訪問者 シャスティエ
「――王太子妃殿下が、私に……?」
「はい。是非ともまたお会いしたいと」
「……また、ね……」
アンネミーケ王妃によってつけられた侍女が告げたことに、シャスティエは眉を寄せた。
――あの方は、私がお嫌いに見えたのだけど。
マクシミリアン王子は、最初の訪問での約束を律儀に守って、妃と御子を伴って再び彼女を訪ねていた。父親に似たらしいレオンハルト王子は、事前に聞いていた通り人見知りしない人懐っこい赤子で、シャスティエに抱かれても笑っていたし、ジョフィアと会わせてみても泣くこともなく同じ玩具を取り合って遊んでいた。
色合いは違うけれど、フェリツィアも王子と同じ淡い色の目と髪の色をしていたし、ジョフィアとも仲良く遊んでいた。だからふたりの赤子が戯れる様子は黒松館での束の間の平穏な日々を思い出させて。王太子夫妻の前で涙ぐまないようにするのに、苦労したものだった。
王太子は例によってシャスティエの内心には無頓着なようだったけど、やはり赤子の愛らしさには目を細めていた。でも、その妻でありレオンハルト王子の母君であるギーゼラ妃は、異国の、それも――王女の乳母とはいえ――臣下の子に過ぎない者と息子を遊ばせるのを、快く思っていなかった気配があった。
『そうしていらっしゃるとまるで本当の母子のようですね』
王太子が笑顔と共に無造作に言い放ったひと言も、確実に王太子妃を傷つけ怒らせていたと思う。ギーゼラ妃の険しい目に慄きつつ、マクシミリアン王子の口をどうにか塞げないか、押さえつけてでもそうすべきなのではないかという衝動もまた、堪えるのが難しかった。
それでも礼儀は保って表面上は何事もなく終えたのが最初の訪問。その次はギーゼラ妃は息子とふたりで訪ねてきた。その申し出を聞いた時は、もしかしたら女同士ならもう少しまともに話すことができるかもしれない、夫君の振る舞いへの謝罪もあるのでは、と期待もした。だが、大国ブレンクラーレの王太子妃は、シャスティエの予想とは全く異なる話題を持ち出してきたのだ。
我が子を抱きながら――王太子妃の機嫌を損ねるだろうと思うともう抱かせてほしいとは思わなかった――、あの方はどこか挑戦的に告げてきた。
『この子の名前は、従弟君からいただきましたの』
『そうですか』
――レフ? どうしてレフから……?
レオンハルトという名の偉人なら、異国の者でさえ何人も挙げることができるのに。その中の誰であっても、ブレンクラーレの王位を継ぐ者に相応しかっただろうに。どうしてミリアールトの、それも二十歳そこそこでまだ何事も為していないはずの彼から何かしらを望むことがあるのだろう。
内心首を傾げながら、シャスティエは相槌を打った。他にどのような反応を求められているのか分からなかったから。
だが、そのような曖昧な答えは、王太子妃の気に入らなかったらしかった。次にギーゼラ妃が発した声は先よりも強く、苛立ちを滲ませてすらいたのだ。
『とても、良くしていただきましたから。だからです』
『彼がこの国で尊い方々の信頼を得ることができたなら、喜ばしいことですわ……』
当たり障りのないはずの答えが相手の不興を買っているらしいことにシャスティエは戸惑い、より慎重に対応しようと言葉を選んだ。それに、そうであったら良かったのに、という願望のようなものもあった。
――レフが、ブレンクラーレに仕官する……。
王は――彼女の夫は、ミリアールトの王族が他国で生き延びるのを快くは思わないだろうけど。でも、シャスティエさえ確保していればミリアールトを支配する正統性は十分なはず。何より、今のような異常な状況でもなければブレンクラーレの奥深くまでイシュテンが攻め入ることなどないだろう。
だから、レフは安全で、名と身分を明かすこともできる。祖国の叔母も、息子が生きているのを、せめて知ることだけはできる。二度と会えない辛さは変わらなくても、同じ地上で同じ太陽を仰いでいるということは、叔母の慰めになるのではないだろうか。
