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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
20. それぞれの戦い
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起死回生 アンネミーケ

 鷲の巣城(アードラースホルスト)の大広間の最奥の席――玉座に着くことを許されるのは、本来ならば当然ながらブレンクラーレの王ただひとり。ただし王が遠征で不在であるとか、国政を担うにはあまりにも幼いといった場合には代理の者がこの至高の席を預かることもあった。アンネミーケのように、王が病に伏している場合の王妃などもその例だ。

 夫君の代わりに、彼女は十年以上に渡ってブレンクラーレの玉座から臣下を見下ろす栄誉に浴してきた。本来ならば彼女が座るはずのない席、振るうことのない権に、しかし、彼女が臆したことはない。無論、驕ったり(みだ)りに夫君の威光を振りかざしたりするようなことも。

 王ならぬ身で王の裁量に属することを取り仕切るのは、単純かつ明快に彼女にしかできないことだから、とアンネミーケは理解していた。王妃という立場に加えて、能力や覚悟からいってもそうに違いない。彼女の夫君は、病に倒れる前も後も、そのことを今ひとつはっきりと認識してはくれなかったようだけど。ただ、妻に感謝することがない代わり、僻んだりあらぬ疑いをかけてくるようなこともなかったのは良かったのだろう。

 夫君が分かってくれずとも、王妃の専横を快く思わぬ者は幾らかはいても、アンネミーケは自身の在り方に満足していた。ブレンクラーレの民や貴族の大方の者は、彼女の手腕を認めていると思っていたからだ。はっきりと感謝をして跪けなどとは言わない。そこまで図々しく見返りを求めるつもりは彼女にない。それでも、少しばかりの尊敬の念を感じることで、王家に嫁いだ意味もあると思えたのだ。夫に愛される訳でもないのに子を生むことは期待され、容姿に恵まれないのをはっきりと自覚しているのに、華美な衣装で着飾ることを求められる――そんな日々も、相応の報いがあるものなのだ、と。




 だが、今玉座へと上るアンネミーケの足取りは重い。ブレンクラーレの威を見せつけるべく纏った衣装も、彼女の胸や腰を締め付けて窒息させようとしているかのような。廷臣たちの目が突き刺さるのも、それが槍や矢でもあるかのように感じられた。シュタインクリフの要塞が()とされた――その顛末が、既に広く貴族たちの間に伝わっているのだ。伏せようとしても、伏せられるようなものではなかった。

 イシュテンのティグリス王子の乱などは、しょせん異国でのこと、大半のブレンクラーレの者には関わりがないことだから深く追求されることがなかったというだけだ。ティグリス王子がノインテ河の水を使った策を使ったこと、それへのアンネミーケの対応が良かった――良すぎたこと。不審に思う者もいたかもしれないが、王妃を責めるだけの決定的な証拠はなかったのだ。少なくとも、あの時は。


 だが、今は違う。


 彼女の行いの証拠を、アンネミーケ自身が鷲の巣城に呼び込んでしまった。その証拠――ミリアールトの元王女は、今のところはマクシミリアンやギーゼラなど限られた者にしか会わせていない。それ以外の者と言葉を交わす機会など与えたら、あの気の強い娘は何を言い出すか知れたものではない。だから、懐妊中の身を慮って、ということにして人目から遠ざけてきたのだが――それも、限界に近づいているのかもしれなかった。


 アンネミーケが玉座に落ち着くか否かのうちに、臣下の列から声が上がる。これまでならばあり得なかった非礼だ。


「陛下、今日こそは確かなお言葉を!」

「ミリアールトの姫君のお声を我らにも聞かせていただきたく!」

「イシュテンの軍は姫君にとっても脅威でございましょう……!? 正義は我が方にあると、示してくださいませ!」


 悲鳴のような怒号のような叫びは、半ばは不安から出ているものだろう。自国に帰せられようとしている汚名を恥じ、憂い、敵の流言に違いないと、王妃の口から断じて欲しいのだ。そしてもう半分は、アンネミーケがまともに答えることができないと知った上で前者の不安を煽ろうとしているもの。イシュテン王の主張を信じ、アンネミーケの罪を――彼女自身は罪と思っていないが――問うためにミリアールトの姫を引きずり出そうとしているのだ。


「無論、正義は我らにある。欲望のままに他国を踏み荒らし王族を殺める――そのような蛮行が見過ごされて良いはずがない。これは、イシュテン王を討ち、かの国の力を弱めるまたとない機会でもある。敵の言葉に惑わされて足並みを乱してはならぬ!」


 懸命に強い声を張り上げても、臣下の心を動かすことができないことはアンネミーケにも分かっていた。彼女が述べるのはもはや繰り返しの決まりきったことに過ぎないのだから。イシュテンの侵攻を悪とするならば、ミリアールトを最初に攻めた時に見過ごしたのは理屈に合わない。姫君のことにしても、マクシミリアンと縁ある方だったというのに、ブレンクラーレはこれまでイシュテンに対して抗議のひとつもしてこなかった。

 無論、建前の大義でも民や臣下を鼓舞することはできたのかもしれないが。アンネミーケの()()が広まってしまった今では、彼女の言葉はかつてほどの重みを持たない。


 ――こんなことで……!


