憎まれる覚悟 ファルカス
「あの者は息災なのか。胎の子は? 牢獄に繋いだりなどしていないだろうな。あの者にしたことをそのまま――否、倍以上にして女狐めに返してやるぞ」
イルレシュ伯の通訳が間に合うかどうか――ちらりと頭の隅を疑問が過ぎったが、ファルカスの舌は止まらなかった。捕らえたブレンクラーレの指揮官は、彼の詰問に目を泳がせ虚しく口を開閉させている。その慌て方は、理不尽に問い詰められているからというよりも、何かしらを知ってはいるが口に出すのが憚られるため、と見えたのだ。
シャスティエがブレンクラーレに攫われた、とは複数の根拠があって考えたことだった。本人の言動、シャルバールで煌いた金の髪、追い詰められたリカードが頼り得る相手は何者か。少なくともアンネミーケがティグリスと結んでいたことは、当の異母弟から聞いたことでもある。だからブレンクラーレの介入自体は疑う余地のないことだった。だが、シャスティエの居場所については確信するとまではいかなかったのだ。
もしも、鷲の巣城ではない別の場所に幽閉されていたとしたら。シャスティエを亡き者にすることで、陰謀の証拠を捻り潰そうとしていたとしたら。側妃と胎の子が消えるということだけでも一大事だ、イシュテンを乱すならそれだけで足りていたかもしれないのだ。だから、ブレンクラーレの奥深くまで攻め入っても、砦を幾つ落としても、シャスティエに近づいているとは心の底から信じ切れていなかった。
だが、この男と顔を合わせて初めて確信することができた。アンネミーケは、やはりシャスティエを懐深くに隠しているらしい。そして、ブレンクラーレの臣下でさえも、イシュテンの側妃が自国の王宮にいる事態をどこか不審に思っている。兵の造反も、この男の狼狽も、それを示していると思えてならなかった。
「王妃陛下はあの方を庇護しておられる……そう、国を滅ぼした仇から救って差し上げたのだ……!」
「本人がそう言ったのか? それともアンネミーケがそう言っているだけか」
かつてならば、相手の言い分に少しは心が揺らいでいただろうか。あの出会いで愛されるはずがない、夫を名乗るのはあまりにおこがましい、と。もしかしたら相手もそれを狙って言っているのかもしれない。だが、彼はもうそこを思い悩むのは止めたのだ。人の思いは変わるものだ。復讐を誓ったはずのあの女は、娘を得てその父親に関わらず愛することを知った。娘のためだとしても彼に縋ってきた。あの必死さをこそ、彼は信じることにしたのだ。
「あの女は大層口がよく回る。イシュテンの諸侯を前にしても怯えも見せず、ミリアールトを無血で従えさせると言い切ったほどだ。仮に本当に俺を憎んでいるとしたら、ブレンクラーレの総力を挙げてイシュテンを討てと、演説のひとつもぶっていただろうな」
そう、信じるべきは実際に見て聞いたことだけだ。シャスティエが彼を、イシュテンを憎んでいるならば助け出されただけで満足するはずがない。我が強く常に正論を言わずにはいられないあの気性なら、自身だけでなく祖国が救われることも望むはず。そしてあの女がそのように主張していたならば、ブレンクラーレも――リカードなどと結ぶのではなく――イシュテンを攻める正当な理由を得ていたはず。それを主張しないということは、つまりシャスティエは今の状況を不本意に思っているということ。あの女の本音を、アンネミーケは公にはできないということだ。
「……姫君はご懐妊中とか。王妃陛下は身重の御身を慮って、戦からは遠ざけようと……」
「そもそも懐妊中の妃を国境を越えて攫ったのだぞ。あれに仕えていた侍女も、王女の乳母も殺された。母と赤子を引き離したのが、当の母親の望むことだったとでも!?」
シャスティエと直接会ってもいないであろうこの男を責めたところで何の益もないことは分かっていた。だが、数え上げるうちにファルカスの声は尖り、声量も上がっていく。自らの言葉によって怒りがまた燃え上がっていくのが分かった。いかにもっともらしく取り繕おうとも、覆い隠すことなどできない。シャスティエを攫ったアンネミーケの策は、どう考えても非道で卑劣としか言いようがない。
彼の言葉を、イルレシュ伯がどれほど正確に訳したのかは分からない。元指揮官を呼び出した当初は、伯が考える間を与えるために文を短く区切る配慮もしていたのだが。今ではもう、浮かんだことをそのまま目の前の男にぶつけてしまう。
「……それを言ってどうしようと……私を、どうしようと言うのだ……!?」
