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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
20. それぞれの戦い
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幻の婚約者 シャスティエ

 シャスティエはブレンクラーレの王太子マクシミリアン殿下と婚約するかもしれなかった。だが、イシュテンによる侵攻でミリアールトが滅びた際、ブレンクラーレは同盟国を助けるために動くことはせず、婚約の話も有耶無耶になって今に至る。とはいえ、婚姻が成った後ならまだしも、会ったこともない婚約者程度のために軍を動かすなど、当然のこととして期待できるものではない。

 イシュテンの騎馬の強さ(はや)さはシャスティエが身を持って知っている。たとえ助ける気があったところで何ができた訳でもないだろう。だから彼女はブレンクラーレがミリアールトを――ある意味で――見捨てたのを恨む気は全くなかった。ティグリス王子の手引きによって声を盗み聞く機会があったマクシミリアン王子は、軽薄で考えなしとしか思えなくて、正直に言ってさほど魅力を感じられなかったこともあるし。


 とはいえ、図らずも鷲の巣城(アードラースホルスト)で過ごすことになり、マクシミリアン王子と直に顔を合わせる機会も得ると、シャスティエの感慨も少し変わった。




 ――この方を夫と呼ぶことになっていたのかもしれないのね……。


 目の前で微笑む端正な顔立ちの貴公子を眺めながら、シャスティエは心中でしみじみと呟いた。


「この屋敷の手入れをさせたのは私なのです。庭など、気に入っていただければ良いのですが」

「もう冬だというのに花が咲いているなんて――驚きましたし、心が慰められますわ。虜囚の身にこのようなお心づかいをしていただけるなど、思ってもおりませんでした」


 アンネミーケ王妃との対面を果たして数日後、鷲の巣城の片隅に落ち着いた――落ち着かされたところで、マクシミリアン王子が訪ねてきたのだ。


 ほとんど騙し討ちのような形ではあったが、摂政王妃からはジョフィアと腹の子の安全の確約を取り付け、シャスティエ自身も久しぶりに柔らかな寝台で休んで心身を休めることができた。柔らかな寝台に清潔で上質な衣装、贅を凝らした食事。彼女を労わったものというよりは、ブレンクラーレの富を見せつけられるようだと感じられて素直に感謝できるものではなかったけれど。

 でも、赤子を胎に抱えた身にはこれ以上望むべくもない待遇だった。ブレンクラーレまでの道中、あの間者の女が緩い着付けで誤魔化し続けていたのもそろそろ限界だったから、衣装の上からでも目立ち始めた腹をレフに隠す必要がなくなったのにも心の底から安堵した。

 そこへ王太子自らの訪問だ。


 攫われたこと自体も、子供たちを利用するらしいアンネミーケ王妃の思惑も、許すつもりも一切ないが、とにかく分不相応な厚遇を受けていることについては礼儀として感謝の意を見せなければならないだろうと思っていたのに。なのに、この王子の言動はどうもシャスティエを苛立たせる。


 ――王がここを目指しているはずなのに……戦いが迫っているはずなのに、花やお菓子の話ばかり……!


 イシュテンの王女ではないと明かしたジョフィアにまでも菓子を土産に持って来てくれたのは、過分の心遣いだと思うしちゃんと礼も述べた。とはいえ離乳を始めたばかりの赤子に菓子の脂や砂糖は刺激が強すぎる。王子にもそう変わらない年頃の子がいるはずなのにこの振る舞いは、よほど赤子の成長に無頓着なのか。その割には、挨拶と称して揺籠(ゆりかご)から連れ出したジョフィアに相好を崩していたのだからやはりこの方のことがよく分からない。


「衣装もよくお似合いですね。従弟殿と同じ髪と瞳の色と伺っていたから、冴えた色が合うのだろうと思っていましたが。これほどとは……」

「……まさか、これも殿下が選んでくださったのでしょうか」

「はい。まさに雪の女王のようで、まことにお美しい」


 艶やかな薄青の絹の衣装を見下ろす振りで、シャスティエは眉を顰めた顔を王太子から隠した。マクシミリアン王子の、晴れた日の空のような目にどこか彼女を品定めして楽しむ色が見えた気がして不快だったのだ。囚われの身にはどのような扱いを受けても文句を言う資格はないのかもしれないが、妻子ある方のすることとは思えない。何より、ブレンクラーレは今イシュテンを迎え討とうとしている最中ではないのか。


 ――こんなことをしている暇があるの? 摂政王妃陛下は何も仰らないの?