 誰を責めれば良いのか。恋に盲目になって暴走したレフという公子か。親と国の仇をあっさりと愛したらしいあの姫君か。野蛮な国風に似合わず、妻子のために軍を動かしたイシュテン王も、イシュテン王の気迫に呑まれて尻尾を巻いて帰って来たシュタインクリフの指揮官も。誰も彼もが彼女の邪魔をする。確かに築き上げたと思っていたものが崩れていくのを、アンネミーケははっきりと感じていた。

 彼女が通り一遍のことを繰り返さざるを得ない一方で、臣下の要求は日々踏み込んだものへと強さと勢いを増している。イシュテンの脅威が間近に迫りつつあるのを受けて、罪を問う相手を探しているかのようだ。


「――とはいえ、イシュテン王の言い分にも一応の理はあるものかと存じます。懐妊中の妻が攫われれば夫として怒るのは当然――姫君をお返しすることでイシュテンの矛先が収まるならば、それも一案かと存じますが」

「バカな! 折角仇の手中から逃れられたものを、みすみすまた地獄に突き落とせと言うのか!?」


 口を閉ざすアンネミーケに代わってミリアールトの公子が声を張り上げているが、この青年の美貌もこの期に及んではさほど役に立たないだろう。ブレンクラーレの宮廷は、従姉の姫君を()()()()()ことでこの国にイシュテンの蹄を向けさせたこの青年を、次第に疎み始めている。ミリアールトで見聞きした惨状を語るのも、現実に迫った危険への警句というよりは、直視したくない恐ろしい物語をわざわざ聞かせることとして忌避されているようだった。


「真に心苦しくはあるが、結局は既に滅びた国の御方。ブレンクラーレ一国の命運を賭してまでお守りしなければならないとは思えない!」

「摂政王妃陛下は、ブレンクラーレ王と睥睨(シュターレンデ)する鷲(・アードラー)の名に懸けて彼女の子を庇護すると誓ってくださった! 臣下が王と神の名を汚すのは忠義に(もと)るのではないか!?」


 苦々しく誓わされたことは、これまではアンネミーケにとってごく薄い盾だった。決して破ることができない神聖なる誓いである以上、御子を宿すあの姫君をも害することはできない、という。しかしその効果も、シュタインクリフからもたらされた証言によって怪しくなってきている。


「御子を父君のもとにお返しするのは何ら危害を加えることには当たらないと理解するが。国を挙げて兵を集めるほどの執着ぶり、イシュテン王は姫君を疎かには扱うまい。――そもそも、姫君をお連れした経緯自体が今となっては疑わしい……!」

「それは――」


 鋭い反論に、公子も咄嗟に反論の言葉が出ないようだった。彼と彼女とは同じ謀略に手を染めた者同士、本来ならば彼の窮地はアンネミーケにとっても歓迎できないことのはずだった。――だが、ざまを見ろ、という思いが胸を過ぎるのもまた、抑えることができなかった。ことこの点に関しては、彼女も公子に欺かれたという思いが拭えないからだ。


 ――肉親だから喜んで手を取ってくれるのではなかったのか……!?


 姫君を攫う際に、女の使用人も皆殺しにした、と聞かされて、さすがのアンネミーケも咄嗟に言葉に詰まったのだ。公子に間者と兵を貸したのは確かに彼女のしたことだが、側妃の館の警備を破るためと認識していた。親しい従弟が助けに参上して、姫君が嫌がることなど想像もしなかった――あるいは、公子にそのように信じ込まされていたのだ。


「無論、王妃陛下は慈悲深い御心で姫君を憐れまれたのだろうとも。とはいえ図らずも()()()判断で誓いを立てられたのならば――王と神の名を守るべく、陛下は何を為すべきかご承知であると信じている!」


 ――この(わたし)に、責任を取って死ねと言うのだな。


 アンネミーケは、公子とやりあっている男をこっそりと睨んだ。ライムント伯爵アルベルト。王家への忠誠は篤く、アンネミーケに対してもかつては王の妃に相応しい敬意を払っていた。しかしマクシミリアンが成人してから、次第に彼女に対する態度は冷ややかなものになっていったと思う。王の代理としての手腕は認めるが、王位を継ぐべき王太子を差し置いてまで権を振るうのは気に入らない、ということなのだろう。マクシミリアンが大国ブレンクラーレを率いることができる器かどうか、この男にも分かっているだろうに!