ついにブレンクラーレの元指揮官はファルカスから目を逸らした。兵同士の戦いだけではない、この男自身が負けを認めたということだ。たとえ敗れても毅然として誇りを保とうとしていたように見えたが、その気力もなくなった――自身の正義を信じる力がなくなったということだ。
「心配するな。鷲の巣城に、無傷で帰してやる」
敗れた者に対して、ファルカスはやや言葉の勢いを弱めて笑いかけることさえした。狼が牙を見せつけるような、剣呑な表情にしか見えなかっただろうが。だが、それで良い。彼はこの男の心を安らげてやるつもりなど微塵もない。これは脅しに過ぎないのだ。アンネミーケと――それに、ブレンクラーレ全体へと向けた。
「女狐めに、負けの理由を幾らでも言い訳するが良い。お前の陰謀のせいで士気が損なわれ造反を呼んだと、詰ってやるのも良いだろう。そして俺の問いをそのまま伝えろ。あの女が臣下に対してどう答えるか――是非ともその場で見たいものだな」
ブレンクラーレ語に翻訳された彼の言葉を聞くと、その男は血の気が引く音が聞こえそうな勢いで顔を青褪めさせた。微かに唇を動かしたのは、いっそ殺してくれ、とでも言いたかったのかもしれない。イルレシュ伯がわざわざ伝えることをしてこない以上、取り合うつもりはなかったが。
敗残の身で主君の前に上がることは、さぞや身が縮む思いがすることだろう。しかも今回は単に屈辱を忍ばなければならないというだけではない。アンネミーケもその他の廷臣も、当然敗北の理由を知りたがって問い質すだろう。それに対する無難な物語を用意し、更に生き残った兵たち全員と口裏を合わせることができなければ――つまりはそのようなことはほぼ不可能なのだが――、この男はファルカスの言葉を王妃に伝え、敵の言葉を借りてとはいえ主君を糾弾しなければならないのだ。
――女狐が怒ってこの者を処罰してくれれば話は早いのだがな。
そうすれば、王妃は臣下からの忠誠を失い、この後の戦いが幾らか楽になるだろうに。これまでのところ、内政においては名君と呼ばれている女狐のことだ、その辺りの計算を誤ることは期待しない方が良いだろう。
「今のブレンクラーレがあるのは王妃陛下がいらっしゃればこそ。たとえ誤りがあったとしても、ブレンクラーレにはあの方が必要……」
「ブレンクラーレの繁栄のために、イシュテンを踏み台にするか。試みるのは勝手だが、踏み躙ることこそイシュテンの本領だ。我らの分を奪えるなどとは思わぬことだ」
とはいえこの男に彼の言葉を託せば、鷲の巣城が揺らぐことは間違いない。だから泣き言のような虜囚の言葉を、ファルカスは取り合わなかった。この男もアンネミーケも根はきっと同じ――自国を大国と誇り、イシュテンを侮る思いがあったのだろう。まったく勝手な思い込みだ。そろそろ正してもらわねばなるまい。
「アンネミーケがブレンクラーレを富ませたというならば、我らはそれ以上を奪う。全てが終わった後にあの女の功と呼べるものが残るかどうか――よくよく考えて計算してみることだ」
ブレンクラーレの喉元とでもいうべきシュタインクリフの砦――その要所を陥とし、国境を越えてここまで深く攻め入った今ならば。彼の脅しもそう安いものとは聞こえないだろう。死人のごとくに顔を白くした元指揮官の引き攣った表情は、ファルカスを大層満足させた。
一応は自らの足で歩いて入って来た最初とは違って、ブレンクラーレの指揮官は兵に引きずられるようにして退出していった。それを見届けたイルレシュ伯も、ファルカスに対し礼を取った。
「では、臣もこれにて――」
「ああ、少し待て」
「は……。何事でございましょうか……?」
言いたいことも言ったし通訳の用も済んだし、とばかりに下がろうとする老臣を、ファルカスは引き止めた。王の言葉を待つ構えの相手に対し、だが、しばし言い淀んでしまう。互いに無為に時間を浪費する余裕はないのはよくよく承知した上で、ミリアールトの者にこれを尋ねるのは躊躇われた。しかし一方でイルレシュ伯にしか聞くことができないのもまた事実。なので仕方なく重い口を開く。
「側妃は鷲の巣城にいる――ならば、例の従弟とやらも共にいるということになるな」
「は。そのように存じます。陛下のご推論が当たっていたこと、まことに喜ぶべきことと存じますが……」
口では賞賛の言葉を述べながら、イルレシュ伯は表情を強張らせていた。ミリアールトの王族に対して剣先が鈍ることを疑われているのでは、と懸念を覚えているのだろう。確かにファルカスも一度そのことを口にしたことがあるが、その場で強く反論されている。女王の身を脅かした者は、出自に関わらず既に反逆者である、と。だから――ミリアールトの臣下の胸中を慮る思いも皆無ではないが――それはもう言うまい。彼が聞きたいのはもっと別のことだ。