 大国を継ぐべき王太子の立場にあるはずなのに、この方はそれを知らないとしか思えないほど甘く爽やかな笑みを浮かべるだけだ。難事にあってそれを他所には悟らせない器の大きさの表れと思えれば良いのだが――まさか、何も考えていないのでは、という疑いが頭をもたげてしまうのだ。


「……人の身で雪の(コロレファ)女王(・シュネガ)に喩えられるなど不遜ですわ。お言葉は嬉しく存じますが、私に不敬の罪を犯させないでくださいませ」

「美しい方を美しいと称えてどうして咎められることがありましょう? そのようなことがあるとしたら、女神の嫉妬というものでしょう」

「…………」


 雪の女王はそのような方ではない、と喉元まで出かかった。だが、今の身の上でブレンクラーレの王太子に口答えするのは得策ではないだろうし、訴えたところで分かってもらえるとは思えなかった。なのでシャスティエはただ引き攣った笑みを浮かべるだけだった。それも多分、王子の方では気まずさなど感じていないのだろうが。


 ちなみに彼女の夫は妻の装いには無頓着で、初めて纏って見せたものだろうと、普段は着ない色使いだろうと特に褒められた記憶はない。変化に気付かないというよりは女は男のために着飾るのは当然とでも思っていそうで苛立ったものだったが――でも、夫は戦うべき時に女のもとで時間を無駄に潰すようなことはしなかった。


 そこでシャスティエの思考は同じところで巡り続けるのだ。この方を夫と呼ぶことになっていたのかもしれないのだな、と。苦々しさと安堵の入り混じった、複雑な気持ちで。


「……殿下とこのような形でお会いすることになって――悲しむべきなのかもしれませんが、少しほっとしてしまっております」


 シャスティエがこの方を愛することができていたとは思えない。でも、結婚したからには、夫となったからには尊敬し支えるべきだと当然のように考えたことだろう。その常識のような考えと、実際に日常で接する()の間に挟まれて、きっと穏やかならぬ日々を過ごしていたに違いない。


 だから、虜囚になったこと自体は口惜しいが、ブレンクラーレの王太子妃にならなかったことは喜ばしい。そう、あからさまになりすぎないように伝えたつもりだったのだが――


「私も非常に残念です。貴女のような方を妃に迎える機会を失ったとは」

「は……?」


 マクシミリアン王子が、言葉通りに大層悲しげに眉を下げて答えたのでシャスティエは思わず尖った声で訊き直した。何か、相手にとてつもない誤解を与えたような予感がしてならなかったのだ。


「ですが、私は既に妻子ある身。貴女のお気持ちに応える訳にはいかないのです」

「…………」


 シャスティエはまた言葉では答えなかった。ただし今度は遠慮によることではなく、怒りのために声を出すことを束の間忘れたのだ。


 ――今の話のどこからそうなるのよ……!?


 我が子のために、王子の母君である王妃陛下に対して挑発めいた物言いで誓いを求めたこと、その際にイシュテン王を夫と呼んで信を示したこと。マクシミリアン王子がいない席でのことではあったけれど、この方が聞いていないはずもない。その上で他の殿方、それも本人が言った通り妻も幼い子もいる方に心を移すことがあるなどと、どうして信じることができるのだろう。


「ギーゼラ――我が妃とお気が合えば良いのですが。そして無聊を慰めていただければ。息子のレオンハルトもフェリツィア王女と同じ年頃ですから、母親同士語ることも多いのではないでしょうか」


 ――フェリツィア……会えないのは貴方たちのせいだというのに。どうして、そんなことが……!


 怒りから一転して、今度は悲しみがシャスティエの喉を塞ぐ。娘と引き離された悲嘆は胸を裂くだけではなくて、膨らみ始めた胎にも(しこ)るような感覚を覚えさせる。もうひとりの子、性別もまだ分からない子を案じて腹を撫でながら、シャスティエは――王太子とのまともな会話は諦めて――直截に問うことにする。


「無聊なんてとんでもない……()のことで心を痛めておりますの。一体何が起きているのか、教えてはくださいませんか……?」


 アンネミーケ王妃に対する無礼とも取られかねない態度は、ブレンクラーレの宮廷全体に対する挑発でもあった。ブレンクラーレへの道中で考えたように、他国の王の妻子を攫って利用するなど、堂々と公にするにはあまりに卑劣なやり方だ。更に、ティグリス王子と謀って外国の内乱にも加担していたとか。王ではない、王から政を預かっているだけにすぎない王妃のやることにしては、国の名誉を侵し過ぎているのではないか。


 ならばアンネミーケ王妃の企みの全てを知る者は少ないし、王妃としても後ろめたさは感じているはず。王の名における誓いを求めた時に、あの女傑の顔色が変わったことからも間違っていない、と思う。ミリアールトの女王を保護した、という形で取り繕おうとしているのかもしれないが、シャスティエの先日の態度はその言い訳をぶち壊したことになる。それが噂としてでも広まれば、王妃の独断専行を快く思わない者と接触できるのではないかと思っていたのだが。


