寡妃太后 ウィルヘルミナ
ウィルヘルミナは庭園で刺繍糸と針を手に考えていた。雪の季節ではあるけれど、簡易な東屋とはいえ屋根があり、手近では火も焚いているから寒くはない。
指先が凍えることがないようしきりに動かしては、どのような意匠にしようかと生地の上をなぞる。娘のマリカのためにドレスの裾に刺繍飾りを施すつもりだった。
冬になって夫や実家の領地に戻る女が多いため、茶会は間遠になりがちだし、遠乗りにも季節が合わなくなってきた。長い無聊を慰めるのに、手間も時間もかかる刺繍はうってつけだった。
――さあ、何が良いかしら。
ドレスの色は、青。女の子らしくするなら花の模様にするのが良いのだろうが、お転婆な娘だけに犬や鳥、馬などの動物の模様の方を好むかもしれない。よく狩りや遠乗りに付いていきたいと駄々をこねては夫を困らせているくらいだから。
――あとは狐、とか。
ウィルヘルミナの口元に微笑みが浮かぶ。夫が狩りで仕留めた狐を持ち帰ってくれた時のことを思い出したのだ。血痕も生々しい獣の死体を差し出された娘は大泣きして、彼女も珍しく夫をたしなめた。それでも、毛皮を綺麗に洗ってつぶらな瞳をつけた狐の襟巻きはマリカのお気に入りになった。今も身につけて遊びに行っているはずだ。
娘のお気に入りといえば、まだ心当たりがある。ウィルヘルミナは糸を並べて色合わせを見ながら考えた。
金の髪の美しい、ミリアールトの元王女がくれた一対のリボン。それらもマリカは手放そうとしない。拙い手つきで自分の髪を結おうとしたり、狐の尻尾に結んだりしている。もちろん綺麗な優しいお姉様からもらったから、というのもあるだろう。しかし、同時に異国の模様が物珍しいというのも理由なのだろうと思う。
――ミリアールトの模様……シャスティエ様に教えていただく?
娘は目新しい刺繍を施したドレスを喜ぶだろうし、自分にとっても刺激になる。それはとても良い考えに思えた。
問題は、事前の伺いもなくいきなり彼女を呼び出しても良いものかどうか。
彼女の体調は、もう大丈夫だと思う。先日夫も交えて茶菓を囲んだ際には以前と変わらい様子だった。ウィルヘルミナの一族の者が大変な目に合わせてしまったのだから、傷が残るようなことがなくて心の底から安堵した。それに、あんなことの後でも同じように優しく丁寧に接してくれたことも嬉しかった。
そして、あまりに嬉しかったので連日見舞いに訪ねようとしてエルジェベートに止められた。かえって負担になるからと。迷惑だと思っていても王妃を断ることなどできないからと。
「うーん……」
呟きながら、無為に指先で糸を撚る。
嫌われていることはない、と思いたい。最近はミーナと愛称で呼んでくれるようになったし、夫に礼を言いたいと仲介を頼んできたのも打ち解けてくれた証拠と考えている。あの気高い姫君が何かを強請ることなど、今までになかったことだから。
――悩んでいても、仕方がないわ。
意を決して、傍に控えていた侍女に命じる。エルジェベートではない。彼女は、今はマリカの遊びに付き合っているはず。
「シャスティエ様のお部屋を見てきて。いらっしゃらなかったらお探ししなくても良い。何かなさっているならお声がけしなくても良い。
ただ、もし退屈されているようなら――良かったらお顔を見せて欲しいとお伝えして」
くれぐれも無理強いはしないように、と言い含めて侍女を見送る。何と言おうと命令と取られてしまうだろうから、気休めに過ぎないけれど。
――シャスティエ様、いらしてくれたら良いのだけど。
そして、嫌々でなければ良いのだけれど。
ウィルヘルミナはドレスを一旦置くと、心を空にするために小物の刺繍で時間を潰すことにした。
程なくして侍女が人影を伴って帰ってきたのを見て、ウィルヘルミナの心臓は喜びに跳ねた。掛けていた椅子から立ち上がって出迎える。
しかし、金髪の王女の装いがいつもと違うのに首を傾げる。若く美しい姫君が地味な色合いのドレスをまとうのはもったいない。それに、髪も無造作というか飾り気に欠ける。おさげを頭に巻き付ける形では、せっかくの輝く色の髪が映えないだろうに。とはいえ、髪型に関してはそれはそれで初々しく可愛らしいと思ったけれど。
「ごきげんよう、シャスティエ様。来てくださってありがとう。その髪型、初めて見るけど、とても可愛いわね」
素直に賞賛を口にすると、歳下の友人は少し恥ずかしげに微笑んだ。
