初めての願い ウィルヘルミナ
夫がブレンクラーレへ発って以来、ウィルヘルミナは寝台から起き上がるのに不安を覚えるようになってしまった。安心できるのが寝具に包まっている時だけなんて、子供っぽいことだとは思うけど。でも、起き上がればまた一日が始まる。頼れる人も信じられる人もいない中でまだ寝台につくまでの時間を過ごさなければならない。娘の様子を見守って、夫やシャスティエのことを悪く思う気配があればやんわりと正さなければならない。
夫がいないのは――最近では、よくあることになってしまっていたけど、それでも何かあった時に相談できる距離にいないということが心細かった。
――いえ……たとえファルカス様がいらっしゃっても。私は何も言えなかったのかもしれないけれど……。
顔に感じる冬の朝の寒気に震えて、未練がましく寝具を引き寄せる。温かく心地良い窖に篭っていられるのもそろそろ終わりだ。起きて着替えて――まずは娘に会いに行こう。父の不在の間、せめて母親がついていてあげなくては。
この息苦しさ、いつも喉を絞めてくるような漠とした不安は、彼女自身の招いたことだ。これまで何も言わなかったこと、夫に対して積み重ねてきた不実が、今の彼女を縛っている。今になって打ち明けようと思ったところで、夫は遥か異国の空の下。夫が帰るまでは――あるいは、警護をしてくれているアンドラーシに対して自身の不明を告白する勇気を持てるようになるまでは、ウィルヘルミナひとりでこの思いを抱えていなくてはならないのだ。
身じろぎする気配が伝わったのだろう、寝室の扉が軽く叩かれ、外から彼女を呼ぶ声がする。優しく穏やかで懐かしい――でも、今となっては恐ろしい声が。
「ミーナ様? お目覚めでしょうか……?」
「え、ええ。着替えを手伝ってちょうだい――エルジェーベト」
扉の外では、きっと彼女の乳姉妹が満面の笑みで主の起床を待ち構えているのだろう。
夫の遠征にあたって、王妃であり娘であるウィルヘルミナの身の回りの世話をする者を増やすように、父から申し出があったらしい。彼女自身は不要と思ったし、夫も当然良い顔はしなかった。夫君の不在の間、彼女が寂しい思いをしないように、良からぬ者の手が伸びることがないように――そんな、思いやりや心配を装った父の言葉を、ウィルヘルミナはもう信じることはできなかったのだ。夫は、多分ずっと以前から信じていなかったのだろうけれど。
王妃の警護なら、夫は相変わらずアンドラーシをつけてくれていた。若い殿方が戦いに赴くことなく女の――それも敵の娘の――世話を任されるのは不本意だろうとは思うけれど、フェリツィア王女を奥方の実家に預けた縁もあってそのような采配になったとか。とにかく、だから父の介入は要らないと、ウィルヘルミナなりに懸命に主張したつもりだったのに。父の家から兵を派遣してもらうことはなくなって、安心していたというのに。
父は、それならば侍女や召使を送り込むことにしたのだという。
『アンドラーシのような粗忽者に娘を任せることができるとでも? 気の利いた者をつけてやらねば哀れというもの。ただでさえ近頃は侍女の入れ替わりが激しいことですし、孫も落ち着かないことでしょう』
ウィルヘルミナやマリカを案じる振りで、父は娘たちと接触する術を確保しようとしているのはさすがに分かった。けれど一方で、王妃と王女の世話をする人手が今現在十分に整っていないのも事実だった。父に縁ある者を遠ざけようとした夫の思惑もあったし、使用人たちの方でも、自ら望んで父から――ウィルヘルミナから離れて行った者もいたと思う。だから、抜けた者の穴を埋めるために数人迎え入れることになったのだ。――そして、その中に彼女がいた。
『今日からお傍に仕えさせていただきます。名誉あるお役目をいただいたこと……大変光栄に思いますわ』
その声を聞いただけでも、ウィルヘルミナは心臓が止まる思いをした。隣にいたマリカが顔を輝かせたのも怖かった。それからその女は顔を上げて――ウィルヘルミナが驚いた顔をしているのを見てにこりと微笑んだ。多分、喜びのあまりに声が出ないのだと思ったのだろう。
