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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
20. それぞれの戦い
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密約の申し出 シャスティエ

 ブレンクラーレでは当然のことなのか、それともシャスティエにこの国の豊かさを見せつけようというのか、王太子妃を迎えるにあたっては質の良い茶や菓子――味はもちろん見た目も美しく見る者の目を楽しませるもの――がどこかから取り寄せられて並べられていた。

 とはいえ話題は華やかな茶菓には相応しからぬ不穏なものだ。何しろ、ブレンクラーレの臣下が、囚われの身のイシュテン王の妃を訪ねて自国の王妃を陥れる計画を持ち掛けようというのだから。


 ギーゼラ妃は、他人事のような顔でレオンハルト王子を抱いたまま部屋の隅に退いてしまった。息子をあやす穏やかな微笑みに掛ける言葉が見つからず、シャスティエは仕方なく王太子妃が侍女という名目で連れて来た女と向かい合うことになる。

 訪問の本当の目的を知ってしまうと、その女のことをただの侍女だと考えるのは不可能だった。むしろ、人目につかなかったことを密かに感心してしまうほど、女の立ち居振る舞いは堂々として気品に満ちている。無論、王太子妃につける以上は元々身分高い貴婦人であることに違いはないのだろうけれど。単に名のある家に生まれたというだけでは恐らくなく、目の前の女は自ら考えて行動する意思や気概をその目に宿しているようだった。


 ――問題は、手を組む余地があることを言ってくれるのかどうかだけど。


 話が通じないマクシミリアン王子などよりは良いのかもしれないが、相手が手強いとなるとそれはそれで身構えてしまう。警戒を解くことができないシャスティエに、女は軽く微笑むと改めて恭しく目を伏せた。


「私はライムント伯爵夫人アマーリエと申します」

「……ご夫君のお名前は伺ったことがあるようです」

「まあ、光栄ですわ」


 本心から嬉しそうに破顔したアマーリエの皺ひとつない顔を、シャスティエは改めてまじまじと見た。ライムント伯爵の名は、マクシミリアン王子との婚約の話が進んでいた頃、ブレンクラーレの貴顕の名や立場や力関係を教え込まれた中にあったように思う。その後イシュテンで暮らすにあたって、その頃学んでいたことはほとんど曖昧になってしまったけれど。でも、輿入れにあたってわざわざ名を教えられるということは、その人はそれなりの年齢に達していると考えるのが自然だろう。

 ならばその妻であるアマーリエも――後妻だとか極端に歳が離れているという事情でもなければ――恐らくは相応の年齢のはずで、白髪の一筋も見えないこの女の若々しさはやはり只者ではないということなのかもしれない。


 シャスティエの驚きに気付いているのかいないのか、アマーリエはたっぷりとした衣装の襞の間から小さく畳んだ紙片を取り出した。


「――ブレンクラーレの地図でございます。イシュテン王の現在の進路をお知らせするためにお持ちしました」


 可愛らしい菓子や美しい茶器は脇に除けられて、埃っぽい紙が卓上に広げられる。他国の――それも、今現在夫が攻めている国の詳細な地図を目の辺りにして、シャスティエは思わず息を呑んだ。一見して覚えきれるようなものではもちろんないが、国の機密をあっさりと虜囚に明かす事態には動揺を禁じ得ない。


 ――そこまでしてでも、私を取り込みたいということかしら……?


