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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
4. 戦馬の掟
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不遇の王子 シャスティエ

 シャスティエは、扉越しに王と侍従らしい者のやり取りを聞いた。


「人払いを命じたはずだ。何事だ」

「申し訳もございません、陛下。ですが――」


 彼女が押し込まれた部屋はカーテンが閉ざされていて薄暗く、目が慣れるのにしばらくかかった。そして目に入ったのが寝台だったので、彼女は思わず悲鳴をあげかけた。

 両手で口を塞ぎ、飛び上がった心臓を宥め、暗さに慣れた目でよく見れば、こちら側の部屋は執務室よりも随分狭く、家具はほぼ寝台と椅子と卓だけだった。父の執務室の記憶と照らし合わせればすぐにわかった。政務が遅くまでかかった時や深夜に緊急の報告を受ける時などに、休息を取るための部屋だろう。


 ――王だって仮眠を取ることくらいあるわ。人目を避けるために閉じ込められただけ、変な意味なんかない……。


 側妃云々の話を聞いたからといって意識しすぎだと、乱れた呼吸と鼓動を整えながら自身を戒める。王が彼女におかしな気を起こすはずはないのに。

 だからといって、男たちの無配慮を許すことはできるかどうかは別だったけど。若い乙女に男の私的な空間を見せるな、と。声を大にして言いたかった。

 室内の様子を凝視するのも不躾なので、寝台から目を背け、扉に近づいて執務室の様子を窺う。結局、何か非常のことが起きたのかと、気になって仕方なかったのだ。


「ティグリス殿下がお目通りを求めていらっしゃいます」

「取り次ぐ必要はない。帰らせろ」

「それがどうしてもと仰って……」


 おどおどとした侍従の声に対し、王の口調は不機嫌そのもの。そしてシャスティエは首を傾げる。

 殿下、と呼ぶからには王に近しい人間のはず。アンドラーシは、王位が継げそうな者は皆殺されたかのような口振りをしていたが。

 訝る間に、もう一人何者かが入室する気配がした。何か携えているのか、引きずるような音がする。


「私が勝手に押しかけたのです。王族に対して立ち塞がるのをためらったからといって、彼らを責めないでください、兄上」


 場違いに若い――幼いとさえ言って良い声だった。何よりも王を兄と呼んだことに瞠目する。


 ――男の継承者、いるんじゃない……。


 先王の子、王の兄弟となれば立派な王位継承者だ。

 よく今まで生きていたものだ、と思う。後継者争いがあった時にはほんの子供だったであろう弟を見逃す程度には、この冷酷な王にも情があるのだろうか。しかし――


「剣も握れぬ惰弱者が王族を名乗るな。貴様に兄などと呼ばれると虫唾が走る」


 唸るような王の声に満ちているのは怒り、嫌悪、侮蔑。扉を隔てて聞いているというのに震えるほどの強い負の感情に、シャスティエは思わず身体を退いた。その声を聞くだけで、彼女の考えが甘いことを気づかせるのに十分だった。


「お目汚しをして申し訳ありません、あにう――陛下。ですが、確かにこの身は非力ではありますが、考えることはできます。陛下に申し上げたいことがあり、今日は恥を忍んで参上いたしました」

「俺が貴様の話を聞くなどと、期待できた理由がわからない。

 奏上するならそれなりの作法があるだろう。――跪け」


 しばし沈黙が降りた。

 扉越しの衣擦れの音、床から響くかすかな振動に、ティグリスと呼ばれた王子――と思われる青年――が言われた通りにしたと知る。実の弟に臣下の礼を取らせる傲岸に、シャスティエは眉を寄せた。

 それに、臣下と言えば、アンドラーシもジュラもティグリスに挨拶をする気配がない。これは、とんでもない無礼ではないのだろうか。


「まずはミリアールトにての勝利にお祝いを申し上げます」


 低い位置から下に向かって発せられる声は先ほどより聞き取りにくい。しかし、確かに聞こえた祖国の名に、一層耳をそばだてる。


「周辺の諸国には良い牽制になったでしょう。

 それに、小国とはいえ伝統と文化の誉れ高い国ですから。かの国の知識は必ずイシュテンに益をもたらすと信じております」


 ――イシュテンの王子がこんな考え方をするなんて。


 暗がりの中、シャスティエは潜めていた息をそっと吐いた。イシュテン人が戦いと政を結びつけることは普通はない、と思う。少なくとも彼女が知る歴史から想像できる範囲では。


