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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
20. それぞれの戦い
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空を焦がす炎 ファルカス

 元から暗い冬の空を、黒煙がさらに暗く(かげ)らせていた。厚い雲と煙によって輝きが鈍い太陽に代わって、燃え盛る炎が地上を照らし熱を放っている。イシュテンとの国境にほど近い――ブレンクラーレの中では片田舎ではあるが──街ひとつを焼き落としたのだ。ファルカスの軍が暖を取るには十分だ。イシュテンの戦馬は(はや)いのだ。迅過ぎて、助けを呼ぶことも守りを固めることもできずにこの街は()ちた。父王の御代以来のここ数十年、ブレンクラーレへ侵攻することはなかったから忘れていたのかもしれないが、イシュテンの武を思い出させるには良い頃合いだったのかもしれない。


「陛下。近隣の農村からも糧食を奪って参りました。これで向こう三日は余裕が持たせられるかと」

「それは重畳」


 更に、ファルカスは今回イシュテンの残虐さも存分に見せつけようと考えていた。風のように現れて全てを奪い去る災厄の軍。ミリアールトの時は後々統治することを考えて略奪は厳に禁じていたが、ブレンクラーレについては遠慮する必要は感じない。側妃を取り戻したらすぐに帰国するのだから、この国の民が冬を越すのに苦慮したとしても彼の知ったことではないのだ。


 ――名君と名高い女狐ならば、どうとでも対処するのだろうよ。


 ブレンクラーレは、土地がもたらす収穫から言っても商いがもたらす富から言っても豊かな国だ。どうせ国庫には金があふれているのだろうから、アンネミーケ王妃なら使いどころは分かっているはず。

 また、行軍の速度を速めるための苦肉の策の一環でもあった。ブレンクラーレ全体に団結する時間を与えては勝ち目が薄くなる。相手に対応する時間を与えぬためにも急がなくては。そのためには重い糧食を抱えていては足が鈍る。糧食を根こそぎ奪いながら進むのも、イシュテンの伝統的なやり方だ。今回は必要がないことだから、人を攫い犯すことまでは許していなかったが。

 久しぶりのイシュテンらしい蹂躙の仕方に、遠征に伴った臣下たちの士気も高いようだった。――無論、例外が全くいない訳ではないが。


「陛下――」

「イルレシュ伯。首尾はどうだ?」


 その例外に呼びかけられて、ファルカスは街ひとつを灰に帰そうとしている炎から目を外し、その者と正面から向き合った。この場に抵抗を続けるものはもういないとはいえ仮にも戦場でのこと、双方ともに騎乗したままの姿だ。


「生き残った者たちにはご命令通りのことを伝えました。隣接する地の領主を頼って、四散していったのを見届けましてございます」

「それは重畳」


 謀った通りにことが進んでいるというのに、年老いた武人の表情は冬の空と同じく暗かった。ミリアールトの出身の者にはイシュテンのやり方はなじまない――というよりも、はっきりと野蛮で残酷だと思っているのだろう。

 だが、イシュテンを離れてブレンクラーレに至るまで彼に従うと決めた時点で、この男も覚悟しているはずなのだ。恐らくは理屈で感情を抑え込むことができていないだけ、イルレシュ伯自身もそのことを恥じてさえいるだろう。

 だからファルカスはイルレシュ伯の表情を咎めなかったし、相手の方も弁明のようなことを口にすることはなかった。


「半信半疑――というよりは、まだ疑いが勝るようでございましたが」

「今はそれで良い。鷲の巣城に至るまでの道中、焼き出された者どもが同じことを訴えればブレンクラーレの民も考えを改めるだろうよ」


 今回、彼はイシュテン本来の残虐さを煽ってブレンクラーレを侵略しに掛かっている。だが、側妃を取り戻すために弄した策はそれだけではない。人が聞けばイシュテンらしからぬ、と評するであろう手段もまた、彼は講じることにしていたのだ。


 それは、イシュテン人ではないこの男がいなければできなかったこと。――ミリアールトの貴族らしく、イルレシュ伯はブレンクラーレ語も修めていたのだ。そこを確かめたファルカスは、大方の異国の言葉を解さない臣下に代わって、イルレシュ伯に降伏した敵兵や民の対応を任せていた。捕虜にして身代金を取るような暇はないし、いちいち殺すのも手間が掛かる。ならば逃がして敵の枷になってもらうのが良いだろう。身ひとつで逃げ延びた者たちを保護するには金が掛かるし、詳しい状況を把握しようと話を聞くならそれだけ時間を稼ぐことにもなるだろうから。

