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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
20. それぞれの戦い
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内なる敵 アンネミーケ

 アンネミーケは、執務室に続々と寄せられる報告に頭を抱えていた。


「――以上の農村が畑のほとんどを焼かれたとのこと。領主は税の軽減を求めております」

「来年の税は課さぬ。次の収穫のために種籾(たねもみ)などが必要ならば貸し付ける。当面、住まいを失った民がいるならば食料や衣服を届けてやれ。こちらは王家の名で施して王の慈悲深さを見せるように」

「ヒルシェンバイン要塞が陥落しました。次のシュタインクリフ城までイシュテン軍を止められる場所がございません」


 ――負けた報告は一々せずとも良いというに……!


 危うく舌打ちしそうになるのを、辛うじて堪える。イシュテンの侵攻に際して、あらゆることを報告せよとは彼女自身が命じたことだ。どれほど不快な報告であっても、耳に入れないことには判断を下すこともできないし。それに、ただ事実を述べるだけではなく、対応案や要求についてそれなりに纏めてから奏上する程度にはブレンクラーレの官吏は優秀だ。急に、そして倍どころではない増加を見せた仕事量に耐えているのは、彼女だけではないはずなのだ。


 だから、新しい報告に黙れと言いたくなってしまうのは、子供の癇癪のような幼稚で無為な衝動に過ぎない。自分でも、そうと分かっているのだが――情報のあまりの多さと面倒さに、彼女の忍耐も徐々に底を突きつつあるようだった。


「――ならばシュタインクリフで迎え討つことができるように集められるだけの兵を集めよ。同時に、王都の守りも固めるよう、資材の手配を進めるのだ」

「はっ」


 イシュテン軍の脚は、思っていたよりも遥かに(はや)かった。イシュテンが積極的に外国を攻めていた時代は遠く、ブレンクラーレが直接被害を被った記憶は既にかなり古いもの。まして王都が狙われたことなど歴史の上でもあったかどうか。未曾有とも言える危機に、冷徹を自認するアンネミーケといえど焦りから逃れられていないのかもしれない。


 しかも、彼女が対峙すべきは外敵ばかりではないからうんざりさせられる。


「陛下。謁見の申し込みが何件か入っておりますが――」

「断れ。(わたし)は忙しい」


 無論、忙しいのは嘘ではない。イシュテン軍が増やしてくれた仕事の数々は、アンネミーケから寝食の時間すら奪いつつある。日頃から頼りにしている官吏の他、イシュテンに踏み躙られた地域の領主や役人たちも彼女と同じく慌ただしい日々を過ごしているだろうが、最終的な決断を下すのは、その責を負うのはアンネミーケしかいないのだから。


 だが、謁見を許さない理由はまた別のところにある。彼女の多忙さを承知した上でわざわざ直接話したがる者どもの用件は分かり切っている。否、用件は、というよりは本心は、とでも言った方が良いだろうか。イシュテンの脅威を間近に見ながら、それを目障りな王妃を引きずり下ろす好機としか見ていない者どもがいるのだ。


 (はな)から難癖をつけようとする者と話をするだけ時間の無駄、だからここ数日は来客の名を聞くことなく断ることにしている。どうせ本当に重要な用件なら自然と彼女の耳に入るだろう。ただでさえ不快な出来事が多い中、とりわけ不快な獅子身中の虫どもなど目に入れないに越したことはない。だから書面から顔を上げることもなく短く命じて、それで終わったはずだったのだが――


「いいえ、陛下。今日こそは確かなお言葉を頂戴しなくては」

「下がれ。そなたらとは会わぬと伝えさせたはず。国の大事に妾を煩わせるな」


 立ち塞がろうとする侍従を押しのけて入室してきた人影を見て、アンネミーケの声は尖る。謁見の申し出を聞いて予感した通りの男――かねてから彼女が国政を握るのを快く思わず、マクシミリアンに実権を譲るように主張している者だった。


 ――そのようなこと、できるものか……!


