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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
20. それぞれの戦い
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真実を覆う嘘 レフ

 ――クリャースタ・メーシェ。その意味は、復讐。ミリアールトの女王が密かに込めた誓い。


 静寂の広間に、レフの声の残響が吸い込まれるように消えて行った。何かの演奏をやり切ったかのような不思議な爽快感が彼の胸を満たす。迫るイシュテンの軍に怯えて浮足立っていた文官や、先ほどまで口論を戦わせていた壮年の貴族が揃って呆気に取られたように固まっているのが面白い。


「それは――(まこと)か? なぜ今まで黙っていた!?」


 最初に我に返って問い質してきたのがアンネミーケ王妃だったのは、さすがと言うべきだろうか。もっとも、この女傑でさえ先ほどまでは青褪めた顔で唇を噛み締めていたのだが。だが、今はもう彼が告げたことをどのように利用するか、考え始めているようだった。この切り替えの早さと抜け目のなさ、大国ブレンクラーレを率いるだけあってまったく逞しいことだと思う。


「ええ。疑うならば幾らでもお調べになれば良い。すぐに分かることでしょう」


 王妃の目配せを受けて、数人の侍従が転がるように広間を駆け去っていった。どこか、書庫のようなところにでも行くのだろうか。鷲の巣城(アードラースホルスト)ならば、ミリアールト語の辞書の一冊や二冊、収めていないということはないだろう。


 ――しかし、気付かないものなんだな……。


 大国ゆえの驕りというものなのだろうか、などと思う。レフ自身もシャスティエも、教養としてブレンクラーレ語を修めていたから、この国の者の前でミリアールト語を使う機会はなかったのだ。恐らくは彼ら以外の外国の使節なども同様に、この強く豊かな国に敬意を表してブレンクラーレ語を解する者が送られてくるのだろう。だからこの国の者が他国の言葉を意識する機会は少ない、ということなのかもしれない。まあ、そもそも婚家名など野蛮で忌まわしい風習だ。シャスティエをイシュテン王の妃と見做すのもおぞまましいし、クリャースタ・メーシェの名自体、この国で取りざたされることはほとんどなかったのだが。


「黙っていたのは――女王の身を慮ってのことです。祖国の民の心情を思って選んだことなのでしょうが、敵国で名乗るにはあまりに危うい。この間、ブレンクラーレとイシュテンの間で国交が皆無ということはなかったでしょうし、」


 特にアンネミーケ王妃が密かに接触を持っていたのは、誰よりもシャスティエの破滅を望む男――ティゼンハロム侯爵だ。王妃も基本的にはミリアールトに恩を売りたいと思っていたのだろうが、第一の目的はイシュテンの弱体化だったはず。イシュテン王を陥れ、侯爵に利することができる情報を手にしたら、それを利用しようと考えないとも限らなかった。


 ――貴女は彼女を見捨てていたかもしれないだろう?


 レフが含ませたことに気付いたのか、アンネミーケ王妃は苦い顔で押し黙った。と、その隙を突くように、反王妃派と思しき貴族がまた声を上げる。こちらもなかなか立ち直りが早い。


「待たれよ――仮に、仮にそれが事実だったとして、だ!」

「疑われるのか。偽りではないと言っているだろうに」


 悪足掻きだな、と。先ほどまで追い詰められていた意趣返しのように揶揄してみると、鋭い目で睨まれた。しかし相手はレフひとりに対して反駁することはなく、広間全体に向けて、首を巡らせながら呼び掛けた。


「……事実ならば! 姫君の御覚悟はまことにお見事。しかし状況はなんら変わらない! イシュテンの軍は依然として――」

「いいや、変わるとも!」


 この男は、どうやらシャスティエを利用して王妃を追い落とそうとしているらしい。アンネミーケ王妃がイシュテンに介入して卑劣な策を巡らせた、とは言われるものの、具体的な証拠はない。シャスティエを公の場に引き出すことで証言を得ようとしていたのだろうが、そうはさせない。彼の行いが従姉を救うものではなく、意に反しての誘拐だった、などと――彼女の口から聞きたくはない。言わせはしない。


 だからレフも、相手に負けじと声を張り上げた。突然に明かされた思わぬ情報に、男の声はまだわずかながら揺れている。彼の声の方が、確信がある分力が込められていた。シャスティエを再びイシュテン王に引き渡してしまうかどうか、というだけではない。ここでの立ち回り次第で、彼女とあの男を永遠に引き裂くことができるかもしれない。そう――咄嗟にではあるが――気付いたのだ。


「彼女を救うために軍を動かした以上は、イシュテン王は側妃の名の意味を知らない。もちろん、従う将兵も、だろう。ならばこのことを広めればイシュテン軍は動揺する。助け出そうとした相手に裏切られていたと知れば、意味のない遠征だったと思い知らせれば。異国で心が弱った軍ほど弱いものはない、違うか!?」


 一度は静まり返っていた広間が、彼の声に煽られるようにまたざわめきを取り戻していく。単に混乱している者、不審や不安の呻きも聞こえるが、同時に歓声のようなものも上がっている。イシュテン王の流言によってほぼ敗北を覚悟していた一同が、彼が示した策に希望を見出したのだ。呆気ないほどの変わり身の早さに、思わず笑みが零れてしまうほどだ。


