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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
20. それぞれの戦い
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王の不在の間に アンドラーシ

 アンドラーシが両脇を支えて高く掲げると、フェリツィア王女は手足をばたつかせて喜んだ。高い笑い声が明るく弾け、彼の方へ伸ばした小さな指も可愛らしい。抱き上げた時の重さ力強さからしても、両親の不在にも関わらず王女は健やかに成長しているようだった。


「あー、あーんっ!」

「俺の名を呼んでくださっているのかな? もう覚えてくださったとは嬉しい限り」


 王女の要求と思しき声に従って腕を下ろすと、満足そうな顔で彼の服をしっかりと掴んで離さない。妻の実家に匿われているのを何度か見舞っただけなのだが、どうやらお気に入りに加えてもらうことができたらしい。


「王女殿下と遊んで差し上げるのは、普段は女ばかりですからね……高いところが楽しいのでしょう」


 赤子のはしゃぎように目を細める義弟も、日頃から傍近くについているはずなのだが。片腕ゆえに王女を抱きかかえることを遠慮でもしているのだろうか。取り返しのつかない傷を抱えた後も、腐らず鍛錬を欠かしていないカーロイのことだ、赤子ひとりの重さを支えるくらい何でもないことだろうに。やはり畏れ多いという思いが先に立ってしまうのかもしれない。

 少し遠慮が過ぎるのではないか、とも思うのだが――だが、片腕を喪う苦しみは彼にはいまだに完全には理解できない。迂闊なことを言って義弟を傷つけるかもしれない代わりに、だから、アンドラーシは冗談めかして笑ってみせた。


「陛下やクリャースタ様がお戻りになるまでにしっかりと懐いていただいておこう」

「そうですね。陛下に我が家を売り込んでいただかなくては」


 いつものカーロイならば不敬だと眉を顰めかねない軽口だったが、今は義弟も笑ってくれた。ここで苦言を呈すことで彼の言葉――王と側妃が無事に王女と再会すること――を翳らせるよりも、主君は当たり前に凱旋するのだということにしていた方が心を強く持てるからだろう。




 シャルバールの雪辱を果たすべく、狡猾な摂政王妃に報復すべく。王に従った諸侯の士気は高かった。あの内乱ではあらゆる陣営が甚大な被害を被り、しかも首謀者たるティグリスはすっきりとした顔であっさりと死を受け入れた。行き場がないと思っていた怒りと憎しみをぶつける先が見つかったのだ、王への忠誠を度外視しても遠征に参加した者が多かったのは当然だ。

 だが、ブレンクラーレの奥深く、鷲の巣城を目指して斬り込むとなれば、士気の高さだけでどうにかなるものではない。イシュテンがブレンクラーレの土地や富を狙って攻めたことは歴史の上では何度もあるが、あくまでも拠点はイシュテンの側にあるもので、敵国の奥深くまでの侵攻を企んだことは例がない。歴代の王の野心と関心とは、いかに国境を押し広げるか、どれだけの城や街、そしてそれに付随する民を奪うかに向けられていた。そして対するブレンクラーレの王たちは、いかにそれを防ぐかに頭を悩ませたものだという。


 イシュテンは嵐のように襲う、と。外の国では言うこともあるらしい。イシュテンの騎馬の猛攻を喩えたものであると同時に、耐えていればいずれは去る、という含みもあるのだろう。事実、当代の王がミリアールトを併合するまで、イシュテンは他国を恒久的に支配することにあまり興味を持ってこなかった。強い王が現れて他国を悩ませたとしても、内紛が起きやすい国風ゆえに、内が乱れればやがて去る――シャルバールの元の逸話に登場するブレンクラーレの王のように、元凶を絶とうとイシュテンへ攻め込んだ例も決して少なくはないのだが、イシュテンの来襲にあっては嵐が過ぎ去るのを待つように息を潜めてやり過ごすもの、という認識も広く共有されているのだ。


 ――だが、王都にまで戦火が及べばまた話が変わって来るだろうな……。


 ブレンクラーレは歴史も文化も富も兼ね備えた大国だ。それが国の中枢を()とされたとなれば国の沽券にも関わる。そもそも王都に――クリャースタ妃が囚われていると思しき場所まで辿り着くには、各地の領主や城塞を退けながら進まなければならないし。真冬の季節、それも早さを重視するために兵站を限りなく薄く、兵糧も最低限で臨んだ遠征だ。旅立った者のうちどれだけが無事に帰るのか――考えても仕方ないことと分かってはいても、寒風が胸に忍び寄るのを完全に防ぐのは難しかった。


「ブレンクラーレからの報せはございましたか……? あちらでは、どのように……?」


 妻のグルーシャが、心配そうな顔で手を伸ばしながら尋ねてくる。王女はそろそろ午睡の時間なのだそうだ。つぶらな瞳を輝かせてはしゃぐ様子から、素直に眠ってくれるかは非常に疑わしかったが、アンドラーシは赤子を揺すりながら妻の腕に返した。