 少なくとも、イシュテンの脅威を退け、かの国の力を弱めてからでなくては。ミリアールトの姫の美貌を知って、案の定何かと口実を設けては訪問しようとしている愚息だ。敵の剣先が迫るこの状況で、矢面に立たせるなどとんでもない。


「大事なればこそ。()()を晴らさなくては兵や民の士気にも関わりましょう。故郷を焼かれた者たちが、はるばる王都までやって来ているのですぞ!?」


 アンネミーケが露骨に顔を顰めて見せても、相手の勢いは減じなかった。得意げな顔で示した背後に控える、不安げな表情をした貧相な男たちこそ、その理由だろう。王宮には似合わぬ日に焼けた痩せた顔に、擦り切れた服。これでも村や街の代表を務める者たちだというから、後に残してきた大方の農民よりは遥かにましな風采をしているのだろうが。

 彼らは既にアンネミーケに謁見を求めて断られている。多忙な王妃の耳を煩わせ、国を損ないかねない流言を述べたとして、叱責さえされて。特別に罪には問わずにいてやると言い聞かせさせたというのに、まだ諦めていなかったのか。


「……そなたらまでもが敵の策に乗せられているようだな。何と嘆かわしいこと」


 政敵である高位の男の視線よりも、名前の知らない民の目の方がアンネミーケには痛かった。慣れない豪奢な王宮に怖気づいて身を寄せ合うようにして――それでも彼らは、彼らの王妃のことを疑いの目で見ていた。王妃同様に、恐怖にも似た畏敬の対象であろう大貴族を頼るほどに、彼らは彼女に訊きたいことがあったのだ。


 イシュテン王がブレンクラーレを攻めたのは、王妃の陰謀に対する報復というのは本当か、と。


「無論、イシュテンの獣どもが策らしきものを巡らせたとして、臣が惑わされることはございません。ですが、愚かな民を安心させてやるためにも、陛下のお言葉をいただきたいと――この者たちの受難を憐れみ、勇気に報いてやってくださいますよう……!」


 ――心にもないことを。体良く妾を陥れる口実ができたと喜んでいるのだろうに……!


 白々しい言葉に、アンネミーケの腸は煮えくり返る。だが、怒りはもっとも見せてはならない感情だ。痛いところを突かれたと思わせてはならない。王妃が卑劣な陰謀を企んで、それによって外国の恨みを買ったなどと、その結果として民に災いをもたらしたなどと、決して信じさせてはならないのだ。


 イシュテン軍はブレンクラーレを蹂躙しつつある。戦馬の群れの蹄が通る道にあるもの全てを踏み砕くのはもちろんのこと、周辺の農村までもことごとく収穫を奪われ畑は燃やされ略奪の限りを尽くされているとか。それは、兵站を維持する手間を最小限に抑えて現地調達で済ませるのが第一の目的なのだろうし、民に被害を広げることで――今まさにアンネミーケが忙殺されているように! ――補償の対応のためにこちらの動きが鈍くなることを狙ってもいるのだろう。

 だが、イシュテン王は野蛮で非道な行いに、三つめの理由をつけた。しかもそれをわざわざブレンクラーレ語に翻訳して、逃げる民たちに伝えたという。


「ティグリス王子の乱への加担……側妃の誘拐……そのいずれも、妾が陰で糸を引いていたと広めているとか……」


 いかにも心にもない嫌疑を受けて憤っているように見えるよう、アンネミーケは元から低い声を一層低めた。何もかも思い通りにならなくて苛立たしくてならない。イシュテンの動きも、助けてやったはずなのに生意気な姫君も、彼女自身の民や臣下でさえ。