 ――もっと早く言っていれば良かったな……。


 シャスティエが名乗ったあまりに危うい婚家名を初めて知ったのは、ハルミンツ侯爵邸で、今は亡いティグリス王子の口からだった。イシュテン王に敵対する者に知られてはならないのは当然のこと、当時はティグリス王子に与していたアンネミーケ王妃の間者たちにも悟られてはならないと、動揺を隠すのにも必死だったものだ。シャルバールの戦いの前後で、間者たちが死に絶えるように振る舞ったのも――直接的にはもちろんティグリス王子に勝たせないためだったけど――側妃の名前が広まるのを避けたかったという思いもあるかもしれない。

 だが、シャスティエをイシュテンから脱出させた以上はもはや無用の心配だった。クリャースタ・メーシェの名の意味が知られたところで彼女を脅かす者はここにはいない。それどころか、できるだけ広めた方が彼女の安全のためになる。彼女の密かな誓いはイシュテンでは許しがたい裏切りと見做されるだろうから。苛烈な報復が待つだろうと分かった上で、彼女をむざむざイシュテン王に()()など――そのような残酷な真似をしたという悪評を被ろうという者など、いるはずがない。


「だが……それでは戦いは避けられぬではないか……! 名の意味は伏せたまま、姫君をお返しする訳には……!? イシュテン王の要求はつまるところそれなのだろう……!?」


 どうあっても王妃を陥れたいのか、例の男は必死に周囲の者たちに呼びかけている。戦いを回避しようという訴えは、先ほどまでならまだしも、今となってはいかに弱気に聞こえることか。醜態とさえ呼べる姿に、アンネミーケ王妃も余裕を取り戻したようだった。


「イシュテンは既にブレンクラーレの領土を踏み荒らし、多くの民から多くの財と、命さえ奪っている。そのような賊どもに言われるがまま、望むものを差し出そうというのか」


 玉座の高みから静かな恫喝が降りる。それを述べる王妃の顔にも微笑みが戻り、常の威厳を再び纏っていた。それは、ブレンクラーレの臣下に自国の誇りを思い出させるだろう。復讐するのも血に塗れた歴史を持つのもイシュテンだけではない。周囲から畏怖される大国であるためには、ブレンクラーレは――豊かさだけでなく――強さをも誇らなければならないのだ。もちろん、嫌疑の的となっている王妃の陰謀もまた、国の評判を損なうことではあるのだろうが――アンネミーケ王妃は、勢いに乗じて建前の理屈を押し通すつもりなのだろう。


 とはいえこちらの優位はまだ仮初(かりそめ)の、薄氷を踏むようなもの。だからレフもアンネミーケ王妃も気を抜くことはできないし、相手もまだ諦めはしない。形勢を再びさせようというのだろう、必死の形相で玉座を睨んでいる。そしてその表情がふ、と緩み。歪んではいるが笑みを浮かべたのは、何か、妙案でも閃いたのか。


 男は、これまでとはやや目線を逸らした方へと声を上げた。レフに対してではない。大まかには玉座の方へ向けて、しかし王妃への言葉という訳でもない。


「姫君が連れておられた赤子――イシュテンの王女殿下ではないと窺いました。そこの公子によって殺められた乳母の子が、身代わりになったとか。姫君の望みが復讐ということは、残された御子はどう扱われても良いとお考えなのでしょうか。王太子妃殿下、いかがですか!? 殿下は姫君にお会いになられたと聞いております!」


 ――妃殿下……!?


 広間の注目が、瞬時に呼び掛けられた女性へと集まった。国の大事を語る席である以上、彼女もしっかりと呼ばれていたのだ。しかしこれまでは夫のマクシミリアン王子の影に隠れるように、誰に彼女に目を向けることも意見を伺うこともしなかった。


「私……私は――」


 彼女自身もその扱いに不満があるようではなかった。むしろ急に名指しで水を向けられたギーゼラ妃は、ひどく狼狽えたようで細い目を見開き、顔色を青褪めさせた。


 それに、王太子妃への急な指名は、レフやアンネミーケ王妃の表情をも強張らせる。男が指摘した通り、ギーゼラ妃は確かにシャスティエに会っている。シャスティエが、イシュテンに残してきた娘のことを案じているとは、レフも彼女から来ている。

 ギーゼラ妃が真実を述べるのは、拙い。シャスティエの実情を証言されて、それで公に彼女の意思を問うような事態になるのは、何としても避けなければ。彼女はどうせレフや王妃のことを詰るに決まっている。婚家名の意味、その名を名乗ると決めた時の覚悟はどうあれ、今の彼女は変わってしまった。少なくとも、卑劣な行いを嫌い、頑なに正論を述べるのはミリアールトにいた頃からの彼女の性だ。黒松館での行為を声高に詰られたら、ブレンクラーレの者たちの心証がまた揺らいでしまう。


 ――いや……大丈夫だ……!