そしてレフはシャスティエのことになど構わずブレンクラーレで栄達してくれれば良い。もしも想ってくれるのだとしたら、イシュテンに介入することのないように。彼女の夫がイシュテンを統べることが祖国の安定にも繋がると分かって、憎しみを置いて欲しい。……そんな風に望むのは、過ぎたことなのだろうか。
『義母などはあの方にお怒りのようですけれど。あの方は貴女を助け出すことで、イシュテンの騎馬をこの国に呼び込みましたから』
少なくともギーゼラ妃にとっては、シャスティエの考えは許しがたいものだったのだろう。やや早口に告げられたのはかなり直截な非難だった。お前のせいでブレンクラーレは戦火に見舞われたのだ、と。
だが、このような言い方をされては、シャスティエも黙ってはいられなかった。
『摂政王妃陛下は、前々からイシュテンを乱すべく機を窺っておられたと聞いております』
そのこと自体は、自国の安寧や繁栄のためにはやむを得ないことなのかもしれないけれど。でも、危険があるのも計画が失敗する可能性も、全く見えていなかったはずはないのだ。
今日の事態を招いたのは、直接的にはシャスティエのせいに見えるかもしれないし、レフにも間違いなく責任の一端がある。だが、この巡り合わせを招いたのはアンネミーケ王妃自身の行動にほかならない。そこを直視せずに攫ってきた相手を責めるなど、摂政王妃らしからぬ筋違いの八つ当たりとしか思えない。
――この方は、義母君のご意向を受けているのかしら? だから私がイシュテン軍を招いたと苦々しく思っておられる……?
そう捉えれば、王太子妃の妙にきつい当たり方にも納得がいく。一方で、この方を頼りに摂政王妃を糾弾するのは難しいと諦めなければならないということでもあるけれど。
シャスティエは失望に心が冷えるのを感じながら、ギーゼラ妃がきつく眉を寄せるのを見た。
『誰も彼も貴女のために……! 国を――幾つもの国を動かす美貌をお持ちというのは、どのような気分がするものなのですか?』
『何を仰っているのか分かりません』
ところが高貴なはずの女性はまたも筋道の分からない問いを投げてきた。彼女のせいでも望んだことでもないと言ったつもりなのに、全く通じていないかのよう。怒っても良いのだろうか、と心の片隅で悩みながら。シャスティエは、丁寧な態度を保とうとは試みた。少なくとも言葉遣いは。それに、声もなるべく斬りつけるような調子にならないように。
『今の私の状況に、容姿は関係ないと思いますが。摂政王妃陛下が求められたのも、我が夫が軍を率いてまで取り戻そうとするのも、ミリアールトを治める正統性とイシュテン王の血を引く子だと存じます。私の容姿も人格も、どうであろうと同じことになっていたことでしょう』
それでも、開き直ったように聞こえるであろうことは承知の上だったけれど。肉親の情があるレフはまだしも、マクシミリアン王子の馴れ馴れしさは多分シャスティエの容姿も理由になっているのだろうし、ギーゼラ妃は何よりも夫君のことで彼女を不快に思っているのだろうから。でも、大国の王太子妃へ無礼を働く恐れを犯してなお、言わずにはいられなかったのだ。
だって、ギーゼラ妃はその腕に我が子を抱いている。娘を、フェリツィアを案じて痩せ細る思いをしているシャスティエにとって、それがどれほど羨ましいことか。この方こそシャスティエが何より望むものを手にしているのに、どうしてこのように責められなければならないのか。
『私の思いはただひとつ。イシュテンに置いてきた娘に会いたいというだけですわ。妃殿下のように、あの子をこの腕に抱けたらどれほど良いか……。摂政王妃陛下の企みでこのようなことにはなりましたけど、私は決して望んでも喜んでもおりません!』
『な……っ』
ほとんど睨むようにして告げると、ギーゼラ妃はさすがに絶句して――それでもシャスティエを睨み返した。
