束の間の平穏 ラヨシュ
アンドラーシは、不在の間も怠けることなく鍛錬を行うようにラヨシュに言いつけて発っていった。剣も格闘も、一日でも間を置けば鈍った勘を取り戻すのにその倍以上の時間が掛かることは、すでに彼も承知している。だから――言った男への反発はさておいて――監視の目がなくなったのを幸いと遊び惚ける気は、ラヨシュには微塵もなかった。とはいえ、使用人の子供相手を鍛えるなど、王直々の命があったからこその破格の扱いだ。アンドラーシの不在の間、稽古の相手を務めてくれるほど暇な兵はいなかったし、彼のとりあえずの師もそこまで気を回してはくれなかった。
だからラヨシュはひとり刃を潰した剣を振り、肉刺を作っては潰した。ティゼンハロム侯爵邸でも雑用の手伝いはしていたから、彼の手は決して王妃や王女や侍女たちのように白く滑らかではなかったけれど、掌の皮が確実に厚みを増して硬くなっていくのを実感するのは嬉しく誇らしいものだった。アンドラーシが戻った時には、独力でも成長できるのだと見せつけて、少しでも驚かせてやりたい。そんな場面を思い描くのも楽しかった。
弟子として師の帰りを待つ思いがある一方で、しかし、しばらくはこのままの日々が続いて欲しいと願ってしまう思いもある。突然王宮に戻った母は、やはり何か事情を抱えているらしかったのだ。恐らくはアンドラーシの目につくことがないようにだろう、あの男がいる間は母は彼や王妃たちの傍には来てくれなかった。この数日、やっと堂々と王妃の傍に侍ることができるようになった母の笑顔は、久しく見ないほど晴れやかなものだった。母の機嫌が良ければラヨシュも嬉しいし、優しく接してもらえる機会も増える。
母に甘えたいから、だなんて男としては恥ずべき理由だとは思うけれど。王宮、王都を離れ、更に国境も越えたところでは戦いが行われているのも分かってはいるけれど。今の彼は、ささやかな親子の団欒のような空気を満喫していたのだ。
それに、ラヨシュがアンドラーシの不在を喜んでいる理由はもうひとつある。彼がひとりで鍛錬する時間が増えたことで、密かに王女と会う機会も増えていたのだ。あの男は王女の脱走を止めたこともあるとかで目を光らせているのだが、残していった兵たちはさすがに王女が遊ぶのを見咎めたりはしなかった。幼い王女も、父王の不在や憂い顔の母君に感じるものはあるらしい。だから、たとえ一時でも笑顔を取り戻させることができるのは、彼の大きな誇りであり喜びだった。
「王女様、左手はこう添えるのです」
「……こう?」
手を添えて練習用の剣を持たせて差し上げると、王女は得意げに微笑んだ。小さな手に触れて、ラヨシュの頬が少し赤くなってしまっているのには気づかれていないようだ。それに安堵しながら、彼はもっともらしく頷くと、更に剣の角度を整えた。王女の肩は力が入り過ぎているし、彼女が思い描いているらしいように剣を高く掲げるのは細い腕には難しい。だから肩を下ろして、より小さな力で剣を支えられる姿勢を教えたいのだけど。でも、これ以上王女の身体に触れるのは恐れ多くてできなかった。
「はい。――それから、お腹に力を入れて、脇を締めて。足が地面から生えているような気持ちで、突き刺すように立つんです」
「うーん……こう、かなあ」
アンドラーシから教わったことを思い出しながら伝えても、借り物の言葉では王女には今ひとつ掴めなかったらしい。首を傾げる動きにつれて剣先がぶれて地面を抉り、冬枯れで茶色くなった草を潰した。
「……剣って重いのね。お父様は軽そうなのに」
もう一度剣を持ち上げようと、顔を赤くして力を込める王女の姿は愛らしくて、ラヨシュは吹き出しそうになるのを必死に堪えた。王女は年齢の割に、姫君の割に気が強く矜持も高い。非力を笑われたと思ったら、手が付けられないほど怒り狂うのが目に見えていた。もちろん彼は王女の怒りを受けるだけの罪が十分にあるが、だからといって主の機嫌をわざと損ねるなど思いもよらない。