 ――赤子などうるさいだけだと思っていたのだがな。


 両親の容姿が優れているのもあるのだろうが、フェリツィア王女は彼の考えを変えさせるほど愛らしく、手放すのが惜しいとさえ思ってしまう。娘の成長を間近に見ることができない王とクリャースタ妃を気の毒に思うと同時に、彼自身にも子ができたら、と。赤子を抱く妻の姿に今は遠い未来のことを思い描く。それもまた、全てが無事に済んでからのことになるのだろうが。


「今のところは順調とのことだ。陛下の勢いを止められる砦も城壁もなく、ブレンクラーレの街や村の豊かさは、一軍を養って余りあるとか」

「そうですか……」


 戦場から遠く離れた地でのこと、しかも赤子と向き合う日々では世間から切り離されたように感じるのだろうか。彼の言葉を聞いてグルーシャは目に見えて表情を緩ませた。だが、心からの安堵にはもちろんのこと程遠い。口先だけの気休めを信じ込むほど、彼の妻は愚かではないのだ。


 ――王妃などとは違うところだな。


 王宮の奥に引きこもって、夫の帰りを待つ女の姿が頭を過ぎり――だが、すぐに振り払う。王は出立にあたって王妃の警備を改めてアンドラーシに命じている。主君の命に従うためにも、あの女への個人的な感情は抑えた方が良いだろう。

 それに――彼は以前も今も王妃のことを愚かだと思っているが、正直に言って前ほどの苛立ちや嫌悪はなくなった、かもしれない。クリャースタ妃ではなく王妃の傍に仕えることを命じられた当初こそ不服にも思ったが、というかその思いは変わっていないが、近くで見ていればあの女なりに思うところがあるのはさすがに分かる。

 王は多くを語らなかったが、リカードがブレンクラーレと組んでいる疑いも漏らしたのかもしれない。王妃は明らかに塞ぎ込んでいる様子だった。

 とはいえ、それもまた今考えても仕方のないこと。アンドラーシは表情を改めると妻と義弟を交互に見た。


「バラージュ家の伝手を頼りにしたい。ブレンクラーレでさえも陛下を押しとどめることはできないと。陛下は必ずイシュテンに戻る――だから、リカードなどに惑わされるな、と」


 今日彼が妻の実家を見舞ったのは、王女と戯れるためや妻の顔を見るためだけではない。無論、心を安定させ疲れを癒すためには重要なことではあったのだが。かつてならばまだしも、今の彼が気に懸けるべきは王や自身や身内ばかりの狭い範囲では済まなくなっている。


「はい。不安に思っている者も多いでしょうから、良い知らせが必要でしょう」

「私も。女たちの集まりで広めてもらうようにいたします」


 カーロイとグルーシャが口々に頷くのも、事態をよく承知しているからこそだ。


 王が明かしたこと――ティグリスの乱の裏でブレンクラーレのアンネミーケ王妃が糸を引いていたという事実は、イシュテンの士気を高め、遠征に向けて国が――非常に珍しく――団結する結果を呼んだ。だが、それは王が帰るまで何の心配もないということでは決してない。どうせリカードはこの隙を利用しようと暗躍しているのだろう。


 物騒な話から赤子を遠ざけようと、フェリツィア王女を抱いたグルーシャはいったん退出した。義弟とふたり、取り残されたアンドラーシは、妻の帰りを待つ間を繋ぐために口を開く。


「リカードの動きは見えるか? どうせあちこちに誘いを伸ばしているのだろうが……」

「でしょうね。ですが少なくとも私には情報が入らないように手を回しているようです。完全に陛下についたと見なされているようですから」


 問われたカーロイは軽く肩を竦めながら答えた。腕のない右肩の方が軽いのだろう、わずかに高く上がったようだった。傷を負った当初は、欠けてしまった身体を恥じて人目を憚るような気配さえあったこの若者だが、今は開き直ったように中身のない袖を翻して堂々と振る舞っている。姉であるグルーシャには喜ばしいことだろうし、義兄として、共に王に仕える者として、アンドラーシにとっても頼もしいことだ。


「それもそうか……」

「誰が誰を訪ねたという噂くらいは分かるのですが。背後にリカードがいるかどうかまでは、断言できないかと思います」


 バラージュ家はイシュテンでも最も古い家柄のひとつだ。それだけの時を生き残るだけの武勇を誇るのはもちろん、同時に機を見る目に長けていたということでもある。ここ数代、バラージュ家はティゼンハロム侯爵家に庇護を求めることで生き永らえてきた。そうして培ってきた人脈ゆえに、リカードの動向を探れるのではないかと思ったが、そう上手くはいかないということらしい。