「私こそ。お招きありがとうございます、ミーナ様。お召しがあると知っていたら、もっとちゃんとした格好をしていましたのに。でも、褒めていただいて嬉しいですわ」
柔らかな笑みに、無理やり連れてこられた訳ではなさそうだと胸をなでおろす。
思い切って良かったと思いながら、ウィルヘルミナは口を開いた。
「あのね――」
「お話中失礼いたします」
割り込んだ声に、初めてもう一人男の姿があるのに気付いた。
「貴方は……」
ウィルヘルミナは記憶を手繰って軽く眉を寄せた。確かアンドラーシとかいう、夫の側近の一人のはずだ。王宮の奥まで来るのは滅多にないことで、訝しく思う。
彼女の疑問を察したのだろう、シャスティエが早口で言い添えてくる。
「庭園を散歩していたらこの方と行き合いましたの。ミーナ様にご用があるということなので、ご一緒していただきました」
「そうなの」
事情はわかったものの、ウィルヘルミナの心は沈んだ。
それでは結局、侍女はシャスティエを探し回って捕まえたということだ。あれだけ言い聞かせたというのに。
――散歩の邪魔をしたのでなければ良いけど。
心中で溜息をつきながら、彼女は跪く男に視線を降ろした。
「私にご用とは?」
アンドラーシは顔を伏せたまま慇懃に述べた。
「陛下よりご伝言を承っております。
寡妃太后が先王の墓参に来ているので、マリカ様を近づけさせぬように、と」
「まあ、ゲルトルート様が?」
自身の声があまりに頼りなげで情けなく思う。自身の前に王妃と呼ばれたかの人が、今の王妃である彼女を決して認めていないと知っているから。不安、緊張、それに恐怖。嫌な感情に襲われて、暖かな火の傍にいるというのに寒気さえ感じた。
「それに、ミリアールトの姫君も太后から遠ざけるようにとの仰せでした」
「そうね、その通りだわ」
この指摘に我に返って、大きく頷く。シャスティエの美貌がかの人の目に止まった時のことを考えるのは恐ろしい。
「シャスティエ様、お呼びしたばかりで申し訳ないけど、お部屋に戻っていただける? 太后様のご予定がわかったらお会いすることのないように手配するから」
「先の王妃様でいらっしゃる方でございましょう? ご挨拶申し上げなくてもよろしいのでしょうか」
シャスティエは不安げな顔をしている。非礼を恐れる気持ちは良くわかるが、どう説明したものか悩む。下手な言い方をすると彼女を怖がらせてしまいそうだった。
「……難しい方なの」
立場も性格も。気の毒な方だとも思うが、そうと口にするのはきっと侮辱になってしまうだろう。
「詳しくは後でお話しするわ。お願いだから今は――」
「ここにいたのね、ウィルヘルミナ」
不意に届いた高く神経質な声。ぴくりと肩を震わせてそちらを向く。蒼白な顔で小走りに駆けてくる侍女が先に目に入ったのは、その人を直視するのを無意識に避けたからかもしれない。
アンドラーシの溜息が聞こえた。ウィルヘルミナは、彼の――というか夫の警告を無意味にしてしまったのだ。
「お久しぶりね。相変わらず細いこと」
重ねて声を掛けられれば、その人のことを見ない訳にはいかない。ぎこちなく笑みを作り、跪いて礼をする。
「ご無沙汰しております。こちらからご挨拶に伺うべきところ、ご足労を煩わせてしまいまして申し訳ございません」
顔を伏せれば、目に入るドレスの色は黒。この人は十年前から人前では喪服で通している。夫と、何よりも御子を悼んで。
先の王妃。幻の王母太后とも呼ばれる人。現れたのは寡妃太后ゲルトルートその人だった。
「立ちなさい。綺麗なお顔を見せてちょうだい」
命じられるままに立ち上がると、太后と相対する。背丈だけなら彼女の方が見下ろす立場だが、どういうわけか威圧されるような気分にさせられる。
――またお痩せになったのね……。
確か歳は五十を過ぎたかどうかくらいと記憶しているが、頬の肉が落ちたために皺が目立ち年齢よりも老けて見える。結い上げた髪はまだ黒々としているだけに老婆のような顔との落差が不気味に感じてしまう。
「まだ懐妊していないのね」
顔が見たいと言った割に、太后は真っ先にウィルヘルミナの下腹部を見て重い息を吐いた。
背後で息を呑んだのはシャスティエだろうか。何としても部屋に帰しておくべきだった、と悔やむ。客であり未婚の姫君でもある人に聞かせたいことではなかった。
「こればかりは、授かりものですから」
「ファルカスが帰ってもう何ヶ月も経つでしょうに、何をしていたのかしら。早く男の子を作ってくれないと私が安心できないじゃない。