「父君様は当代きっての名手でいらっしゃいますから。――私が短剣を習い始めれば、マリカ様もその方が扱いやすいのでしょうが」
剣だけでなく、格闘に弓の扱い、馬術。アンドラーシが溜息交じりに行ったことによれば、ラヨシュは鍛錬を始めたのが遅すぎて時間がいくらあっても足りないらしい。貴族の子弟ならば物心つくまえから馬や武器に慣れ親しんでいるはずなのに、と。生まれの違いによって受ける教えも全く違ってしまうことに、悔しさを覚えない訳ではないが。だが、仮にどこか名のある家に生まれていたとしても、これほど王女に慕われることがあったとは思えない。王妃と王女に仕える光栄に加えて、分不相応な師までつけてもらえたことを、幸運と思いこそすれ、不満を覚えてはならないだろう。――だから、彼は今恵まれているものを惜しんではならないのだ。
「短剣! そうね、その時は教えてね!」
ラヨシュの内心の翳りなど気付かないように、マリカ王女は顔を輝かせた。母君を守るためには室内でも立ち回れる短剣の方が良さそうだ、とでも思ったのかもしれない。彼としては、鋭い短剣の一突きで心臓を貫いて欲しいと思うのだけど。
――そう……私はアルニェクを殺してしまったから。だから、あいつのためにもしっかりマリカ様にお仕えしないと。
死の瞬間まで彼を信じて懐いていた犬の面影を振り払って、ラヨシュは微笑みを作る。少なくとも今は、王女に疑いを持たれてはならないのだ。
「はい、必ず」
そして同時に、今の穏やかな日々への名残も振り払う。彼が王宮にいる理由は、王女の遊び相手などではない。たとえ王女がそのように思ってくれているとしても、その厚意に甘えてはならない。母にいつも言われているように、自分の幸せなど諦めて、まずは主のことを第一に考えなければ。
アンドラーシの不在は、ぬるま湯のような和やかさに浸るためのものではない。もっと、重要な――王妃と王女を救い出す好機として、捉えるべきだ。
「マリカ様。お父上がいらっしゃらなくて、さぞ寂しい想いをしていらっしゃるでしょうね」
「うん……でも、フェリツィアはお母様がいなくてもっと寂しいから」
父王の不在に話が及ぶと、王女は軽く眉を顰めた。仕方ない、と言外に含んだ呟きはきっと強がりでしかないのだろう。それ以上の追及を拒むかのように揺れる剣先が持ち上がり、また落ちる。――否、剣を、取り落とすというよりは地面に叩きつけたように見えた気がするのは、王女にも鬱屈があると見ても良いのだろうか。
王妃は、内心でどのように思っているとしても口には出さない。表情は――ラヨシュでさえも心を痛めてしまうほどに悲しげで寂しげで、母の心配も一入のようだけど。母がどれほど乞うても慰めても、王や側妃への恨み言は溢さないらしい。それが却って心配だった。
珍しく親子ふたりで過ごす機会があった時、母はラヨシュに語ったものだ。
『王妃様は諦めていらっしゃるかのようです。王を詰るご気力もなくて、側妃の影に甘んじてでも情けを受けようとしているような。長年に渡って唯一の妃であった方がなんとおいたわしい……!』
母の怒りと嘆きは、王妃の憂い顔と相まってラヨシュの胸を抉った。王も側妃もひどい、と思った。王妃は人質として囚われていたあの女性に、あんなに優しく接していたのに。虜囚であっても、王の目を惹くことができるほど美しく着飾ることができたのは、王妃が衣装を賜ったからだというのに。王も、王妃に見初められたからこそティゼンハロム侯爵家の後援を得て玉座を得ることができたのに。
彼の目に憤りが宿ったのを見て取ったのだろう。母は一瞬だけ満足そうに微笑んで――そして、また表情を険しくした。
『――遠征が失敗すればまだ良いのです。女に溺れて国を乱した王に対する、当然の報いですらあるでしょう。問題は王が帰った時……それもあの女を連れていたら……! 誰が父親とも知れない子を、王は自身の子と信じています。万が一、あの女の子が男だったら、マリカ様たちは――』