「近く戦うことになる相手だ。だから為人を知っておきたい。――どのような男なのだ?」
「それは……」
眉を寄せて言い淀んだのは、今度はイルレシュ伯の方だった。漠とした問いかけに、端的に答えるのが難しいのはもちろん承知しているが――これも弱気と取られかねない発言だったか、とファルカスは心臓が冷える感覚を覚えた。シャスティエが攫われた直後、彼は妻の心を慮って――というか疑って――救出のために動くことを躊躇った。そしてイルレシュ伯にそれを叱責された、その記憶が蘇ったのだ。
――俺らしくないことではある……それは、分かっているのだが……。
敵の為人が、剣を交える上での参考になることはあるのだろうが。シャスティエを攫った例の男は、ブレンクラーレで兵を率いる立場にはならないだろう。無論、彼を恨むからには戦いに加わるのだろうが、後ろ盾のない亡命者の身では多く見積もっても数十人の規模を従える程度、決してその性格が戦況を左右することなどないだろう。――だから、相手のことを気にしてしまうのは、ファルカスの心の持ちようがさせることだ。
「……臣からは、何とも。確かなことを申し上げることはできませぬ」
だが、しばらく言葉を選ぶ素振りを見せた後の、イルレシュ伯の答えはごく短いもの、ファルカスが不満を覚えてしまうほどだった。
「そのようなはずはあるまい。あの女からのあれほどの信頼、そなたはミリアールトの王家にも近しかったのだろうが」
ミリアールトの臣下の前で、シャスティエの名を呼んで良いのか、婚家名で呼ぶべきか。分からなかったので、彼は妻の呼び方を誤魔化した。だが、そこは今はどうでも良いことだ。イルレシュ伯は王の下問に対して真摯に答えなかった、と思えた。多少の諫言に機嫌を損ねるほど器が小さいつもりはないが、知っているはずのことを言わない無礼を咎めないのは話が別だ。
王から不審の目を浴びて、しかし、イルレシュ伯は臆することなくゆったりと首を振った。
「かつて臣が知っていた者についてならば、確かにお教えすることはできるのですが。ですが、臣が知るあの者は、どちらかというとクリャースタ様の陰で霞んでしまうようなおっとりとした若者でして――上に兄たちもおりましたしな」
「…………」
その兄とやらはファルカスが自身の手で首を刎ねた者たちだ。イルレシュ伯の声にも表情にも責める色はないとはいえ、思わぬ反撃にあったような気分でファルカスは続く言葉を待つしかない。
「――ですから、目的のために女でさえ手にかけるような者では決してございませんでした。ミリアールトを出た後に何があったかは存じませんが、別人と考えるのがよろしいかと」
「……あの女はそうは思うまい」
肉親をまた殺したら、シャスティエは彼への憎しみを再燃させるだろう。ファルカスの懸念は、結局のところその一点にかかっているのだ。だからといって戦わない選択肢は既になく、相手の人柄――特に、シャスティエとどれだけ親しかったかを知っておくことで、どれだけ憎まれるかを覚悟しようというつもりだったのかもしれない。
「クリャースタ様の居場所は陛下のお傍だけ。あの方もよく分かっておられることでしょう」
諭すような物言いの老臣は、彼の心中を見透かした上で、望む答えを与えないことで考えが後ろを向くのを止めたのだろうか。どこまでも手玉に取られているようで――反発と安堵を、同時に覚える。王などと名乗ってはいても、所詮若輩の身に過ぎず年長の者からは案じられることへの、反発。一方で、たとえ本人の言葉でなくても妻と共にいても良いと言われるのは少しばかりの安堵を与えてくれた。
「ふん。だと良いが……」
「とにかく、陛下がお気に病まれることではございません。ミリアールトを祖国に持つ者として――同郷の者の罪は必ず臣が裁きますゆえ」
自らの手を旧主の血で汚すという申し出さえ、彼を慮ってのことだろう。シャスティエを得たことで、彼は得難い臣の忠誠さえ得たことになる。そのことに心から感謝しつつ――それでも、ファルカスは首を振った。
「そうはいかぬ。妻を攫われ国を乱された――王としても夫としても、その男は俺が討たねば」
イルレシュ伯は何か言いたげな顔をしていたが、言わせることはせずに今度こそ退出させた。祖父のように思い始めた臣下の気遣いは嬉しいが、彼は既に心を決めている。
シャスティエにどのように思われようとも、必ずこの手に取り戻す、と。