どうせまた狩りだなんだと男たちとばかり遊び回っているのでしょう。女だからと言って待っているだけでは駄目よ? 貴女の方からも誘っているのでしょうね?」
あまりに直截な物言いに頬が染まるのを感じた。男のアンドラーシもいるのに、太后は目に入っていないらしい。ちらりと背後を見ると、彼は無表情を決め込んでいる。
むしろ狼狽しているのは彼に倣って跪いたシャスティエの方だった。眉を顰め、何か言いたげに口を半ば開いているが、許可なく発言して良いものか思い切れない様子だった。
どうかそのままで、と目配せする。髪の色はどうしようもないが、せめて衣装は目立たない色で助かった。彼女に気づかれる前に、ウィルヘルミナに意識が向いているうちに太后を帰してしまいたい。
「……マリカがいますから、ご心配には及びませんわ」
問いに対する直接の回答は避けた。事実、娘がいるのだから後継者のことは問題ないはずだった。父はそう言っている。
しかし、彼女の答えは太后のお気には召さなかったらしい。毒を吐き出すように悪意を込めて口元を歪められた。
「女の子なんて。何人いてもいないのと一緒よ。私が貴女の歳には男の子を三人も産んでいたわ」
「ゲルトルート様の御子様はお二人のはず……」
そして存命なのは一人だけ。この国の王妃にとって、男児の母であるということはそれだけ過酷なことなのだ。だからこそウィルヘルミナは娘一人で喜んでいるというのに。
「真ん中の子は死産だったの。でも確かに男の子だった」
痛ましいはずのことを誇らしげに語る女性に対して、かける言葉がなくて凍りつく。
すると太后の笑みが消え、不意に憎しみの表情に取って変わった。
「ファルカスが生まれたのはあの子を亡くして私が臥せっている時だった。そうでなければ無事に産ませたりしなかったのに!」
夫に対する敵意を受けて、何か言わなければいけないと思うが言葉が見つからない。太后に関する幾つかの恐ろしい噂――信じてはいけないと思うのだが――脳裏を駆け巡る。
父か夫か、せめてエルジェベート。誰かに傍にいて守って欲しいと切に思った。
無言のウィルヘルミナに、太后は再び表情を和らげて微笑みかけた。
「だからファルカスが王になったのもあの子の加護のおかげかもしれないと思っているの。あとは貴女さえ男の子を産んでくれたらみんな許してあげても良いわ」
「……ゲルトルート様」
やっと舌が動いたが、意味のない呼びかけでしかなかった。
太后はそんな彼女には構わず、視線をさまよわせ、広げたままだった刺繍道具に目を留めた。
「産着でも縫っているの? 感心ね」
「待って……止めてください!」
彼女の瞳は夜の闇のように茫洋としていて、見たいものしか見えていないようだった。硬直した侍女や跪いたまま困り切った表情のシャスティエには目もくれず、ドレスなどを並べた卓へ歩んでいく。
この人に娘のためのものを触られるのは嫌で、慌てて追いすがるが、太后は聞く耳を持ってくれない。情けなさと怖さで視界が滲む。
涙が溢れそうになった時、男の低い声が響いた。
「恐れながら申し上げます」
アンドラーシだった。ウィルヘルミナとは違ってきっぱりとした声に、太后もさすがに足を止め、なぜか嫌悪に満ちた表情で彼を見下ろした。
「お前のことは知っている。ファルカスのお気に入りね」
「恐れ入ります――」
「よくもその汚らわしい姿を王妃の前に晒せたものね。恥知らずな……!」
「あ、あの。その方はファルカス様の側近でここにいても何もおかしなことは……」
太后の毒気の矛先が逸れて、少しだけ平静を取り戻すことができた。涙が溢れないように忙しなく瞬きしながら言い募るが、
「何も知らないのね、ウィルヘルミナ」
昏い瞳を向けられてまたも絶句してしまう。
「ファルカスには側妃や寵姫がいないからといって暢気なものね。
私の陛下もそうだったけど、王の従者は美形ぞろい。そして戦場には女はいない。……言いたいことが分かるわね?」
「分かりません」
噛んで含めるような口調だが、その言わんとするところがさっぱり理解できない。
困惑した彼女を嘲笑うかのように太后の唇が弧を描き、さらに言葉を紡ごうとする。
その時だった。
「寡妃太后陛下に申し上げます」
先ほどよりも強い口調でアンドラーシが割って入る。太后が不快げに眉を吊り上げるが、彼は許しを待たずに続けた。
「ティグリス殿下が陛下の執務室を訪れていらっしゃいました。今頃は母君をお探しなのではないでしょうか」
――ティグリス様もいらっしゃっている?