 加えて、ファルカスは敗残の者たちを送り出す際にはこのように伝えるように命じていた。


 ――これは、(ディース・イスト・)復讐だ(ディ・ラッヘ)


 イシュテンはかつてのように財貨を求めて他国を侵した訳ではない。ティグリスの乱への介入、側妃の誘拐と、イシュテンを乱し続けたアンネミーケ王妃への報復なのだ、と。

 女狐(アンネミーケ)は内政においては大国ブレンクラーレを一層富ませた手腕によって名高いという。宮廷では王の不在を良いことに権を握る女への反発があるのかもしれないが、王都から遠い地の民であれば、その評判を疑うこともなく漠とした尊い存在として崇める程度のことだろう。


 ――その忠誠を揺るがせる。王妃()()の専横を快く思わない者にも良い口実を与えてやろう。


 イシュテンはブレンクラーレに比べればまだ――武力の話ではなく国としては――()()。シャルバールの雪辱に高まる士気を持ってしても、国力の差を埋めるのが難しいことは承知している。だからこそ、その差を少しでも埋めるために、ファルカスは手段を選ばないつもりだった。


「突然に住まいや家族を奪われた者たちですからな。今は混乱しているのでしょうが。落ち着いた時には、自国の王妃を恨んで欲しいもの……」


 イルレシュ伯の顔色が冴えないのは、命じられた役目への嫌悪もあるのだろうか。確かに、全てを奪っておいて、その当の下手人が他所を憎めと唆すのは卑劣な論法なのだろうが。

 だが、これも仕方のないこと。側妃を――イルレシュ伯にとっては女王を取り戻すためには必要なこと。ゆえにファルカスはやはり伯の心情に言及することはしなかった。


「このような機会はこれから増えるだろう。人は足りているか? 足りぬようなら物覚えの良さそうな者を宛てることもできるが」


 イシュテンに異国の言葉を解する者はごく少ないのだ。以前ブレンクラーレの王太子を迎えた時も通訳はあちらが用意していたし、貴重な人材であった文書院の長は彼自身が斬った。他に学者が皆無という訳ではなかったが、急な遠征に伴えるような役職には就いていなかったのだ。

 だからブレンクラーレの民の扇動にあたっているのはイルレシュ伯の配下の者だけ。さしたる地位もない兵でもブレンクラーレ語を理解する――少なくとも通じるように発音することができる――者が当たり前に存在する辺り、イシュテンは文化においてはミリアールトにも遥かに劣ることを見せつけられていることにもなるのだが。だが、彼我を比べて思い悩むのは今すべきことではない。まずは、目の前の事態にどのように対処するのかが重要なはずだ。


 イルレシュ伯もその辺りはよく分かっているらしく、彼の申し出に対して端的に答えた。


「いえ、まずは臣の配下で十分かと存じます」

「そうか」

「イシュテンの者が覚える必要のない言葉かと存じますので。その――復讐、などとは」

「……そうだな」


 王の話を盗み聞きする者などまずいまい。まして燃え盛る炎の傍らとあっては。聞こえたところで何のことだかも分からないだろう。だが、そうと知っていてもなお、ファルカスは密かに周囲を窺わずにはいられなかった。イルレシュ伯が控えめに言外に匂わせたことを、正しく聞き取ったがゆえに。


 ブレンクラーレ語とミリアールト語は全く違う。ひとつの言葉で幾つかの言い回しを聞き覚えたところでもうひとつの言葉が分かるようになるはずもない。そしてその違いゆえに、復讐という単語の響きも同じ意味とは思えないほど異なる響きを持っている。これは、イシュテン語と比べても同じことだが。

 だが――イシュテンにおいてはほとんど無駄な懸念かもしれないが――異なる国の異なる言葉への興味を目覚めさせる者はいるかもしれない。そして、そのような変わり者が側妃の故郷の言葉を覚えたいなどと思ったとしたら。


 国を挙げて救出しようとしている時に、側妃の婚家名――クリャースタ(復讐を)メーシェ(誓う)の意味が知られる可能性は、たとえわずかであっても高めてはならないのだ


「――それでは引き続きそなたに任せる。そなたが姿を見せることでミリアールトが離反していないと女狐めに伝えることにもなろう」

「は。レフはクリャースタ様と共に鷲の巣城(アードラースホルスト)にいる可能性も高いですからな。ブレンクラーレの貴顕があの者の言葉を信じることがないように願いたいものです」