「王女を捕らえたことも慧眼でいらっしゃいます。ミリアールトの法では女といえども継承権がある――つまりは王自身を人質に取ったことになりますから」


 そして続いた言葉には更に驚かされる。イシュテンに女の王という発想はないと、先ほど考えたばかりなのに。

 ティグリスとかいう王子の姿が見られないものかと扉を細く開けようとするが、指先が通るかどうかの隙間が開いたところで止まってしまう。アンドラーシが身をもって塞いでいるらしい。余計なところで気が回る、とシャスティエは内心で歯噛みした。とはいえ音の聞こえは少しは良くなった。


「口上は良い。結局何を言いに来たのだ?」


 弟を遮った王の声には変わらず怒りと侮蔑が満ちていた。その悪意も、よりはっきりと聞こえてくる。


「……そこまでしてミリアールトを抑えたのに、最近のなさりようがわかりません」


 罵倒され、跪かされてもなお弟王子は淡々と続けた。


「ミリアールトの総督を、ティゼンハロム家の縁者というだけの放蕩者に任せるなどと。聞けば王女を妻にしようと企んで陛下のお怒りを買った者だとか。彼女の価値をわからない者が陛下の御心を汲めるはずが――ミリアールトを治めることができるはずがない。

 かの国を抑えるには――」

「もう良い!」


 怒声と鋭く硬い音にシャスティエは身をすくませた。王が椅子を蹴立てて立ち上がったらしい。一体何がそこまで癇に触ったのか。ティグリスの言葉は至極まっとうなものだったのに。


「貴様などに俺の考えを推量されるのは不快でならぬ。戦場に立ったこともない者に何がわかる!?

 さっさと帰って母親の陰にでも隠れていろ。そして二度と俺に顔を見せるな」

「兄上……」


 あからさまな侮辱に、歳若い王子もさすがに絶句したようだった。


「恐れながら、陛下。寡妃太后(かひたいこう)陛下はただ今王宮にいらっしゃっております。先王の墓参に、しばらく滞在なさりたいと」


 口をはさんだのはティグリスを取り次いだ侍従だった。仮にも王子に対する扱いを見かねたのだろうか。

 それならば良い、と思う。王位争いに負けた者は臣下の前で見下されて当然というのがこの国の流儀なら、あまりに野蛮だ。


 ――それにしても寡妃太后(未亡人の王妃)とは聞きなれない……。普通は王太后(王の母君)様とお呼びするのではないのかしら?


「人払いを仰せつかっておりましたので、お耳に入れることができず……申し訳ございません!」


 しかし、怯え切った様子での言い訳に、考えを改める。叱責されるなら後回しにしないほうが良いと考えたのかもしれない。扉越しに声色だけで人の感情を読むのは難しい。


「ああ、貴様が一人で出歩くはずはなかったな」


 王の嘲りは大変わかりやすかったけれど。


「墓参が理由なら滞在を拒む訳にはいくまいよ。……だが、目障りな真似をしたらもう片方の脚も折ってやるから心しておけ」


 もう片方の、という言い回しにシャスティエは弟王子の事情を察した。


 ――この方……足が悪いのね。


 入室した時の音は足を引きずっていたからだったのだ。跪く際も健常の身ならばさして振動は起きないはず。歩くのもままならない程であれば、確かに戦場に立てるはずもない。


「……寛大なお言葉に感謝致します」


 再び衣擦れの音。そして王子の息をつく音が聞こえた。やはり不自由な脚ゆえか、立ち上がるのにも難儀するらしい。


「お時間をいただいてしまい申し訳ございませんでした。ご健勝を、お祈り申し上げております」


 一瞬の沈黙は、返事を待つ弟の逡巡だった。数秒の後に、諦めたのだろう王子は脚を引きずって退出していった。




 執務室への扉が開けられた。きちんと閉まりきっていなかった――盗み聞きをしていたのに気付いたのか、アンドラーシは面白そうに笑ってシャスティエの神経を逆なでた。


「閉じ込めてしまって、申し訳ありませんでしたね」

「いいえ」


 全く悪いと思っていないような口調で詫びてくる男を、シャスティエは冷たく見上げた。

 王が再び人払いを命じたために、室内には四人しかいない。またジュラに祖国の話を聞いても良いものかどうか、シャスティエは王の様子を窺った。多分表情は険しくなってしまっているだろうが、先ほどのやり取りを見た後では取り繕う気になれない。


 ――扇が欲しいわ。


 唐突に思った。地味な衣装に身をやつして忍んできたので持ってくることなど浮かばなかったのだ。嫌悪に歪んでいるであろう表情をこの男たちに晒したくない。扇があれば、優雅さを失わずに不快を表すことができるのに。