太后の、今となってはたった一人の息子の名に、珍しいこともあるものだと首を傾げる。
「…………なんですって?」
そして、その名が太后に与えた衝撃は傍目にも明らかだった。茫洋としていた瞳が焦点を結び、まなじりを決し、唇を震わせて、叫ぶ。
「近づいては駄目だと言ったのに! 自分から狼の口に飛び込むなんて!
――執務室と言ったわね?」
「はい。ですが、既に退出されましたので表のどこかにいらっしゃるかと」
「そうね」
さっきまでの嫌悪の表情が嘘のように素直に頷くと、太后は踵を返して去っていった。挨拶もなしに。
しばらくの間、誰も動くことができなかった。
冬とはいえ晴れた日のこと、柔らかな日差しが温かく眩しい。元通りの穏やかな静寂。確かに太后が去ったと確信できて初めて、ウィルヘルミナは口を開くことができた。
「……ありがとう?」
事情はよくわからないものの、アンドラーシが彼女を庇ってくれたのだろう。
疑問形になってしまった謝辞を、彼は頭を垂れて受け止めた。
「いえ。差し出がましいですが早くマリカ様をお探しになるのがよろしいかと」
「そうね。貴女たち、お願いできる?」
侍女たちが散ると、アンドラーシも立ち上がって退出の辞を述べ、去っていった。王に報告するからと。
「ミーナ様」
気がつくと、シャスティエと二人きりになっていた。心配そうな表情で見上げてくる彼女に微笑みかける。実際には、少しひきつっていたかもしれないが。
「大変なところをお見せしてしまったわね。ごめんなさい。太后様がお戻りになるかもしれないから、シャスティエ様はお部屋に帰った方が良いわ」
「そんな」
シャスティエはとんでもないというように目を見開いた。
「お一人になるなんていけません。お顔の色が優れませんもの。せめてマリカ様がいらっしゃるまでこちらにいさせてください」
気遣う声。労わるように伸ばした指先が彼女の手に触れて、その温もりに先ほどまでのお緊張が解される。
「ありがとう」
今度はさっきよりも自然に笑えた。その証拠に、シャスティエも微笑み返してくれる。氷を溶かすような優しい表情に心が軽くなった。
「そうだわ」
そして、思い出す。彼女を呼んだそもそもの理由を。
「マリカのドレスに刺繍をしようとしていたの。シャスティエ様、ミリアールトの模様を教えていただけない? あの子もきっと喜ぶわ」
するとシャスティエはなぜか悲しげに眉を下げた。
「申し訳ございません。私ではお役にたてなさそうです。私の侍女を呼ばなくては」
何を言い出すのかと思ったが、実際針を持たせてみると意味が分かった。ミリアールトでは刺繍をする習慣があまりないらしく、シャスティエもあまり刺繍が得意ではなかった。
「お恥ずかしいことですわ……」
不揃いな縫い目にシャスティエは溜息をつく。憮然とした表情も、それはそれで可愛くて微笑みを誘う。
「これから上手くなれば良いじゃない。私が教えて差し上げるわ」
ウィルヘルミナは末っ子だったから妹ができたようで新鮮だ。それに、何事も完璧にできてしまいそうなこの人に、彼女が教えられることがあるというのは嬉しかった。
「ええ。是非、お願いします」
シャスティエは真面目な顔で頷いた。
そうこうするうちに、マリカが連れてこられ、シャスティエの侍女も呼び出された。
人が集まれば冬の冷気が忍び寄ることはなく、王宮の庭にはこの季節でも目を楽しませる花も咲いている。美しい女たちと華やかな布と糸。茶菓の甘い香りがただよい、笑い声が響く。
守られ、ひたすら楽しいだけの空間で、ウィルヘルミナはいつしか太后の来訪と彼女の言動がもたらした不安を忘れていた。