 シャスティエが品定めの目を受けながら、アマーリエは地図の一点を指した。


「ここ――シュタインクリフという地です。街道が山にあたるのを利用して関所を兼ねた城塞にした、交通と防衛の要のはずだったのですが。イシュテンに()とされたとの報せが、つい先日参りました」


 示された地点には、確かに山脈を示すらしいぎざぎざとした線の上に、小さな城塞の記号が記されていた。国に富をもたらす商人だろうと悪意のある敵国の軍だろうと、険しい山を無理に、そして密かに越えるのは難しいもの。良からぬ人や者や情報の行き来を監視するため、あるいは物理的に外敵を阻むため、このような城塞はどこの国にもあるものだろう。


「こんなに奥深くまで……」


 だからアマーリエの説明事態には驚くべきことはない。ただ、シャスティエはその地とイシュテンとの国境の間にある距離を見て深く息を吐いた。アンネミーケ王妃の御前でイシュテンの挙兵を知らされてから、もう二月は経っただろうか。シャスティエの到着とほぼ同時にその報せを受け取ったということは、王は彼女が攫われてすぐに兵を動かす算段を整えてくれたのだと思う。それに加えて、この進撃の(はや)さ。黒松館が焼け落ちた時は、もう二度と会うことはできないだろうと思ったけれど――今は、こんなにも近づいているのか。


「とても美しいお妃ですから。イシュテンの軍が奮い立つのも当然、と――こうしてお会いして非常によく理解いたしました」

「そんなことは……。この子のためでしょう。イシュテンの世継ぎになるかもしれない子なのですから」


 卒なくこちらを賞賛する機会を逃さないアマーリエの言葉を、でも、シャスティエは素直に受け取ることができなかった。(てら)いなく微笑む相手の目を避けようと、顔を俯かせて夫の子を宿した腹を撫でる。


 ――私のためであるはずがない……。それだけでイシュテンが動くはずがない……。


 今のイシュテンは王が長く国を空けて良い状況ではないのに、王も誰よりそれを分かっているはずなのに。(フェリツィア)の身を案じるあまりに王を引き止め過ぎたことだけでも、王の立場を悪くしたのであろう自覚はある。なのにシャスティエを助け出すためにブレンクラーレを攻めるなど、どうやって諸侯を納得させたのだろう。そもそも、どうやってシャスティエの居場所の見当をつけたのかも分からない。

 王が近くに来ていると聞かされたからこそ、残されたイシュテンの状況を思うと改めて不安になるのだ。


 それにギーゼラ妃がちらりと鋭い目を向けてきたような気がしたのも怖い。本当にアマーリエをシャスティエに引き合わせることだけが訪問の目的だったとでもいうかのように、レオンハルト王子を抱いて満足そうにしていると思っていたのに。実は耳を傾けているのに口を挟まないでいるのだとしたら、国の大事を前にした王太子妃の態度とは思えない。アマーリエがそのような振る舞いをまるで気に懸けていないようなのも、この状況への不審を掻き立てるのだ。


「まあ、ご謙遜を。今回の事態はまことに憂えるべきことではありますけれど、イシュテンの王に妻を案じるような心があると分かったのは、ひとつの収穫だと思っておりますのに。ですが――」


 アマーリエが語りかけるのはあくまでもシャスティエに対してだけ。それも夫に対しては非礼な発言をにこやかに言われては礼儀として微笑みを保つのも難しかった。だから本題に入る気配に心底ほっとして、シャスティエは先を促した。


「他の理由があるというのですね」

「はい」


 よく分かってくれた、とでも言いたげにアマーリエは満足そうに頷いた。まるで教師が生徒に対する時の態度のようで、年上の婦人が相手と分かっていても苛立ちを完全に押さえることができなかった。アマーリエは恐らくその苛立ちも見透かした上で、宥めるように少し困った顔をして見せた。それもすぐに改めて、真剣な表情を作って背筋を正すのだが。


「国土を踏みにじられながら敗戦を重ねること、まことにお恥ずかしい限りです。ですが、我が国の将兵の士気が低いのにも、対してイシュテンのそれが高いのにも十分な理由があるのです。イシュテン王は、襲った村の民や降した将兵に同じことを伝え、更に逃げた先でそれを広げるように命じているとか。――それこそが、イシュテンの強さとブレンクラーレの弱さ、更には私が貴女様にお縋りした理由なのでございます」