 ブレンクラーレのため――ひいては息子マクシミリアンのため。他に手段がないのならば、アンネミーケは自身の命を投げ出すことも厭わない。ただし、それによってこの国の未来が明るくなるならば、という但し書きがつく。


 ――このままでは……。


 彼女の首を土産に、イシュテン軍はブレンクラーレから引き上げるのかもしれない。しかし、マクシミリアンひとりにこの国を任せることはまだできない。王太子の若さ未熟さにつけ込んで、権力を(わたくし)しようとする臣下が蔓延る、この状況では。一方のイシュテンはミリアールトと世継ぎを得て、ますます栄えるかもしれないのに。

 しかし、民草の間にまでも王妃の悪評が広まった今、ブレンクラーレの士気はごく低い。戦っても敗れるのではないかと誰もが恐れている。だからこそ臣下たちはアンネミーケを詰り、せめて心の均衡を取ろうとしているのだ。


「母上……」


 臣下には聞こえないほどの小声で、間近に控えたマクシミリアンが囁いた。それに対し、アンネミーケはやはり人に気付かれないように小さく首を振る。

 どこまでも人が良く大らかな――大らかすぎる息子でさえ、今回の事態を重く見ているようだった。何か、計画に反して非常に良からぬことが起きつつあるようだ、と。そしてマクシミリアンなりに頭を絞ったらしい結果、彼は母親に神妙な顔で具申しに来ていたのだ。


『私が先頭に立てば士気も上がるのではないでしょうか』


 息子が意外にも本質を突いたことを言い出したのを喜べば良いのか、それでも拭いきれないおめでたさに頭を抱えれば良いのか、アンネミーケには分からなかった。

 確かに王太子自らが軍を率いれば士気は大いに上がるだろう。アンネミーケが夫君との間に恵まれたのは王子ひとりだったこともあって、今のブレンクラーレに、戦場に立てる年齢の王族は少ない。それに、この国では王族自らが指揮官を務めるような大規模な戦闘は近年はなかったから。だから、マクシミリアンが自ら国のために立ち上がるとなれば、民も貴族も沸き立つに違いない。


 だが、アンネミーケは息子の提案を即座に却下した。マクシミリアンはイシュテンの――イシュテン王の強さを正しく理解していないとしか思えなかったからだ。

 地位相応に、マクシミリアンもひと通りの武芸は仕込まれている。アンネミーケが名高い将に乞うて師として招いたのだ。だが、それはあくまでも教わったというだけのこと。少年のような歳から戦場に立ち、自ら剣を抜いて戦ってきたイシュテン王と戦って、甘やかされた息子が勝てるはずはない。悪評を買うような真似をしてまでアンネミーケがイシュテンを弱めようとするのは、息子の代での治世のため。なのに当のマクシミリアンが喪われるようなことがあってはならないのだ。


 だから、余計なことはするな、言うなとマクシミリアンに言い聞かせてある。それでも晴れた空の色の目が心配げにアンネミーケを窺い続けていた。鈍いと思っていた息子にさえ案じられる醜態に歯噛みして――しかし、彼女には打つべき手が見つからない。


 彼女の沈黙を他所に、眼下では公子が何とか踏みとどまろうと足掻いているようだった。


「違う……僕はシャスティエを助け出した。そのことに間違いはない……! 彼女はミリアールトの女王でもある。女王の意思に反した無体を、臣下として働くはずがない!」

「ならば姫君から直接お言葉をいただかねば。ご懐妊中とはいえ、旅の疲れがあるとはいえ、こうも――隠されるように会わせてくださらないのでは――」


 ――やはり、そろそろ限界か……。


 ライムント伯が寄越した視線には、はっきりと勝利を誇る色が見える気がした。そして恐らくは間違っていない。アンネミーケは策に溺れて敗れたのだ。まずは国内の臣下に対して、そして次にイシュテンに対しても。――ならばせめて堂々と敗北を受け入れなければ。


 苦々しくも認め、豪奢だが固い玉座から立ち上がろうとした時だった。公子の絞り出すような声が、広間に響いた。


「……女王の意思は直接問うまでもなく明らかだ」

「何を……」


 悪あがきを、と。アンネミーケもライムント伯もその他の者たちも思っただろう。だが、それにしては公子の声は揺るぎなく、宝石の碧の瞳にも輝くような力が宿っている。あの姫君とよく似た美貌には、薄く微笑みすら浮かんで。


「結婚の際、妻の名を奪い新たな名前を与えるのがイシュテンの蛮習だ。だがミリアールトの女王はそれを逆に利用した。彼女がミリアールトの言葉を婚家名にしたのは、ただ故郷を偲ぶためだけではない。祖国に向けた願いであり誓い――僕はそれに応えたのだ!」


 しんと静まり返った広間に、水晶を打つような声はよく通った。何か非常に重要なことが語られようとしているのを察して、誰もが固唾を呑んで見守っているのだ。だから広間に集った者たちは皆、公子が告げたことを聞き、その意味を噛み締めただろう。


「クリャースタ・メーシェ――私は復讐を誓う。それこそが我が女王の願い。婚家名に込められた真の意味。そして今こそそれを叶える時……! 大義がないなどと摂政王妃陛下を責めてはならない。流された血への報復以上の正義などないだろうから。ブレンクラーレの諸侯よ、正義を行うために立ってはくれないのか……!?」

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