 具体的なことには何ひとつ触れることなく、ファルカスはイルレシュ伯と意を通わせたようだった。人に明かせない婚家名をわざわざ選んで名乗ったことについて、側妃に言いたいことは山ほどあるが、とにかくもまた会わなければ文句を言うことはできないのだから。


 ――あちらの恨み言を聞くのが先かもしれないがな……。


 口元に苦い笑みが浮かぶのを自覚して、イルレシュ伯を嗤えないな、と自嘲する。それこそ今考えても仕方ないことのはずなのに、それを重々承知しているのに、婚家名の意味を知っているとシャスティエに告げたらどうなるか、思いを巡らせずにはいられないのだ。


 多分まずは狼狽するだろう。言い訳をしようとするかもしれない。何か、悪意あってのことではないと、あの女ならではの知識でこじつけようとするのかも。だが、あの女には最後には彼を真っ直ぐに睨みつけてくる気がする。国を滅ぼされて肉親を殺された憎しみを訴えて、だから正当な復讐だと堂々と言ってのけるのではないか。――そんな絵が脳に浮かんだからこそ、彼はブレンクラーレの民に対して復讐を宣言することを思いついたのかもしれない。


 シャスティエの碧い目に貫かれることを、かつては苛立たしく受け止めたものだ。だが、今ならば苦しく思うのだろうか。失いたくないと思った女の心を得る望みを、彼は自らとうの昔に絶っていたのだ。それでも諦める気にはなれないのだから全く身勝手なものなのだが。


 ――とにかく、全てはまた会ってからのこと……!


 名前の意味について問い質すのも、妻の憎しみを受け止めるのも。赦しを願うことさえその次だ。


 思考を切り替えるべく軽く頭を振ってから、ファルカスはイルレシュ伯に軽く笑いかけてみせた。


「――そなたには長旅を続けさせていることになるな。出発は明日の早朝だ。せめて一晩は休むが良い」

「まことにありがたいお心遣い、痛み入ります」


 遥か北のミリアールトからイシュテンへ旅を続け、そして今はブレンクラーレの地に立つ老人は恭しく目を伏せた。そして視線を上げた時、氷の色の目が見ているのは目の前の炎ではなく美しく煌く金の髪と碧い宝石の瞳なのだろう。老臣は面にはっきりと案じる色を浮かべていた。


「……長旅というならクリャースタ様こそ、でございますな。鷲の巣城ではせめて手厚く遇されていると信じたいものですが」


 シャスティエが旅した距離は確かに気が遠くなるようなものだ。ミリアールトからイシュテンへ、乱の鎮圧のためにまた祖国へ戻り、イシュテンの国内でも居場所を転々とした。ブレンクラーレへと攫われた最後の旅を除けば、その移動のほとんどはファルカスが無理強いしたものだ。


 イルレシュ伯の言葉こそ彼を責めるものではなかったが、シャスティエの心身に与えた負担を思うとファルカスの心は重い。あの女の身体の細さ軽さを知っていればなおさらのこと。――だが、それを無理に攫ったレフという男への怒りもまた、何度でも新しく湧いてくる。


「乳母の子については――隠し通せているかは分からないが。だが、少なくとも腹の子の利用価値は女狐も認めることだろう」


 ならば、イシュテン王の子を宿すシャスティエも無事なはず。


 十分に根拠のある推測だと自身に言い聞かせようとしても、安心しきることなどはできなかったが。イルレシュ伯は、恐らくはファルカスの不安を見て取った上で力強く頷いた。


「そうでございましたな。御子の誕生に父君が立ち会われないなどあってはならないこと――ならば、だからこそ急がねばなりませんな。クリャースタ様もさぞや心細く思われておいででしょう」

「そうだな……」


 ――これは、気遣われているのか……?


 励まされているのでは、とちらりと疑って、ファルカスはくすぐったいような不満なような、不思議な感覚に襲われた。シャスティエが彼との再会を望んでいるとは、どうにも信じられないのだが。

 だが、臣下の気遣いを無にするなどと野暮だというものだ。それに、妻の心を得られないことを思い悩んでいるなどと、たとえこの男が相手であっても気付かれて堪るものか。


 一瞬でそう結論づけて、ファルカスは強気な微笑を纏うことに決めた。多くを語らなくて良い王という立場は、このような時には便利なものだ。


 イルレシュ伯は改めて挨拶を述べると彼の前を辞した。ファルカスはまた街を焼く炎に目を戻す。

 シャスティエのもとに辿り着くまでに、このような炎を何度となく目にすることになるはずだった。

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