 だが、苛立ちにも増してアンネミーケの心を乱すのは、なぜ、という疑問だった。


 一体なぜ、どのようにしてイシュテン王はアンネミーケの企みを把握したのか。諸侯の不満を逸らす言い訳だと考えるには、民に伝えられたという話はあまりにも彼女が数年にわたって謀ってきたことと一致している。国のため、未来の王となる息子のためには必要なことと恥じてはいないが、公に知られた場合にそうは思わない者が多いであろうことも承知している。ただでさえ卑劣と謗られかねない行いが、イシュテンの侵攻を招いたと信じられたら彼女の失脚に繋がりかねない。


 ――ここで、対応を誤ってはならぬ……。民の目の前で、疑いを強めさせてはならぬ……。


 椅子に掛けたままでは押しかけてきた男に見下ろされる格好になる。それを嫌って、アンネミーケはゆっくりと立ち上がった。正式な謁見の場であれば彼女は上段に立つことができるのに。執務室にいる時を狙ったのは、このような立ち位置も利用するつもりだったに違いない。


「敵の言葉に惑わされるな。戦馬の蹄の音が迫る時に、どうしてそなたたちの王妃を疑うのか。ブレンクラーレの結束を乱すことこそ、イシュテン王の目的であろうに」


 背筋を伸ばして招かれざる客どもを見据える。女としてはアンネミーケは長身の方だ。貴族の男に身長で勝ることはさすがにできなかったが、痩せた農夫たちは明らかに彼女の目線に怯んで面を伏せた。わざわざ王宮まで押しかけて来た割に、面と向かってはひと言も発することもできないとは。イシュテン王の扇動に乗せられたものの、自国の王妃を正面から糾弾する勇気は持てないらしい。


 ――この者たちも、哀れではあるのだが。


 畑や家財、もしかしたら親しい者の命も失ったのかもしれない。それを奪った者を憎もうにもイシュテンの軍は力の及ぶ相手ではない。だからまだ訴える手段があるアンネミーケに、儘ならない思いをぶつけようとしたのだろうか。民が愚かなのは仕方のないこと――だが、その愚かさを利用し煽る者がいるのは見過ごせない。


「現に今、この鷲の巣城(アードラースホルスト)には麗しい客人がいらっしゃるとか。無論、イシュテン王が言うような乱暴な手段でここに至ったということではないのでしょうが」

「当然だ」


 民を惑わし、王妃を脅すような情報を漏らす男のことを、アンネミーケは鋭く睨む。はっきりとは言わずとも、確かにイシュテン王の妃はここにいるのだと農夫たちにも分かったらしく、彼女に向けられる視線にまた疑いの色が濃くなった。


「――姫君を()()()()()のはミリアールトの者だ。かの国は今イシュテンに支配されているがゆえに、我が国を頼られたというだけのこと。イシュテン王は、みすみす妃を奪われた失態を取り繕おうとしているに違いない。それで妾を貶めようとは、戦馬の神には相応しからぬ情けない男ではないか……!?」


 あくまでも、姫君は攫われたのではなく救出されたのだ、とアンネミーケは強調した。農夫たちにも分かりやすいように、妻に逃げられた男という印象をイシュテン王に押し付けながら。だが、同時に夫が救出のために挙兵したと聞いた時の、あの姫君の美しい笑顔が脳裏を過ぎって、苛立ちに神経が灼けそうになる。


「姫君からも、そのように伺うことができれば良いのですが。下々に語りかけていただく、などとは無礼でしょうが。せめて、我らにお言葉をいただけると――王妃陛下から約していただくことはできませぬか……?」


 ――それができれば苦労しない……!