いつから乳姉妹に彼女の心が全く伝わらなくなってしまっていたのだろう。ずっと前からそうだったのに、ウィルヘルミナが愚かだから気付かなかったのだろうか。
エルジェーベトは罪を犯して死を賜ったことになっている身のはずだ。なのに、堂々と顔を晒して王宮に舞い戻るなんて。それをやってのける父の権力と恥を知らない厚かましさに絶望して、ウィルヘルミナは言葉を失ったというのに。エルジェーベトは未だにそのことを理解してはくれないのだ。
マリカに絵本を読み聞かせている間にもエルジェーベトの目が彼女を注視しているのを感じて、ウィルヘルミナは落ち着かない。何かを言いたげに絡みついてくる視線――その内容は、ほぼ確実に彼女を喜ばせることではない。再び王宮に現れて以来、できるだけ二人きりになる機会を避けようとしているが、それもいずれ限界が来るだろう。エルジェーベトが――その背後にいる父が何を言い出すのか。穏やかに微笑む侍女の姿が、ウィルヘルミナにはもう恐ろしくて仕方なかった。
――早くアンドラーシ様がお戻りになれば良いのに……。
あの方がいてくれればエルジェーベトも迂闊なことはしないだろうと思うのに。アンドラーシは奥方の実家にフェリツィア王女を見舞ってこの数日は王宮を離れている。
シャスティエの面影を色濃く伝えていたフェリツィア王女はどれほど愛らしく成長しているだろう、と思うとウィルヘルミナも会いたいとは密かに望んでいる。彼女の胎に子が宿ることはおそらくもうないだろうけど、王女は夫の血も引いているのだから。
でも、その望みを口に出すことは決してしない。彼女がシャスティエの子に会いたがるのを、アンドラーシは良く思わないだろうし、実行に移そうとすれば問題が出て来るのは目に見えている。赤子に会いに行くと言っても彼女ひとりで出歩く訳にはいかないのだから。警備の者や身の回りの世話をする女たち――その中に、ひとりでも王女に害意を抱く者がいれば、赤子の命など容易く奪われてしまうだろう。だから、我が子と引き離されたシャスティエのためにも、あの方を助け出そうと戦場にいる夫のためにも、ウィルヘルミナが軽はずみなことをしてはならないのだ。
でも、アンドラーシの不在はある意味では好機だった。ウィルヘルミナの神経もそろそろ限界に近付いている。エルジェーベトの存在に怯え、自身が為したことと為さなかったことに怯えるのは、あまりにも辛い。彼女はこれまで何もしなかったけれど――その代償を受けるのは、彼女自身でなければならないのだ。だから、監視の目がない間に、彼女なりに決着をつけることができたなら。帰る夫と――シャスティエを迎える時に、恥じ入ることなく顔を上げていられたら。そのために行動するとしたら、今しかないのだ。
物語の区切りが良いところまで読み上げたところで、ウィルヘルミナは絵本を閉じた。娘にだけは強張った顔を見せまいと決めているから、優しい笑顔を作って語りかける。
「――マリカ。ラヨシュと遊んでいらっしゃいな。外の風に当たった方が良いでしょう」
「え? お母様は?」
外、と聞いてマリカはぱっと微笑んだが、すぐに不安そうな顔になった。犬のアルニェクの一件は、娘の心にまだ暗い影を落としている。犬を殺した犯人が知れないままの状況で、娘なりに母を案じて傍にいなければいけないと思ってくれているらしい。
「お母様は大丈夫。エルジーが……、いるから。さあ、暖かくして。狐の襟巻を忘れないで」
「そうですわ、マリカ様。母君様は私が必ずお守りしますから。息子に、護衛を命じてやってくださいませ」
ウィルヘルミナがちらりと目を向けると、エルジェーベトは声を弾ませてマリカに言い聞かせた。ふたりきりで話がしたい、という含みを察してくれたのだろう。声が明らかに一段高くなったことから、何か期待させてしまっているのだと分かる。
――エルジー……。どうして、そんなに……?