 王妃が上手く情報を隠しているのか、王妃に反する勢力があるとしてもまだ機を窺っている段階なのか、シャスティエへの来客は今のところこの王太子だけだ。遠回しに探ろうとしても、底の抜けた器のようなどこか的外れな受け答えに苛立つばかり。ならばいっそ単刀直入に訊いてしまえと思い切ったのだ。


 それでも、マクシミリアン王子の笑顔は爽やかなまま、語る言葉もやはり明るいだけで何ら実のないものでしかなかったが。


「……貴女がご心配するには及びません。母と共に、対策を練っているところですので」


 ――何を心配していると思っているのかしら? 夫のことで心を痛めていると言っているのに。まさか、ブレンクラーレのことを案じているとでも?


 もう何度目か、この方はちゃんと他人の話を聞いているのだろうか、という不安と苛立ちが胸を過ぎる。ブレンクラーレの国土が戦火に見舞われるのは――どうでも良いとは言えないし、民の苦しみを思うと心が痛むけれど。でも、王妃や王太子が対応に苦慮するのは自らの行いが跳ね返ったこととしか思えない。イシュテン王の進軍を(しら)されたあの日、アンネミーケ王妃が見せた狼狽はきっととてつもなく珍しいものだったのだろう。それを見ることができたのを良い気味だと思いこそすれ、案じる義理などシャスティエには一切ないのだ。


 わざとらしく溜息をついて落胆の意を見せつつ、シャスティエは一応の説得を試みた。このひたすらに優しいだけの王子に伝わることなど万にひとつもないのだろうと、薄々とは察しながら。


「今のイシュテンが意味もなく他国を攻めるはずはありません。夫の要求は何なのですか? 私を返せということなら、無血で解決できる簡単な手段があるのではございませんか?」

「そのようなこと、できるはずがありません」


 非常にややこしいことに、マクシミリアン王子は愚かではないのだった。だから解放しろ、というシャスティエの意図を読み取ることはできたらしい。ただ、その後の反応が決定的にズレているのだ。


「貴女にまた虜囚の苦しみを味わわせる訳には参りません。ミリアールトでのこと、公子からも聞き及んでおりますが――また、ご自身を犠牲にされずとも良いのですよ」


 ――レフは一体何をどう話したのよ……。


 王太子の表情は真摯そのもの、声音からもシャスティエを心から哀れんで案じているのが伝わってくる。もしも、その哀れみが娘と引き離されたことや夫が戦地にいることへのものであれば、少しは絆されることもあるかもしれないのに。この方の上辺だけの心遣いはどこまでも空回りしてシャスティエの心を閉ざさせるばかりだ。


「次はギーゼラも共に連れて参りましょう。できればレオンハルトも一緒に。その際は笑顔も見せてくださると良いのですが」

「レオンハルト様はさぞ愛らしいお年頃なのでしょうね。私のフェリツィアと同じくらいだと窺っております」


 娘の名を口にするのは、それだけでも心が引き裂かれる思いだったけれど。できればマクシミリアン王子に、フェリツィアが手元にいないことに気付いて欲しかった。でも、あくまでも大らかな王太子は自慢げにそうですね、と頷いただけだった。


「レオは人見知りをしない質のようですし。まして美しい方に抱いていただけるのは喜ぶでしょう」

「そうだと良いのですが」

「それではそろそろお暇を。長い旅を続けてこられた方を、あまり煩わせてはならぬと言われているもので」


 王太子にそう言いつけたのは、アンネミーケ王妃だろうか。至極もっともな忠告であるのと同時に、良い歳をした殿方が母の言葉に従順に従っていると公言して恥じる様子もないのはやはり歪ではないのだろうか。シャスティエの代わりにこの方の妻になったという女性は、夫のことをどう思っているのだろうか。


 ――王太子妃殿下……私と会うのはきっと快く思われないでしょうけど。


 自身の以前に、夫と婚約の話があった女を、歓迎する者がいるとは思えない。何の(てら)いもなく妻と引き合わせようとする王太子がおかしいのだ。実際に顔を合わせたら、睨まれるか蔑まれるか――いずれにしても、冷ややかな目を浴びることを覚悟しなければならないだろう。


 ――でも、その方が話が通じるかもしれないし。


 たとえ悪意や敵意と対峙しなければならないとしても、反応が予想できるならマクシミリアン王子よりは遥かに話しやすい相手になるだろう。何より、囚われの身にあって情報を得るには、訪れてくれる奇特な存在に頼らなければならないのだから。


「……次に来ていただけるのが楽しみですわ」


 だから、シャスティエは無理矢理に微笑みらしき表情を浮かべて王太子を見送った。満面の笑顔で頷いた様子からして、多分彼は何の疑問も抱かなかったのだろう。

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