 睨まれているのに気づくと、王は少し嫌そうな顔をした。


「状況が変わった。お前はもう戻れ。

 アンドラーシは、送るついでにミーナに伝言を頼む。マリカを太后に決して近づけさせぬようにと」

「承知いたしました」

「なぜです? マリカ様にとってはお祖母様にあたる方ではないのですか」


 快諾したアンドラーシに対して、シャスティエは思わず反問してしまう。また叱責されてしまうかと――今日のこの男はいつになく不機嫌だ――目を伏せて身構えるが、王の答えは冷ややかな嘲笑に留まった。


「そんな上等なものではない。近づくなというのはお前もだ。あの狂女には関わるな」


 ――母親に対してなんて言い様!


 心中で怒りが湧き上がるが、口答えしても益はないのは今までの経験から学習している。


「……仰る通りにいたしますわ、脚を折られたくはありませんもの」


 悔し紛れの当てこすりに反応したのは、王よりも二人の側近だった。アンドラーシは非難するように眉を寄せ、ジュラは血相を変えて諌めてきた。


「口を慎まれよ。陛下は意味もなく非道な真似はなさらない」

「ええ、そうなのでしょうね」


 冷笑でもって応じると、ジュラは目を見開いて絶句した。

 彼が言うのも一応は正しいのだろう。少なくとも彼女に対しては。王は彼女の身を保証すると誓ったのだから。しかし、ジュラの言葉は裏を返せば理由があれば王は何でもするということだ。ジュラを見返すシャスティエの瞳はきっと凍っていることだろう。歴戦の武人のはずの男がたじろぐのを見て、彼女は薄く微笑んだ。


 呆れたように首を振って、今度はアンドラーシが口を挟む。


「貴女は誤解なさっている――」

「もう良い、連れて行け。

 ――言われた通りにするといったこと、忘れるなよ」


 遮った王の言葉の後半は、シャスティエに向けられたものだった。念を押されるまでもなく、王に逆らうなどできないこと、口に出したことを守らなければならないことは承知している。ただ、王の気性が受け入れられないだけだ。


「もちろんでございます。

 お時間をいただいてしまい申し訳ございませんでした。寛大なお心遣いには感謝しております」


 退出の辞をティグリス王子のそれと重ねたのも当てこすりだった。

 更に嫌そうな顔をした王と渋面のジュラを背に、シャスティエは執務室を後にした。




 改めて輝く金の髪と碧い瞳をフードの下に隠し、王宮を歩く。

 前を行くアンドラーシが気遣わしげに振り返り、こちらの様子を窺っている。


「陛下は貴女が考えているほど残酷な方ではありませんよ」

「私は今は小間使いという体のはずです。あまり丁寧な話し方をなさると人目を引いてしまいます」


 行きでは小声とは言え会話をしていたのだから無茶な言い分とはわかっている。しかし、話しかけるなという意図は十分に伝わったようだった。


「色々と事情があるのですよ」


 呟いた後、アンドラーシは賢明にも沈黙を保った。




 アンドラーシの言う事情、というのもわからない訳ではないのだ。


 イシュテンの王は必ず軍を率いる武人でなければならないという。

 つまり、戦うことのできないティグリスは、いかに血筋が正しくても王位継承者としては不適格とみなされる。だから、嘲られ蔑まれても仕方ない、のだろう。彼らの理屈では。

 異国の者である以上、シャスティエには彼らの理屈を否定することはできない。しかし、それならばミリアールト人としての感情で彼らを嫌悪するのもまた彼女の自由であるはずだ。


 そして、もう片方の脚も折ってやる、という王の言葉。ティグリスの脚が事故や生まれつきではなく、何者かの手で損なわれたことを示唆しているように思えてならない。


 ――幼い弟の脚を不具にしておいて、そのことでずっと虐げて……まともに話も聞いてあげないなんて。


 最低だ。


 あの狩りの日に助けられたことは感謝しなくてはならない。故郷の話を聞かせようとしてくれたことも。

 しかし、忘れてはならない。ファルカスは彼女の仇。彼女の敵。肉親にも容赦しない残酷な男。彼女の中でほんの僅かに上がっていた王の評価は再び地に落ちた。


 ――まともに話ができるかも、なんて。期待した私が愚かだったわ。


 (ほだ)されてたまるものか、と決意も新たに進む。

 昂然と顎を上げて歩む姿は、小間使いのそれとは程遠かっただろう。けれど、シャスティエは最早そのようなことは気にしていなかった。

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