「そこはさすがに人目を憚る程度の遠慮はあるということか。まあ、あからさまに悪事を企んだとして、陛下がおられないのでは罰することも難しいが」


 よほどの動かぬ証拠がなければ、大抵の者は反逆の疑いをかけられた段階で怒る――あるいは怒る振りをするだろう。アンドラーシは王から王妃の警護を命じられたが、国としてのイシュテンを任せられたのはリカードだ。無論、王の留守中に変事があればあの男の責にできるという牽制の意味もあるのだろうが。王でさえ抑えることのできない規模の諸侯を味方につけたとリカードが確信したら、なりふり構わず挙兵することもないとはいえない。


「はい。陛下がお戻りになった時、逆賊が蔓延(はびこ)っていたのでは申し訳が立ちませんから。なるべくおかしな動きは抑えておきたいものですが」

「まったくだ」


 そのためにこそ、アンドラーシはブレンクラーレでの戦況の情報を広めようとしているのだ。イシュテンは強い王に従うもの。今の王が従うに足る君主として認められれば、リカードが暗躍する余地などなくなるはず。それにはブレンクラーレを破ったとの報せが一番のはずなのだが、まだそれは届いていない。せめて、道半ばのものであっても戦果を喧伝することで、日和見の者どもの帰趨を決めることができれば良い。


「微力ながら、繋がりのある家へは伝えておきましょう。――腕がない者でも口を利くことはことはできるのだと、最近では皆慣れてくれたようですし」

「よろしく頼む」


 不具を冗談めかして言われることに、それをさらりと流すことに、アンドラーシの方はまだ慣れていなかった。だがこれもカーロイなりの技なのだろう、と思う。敢えて相手が触れにくいところに触れることで、相手の口を封じて自分の言いたいことを言う、という。それでも恐らくは内心で痛みを感じていないはずはない。義兄としては何も気にしていないように振る舞うのが良いだろう。


 と、そこへ扉が開き、王女を寝かしつけたらしいグルーシャが戻って来た。夫と弟の表情から大体の話題の流れを悟ったのだろう、男ふたりへ向けて頼もしくにこりと微笑んでくる。


「女の方は私にお任せくださいね。父や夫や兄弟――身内がブレンクラーレにいる者も多いですもの。陛下がしっかり導いてくださると、頼みにして良いのだと思わせるようにいたしましょう」

「女の力というのも侮れないものだな……結婚して初めて分かったが」

「そうでしょう」


 グルーシャの笑顔はあくまでも穏やかで優しげなもの。だが、だからこそ夫が聞き入れやすいように言葉を選んで――ある意味で――操られているという自覚はある。それだけの思慮のある女だと信じているからこそだし、全ての女がそうだとは思えないが、だが、当主が戦いで留守の間、屋敷を預かるのは確かに妻や母たちなのだ。女の方からの手回しも、きっと重要なのだろう。グルーシャやクリャースタ妃を見て、アンドラーシもさすがに考えを変え始めていた。


「女の、といえば――」

「何だ」


 ふと、グルーシャが言葉を濁したので、アンドラーシは先を促した。こうすることで言いづらいことなのだと心構えをさせておく、これも妻の手管の一環だ。


「女で、私などよりもずっとお力がある方がいらっしゃいます。その方から陛下の勝利を伝えていただければ、きっともっと効果があると思うのですが」


 事実、彼の目を見て進言する妻の口調に淀みはなく、必ず伝える心づもりだったのだと分かる。だが、誰のことなのかを察しつつ、妻の言葉の正しさを認めつつ、アンドラーシは手放しで賛同することはできなかった。


「王妃……様、か。だが、あの方は――」

「はい。確かにお父君様のことはありますけれど。でも、あの方も陛下をお慕いしていらっしゃるようですし。ティゼンハロム侯爵から引き離されて、王宮に閉じ込められるようにしても不満はお持ちではないそうですから――」


 だから、味方につけられるのではないか。


 そう仄めかされて、王妃の姿を思い浮かべて。そうかもしれない、と思わないでもない。だが、それでもリカードの娘を信じ切ることは難しい、とアンドラーシは結論づけた。何より――


「いや、あの方には無理だろう。女だろうとリカードの閥の者に囲まれたら、言い包められるに決まっている」

「そうでしょうか……」


 グルーシャは首を傾げたが強くは否定せず、王妃を直接は知らないカーロイも口を挟まなかった。だからアンドラーシは姉弟を納得させようともう一度はっきりと断言した。


「世の中のことは何も知らないような方だ。それに、立場に相応しくないほど優し過ぎる。父親を裏切れと他の者に勧めるようなことはできないだろうよ」


 王妃が王を愛しているのは、多分間違ってはいない。アンドラーシもそこは認めても良いと思っている。だが、だからといってあの女には何かしらを行動に移すことはできないだろう。夫を愛しながら父を見捨てることができない弱さこそが、彼の気に入らないのだ。


「あの方については、リカードの元に逃げようとしないだけで良しとすべきだと思う。少なくとも人質の役割にはなるだろうからな」


 人質。最初は人質として王宮に囚われていたクリャースタ妃と王妃の立場が逆転するとは皮肉なものだが。

 とにかく、王の不在の間、王妃の力を借りるような必要は一切ないと、アンドラーシは信じていた。

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