詰問と確信 ファルカス
ファルカスはシュタインクリフの要塞を仮の拠点と定めることにした。ブレンクラーレに侵攻して以来、彼の軍は連戦を続け、イシュテンが誇る騎馬も、さすがに脚に疲れを見せ始めている。それを鑑みて、一度体勢を整えることが必要だろうと考えたのだ。敵国の只中とはいえ、この要塞は山間に位置し、守りやすい。ブレンクラーレ王都との距離も程よく、アンネミーケ王妃がいる鷲の巣城を攻める前に負傷者を癒し鋭気を養うにはうってつけの場所だった。
無論、王であり将である彼が気楽に休むだけの時などないのだが。敵地を剣と戦馬の蹄とで斬り開いてきた臣下たちにとっては、厚い石壁に守られているという感覚は得難い安心になるだろう。
――だから、無為な時間ではない。勝利のためには必要なことだ。
彼は目前にいるであろう妻と子のため。臣下はシャルバールでの雪辱を晴らすため。自軍が逸っているのを自覚して、ファルカスは自身をそう宥めた。激しい怒りこそがこの侵攻を成功させた大きな理由ではあるが、それに頼るのも限界があろう。気力だけに依らず、無事の帰国までを考えるならば、休息を無駄と捉える愚を犯してはならないはずだった。
「若くしてふたつの国を攻め、そして勝利を収めた王は歴史にも少ないことでございましょう。我が王の武勇、まことに頼もしいことでございます」
城主の居室を玉座代わりにして落ち着いたファルカスの前に、イルレシュ伯が跪いている。その口調は例によって重々しく、表情も真剣そのもの。とはいえその口上はあまりに大げさで、しかも気が早すぎる。なのでファルカスは落ち着かない思いで訂正を試みた。
「幾つか勝ちを拾ったところでまだ目的を達したとは言えまい。それに、たとえ最善の結果を得られたとしても、ブレンクラーレについては滅ぼすところまでは行かぬだろうよ」
ミリアールトの時とは違って、とは、かの国の出身の者に対して言うのは流石に控えたが。だが、この男なら正しく読み取ってくれるだろう。幾らか弱気な発言かもしれないが、かといって過剰な賞賛に気を良くしたと思われるのも癪だった。今さら厭味や恨み言を言うような未練がましさも、的外れな追従を述べるような卑屈さも無縁のはずの男にしては不可解な発言に、彼も警戒せざるを得ない。
と、彼の顔に浮かぶ不審の色を読み取ったかのように、イルレシュ伯はふ、と表情を緩めた。
「仰る通りとは存じます。とはいえ陛下は御心の裡を中々明かしてくださいませんからな。試すような不遜な物言い、平にご容赦くださいませ」
「咎めはしないが不要なことだ。俺が状況を見誤るほど愚かに見えるのか?」
言いながら、見えるのかもしれないな、と思って彼の声はわずかに尖る。黒松館の襲撃の直後、彼は確かに側妃の心を疑って追いかけることを躊躇った。娘を、フェリツィアを望んで置き去りにするはずがないと、言われるまで気付かなかったのだ。そのことを持ち出されればファルカスとしては不本意ながら黙るほかない。
「とんでもないことでございます。戦いに際しては陛下は驕ることなく、しかし決して怯むことなく兵を導かれる。どうして疑うことなどございましょう。――ですが、全く驕らぬ王というのも臣下としては寂しいものがございますからな。陛下には堂々と構えていていただきたいと――そのような、我が儘でございます」
「それも要らぬことだ。王としての振る舞いはそなたに言われるまでもなく承知している」
――やはり嫌味の一環か……。
主が増長していないことは承知しつつ、程よく偉そうにしていろ、などと。当人は悪びれずに我が儘などと言うが、不遜とも言うべき出過ぎた真似とも呼べるだろう。だが、ファルカスとしては苦笑するだけでやはり咎める気にはならなかった。このような物言いが許されると思われる程度には信頼を得られているのだろうし、ある種の檄のようなものだと理解できたからだ。
イルレシュ伯には彼の弱気を懸念する十分な理由があるのも分かっている。側妃が助け出されるのを本当に望んでいるのか否か、彼は未だに本心から確信できていない。今さら問うても答えのないことだから考えないことにしているが、ミリアールトの老臣は何よりもその部分で少しは驕れと言っているような気がした。
何よりも――彼はこの老人に対して少し弱い。こちらの気性をよく読んだ上でほどよく刺激できる対応を選ぶやり方は、亡くなった彼の祖父に似ているから、なのだろうか。侮りから入り、あくまでも利用することしか考えていないリカードなどとは違って、多少は反発しつつも忠告を受け入れる気になれる――人生の先達とは本来このようであるべきなのだろう。