 心中に頭をもたげた不安と恐れを無理にねじ伏せて、レフは努めて優しい――甘ったるいとさえ言われるかもしれない声と笑顔を作った。


「妃殿下。どうか真実を仰ってください。臣下の方々の疑いを払拭してくださいますように」


 ギーゼラ妃は、凡庸な容姿ではあるが決して愚鈍ではない、と思う。義母の窮地が、ひいては夫の立場にも関わってくることはよく分かっているはず。それに何より、この方はレフの言うことには逆らわない。かつて、ティグリス王子の乱の後も、アンネミーケ王妃の命に背いて乱の勝敗を覆した彼のことを取りなしてくれたほどなのだ。


 今回もきっと。ギーゼラ妃は彼の肩を持ってくれる。彼の意を汲んでくれる。レフがそう信じていると伝えることは、きっと彼女の喜びにもなるはずだ。だから彼は、揺らぐことなく王太子妃を見つめ続けた。――そして確かに、彼女と視線が合った、と思った。


「……はい。私は確かにミリアールトの姫君をお訪ねしました」


 ギーゼラ妃はついに口を開く。王太子妃という立場である以上、彼女も人の注目を浴びること自体には慣れているだろう。しかし、これほどに殺気立って険しい顔ばかりに囲まれたことはあるまい。だからだろうか、彼女が発した声は震えて掠れ、広間の端まではとても届かないと思われるようなものだった。彼女自身もそうと気づいたのだろう、軽く咳ばらいをしてから、よりしっかりとした声を出すべく喉を整える。公で嘘を述べることへの覚悟を固めたのだろう、とは、恐らくはレフとアンネミーケ王妃にしか分からなかっただろうが。


「――お名前の意味については存じません。ですが、あの方はミリアールトでの元のお名前ではなく、イシュテンでの――その、婚家名とやらで呼んで欲しいと仰っていました。王女殿下のことは……それも、仰っていなかったと思います。それどころかご自身の御子ではない、乳母の子とやらをとても可愛がっていらっしゃいました」


 ギーゼラ妃が次第に饒舌に、そして早口になっていったのは、言葉の後になるにつれて嘘が増えたからだろう。


 ――シャスティエ……あくまでもイシュテン王の妻だと言うんだな……!


 恐らくは事実であろう前半の部分さえ、シャスティエの意図はこの場の者たちが捉えるのとは違うだろう。婚家名とは、そもそもは婚姻の証として授けられるもの――彼女自身、ブレンクラーレまでの旅路で、繰り返しイシュテン王のことを夫と呼んでいたのだ。


「後は……後は、()の手中から助け出されて、大層安心していらっしゃるようでした。お名前のことが本当なら、いつイシュテンの蛮族どもに発覚するか、恐ろしい思いで日々を過ごされていたのかもしれません。でも、イシュテン王の手が及ばなくなった今ならば。お心を十分に休めた後ならば。本懐を遂げたいと思われる、こと……でしょう……!」


 だが、シャスティエに実際に会っていないブレンクラーレの貴顕は彼女の本心など知ることはない。いずれ、彼女自身がこの場に立つことを求められるかもしれないが――その前に、イシュテン全軍に婚家名の意味を知らしめてしまえば良い。救い出すはずの側妃の、()()意図を広めれば、シャスティエが帰る場所などなくなるだろう。イシュテン王の怒りが待っていると分かっていれば、彼女もさすがに諦めるだろう。


「妃殿下……なぜ、そのようなことを……!」


 ギーゼラ妃の嘘を、最初に彼女を名指しした男も察しているようだった。だが、仮にも王太子妃の言葉を、嘘と決めつけることなどできはしまい。要はこの場がしのげれば良い。高貴な女性の言葉を、公然と詰っても良いものか――男の逡巡を、レフは唇を歪めて眺めた。無論、彼の裡にも焦りはあったけれど。不敬を犯してでもこの男がギーゼラ妃の言葉を嘘だと断じたら。あくまでもシャスティエ本人の口からの説明を望んだら。


 だが、時機は彼に味方をしたらしかった。先ほど広間を出て行った侍従が、大判の本を抱えて駆け戻って来たのだ。転がるように王妃の膝元へと参じると、栞を挟んであった(ページ)を開いて主君へと示す。革の拍子に金の装丁が施された、いかにも大事にしまわれていたものだと分かる。更に、侍従の後ろには学者だろうか、白髪の老人が従っていて、こちらも王妃に顔を近づけて何事か囁いている。


「――なるほど。公子の言い分は確かに真実だということだ。ミリアールトの姫は復讐を誓ってイシュテン王に近づいていたのだ」


 本の頁を目で追ってから、アンネミーケ王妃は得心した表情で頷いた。それに伴って、ほう、という溜息が広間を揺らす。ある者は安堵の、ある者は落胆のために漏らしたものだろう。


「ならばこのことをイシュテンに教えてやるのが良いだろう。使者を立てる算段をせねばならぬな」


 次いで、アンネミーケ王妃の力強い声が溜息で緩んだ空気を引き締める。


 傲然と微笑んで玉座に背を預けるその姿は、まさしく摂政王妃の呼び名に相応しいものだった。

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