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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
20. それぞれの戦い
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糾弾 エルジェーベト

「マリカ様……?」


 かつてなく真剣な表情で――睨むように見つめてくるマリカを前に、エルジェーベトは首を傾げた。唇を結んで、挑むような顔を作ろうとしているのかもしれないが、この方はそれでも愛らしさが先に立って凄みというのが全く感じられない。今も、畏まるよりは抱きしめたくなってしまうくらいなのだけど。それではさすがに、ますます機嫌を損ねさせてしまうだろう。


 ――こんなに肩に力が入って。本当に珍しいこと……。


 マリカは子供のころからおっとりと優しい性格で、怒ったところはおろか、不機嫌だと感じることさえ稀だったのに。王の側妃への耽溺や、側妃腹の王女の存在。更には王の遠征と、この方の柔らかな心には耐えられない悩みが積み重なったからだろうか。だから、久しぶりに会ったエルジェーベトに当たってしまっているということなのだろうか。乳姉妹ゆえの親しさに甘えてくれているというなら、喜ぶべきところなのかもしれないけれど。

 払いのけられた手の、指先が熱かった。邪険な扱いに感じた痛みと、一瞬の触れ合いで感じたマリカの温もり。その両方がエルジェーベトの神経を過敏にしているのかもしれない。


「何をお怒りになっているのでしょう……? ご機嫌を直して、そんな意地悪は仰らないでくださいませ」


 マリカは何かしらが原因で拗ねているのだろう、とエルジェーベトは考えた。そうでなければ、この方が出て行けだの関わるなだの言うはずがない。きっと、突然に姿を消してしまったのを恨んでいたのだろうと思う。側妃の胎の子を始末するはずが失敗して、リカードに累が及ばぬように彼女がひとりで罪を負ったのだ。ティゼンハロム侯爵家のため、ひいてはマリカのため、仕方のないことではあったけれど、何も知らないマリカはさぞ混乱して悲しんだことだろう。エルジェーベトが無事な姿を見せて、再び傍近くに仕えるようになったことで、やっと安心して今までの鬱憤をぶつける気になった、とか。そんなところだと思う。


「意地悪で言っているのではないわ。本当に、お願いしているの」

「まあ、私のことを大好きだと仰ってくださったのに? いなくなってしまっても良いと思われているのでしたら悲しいですわ」


 ほら、眉を寄せて声を震わせて訴えれば、マリカの表情はすぐに揺らぐ。口ではどんな強がりを言ったとしても、エルジェーベトを完全に突き放すことなどできるはずがないのだ。だから慌てたり憤ったりするような素振りを見せてはならない。怒るのに慣れていないこの方のこと、いつ矛を収めれば良いのか自分では分からないだけなのだろうから。

 だから、あくまでも優しく接して差し上げれば良い。何を言われてもエルジェーベトの愛と忠誠は揺るがないと見せるのだ。そうすれば、マリカはすぐにまた笑顔を見せてくれるだろう。


「……私も、悲しいけれど。でも、貴女はここにいてはいけないはずよ。アンドラーシ様が戻られる前に、それに、ファルカス様が戻られる前に。姿を消して欲しいの」

「ああ、私の身を案じてくださっているのですね」


 マリカは眉を寄せて悲し気な表情のままだったけれど、細く震える声で伝えられたことも悲しいことだってけれど。でも、主の優しさを確認してエルジェーベトは声を弾ませた。それに、主の不可解な申し出の理由も、少し分かった気がしたのだ。


 確かにエルジェーベトは既に死んだはずの身だ。側妃が王女を懐妊していた頃、赤子が生まれる前にマリカたちの憂いを絶とうとした、それが罪だと言われたのだ。それも、バラージュ家の娘にしてやられてのことだった。素知らぬ顔で恩ある侯爵家を裏切って王と側妃に密告していたあの女狐――今はアンドラーシの妻に収まっているから憎たらしさも一層強まっている。

 とにかく、あの時はああするほかなかった。ティゼンハロム侯爵家の紋章入りの密書を、侯爵家に仕えるエルジェーベトが渡してしまっていたのだ。リカードの命によるものではないと強弁するためには、何者か――つまりは彼女が、私怨のために紋章を偽造したことにするしかなかったのだ。あの咄嗟の場面で判断し、死を恐れず罪を被ったのはエルジェーベトの誇りですらある。

 とはいえマリカにはそのような計算はできなかったのだろう。リカードの陰謀も側妃の懐妊も、全く知らせないままであの場を迎えさせてしまったのだから、心の準備などできなくて当然。エルジェーベトが手荒く引き立てられるところを見せてしまったこと、それだけは未だに悔やまれてならない。


 ――それも、あの女のせいだけど……!