そんなに――何なのか、はっきりと言葉を当て嵌めることはできなかったけれど。とりあえずはエルジェーベトの援護を幸いと、ウィルヘルミナは再び娘に微笑みかけた。
「ね、大丈夫だから」
「うん……。ラヨシュ、行こ」
「はい、マリカ様」
ラヨシュは母と王妃、それに王女の言葉には常に従順だ。だからこの時も少年は大人しく頷くと、マリカの後について部屋を退出していった。
「――マリカ様。私に、何の御用でしょうか」
ウィルヘルミナは更に控えていた召使たちにも退出を命じた。そして部屋にふたりきりになるなり、エルジェーベトは蕩けるような優しい声でウィルヘルミナの足元に跪く。猫が喉を鳴らしながら膝に乗ってくるような、いっそ甘えるような態度――でも、同じ調子で応じることはできなかった。
「……その呼び方は止めてと言ったでしょう」
最初に頼んでいたことなのに、エルジェーベトはこれも分かってくれていない。婚家名で呼ばないことは、結婚を認めないということだ。夫の妻ではないと扱われてウィルヘルミナが嬉しいはずはないと、どうして分かってくれないのだろう。
「でも、ここには誰もおりませんのに」
エルジェーベトの答えには、不満と不審が同時に滲んでいた。確かに彼女にマリカと呼ばれていた頃は、本当の姉妹のように親しく近しく過ごしていた。友人が結婚して名前を変えるのは寂しいもの、ウィルヘルミナはそれも知っている。元の名前ではなく婚家名を呼ぶのはどこかよそよそしく、それまでの交際を否定するかのように思えてしまうこことも。――でも、過去は過去。やはり帰ることができない遠い昔のことなのだ。
「人に聞かれるからではないわ。私はウィルヘルミナ。ファルカス様の妻のウィルヘルミナ。もうお父様の娘じゃないの」
「マリカ様……?」
怪訝そうに首を傾げながら、エルジェーベトはまたウィルヘルミナの前の名を呼んだ。やはり、何を言おうとまともに取り合ってはくれないのかもしれない。子供のころから姉のように導いてくれた幼馴染でもあるし、ウィルヘルミナは子供のようなもの。聞き分けのない子供の我が儘に、根気よく付き合っているような気分なのかも。
何を言っても伝わらない――虚しい独り言にしかならない恐れに絶望しつつ、ウィルヘルミナは乳姉妹の心を動かす言葉を探そうとした。
「エルジー。エルジェーベト。貴女は私の大切な――大好きな人よ。今でも」
「とても嬉しいお言葉ですわ。私もマリカ様を心からお慕いしております」
今でも――ウィルヘルミナへの侮りに気付き、父やエルジェーベトの罪を知った今でも、なお。思慕が残っていればこそ、自ら断ち切ることが辛い。でも、彼女はもう選んでしまった。夫の妻であり続けるためには、父の娘でいることはできないのだ。
「だから……お願いを聞いて欲しいの」
「まあ、願いと言わず命じてくださいませ。マリカ様――あ、ウィルヘルミナ様のお言葉なら何でも、喜んで従いますわ」
付け足すように呼び直したのは、それでウィルヘルミナの機嫌を取ったつもりなのだろうか。婚家名を呼ぶように乞うた彼女の言葉は、またも軽く受け止められている。それに、エルジェーベトは今度の願い事には決して喜ばないだろう。だからウィルヘルミナはエルジェーベトが笑顔と共に差し伸べた手を振り払った。
「……ラヨシュと一緒に王宮を出て。私やお父様には関わらないで。貴女は――罪を犯したのでしょう。お父様が命じたのだとは分かっているけど! 私のためだというのも! だから、貴女が殺されてしまうなんてひどすぎる……でも、何もないというのはおかしいわ。だから、シャスティエ様たちに謝ることなんてできないけど、罪を悔いて生きて。悔いて……欲しいの。そうすれば、貴女に生きいて欲しいと思えるから。だから――」
考え抜いたはずの言葉は支離滅裂で全く筋道が立っていなかった。ウィルヘルミナにはシャスティエのように堂々と語ることができないのだ。それに、エルジェーベトを傷つけてしまっていないかも気に懸かる。かつて深夜の庭園で密かに会った時に告げたこととほとんど変わりはないけれど、あの時もまともに聞いてもらえなかったから、もっと強い拒絶の言葉を選んでしまった。
――関わらないで、なんて……。
しかも、突き放すために選んだだけでなく、本心から関わって欲しくないのだから本当に酷い。でも、エルジェーベトがしたことも、それがウィルヘルミナのためだというのも恐ろしすぎる。主のためという理由で大切な人が罪を重ねてしまうなら、いっそ離れてくれた方がずっと良い。
「エルジー……お願い……」
これまで何度、ウィルヘルミナは無邪気に願い事を口にしていたことだろう。衣装も宝石も珍しい菓子も、彼女が望んで手に入らないものは何もなかった。夫でさえ、そうだった。恋した相手と何の障害もなく結ばれることができた――そう、長らく信じてきた。実際には、彼女が考えなしに望んだことが国の未来を動かし、多くの人を傷つけていたのに。
今彼女が願うのは、でも、今と先を見据えてのこと。初めて自分のためではなく、与えらえるもののためではなく。彼女にできる最善を考え抜いて、その上で懇願しているのだ。
甘やかされ守られるばかりで何もせず何も考えてこなかったウィルヘルミナが、初めて自らの足で進もうとしているのだ。そのことの意味を――どれほど少ない見込みであっても――エルジェーベトに分かって欲しかった。歩くことを覚えた子供に対してするように、手を離して欲しかった。
魂からの祈りを込めて、ウィルヘルミナはエルジェーベトの顔を見つめた。驚きのあまりか怒りのあまりか、笑顔の形を保ったまま凍り付いてしまった顔を。