 男がしたり顔で進言したのは、かつてアンネミーケも頭の隅に考えていたことだった。だが、だからこそ一層腹が立つ。美しい姫君が、涙ながらに助けてもらった礼を述べて、祖国を救って欲しいと訴えれば――そうすれば、ブレンクラーレの宮廷はこぞってミリアールトを憐れむだろう、姫君が鷲の巣城に至った経緯を怪しむ者がいたとしても、声高に批判することはできないだろう、と。今になってみれば、あの姫君の気性を知らないからこそ見ることができた、甘い夢に過ぎなかった。


「姫君は懐妊中でいらっしゃる。大事な時に煩わしてはお気の毒というもの」


 初対面にも関わらず、囚われの身をも顧みず、半ば脅すように我が子の庇護を強請り取った小娘のことをなぜ庇わなければならないのか、と思い――すぐに否、と心中で首を振る。これは、姫君のためなどではなく彼女自身の保身のためだ。あの姫君を人前に出したりなどしたら、声高にアンネミーケを責めるに決まっている。ティグリス王子のことは知らないとしても、間者たちやレフ公子から聞いた襲撃の顛末だけでも、アンネミーケの声望を地に落とすには十分だろう。


 ――何としてもイシュテンを破らねば。そうすれば、どのようにも言い繕うことができる……!


 姫君の強気は、まだ救出の望みを持っているからだろう。ならばその望みを砕かねば。信頼する夫とやらが敗れて討ち取られる様を見せつけねば。祖国や御子の安全をアンネミーケに頼るほかないと悟れば、自ずと賢明なふるまいをするようになるだろう。


 だから、今この時だけをしのぐことができれば良い。


「懐妊……」


 農夫のひとりが小さく呟いて、初めてアンネミーケに声を聞かせた。しわがれた声に滲むのは、めでたい単語には似つかわしくない――嫌悪。恐らくは彼らから多くを奪ったイシュテン王の血を引く子と思えばこその悪感情なのだろうか。だが、アンネミーケはあえて気付かない振りで微笑みを作って見せた。彼女が滅多に人前で笑わないのを知る貴族の男は少したじろいだように見えたが、民が厳しい王妃が珍しく見せた優しさと思ってくれれば良い。


「そう、母の思いとは強いもの。仇の子であっても、我が子への情があの方を支えているようだ。そしてこの妾も同じこと。息子の――マクシミリアンのためと思えばこそ辛い政務にも耐えることができるというに。どうして息子が継ぐべき国を損ねるようなことをするだろうか?」


 このように情に訴えかける物言いは、本来はアンネミーケが嫌うものなのだが。だが、感情で疑って来る者を納得させるには――少なくとも、矛を収めさせるためには――理屈では難しいものなのだろう。アンネミーケが陰謀に加担して()()()という証拠はない。何しろイシュテン王の流言は実際には真実なのだから。


 だから、マクシミリアンを盾に使わせてもらう。王妃の専横には眉を顰める者どもも、正当なる王太子の前には沈黙せざるを得ないから。子を思う母の想いを否定するのは難しいから。母のために名を使われるのを、あの息子も嫌がりはすまい。


「……それはそれとして、イシュテン軍への対策は必要かと存じます。恐れながら、さすがの王妃陛下も戦には明るくなくていらっしゃる。広く臣下から知恵を集めることも必要かと存じますが」


 事実、勢いよく乗り込んで来た男もマクシミリアンの名には引き下がる様子を見せた。今度は相手の方が白々しい、と思っているに違いないが。だが、男の背後の農夫たちは取りあえず安堵したような表情を見せているから良しとする。自身が戴く王の妃のことだ、証拠はなくとも慈悲深い賢母と信じられるならこの者たちにとってもその方が幸せというものだろう。


「そうだな。近くそなたらの意見を募る場を設けよう」


 この場は、アンネミーケにやや有利な形で収まった。だが、これで追及が終わるはずもあるまい。民に糾弾させる手段()は諦めたとしても、イシュテンによる被害をどうにかアンネミーケのせいだということにしたがる者は多いだろう。


 イシュテンと剣を交える前に、アンネミーケは自国の者とも対峙しなければならないのだ。


 ――まったく忌々しいこと……!


 マクシミリアンと――それに、姫君の代わりにあの美貌の公子にも。どのように振る舞い言葉の剣を振るうのか、よくよく話し合っておかなければならないだろう。

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