンの王女という価値のないジョフィアの身の安全を確保するためには必要なことだったとは思うけれど。ブレンクラーレにおいて並び立つ者のない方にとっては、さぞ目障りで不敬極まりない態度だっただろうとも分かる。


「では、着替えた方が良いのかしら」


 赤子の世話をしていたから、シャスティエの衣装は食べこぼしや涎で汚れている。着替えといってもブレンクラーレ側に用意された借り物――あるいは施しものでしかないが。それでも礼儀は必要だろうし、シャスティエとしても恥ずかしさはある。だが――


「いいえ。王妃陛下はお忙しい身でいらっしゃいますので、お着換えをお待ちすることはできません」

「な……っ」


 シャスティエとジョフィアの世話係としてつけられた侍女は、さすがに後ろめたそうに目を泳がせていた。つまり、ブレンクラーレにおいては王妃を出迎えるための身支度よりもとにかく待たせないことが重要である、などと考えられている訳ではないのだろう。


 ――だからアンネミーケ王妃は明確に嫌がらせの意図で訪ねてこようとしているのだ。




 ギーゼラ妃の時と同様に、いかに訪問の意図を疑い、来訪を歓迎していなかったとしてもシャスティエには断る術などない。そして実際に現れたアンネミーケ王妃は、予想通りに疲れと憔悴を浮かべた顔に、それでも勝ち誇るような微笑みを纏っていた。


「久しくお会いすることができなかったな。退屈していらっしゃらなければ良かったのだが」


 ジョフィアの食べこぼしを払い落しただけのシャスティエに対して、王妃は政務の合間に訪れたにしては豪奢な衣装を纏っているように見えた。まるで謁見の場にでも臨むような。捕虜を威圧するために忙しい中わざわざ着替えたのだとしたら随分と余裕があることだと思う。


「……夫が間近にまで来てくれていると思うと退屈するどころではございませんわ。早く会わせていただきたいものなのですけれど」


 ――同じ王妃でもこんなに違うのね……。


 せめてもの虚勢として嫌味を返しながら、イシュテンで王妃の地位にある方を思い出さずにはいられない。自らは政治や戦争には関わることがないからでもあるのだろうが、人質として引き合わされた相手に対してもミーナは常に優しく思い遣り深かった。時に無力を嘆くようなことを仰っていた記憶もあるけれど、国を滅ぼされた憎しみさえ溶かす裏表のない優しさは、知識や機知で替えられるものではないのだろうに。

 王が遠征しているということは、あの方はマリカ王女と共にイシュテンに残されていることになる。シャスティエはやはりあの方からは奪ってばかり。――そう、あの方に謝らなければならない。それも、シャスティエが果たさなければならないことのひとつだ。


 装いの差によって感じる屈辱に、ミーナに思いを馳せたことによる後ろめたさに。シャスティエの表情は強張って、アンネミーケ王妃を喜ばせたようだった。


「さあ、本当にそう思っておられるのだろうか――復讐の君」

「何を……?」


 そもそも歓迎していた訪問ではなく、用件があるとしても決して喜ばしいものではないだろうとほぼ確信していた。だが、覚悟していてもなお、アンネミーケ王妃が囁いた不穏な単語はシャスティエの胸を刺した。復讐。意味は知っていても、ブレンクラーレ語では使ったことのない響きだ。だが、どうして今この時にその単語を使って呼び掛けられるのか――まさか、という思いを、アンネミーケ王妃は満面の笑みで肯定した。シャスティエの動揺を愉しむかのように。それでシャスティエも疑問を確信に変えなければならなくなる。


 ――この方は知っている……!


 反射的に構えて腰を浮かせたシャスティエを嗤い、アンネミーケ王妃は背後を目で示した。まるで従者ででもあるかのように控えた、レフのことを。子供たちの無事を誓っておきながら、断りなく彼をこの場に伴った――そのことも、信じられないと思っていたのに。


「従弟殿が、姫君の婚家名とやらの意味を教えてくださった。敵の懐深くで復讐を誓う、などとは、まったく見事というか無謀というか。イシュテンの蛮族どもに知られる前にお助け申し上げることができて本当に良かった」

「レフ……なんてことを!」


 無謀、などとはまだ取り繕った表現なのだろう。アンネミーケ王妃の口調も表情も、はっきりとシャスティエの選択を愚かだと嘲っていた。――確かに、そのように嗤われても一分の反論の隙もない。ミリアールトの乱を収めるため、死を賭しても戦う覚悟だったグニェーフ伯らを抑えるために、あの時はああするしかなかったと思ったけれど。

 でも、王と過ごすうちに、復讐の誓いはシャスティエを縛る枷にもなった。憎い相手、ミリアールトの血脈を保つためだけの婚姻だと、そう自らに言い聞かせてきたことで、言うべきことを言えないままになってしまった。憎む以外の道に気付いていれば、今の状況はまた違ったものになっていたかもしれないのに。


 レフも――多少は控えめなものだったけど――王妃と同じく嗤っていた。


「君が自分で選んだ名前だと、そう言っていたじゃないか。今まではいつ露見するかと恐れていたけど――君がイシュテン王の手中を逃れた以上は、もう隠す必要もないだろう」

「なんてこと……」


 非難を込めてレフを睨んでも、彼の態度は悪びれない。そしてその言い分にも返す言葉がなくて、シャスティエは守るように腹を抱えた。不意に暴かれた秘密、それを突きつけられたことへの動揺に、血のめぐり方がおかしくなっている。胎児を守る子宮も不穏に()って、痛みを訴えてくるのが怖かった。


 腹を抑えたまま俯くと、額から汗が伝った。折角、健やかに育っていると思ったばかりなのに。母の心の揺れは、赤子にも分かってしまうはず。フェリツィアの時も、今までも、穏やかに子の誕生を待ちわびることなどできなかった。たとえ異国に囚われた身でも、せめて健やかな身体に育ててやりたかったのに。――この有り様では、それも叶うだろうか。


「シャスティエ……?」

「どうなさった? 医者を呼ぼうか」

「構わないでください」


 心配そうなレフの声、心配を装って掛けられたアンネミーケ王妃の声さえシャスティエの神経を逆撫でる。彼女が自ら進んで復讐を名乗った、それは否定のできない事実だ。だが、今この時になって明かすなど、レフも王妃も、それぞれに狙いがあるに違いないのだ。


 ――隠す必要がない……!?