……それが、二回目の対面の時のこと。お互いあれほどやり合っておいて、この上何を話すことがあるというのだろうか。
考えても王太子妃の真意など分かるはずもなく、シャスティエは落ち着かない気分のままギーゼラ妃を迎えることになった。
「……ご機嫌よう」
「ご機嫌よう。またお越しいただけて嬉しいですわ」
シャスティエの挨拶は心にもないこと、そして相手の表情を見れば同じ思いであることが分かる。ならば一体何のために訪れたのか、はっきり尋ねるのは無礼だろうか。相手の顔を直視するのはあまりに気まずくて、シャスティエはギーゼラ妃が抱く赤子にの方へと目を逸らした。
「レオンハルト王子殿下は、いつもご機嫌がよろしいようで……母君様も安心でしょうね」
「義母のところにいる方が長いものですから、いつもかどうかは分からないのですけど」
「……そうなのですか」
レオンハルト王子の話題ならば和やかに話せるかと思ったのに、ギーゼラ妃の声も表情も硬いままだった。マクシミリアン王子がいないからか、息子を抱かせてくれる気配もない。やはり先日のことは尾を引いているようだった。あるいは、最初から一貫して嫌われていたのかもしれないが。
――もっとへりくだれば良いのかしらね……?
ギーゼラ妃に対するシャスティエの態度は、敬意を払ってはいるものの最上級のものではない。日頃は誰からも傅かれているであろう方にとって、それが不遜に見えるのだろうか。アンネミーケ王妃を頼るしかない虜囚の身の癖に頭が高いとでも思われているとか。
だが、これはシャスティエも譲れないところだ。大国の王太子妃と、国力は劣るとはいえ側妃――王の妻と。比べても立場にそれほどの格の違いがあるとは思えないのだ。無理に攫ったのではなく助け出したと主張するなら、シャスティエは立場に見合った扱いを期待して良いはずだし、そのように振る舞っても良いはずだ。
何より、かつての彼女がそうだったように、ブレンクラーレでも多くの者たちは側妃など愛人を体よく呼び変えたに過ぎないものだと思っているに違いないのだ。たとえ身の程知らずと思われようとも、下手に出てはそのような見方を補強してしまうことになるだろう。それは、シャスティエの胎の子の立場にきっと良い影響を及ぼさない。そもそもこの国で出産に至るのかどうかも分からないし、そのような事態は来て欲しくないけれど。でも、これも母として彼女が戦う道のひとつだと思う。
「……それでは、今日は母子水入らずということになりますね。このようなところですが、寛いでいただけると良いのですが」
もっとも、決意したところで気の利いたことが言える訳でもなく、浮かべようとした微笑みは引き攣っていただろうけれど。好意を持たれていないのは明らかとはいえ、外の情報を引き出そうと思えばこちらも同じような態度で接しては話にならないのは分かっているのだが。だが、どうすればギーゼラ妃の心を開くことができるのかが分からない。
――ミリアールトでは、みんな私に合わせてくれていたのね。
このような状況になってもなお、甘やかされて育てられてきたことを思い知らされて、シャスティエは内心溜息を吐く。社交の場での受け答えは問題なくできるものだと思い込んできたけれど、思えば祖国では王女に対して機嫌を取ろうとしない者がいるはずなかったのだ。話が弾んでいると思っていたのも、相手の配慮や気遣いが大いにあったに違いない。多分、レフにはそういうところも見えていたのだろうか。
「ええ、そうね……」
ぎこちない語り掛けに対するギーゼラ妃の答えもぎこちなく、ふたりに気まずい沈黙が降りる。
「はい。妃殿下は、姫君にとても大事なお話がおありなのですわ」
だから、王太子妃の侍女が口を挟んだのを、シャスティエは最初、重い空気を見かねての助け舟だと思った。王太子妃に仕える者だから当然なのかもしれないが、ギーゼラ妃を取り囲む侍女たちはいずれもきりりとした理知的な顔つきの者ばかり。――ともすれば、主その人よりも堂々としているようにさえ見えてしまう。刺々しいのに煮え切らないギーゼラ妃と話すよりも、侍女の方が話しやすそうだ、と。後ろめたさを感じつつも思ってしまうほどだ。