『そんな……!』
母が示した可能性、その恐ろしさに気付いてラヨシュは小さく叫んだ。確かに、その通りなのだ。側妃の子が王子なら、王にとっては待望の世継ぎだ。寵愛がますます傾くことは目に見えている。一方で、側妃は自らの子を守り通そうとするだろう。そのために王妃や王女が邪魔になることは言うまでもない。
王さえ無事に戻れば王妃たちの憂いも晴れるだろうと、ラヨシュは思い込んでいた。その考えの、なんと甘く愚かだったことか。愕然とした彼の肩を掴み、母は声を低めて耳元に囁いた。
『だから、今のうちに手を打たなければなりません。私が危険を冒して王宮に戻ったのもそのため。王がいないうちに、マリカ様たちを侯爵様のもとに匿わなくては……!』
母の必死の声はラヨシュの胸を打ち、魂の奥深くにまで浸透した。全ては王妃と王女のため――そのために、彼は束の間の安寧を自ら打ち破る決意をしたのだ。
両肩に食い込んだ母の指の感触を生々しく思い出しながら、ラヨシュはマリカ王女の表情を見定めようとした。
王妃は、普段のおっとりとした気性からは想像できないほど頑なに、今の状況を受け入れて反発を見せようとしない。何事も母を信じて頼ってきた方の、ある種の余所余所しさは母を傷つけているようだった。でも多分、それこそが王妃の優しさなのだ。声に出して助けを求めれば、母はどんなことでもするだろうから。母を大切に思ってくれているがゆえに、王妃はあえて何も命じないのだろう。
――でも、マリカ様なら……?
王女は幼いながらに聡明だし、母君譲りの優しさも父王譲りの頑なさも持ち合わせている。だから、簡単には本音を見せてくれないだろうけれど――彼が相手なら、他の者には言えないことも打ち明けてくれるかもしれない。母君を慮って側妃たちを悪く言わないようにはしているようだけど、この方も周囲の大人に訴えたいことがあるに違いないのだ。
「フェリツィアは危ないこともあったし。守ってあげなきゃなんだって」
マリカ王女はまた剣を持ち上げようとして――細い腕はもう限界を迎えていたらしく、剣先がわずかに地面を抉るだけなことに顔を顰めた。
王女が言うのは黒松館の襲撃のことだ。伝聞の形で語るのは、王妃が娘にそう言い聞かせているに違いない。そして王女が自らの言葉で断定しないのは、心から納得していないからだろう。ラヨシュは、そこを突くことにした。
「でも、マリカ様も……恐ろしいでしょう。あの、アルニェクのことも……犯人も、まだ分からないというのに」
「怖くはないわ。ただ――捕まえてやりたいだけ。剣を教わっているのだって、そのためなのに……!」
王女の目が怒りに燃えている。青灰の、父王と同じ色の目が、同じく激しく強い意志を湛えて。彼女も労わられ守られるべき存在であることを思い出させ、犬の不審な死への憤りを再燃させる――犬を殺した、ほかならぬ彼が。母に命じられたこととはいえ、あまりの罪深さにラヨシュの胸は引き裂かれる。だが、口に出した以上はここで引き下がることはできない。
「陛下は、失礼ですが冷たくていらっしゃる。姫君を大切に思われるなら、何としてもお心穏やかに過ごせるようにしてから発たれるものでしょうに」
「仕方ないもの!」
王女はとうとう剣を放り出してラヨシュに詰め寄って来た。背丈で上回る彼に喰い掛かるように、叫ぶような声で捲し立てる。
「お父様はおひとりしかいらっしゃらないし、お姫様には赤ちゃんがいるし、外国に攻められたら大変なんだって……だから……」
だから、仕方ないのか。だから、父に愛されていない訳ではない、と言いたいのか。王女の目が濡れて光り始めているのには気づかない振りで、ラヨシュはそっと剣を拾い上げた。それをまた王女の手に握らせながら――これが真剣で、王女に裁いてもらいたいと思いながら――王女の寂しさにつけ込む言葉を、囁く。