 レフが明かしたのは、アンネミーケ王妃に対してだけか。それとも。王妃の衣装を一見して、まるで謁見にでも臨むようだと思ったのだ。それがシャスティエを威圧するためではなく、実際に数多の臣下に対峙してきた、その後だったとしたら。

 シャスティエは唇を噛むと顔を上げ、王妃を睨みつけた。


「それよりも。私の名の意味を知ったからといって、どうなさるおつもりなのですか? ただ、私の愚かさを嗤うためにいらっしゃったはずはありますまい? それほどお暇なはずはありませんもの……!」


 せめてもの反抗を示そうと言葉に棘をまぶしても、相手の微笑みを崩すことはできなかった。イシュテンの軍はブレンクラーレの奥深くまで食い込んでいると聞いたのに、この態度。それが嫌な予感を掻き立てる。アンネミーケ王妃は、自身が自国が危機にあるとはもう考えていないのだ。


「イシュテン軍に使者を立て、姫君の名の意味を教えてやろうと思っておる。既に臣下たちに(はか)って使者の算段を立てたところだ。わざわざ他国まで攻め入って誘拐だのと難癖をつけてくれているが、どうやらイシュテン王は思い違いをされているようだ。――それを、教えてやらなければ」


 音を立てて顔から血の気が引いていくのが分かった。その様が相手を喜ばせてしまうのも。でも、すぐに表情を取り繕うことはできなかった。悪い予感を裏付けられた――王妃の余裕の理由を、十分すぎるほど悟ってしまったからだ。助け出すはずだった側妃の裏切りを、敵によって知らされるのだ。イシュテンの士気を挫くには十分な一撃だろう。何より、夫は、いつの間にか夫と呼ぶようになってしまったあの男はどのように思うのだろう。


 ――こんな、形で……。


 これは全てシャスティエの咎だ。それもまた、よく分かっていた。いつ知られるかも分からない不穏な意味の名を選んだのも、その選択に迷い始めてからも夫に打ち明けることができなかったのも。レフの命を惜しんでブレンクラーレの魔手を止めることができなかったのも。


 でも、自らの過ちを認めることと、敵の卑劣を良しとすることはまた別だ。秘密を暴かれた動揺に、まだ足元が定かではないような、ふらつくような感覚はあったけれど。シャスティエは精一杯、腹に力を込めて強い声を出そうとした。たとえ無力だとしても、心まで屈したとは思われたくない。誇りだけは、彼女に常に残されていたはずだ。


「――でしたら、他にも明かすべきことがあると思いますわ! 王妃陛下がティグリス王子の乱に介入していたと……シャルバールでの惨状はそれは酷いものだったとか。他国の王位争い、それも王に背く側に加担していたことは、お認めにはならないのですか!? 夫はその点も突いているのでしょう!?」

「何の証拠もないことを。イシュテンの国内が乱れているのを、(わたし)のせいにされても困る」


 とはいえ負け犬の遠吠えでしかないこと。アンネミーケ王妃に鼻で嗤われて、乱れた心に更に爪を立てられる。苛立ちに任せてまた唇を噛めば、血の味が口内に広がった。いつも、シャスティエは思い知らされる。力のない者が吠えたところで顧みられることはないのだと。イシュテンへの介入を認めれば――アマーリエらが目論んでいた通り――、それはそのまま王妃の失脚に繋がるだろう。シャスティエに声を上げる術がない以上、王妃が自ら破滅への道を選ぶはずはないのだ。


「……待て。なぜ姫君がイシュテン王の言い分を知っている?」


 悔しさに歯噛みしていると、勝ち誇った微笑から一転して、アンネミーケ王妃は何事かに気付いたように眉を寄せた。問いかけるのも、シャスティエに対してというよりは自身に向けて。それも、言いながら答えを既に見つけ出しているかのようだった。


「マクシミリアンには余計なことを言うなと言っておいたのに。そのようなことを言ったのは王太子妃か? あの娘も少々おしゃべりが過ぎるようだ……」


 豪奢な衣装に施された刺繍や装飾が、いかにも重たげな衣擦れの音を立てた。まるでアンネミーケ王妃の不快や苛立ちを伝えるかのように。たっぷりとした衣装を波立てながら王妃は立ち上がり、シャスティエにちらりと視線を投げた。その冷ややかな色の目に、彼女は映っていないような気もしたけれど。


「息子の妻の無作法は義母の私から叱ることにしよう。姫君は、従弟殿と少し話されるが良い。この方も随分会いたがっておられたのだから」

「嫌です。話すことなどありません」


 侍女や警備の――あるいは監視の――者が控えているとはいえ、レフとふたり取り残されるなど恐ろしい。だから思わず声を上げたのに。シャスティエの抗議も、聞き入れられることはなかった。何事かに気を取られたらしい王妃は、彼女やレフのことなど一顧だにせず、来た時と同じく礼を失するほどに慌ただしく去って行ったのだ。

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