とはいえ面と向かって口にするにはあまりに気恥ずかしいこと、王としての威厳を保つためにもファルカスは話題を変えた。そもそも雑談をするためにイルレシュ伯を呼び出した訳ではないのだ。
「そのようなことは良い。この砦の前の主と話がしたい。まともに会話できそうか?」
「は。イシュテン語は解さぬようなので、臣が通訳を務めさせていただくことになりますが」
「それで良い。女狐めの今の動向を確かめたいのだが」
「すぐに連れて参りましょう。――あちらの方でも、沙汰を待って落ち着かない様子でございました」
相手も要件は予想していたのだろう。イルレシュ伯も間を置かずにしっかりと頷いた。その口元が少し皮肉げに笑っていたのを、少し不思議にも思ったが――ファルカスは、すぐにその理由を知ることになった。
「煮るなり焼くなり好きにするがよかろう……!」
兵に囲まれて引き出されたブレンクラーレの将は、見た目にも明らかに全身を強張らせていたのだ。捕虜を無闇に虐げる趣味はファルカスにはないし、必要以上に態度を硬化させたくもないから縛り上げたりなどはしていないが、もしかしたらこの男にとってはその扱いの方が良かったのかもしれなかった。恐らくは名のある家の出身で、誇りを守らなければならぬ、という気概はあるのだろうが――蛮族の王の前に引き出されて、震えを見せずに直立するのに、大分苦労しているように見受けられたのだ。
――縛られて転がされていれば自力で立つ必要はないからな。
では皮を剥いでやろうか、とでも言ってやろうか、という悪戯心が湧いてくるのを、辛うじて堪える。この男の緊張ぶりからも、イシュテンの父祖が築いてきた評判からも、本気にされる恐れが十分にあると判じたのだ。恐怖のあまりに喚かれて話にならないようでは困る。
だから虜囚の緊張を解くべく軽く笑み、言葉の分からない相手にも通訳を待たずとも分かるよう、玉座代わりの椅子に深く腰を落ち着けて、努めて穏やかな声を心掛ける。
「そう固くならずとも良い。さぞ不本意な負け方だったろうと、気の毒にさえ思っているほどだ」
もっとも、恐怖を煽ることはなかった代わり、彼の言葉は相手には挑発と取られたようだったが。イルレシュ伯が訳するブレンクラーレ語を聞くうちに、やや青褪めていたブレンクラーレの指揮官の頬に、怒りの色が紅く上った。
「仮にも王たる者が卑怯な手を使うとは……!」
「イシュテンの能が平原を駆けるだけではないということ、思い出すには良い頃合いだったようだな」
戦馬の神を奉じる民は、初めから今のイシュテンと呼ばれる地に住んでいたのではない。ファルカスの祖である彼らは、どこかから馬に乗ってやって来た。そして豊かな草原に辿り着き、そここそが戦馬の民に相応しい地だと考えて国を築いた。その際には、もちろん先にそこに住まっていた民との争いがあったし、その争いとは単に兵馬がぶつかり合うものだけではなく、砦や街を巡っての攻防も多かった。だから――血と争いを好むのも紛れもない事実だが――イシュテンが計略に長けていないということでは決してないのだ。
事実、歴史を紐解けばイシュテンとブレンクラーレとの戦いは平野でのものばかりではないし、数年に渡ってどちらかが籠城した例もあったはず。兵を預かる以上は歴史に無知であるはずもないだろうに、元指揮官が不満げなのは――
「戦わずして勝ったつもりなのか!? イシュテンの王がそれで満足できるのか!?」
城塞の門扉が内から開かれたから、だろう。無論、戦闘が全くなかった訳ではないが、堅牢な城壁を頼りに時間を稼ごうとしていた側にとっては不測の事態、ろくに抵抗する猶予も与えられなかったと感じていても無理はない。
だが、相手を憐れむことと、自らが採った手段を恥じることは全く別のこと。だからブレンクラーレの将の悔しげな糾弾を、ファルカスは鼻で嗤った。
「わずかな犠牲で勝利を収めるのは常に喜ぶべきことだ。加えてブレンクラーレの兵にも俺の言葉を信じる者が多かったとは嬉しい発見だった」
この砦を落とすのに彼が使った策は、基本的には道中してきたことと大差ない。というよりも彼にしてみれば事実を述べただけ、卑怯と謗られるような謀略ではないとさえ思っている。即ち、彼は例によってイルレシュ伯を頼ってブレンクラーレ語で砦の中の者たちに呼び掛けさせた。