「はい。国を負って立たれる方に務めが多いのは当然のことです。でも、マリカ様が寂しいお気持ちでいらっしゃるのも当然のこと――祖父君様は、そう、心配なさっています」
「おじい様が……?」
マリカ王女は、祖父のティゼンハロム侯爵に懐いている。父王との確執によって王宮を出るのを妨げられていることを、不服にも思っているらしい。だから祖父のことを出せば顔を輝かせると思っていたのだが――予想に反して、王女は瞬きすると軽く身を引いた。まるで祖父から距離を置こうとするかのように。
「侯爵様は王妃様も王女様もお守りしたいと思っておられます。父君様のお手が足りない分、側妃様たちが大変な分を、引き受けたいと――」
「駄目。おじい様のところには行ってはいけないって。お母様が……」
「王妃様が? どうしてでしょうか……?」
俯く王女の顔を覗き込んで問いかけながら、ラヨシュは心臓が凍りつく思いを味わった。王妃は、娘と祖父を引き離すようなことを言っているのか。それは、あの方が父よりも夫を選んだという表明に違いなかった。母や彼の思惑が見透かされているのかも、と思うと冷汗が背を伝う。助け出そうと心を砕いた母の想いは、先回りして封じられてしまうのだろうか。
――母様は、王妃様のためを思っているのに……!
ただ、情がないことと断じることもできなかった。実の父のことだ、本心では王妃だって会いたいに決まっている。ラヨシュも――たとえ優しく撫でてくれるとは限らなくても――常に母を慕っている。むしろ、あの方に苦渋の決断をさせた状況、王の不実こそが悪いのだと思う。王妃や王女も、そのように思ってくれたら良いのに。
「……お父様が戻られてから、って。……ねえラヨシュ、おじい様は悪いことをしているの? お母様は、おじい様に会ったらもうお父様には会えないって仰るの。どうして、そんな……そんなこと、ないわよね?」
「もちろんですとも」
父と母と祖父と、いずれを信じれば良いのか悩んでいるのだろう。縋りつくように見てくる王女に対して、ラヨシュは嘘を吐いた。王はその妻子を蔑ろにしている。失って始めて、その価値を思い知れば良いのだ。――否、嘘になるとは限らないか。王が心を入れ替えて侯爵に折れれば、今まで通りに親子で過ごすこともできるはず。その場合に側妃とその子らがどうなるかは、彼には分からないけれど。
とにかく、これなら母の言いつけ通りに話を運ぶことができる。アンドラーシから学んだ剣術を教えるのと同じように、ラヨシュは母に言われたことを思い出しながら王女に微笑みかけた。
「王妃様はあまりに大変なことが多すぎて、心配し過ぎていらっしゃるのでしょう。マリカ様――こっそりと、祖父君に会わせて差し上げましょう。母も手伝ってくれます。一度おじい様にお会いして、お話を聞いて――それで王妃様にも話して差し上げるのです。そうすればお母様も分かってくださるでしょう」
王妃が自分から母たちに助けを求めることは、もうないのだろう。あの方はそれほどに強く心を定められてしまった。でも、王女は違う。父王のいない寂しさ、妹姫との扱いの違い、その理不尽さを、母君ほど納得して諦めてはいない。だからティゼンハロム侯爵と会えばきっと心を動かしてくださる。そして王女が侯爵邸にいるとなれば、王妃だって。――そう、王女さえ王宮の外に連れ出すことができれば、後はどうにかなる。
「――そうね! おじい様にお会いしても大丈夫だったって分かれば、お母様だって……!」
何も知らない王女の笑顔、その輝くような明るさはあまりに眩しくて、ラヨシュには直視するのが難しかった。彼は主に対して嘘を吐き、欺いて侯爵邸に留まらせようとしているのだ。王女に心身を捧げると決意したはずなのに、どうしてこんなことをしているのだろう。
――でも、王女様たちのためだから……!
跪いて赦しを乞いそうになる衝動を必死に押さえて、ラヨシュは――少し引き攣っているかもしれないが――笑顔を保った。