 ――まさか。


 意味ありげに言葉を切ってこちらの表情を窺う様子のアマーリエに、シャスティエの心臓は跳ねる。イシュテンの士気を上げてブレンクラーレを攻めさせる――その大義となる理屈に、心当たりが重々あったからだ。もし彼女の予想が当たっていれば、アンネミーケ王妃に対抗するのに、図らずも夫と同じことを考えていたことになる。


 期待に鼓動が早くなるのを感じながら――だが、シャスティエはあえて口を開くことはしなかった。アマーリエが彼女の表情を窺って目を光らせているのが分かったから。彼女の方から反応を見せることで、相手の有利を与えてしまうのが嫌だった。情報を教えてくれと乞うのではなく、相手から教えさせるようにしなければならない。


 不自然に数秒の沈黙が下りたのは、アマーリエがシャスティエの問いかけを待っていたからだろう。ちらつかせた情報に食いついて何か聞き返すとか、事前に持っていたであろう予想を裏付ける言葉を漏らさないかとか。狩人の目で構えているのが、ぴりぴりとした緊張感として伝わってくる。

 とはいえアマーリエもついに諦めたらしい。ふ、と軽く息を吐くとまた微笑みを優雅に纏い、口を開く。


「……王妃陛下は、貴女様はイシュテンから救出されたのだと説明しておられます。亡国の憂き目という悲劇に見舞われた方をこれ以上苦しめてはならぬ、祖国の仇のもとになど返してはならぬ、と。ですがイシュテン王はまた違ったことを主張しております。無論、ブレンクラーレの臣下としては王妃陛下のお言葉こそを信じるべきなのでしょうが――何分、あちらの言い分の方が筋が通っている節があるものですから」

「私の夫はどのようなことを広めているのですか」


 ――どうあっても私に聞き返させたいのね……。


 この期に及んで迂遠な言い回しをされて、さすがにこのままでは話が進まないのでは、と不安が過ぎる。アンネミーケ王妃が自身に都合の良いことだけを公言していることは少なくとも分かったことではあるし――渋々ながらも促すと、アマーリエは明らかに嬉しそうに笑みを深めた。婚家名で呼ぶように告げたことで、シャスティエの立ち位置は既に表明してはいるが、王妃の言い分を肯定しなかったことで何かしらの希望を抱いたのかもしれない。

 年齢を感じさせない艶やかな唇が弧を描き、言葉を紡ぐ。


「摂政王妃陛下がミリアールトの残党と組んで懐妊中の側妃を誘拐した、と。それだけではございません。クリャースタ・メーシェ様もよくご存じでしょうが、先年あったティグリス王子の乱――あの件にも、王妃陛下が関与されていたと、イシュテン王は主張しているのです。あの戦いでは卑劣な策が使われ犠牲も大きかったとか。イシュテンに対する、度重なる陰謀――その報復を果たすためもあって、イシュテンの諸侯は怒り猛っているのだとか」


 語りながらも、アマーリエの目はこちらの表情を観察している。その口元に笑みが浮かんでいるのは、シャスティエが動揺と――それに、喜びを隠しきれていないからだろう。


 ――私の言ったことを、覚えていてくれたの……!?


 レフが生きていたこと、ブレンクラーレと結んでいたことを知りながら、彼の命を惜しんで王に打ち明けることはできなかった。ただ、ティグリス王子と組んでいたことを引いて、油断できないのではないか、と進言しただけでは、本当の脅威を仄めかすことにもなっていなかっただろうに。夫に対して不実だったという自覚はあるし、だからこそ助けなど期待してはならないと思っていたのに。――なのに、夫は彼女の埒もない曖昧な言葉から、正しい答えを導き出してくれたのだ。


「――それを聞かせて、私に何を期待しておられるのですか……!?」


 声が弾んでしまうのも、この際仕方のないことと諦める。それに、ここまで聞けば相手の意図も概ね分かる。アンネミーケ王妃だけを主語にして、イシュテンの怒りを他人事のように語るとは。恐らく、アマーリエやその夫、さらに彼らの派閥にとっては確かに他人の仕業によって起こされた争いなのだろう。他人の、それも決して賞賛はされない行いによって戦禍を被ることになったと知ればどうするか――それは、自明というものだ。シャスティエだって、心の隅にその可能性は置いていたのだから。