 あの女が、大人しく毒を呑んでいれば良かったのに。そうすれば胎の子も無事に流れてマリカたちを脅かすことななかっただろうし、王からの関心も失われていただろうに。


「でも、ご心配には及びませんわ。あのアンドラーシはもちろん――王でさえ、私の顔をきちんと見分けることはできませんでしたから。罪を犯したエルジェーベトという女は死にました。でも、殿様はちゃんと王宮で働ける身分を用意してくださいましたから。誰も、不審に思う者はおりません。マリカ様だって、王たちに言いつけるおつもりではないのでしょう?」


 もちろん、常にそうだったように内心の怒りや憎悪はおくびにも出さず、マリカに微笑みかける。ウィルヘルミナ――ミーナと、婚家名で呼ばないとまた拗ねてしまうだろうか、とちらりと頭を掠めたけれど、ここはエルジェーベトも譲れない。久しぶりに会えたのに、マリカはずっと余所余所しい態度を崩さなかった。理由はどうあれ長く離れてしまったことを恨まれているのは分かるけれど、彼女としても寂しい辛いと感じない訳ではなかったのだ。


 だから、以前のように呼ばせて欲しい。長年に渡って全てを捧げてきたのだ、エルジェーベトにもこれくらいの甘えを許して欲しい。マリカならば、きっと許してくれるはずだ。


 そう、期待してマリカを見つめる――けれど、エルジェーベトが望むような愛らしい微笑みが返ってくることはなかった。それどころかマリカは白い頬をますます青褪めさせて身体を退く。エルジェーベトから、遠ざかってしまう。


「見分けることができなかった……? エルジー、どういうことなの?」


 マリカの顔に浮かぶ不安は、エルジェーベトを案じてのものではなかった。死ぬはずだったところを辛くも生き延びたことを、喜んでいてはくれなかった。リカードの手腕を頼もしいと思ってくれてはいないのだ。


 ――マリカ様……どうして……?


 余裕を持って接しようと思っていたのに、いつものように優しく宥めて機嫌を直してもらおうと思っていたのに。エルジェーベトは眉を顰めて言葉に詰まる。マリカの様子がおかしい。このままでは何か良くないことになる気がする。なのに、何を言えばマリカが収まるのか――マリカのことなら何でも分かるはずだったのに――さっぱり見当がつかないのだ。


「私、貴方が……あの、殺されてしまったと思っていて……。ファルカス様は何も仰らなかったけど。お父様が、匿ってくれていたのよね? でも、どうやって……?」


 だが、マリカが狼狽えたようにとりとめなく立て続けにぶつけてきた問いに、エルジェーベトは全身を雷に撃たれたような強い恐怖を感じた。雷というか、急に跳ねた心臓の鼓動をそのように認識したのかもしれない。


 エルジェーベトは、言うべきでないことを仄めかしてしまったのだ。側妃の子に毒を盛ろうとした女は殺された。だが、王がリカードの言葉を鵜呑みにするはずがない。だからリカードは代わりの女の首を差し出した、らしい。

 どのような素性の女なのか、死体の首だけを見繕ったのか生者から首を奪ったのか、エルジェーベトも知らないけれど。ただ、一応は彼女の顔を見たことがあるはずの王が区別がつかなかったというのだ。エルジェーベトの者ということになった首は、きっと正視に堪えない歪んだ表情をしていたということなのだろう。


「マリカ様は知る必要のないことです」

「エルジー!」


 身代わりの女がどんな(むご)い殺され方をしたとしても、エルジェーベトとしては特別気に病むつもりはなかった。リカードが酷いのはいつものことだ。マリカに関わることでなくても、理不尽な形で死を賜った者はいくらでもいるはず。気まぐれや八つ当たりなどではなく、それ以外にやりようがなかったという点では、意味があるだけ恵まれた死だと思うべきだ。


 ――少なくとも、私ならそう思う……マリカ様のために死ねたなら良かったじゃない……!


 大方の女は大したことを為す訳でもなく、夫に仕えて子を生むだけの生涯で終わるのだ。侯爵家と王妃の窮地を救うために命を捧げることを名誉に思いこそすれ、恨みに思うなどおこがましい。

 ――だが、マリカは同じようには思わないであろうことはさすがに分かった。リカードはこの方をひたすら優しく健やかに、他人の悪意も自らの悪事も見せずに育ててきたのだ。人を死なせて自らの罪を免れることを、この方は良しとしないだろう。


 だから、詰問するような責めるような声で問うてくるマリカから、エルジェーベトは目を逸らす。


「全てマリカ様のためのことです。殿様のなさることに間違いはございません。安心していただいてよろしいですわ」


 マリカを抱きしめようと、手を伸ばそうとするがまたも払いのけられる。八つ当たりや癇癪などではなく、今やマリカははっきりとリカードや――エルジェーベトに対して不信と嫌悪を抱いていた。かつて見たことなどないと断言できる、マリカの表情。怒りと怯えと非難。いずれもエルジェーベトに向けられたものだという事実が彼女の心を引き裂き抉る。しかもマリカはまだまだ容赦してはくれない。


「私のためだというならなおさらよ……! 私のために、お父様は何をしたの? 私は……私は、そんなことを望んではいないのに!」


 無論、マリカも父が何をしたのか完全に理解した訳ではないのだろう。ただ、何か恐るべき卑劣な手を使ったのだと認識したらしい。


 ――だから知る必要はないと言ったのに!