ブレンクラーレの王妃アンネミーケは、イシュテンに対して繰り返し陰謀を巡らせている。ティグリスと組んで乱を起こさせ、シャルバールでは数多の戦士を泥の中で死なせた。更には懐妊中の側妃を襲って攫い、幼い王女と引き離した。更に――
「そなたたちの王妃は忠誠を誓うに足る者か? あの女狐の行いを良しとしてブレンクラーレの歴史に汚点を刻む、その手助けをするのか? 我らが望むのは略奪と蹂躙ではなく正義と報復だ。そなたたちの戦いに理があると、本心から信じて命を懸けることができるのか?」
矢文で、あるいは城門の前で声を張り上げさせて伝えたことを、ファルカスは改めて直接問うた。砦の兵に対しては、更に加えて逆らうならば王妃に加担したと見て容赦はしない、ただし抵抗しないならば敢えて追うことはしない、と付け加えたのだったが。
「…………」
イルレシュ伯の通訳は、今この瞬間は必要なかった。ブレンクラーレの指揮官はファルカスの問いにすぐに答えず、口を結んでしまったから。ただ、その沈黙と表情から読み取れることは多い。
迷い、躊躇い。即答で王妃への忠誠を述べることに対してか、ファルカスの言を否定することに対してか。反論ができないというその一点が、彼に希望を与えてくれる。
――シャスティエは鷲の巣城にいるのだな。
ティグリスの乱への介入は、否定するにも肯定するにも証拠がない。ファルカスはあくまでも――そして事実でもある通り――本人から聞いたと主張するし、アンネミーケは与り知らぬことと言い張るだろう。ティグリスの実家ハルミンツ侯爵家は、あの戦いの後財産と領地を大幅に失った。それに伴って使用人なども離散したから、今になって証拠や証人を探すことも難しいだろう。
だが、ことブレンクラーレの宮廷に関することは、当のブレンクラーレの貴人が内情を知らないはずがない。ファルカスの目の前にいる男は、地方の領主などとは訳が違う。イシュテンの侵攻を食い止めるべく鷲の巣城で兵を預かったはずなのだ。砦の位置する場所の重要性、――まともにぶつからずに済んだとはいえ――集められた兵の規模、いずれを取ってもブレンクラーレの国威を賭けた一戦だったはず。
ならばこの男は当然王家からの信頼篤く王家への忠誠もまた篤い者だ。なのに、戦わずして敗れたことへの不満は露わにしても、聞き捨てならないはずの王妃への誹謗は否定しない。イシュテンの側妃など知らぬと断言することはしない。それが意味することは――
「……あの方はマクシミリアン殿下の妃となるはずだった方だ。貴様のせいで運命を狂わされただけ……側妃などと勝手に呼びならわすとは、おこがましくもおいたわしい……! 王妃陛下はあの方を攫ったのではない、助け出したのだ!」
相手が捲し立てた言葉の意味を、ファルカスは耳に入るのと同時に理解することはできない。ただ、顔を青褪めさせたままの引き攣った表情、それにイルレシュ伯が眉を顰める様子から、恐らく愉快なことではないと察しただけだ。もっとも所詮負け犬の遠吠えと、まともに取り合うつもりはなかったのだが。だが――
「ほう? ブレンクラーレの王太子は先年イシュテンを訪れたが、婚約者を奪われたことへの恨み言は聞かなかったな」
あの軽薄な王子の記憶もまた、ファルカスの神経を逆撫でた。彼がシャスティエにとって良い夫であったはずはないが、だからといってあの男が相応しいとも思えなかった。ミリアールトの処遇と元王女の身の上がブレンクラーレにまで届いていなかったはずはないだろうに、マクシミリアン王子は元婚約者の身を案じるどころか、王妃のミーナの美貌にだらしなく目尻を下げていたのだ。第一の妻に対する不躾な態度――それだけでも、彼があの王子を嫌う理由には十分だ。
声を低くして告げた後、ゆっくりと立ち上がって男の前に歩み出ると、相手は明らかに怯んだ様子だった。戦いに際しての常として、彼は佩剣していたのだ。怒りに任せて大事な捕虜を斬り殺すほど我を忘れている訳ではないが、相手の心情を思い遣る気も全くなかった。
「な、何を……」
元指揮官が喘いだことの意味は、翻訳を待つまでもなかった。というか取り合うまでもない譫言に過ぎない。この男が怯えようと強がろうと赦しを乞おうとどうでも良い。ただ、この男は彼に重要な情報をくれた。
「今の言葉――我が妃は女狐めのもとにいると、認めたことになるな?」
にやりと笑って問い質すと、相手は顔色を一層青褪めさせた。余計なことを言ったのに今さら気付いたのだろうが――もう、遅いのだ。