「まずは王妃陛下とイシュテン王と、いずれの言葉が正しいのかご存知ではないでしょうか。イシュテン王の流しているのが我が国の王妃を不当に誹謗するものなのか、それとも正当な糾弾なのか――それによって臣下の採るべき行動も変わってくるかと存じますので」

「もしも、夫の主張が正しいとすれば――」


 アマーリエはもはや笑ってはいなかった。代わりにその整った顔に浮かぶのは、静かな怒りの色だった。この女は、アンネミーケ王妃の所業に対して怒っている。シャスティエが予想した通り、あの女傑の行いは決して万人が認めるものではないのだ。


「イシュテンの怒りも(まこと)にもっとも。栄えあるブレンクラーレの臣下としても、祖国がそのような汚名を着る不名誉は何としても避けたいと存じます。ですから、あくまでも王妃陛下おひとりが為されたこととしてイシュテン王に執り成しを――伏して、お願いいたします」


 言葉に従って、アマーリエは席を立つとその場に深く跪いた。シャスティエにとっても願ってもない申し出――だが、無条件に呑むことはできない。


「私を夫のもとへ送り届けてくださるのですか? どのようにして?」

「王太子妃殿下のお力をお借りします。お見舞いという名目でしたら、怪しまれずこちらへ出入りすることもできますから」


 ギーゼラ妃がこの計画に加わった理由は何となく分かった。レオンハルト王子を大事そうに抱くその手つきや表情を見れば。それに、御子は義母のところにいることが多いという言葉からも。


 ――この方も、我が子と引き離されているのね……。


 もちろんアンネミーケ王妃がレオンハルト王子の命を脅かすはずはないし、シャスティエとフェリツィアを隔てる距離に比べれば、こちらの母子はごく近くに暮らしている。だが、そのような境遇の違いを比べても、実際に我が子に会えない母にしてみれば何の意味もないだろう。


 ギーゼラ妃の方を見てみれば、いつの間にかまたシャスティエに鋭い目を据えている。――彼女の答えに、この方が息子と暮らせるかどうかも掛かっていると思っているのだろう。


「……イシュテンが兵を動かして国境を越えた以上、簡単に退くとも思えませんが。どのような落としどころを用意してくださるのですか?」


 この問いへの答えも用意していたのだろう、アマーリエは跪いた体勢のまま顔だけを上げて、はきはきと答えた。


「王妃陛下には今のお立場を退いていただきます。幸いにして王太子のマクシミリアン殿下ももう成人しておられますし。王妃としての権力は全て手放し、華やかな場に出ることもなく――そのようなお役目は、王太子殿下と妃殿下に譲っていただくことになるかと思います」


 ――そしてお若い殿下には補佐する者が必要、という訳ね……。


 アマーリエの提案は、本当に衷心からだけのものという訳でもないだろうし、王もアンネミーケ王妃の失脚だけで兵を退くとは限らない。はるばるブレンクラーレまで攻めたからには、諸侯ももっとはっきりとした――実のある――戦果を欲しがるだろう。


 だが、アマーリエも全て思い通りに行くなどとは思っていまい。自らは手を汚さず犠牲も出さず、邪魔な王妃を片付けようなどと虫が良いにもほどがある。ここからどれだけ譲歩をさせるかが、シャスティエと王の手腕、ということになるだろう。


「――なるほど。本当に夫と会わせていただけるなら……それなら、私から言えることもあるかもしれません」


 快諾するのではなく、断言を避けて。曖昧な微笑みを持って答えとする。それだけのことでも、アマーリエは喜色を露にして目を輝かせた。その喜びようが表すのは、アンネミーケ王妃の嫌われようか、夫の恐れられようか。


 できれば後者であってほしいと、シャスティエは切に願った。

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