 マリカの詰問は、エルジェーベトにとっては不本意かつ不当なものだ。マリカの立場を守るため、常に笑っていてもらうためにこそ彼女は罪を犯しリカードに犯されてきたというのに。

 だが、父や彼女を非難しながら、マリカが罪の意識を感じているのもエルジェーベトは敏感に感じ取った。全ては自身のためなのだと分かっているからこそ、正義を振りかざして非難することに後ろめたさを覚えてしまうのだろう。


「ええ、殿様はマリカ様をこの上なく大切に思っていらっしゃいます。父としての情愛ゆえにしたこと、私だってそうです。――そう、マリカ様の御意思とは関係なく、勝手に……と、あえて言ってしまいましょう。ですから、マリカ様はお気になさらずとも良いのです」


 だからエルジェーベトはマリカの罪悪感につけこんだ。親子の情、乳姉妹の情に訴えた。貴女を愛するがゆえにしたことを、どうして咎めるのか、と。


「そんな……」


 くしゃり、とマリカが泣きそうに顔をゆがめたのを慰めるため、エルジェーベトはそっと腕の中に愛しい人を抱きしめた。今度は突き放されることはなかったのは、その気力がなかっただけかもしれないけれど。それでも肌を触れ合わせて温もりを伝えれば、まだエルジェーベトの想いは伝わると思いたかった。


「全てはマリカ様のためなのです。ですから笑って幸せにお過ごしくださいませ。そうでなければ何もかも無駄になってしまいますもの」


 エルジェーベトの身代わりに殺された女も。そう、認めたように聞こえたのかもしれない。マリカはエルジェーベトの腕の中で身体を震わせた。


「でも。ファルカス様だっておかしいと思っているはずよ。シャスティエ様だって……。私、おふたりに合わせる顔が……!」

「王も側妃も、マリカ様を責めることなどできません。マリカ様は何もご存知なかったではないですか」

「だけど……!」


 エルジェーベトのことよりも、マリカが王と側妃のことを気に懸けているようなのが腹立たしくてならなかった。マリカが悪事を喜ぶはずがないのは分かってはいるけれど、主の幸せのためにとやってきたことではあるのだ。そこを認めて労って欲しかったのだ。


 ――いいえ、やはりマリカ様は何も知らない方が良かった。これもみんな王とあの女のせい……!


 王がミリアールトを攻めなければ。あの女を連れ帰って、あまつさえ側妃にしたりなどしなければ。マリカの世界は和やかなまま、夫と父の対立も知らないでいることができたかもしれないのに。

 苛立ちを、優しい口調の影に押し込めて。エルジェーベトはマリカの耳元に囁く。悪意という名の甘い毒を。


「罪を犯したのはあの方たちも同じ。王は玉座を得るために実の兄弟すら殺めました。側妃だって――今、王が国を空けて戦いを起こしたのはあの方のため。どれだけ多くの命があの方たちのために失われたことか。あの方たちだって無辜の血に塗れているのです。なのにマリカ様を責めるとしたら――いいえ、そのようなこと、この私が許しません」


 マリカを刺激しないように努めて穏やかに。けれど内心の激情は口調にも現われてしまっただろう。マリカに嫌悪されたことへの動揺、罪を――不当に――詰られることへの不満、その原因となった王と側妃への憤り。決して、マリカにぶつけて良いものではないのは承知しているが――それでも、伝わって欲しい、という思いもあったからこそなのだろう。


「でも。そんな……」


 やはりというか、マリカは納得してはくれていないようだったが。優し過ぎる方のこと、糾弾の言葉を探しあぐねて俯く間に、エルジェーベトは反論を封じてしまうことにする。


「それともやはり私は裁かれるべきだとお思いでしょうか? 今からでも、この命を投げ出せと? ならばアンドラーシに告げ口なさいませ。あの男は殿様を嫌っていますもの。女の血で剣を汚すことさえ、喜んで請け負うに決まっていますわ」

「それは……そんなことは……」


 マリカが顔色を青褪めさせるのを見て、エルジェーベトは少しだけ満足した。この方はまだエルジェーベトを嫌い切ってはいない。犯した罪への嫌悪はあっても、だから死んでしまえとまでは思っていないのだ。


 ――今は、まだ……。


 だが、早く対策を練らなければならない。エルジェーベトが生き延びるためなどではなく、ティゼンハロム侯爵家にマリカを取り戻すために。万が一王と側妃が戻ったとして、彼らにマリカを取り込まれたりしないために。


 そのために何ができるか、エルジェーベトは必死に頭を働かせ始めた。

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