「まあ、何なのでしょうか」
これでやっと実りのある会話ができるのを期待して、シャスティエはギーゼラ妃と侍女の顔を見比べた。心中の安堵は表情にも出て、今度こそ少しは柔らかに微笑むことができただろう。
「話があるのは貴方方でしょう。この方とお好きなようにお話しされれば良いわ」
だが、ギーゼラ妃は軽く眉を寄せるとふいと顔を背けてしまう。さすがに呆気に取られて侍女の方を見ると、こちらはおっとりと苦笑している。まるで子供の我が儘を見て呆れているかのような態度、一国の王太子妃に対して――確かに礼儀にかなった振る舞いとは言えなかったかもしれないけど――見せるものとは思えない。
「はい、妃殿下。仰せのままに。――シャスティエ殿下、とお呼びすれば良いのでしょうか。それともクリャースタ・メーシェ様、と……?」
「クリャースタ・メーシェと。私はイシュテン王の妻ですから」
それでも戸惑ったのは一瞬のこと。侍女の問いかけの意味に気付いてシャスティエは瞬時に背筋を正した。侍女はシャスティエは自らを何者として考えているのか、と訊いたのだ。ミリアールトの、亡国の王女として祖国の側に立つのか。ひいてはブレンクラーレに身を寄せる気があるのかどうか。それともイシュテン王と結ぶというのか。
あまりに端的かつ核心を突いた問いは、この侍女自身が考えたのか、それとも背後に言わせる者がいるのか。どちらにしても油断してはならない。
「やはり、そちらを選ばれるのですね……」
「やはり? 私の心が分かっていたというなら意外なことだわ」
何者かも知れない女相手に丁寧な言葉遣いを使う必要を感じなかったから、シャスティエは鋭く聞き返した。剣ではなく、言葉で切り合うような――彼女はこういうやり方の方が向いているのかもしれない。
――摂政王妃陛下は私を救い出したと主張されているのでしょうに。
王妃の意と異なる予想を抱いていた理由は何か、と。シャスティエの言外の詰問は相手にも正しく読み取れたらしい。侍女――という立場で乗り込んで来た女――は、またにこりと微笑むとシャスティエに対して深く跪いて頭を垂れた。
「高貴な御方にお会いするのに相応しからぬ姿で参上した非礼、まずはお詫び申し上げます。王妃陛下は貴女様を誰にも会わせぬおつもりのようでしたから。王太子妃殿下に乞うてこの場に加えていただきました。どうかお赦しくださいませ」
「……さあ、それは大事な話とやらを聞かないと」
――王妃陛下に従わない者……あの方に背いてまで私に会おうとする者……。一体何を狙っているの……?
ある意味ではシャスティエの予想と期待通りの展開ともいえる。だが、素直に喜んでも良いのかはまだ分からなかった。彼女の警戒を見て取ったのだろう、女はまた穏やかに笑い、そしてすぐに表情を改めた。
「イシュテン王の軍は確実に王都へと迫っています。王妃陛下も王太子殿下も迎え撃つおつもりのようですが――正面から戦うよりも、もっと良い方法があるのではないかと考える者もいるのです」
王が近づいている、と聞いてシャスティエの心臓は跳ねた。それが純粋に喜びによってなのかどうかは、自分でも分からなかったけれど。
「……私にも、何かできることがあるというのね?」
鼓動が早まるのを感じながら口から出たのは、質問ではなく確認だった。アンネミーケ王妃もマクシミリアン王子も、彼女に夫の動きを教えてはくれなかった。それはきっと彼女に余計な希望を持たせないためだろう。
ならば、この女がそれを聞かせたということは。期待によってか憔悴によってか――やはり自分でも名付けることができない感情でもって、女を睨む。
「はい。貴女様のお力が、この国のためには必要なのです」
すると果たして、女は力強く頷いた。