迫る戦火 アンネミーケ
ミリアールトのレフ公子がイシュテン王の側妃を伴って帰還したと聞いて、しかも赤子も無事だと聞いて、アンネミーケは喜んだ。側妃の居所への襲撃自体は失敗する要素がなかったが、イシュテン王の追っ手の目を掻い潜って国境を越えることができるかどうか、更にまだ幼い王女がその旅路に耐えられるかどうかについては確実とは言えなかったからだ。
公子や姫君と会う時間を設けたのは、マクシミリアンが整えた一角に案内して数日待ってからのこと。公子の報告を早く聞きたいのは山々だったが、長旅に疲れているであろう姫君には休息が必要だと思ったのだ。手厚く庇護する姿勢を見せることで、姫君の心が和らげば良いと考えたこともある。侍女も召使いも十分に配した屋敷で、ミリアールトの元王女にして今は女王、あるいはイシュテン王の妃でもある姫君は旅の疲れと汚れを落とし、身分に相応しい装いを整えることができるはずだった。
「アンネミーケ陛下。此度のご支援には心から感謝しております。――ミリアールトの女王をご紹介できること、真に嬉しく存じます」
「うむ……」
だが、実際に公子が姫君を伴って彼女のもとを訪れた時、アンネミーケは自身の気遣いを後悔した。頑なに赤子を手放そうとせず、その腕に抱いて現れた姫君は、彼女の予想をはるかに上回る美貌を誇っていたのだ。
――まさか、これほどとは……。
そもそも息子の妃に、という話が進みかけていた相手でもあるから、年頃や背格好、人柄などひと通りの情報は既に得ている。それでも、雪の女王のように美しく誇り高く聡明で――などという評判は、大国に売り込むための過剰な装飾を施されたものとしか思っていなかった。後に血縁がありよく似ていると自ら語る美貌の公子と会ってもなお、人の娘を女神に喩えるのは不遜だろう、王家の姫を褒め称えるのに大げさな形容を使っているのだろうとどこかで思い込んでいた。
「名高い摂政王妃陛下にお目通りできたこと、輝かしい鷲の巣城への滞在をお許しいただいたこと――いずれも光栄に存じます。お招きの経緯については、大変不本意ではございましたけれど」
姫君のブレンクラーレ語での口上が淀みなく流暢なのは、この際大したことではない。公子を見ればミリアールトの王族が修める教養のほどは知れていたし、最先端の知識に触れようとするならその手段としてブレンクラーレ語を学ぶのは自然なことだ。
美しさについては、甘く見ていたことを認めなければなるまい。公子の美貌には慣れていたつもりだったが、こちらの姫君は顔だちも体つきも一段と華奢で、肌も一点の染みもなくそれこそ雪のように白く滑らか。アンネミーケは公子のことを美しいが脆い飴細工だと密かに評していたが、彼が崇める姫は更に冷たく硬質で繊細な美しさを持っている――さながら水晶を彫り上げた像のような。その像が、輝く金の髪と宝石の碧の瞳の彩りを持って佇んでいる。
長旅の後でほんの数日休んだだけ、髪も肌も十分な手入れをされていない状態だろうに、これだ。王女として傅かれ、衣装も宝石も化粧品も、最高のものを捧げられたところを思い浮かべてみれば、ミリアールトの者が自国の女神になぞらえるのもおかしくないと思ってしまう。
庇護し、助力を申し出るはずが、どうして顔を合わせるだけで後ろめたさのようなものを感じなければならないのか。こんなことなら、旅塵に塗れた姿のままで面会していた方が気が楽だったかもしれない。
「お国のことについてはこちらでも大変心を痛めていたのだ。とはいえイシュテンに対抗するには時間も兵も要った。それでお救いするのが遅くなってしまったことはお詫び申し上げよう」
「まあ、私は夫のもとで娘を慈しんでいたところだったのですが。摂政陛下におかれては、私を、何から救い出してくださったとの思し召しなのでしょう?」
更にこの可愛げのない物言いだ。力づくで攫うように連れて来たのを暗に責められて、アンネミーケとしては気分を害さずにはいられない。もちろん、大っぴらに公表できるような手段ではないのは分かっているが、国の仇の側妃などという立場から救ってやったことは感謝しても良いだろうに。大国の王妃を前にしてこの物怖じしない高慢な態度――この怖いもの知らずの気の強さを指して、ミリアールトの民は女神に喩えたのだろうか。
――親しい従姉弟ということではなかったのか? 話が違うではないか……。
公子の方に改めて目を向ければ、輝くばかりの美貌には不機嫌の翳りが浮かんでいる。どこか子供が拗ねるのにも似たその表情を見れば、彼の思慕は彼が予想したようには報われなかったと分かる。散々独断と暴走を繰り返してくれたこの青年のことだ、想い破れて傷心だというなら良い気味だが――姫君がこれでは、ただ嗤っているだけという訳にもいくまい。
アンネミーケは扇を開くと、わざとらしく溜息を吐きながら顔を扇いだ。何を言っているのか訳が分からない、と。言葉だけでなく、仕草と表情とではっきりと伝わるように。
「さて、ミリアールトはイシュテン王――姫君が夫と呼ぶ者によって滅ぼされたと思っていたが。妾の記憶違いだっただろうか。仇に弄ばれ孕まされるなど同じ女として察するに余りある屈辱だと大変お気の毒に存じていたが――意外と、楽しんでおられたと思って良いのだろうか」
「そんな……!」
姫君の白い頬が赤く染まり、碧い瞳が従弟の貴公子の表情を窺って泳いだ。それで母の動揺を感じ取った腕の中の赤子がむずかると、姫君は慌てたように揺らして小声であやした。彫刻のようにも見えた美貌が揺らぎ、恥じらい、我が子への慈愛を浮かべる姿は、いずれもうんざりするほど美しく、同時に愛らしさも感じられる。
――これに、イシュテン王は惑ったのか。そしてこの娘が心を奪われたイシュテン王はどのような男なのか……。
ブレンクラーレの王妃に謁見するのに赤子を抱いたままでは無礼では、と。姫君の身支度を整えた者たちは進言したらしい。それを聞いたアンネミーケは、見知らぬ地で我が子と離れるのは不安なのだろう、と鷹揚に許していたのだが。姫君のこの態度だと、漠とした不安というよりも、明確にブレンクラーレに不信を抱いているようだ。
それは、イシュテン王と心を通わせたから、なのだろうか。仇といえど、イシュテン王は優れた武人かつ美丈夫として名高いから、若い娘が絆されるということもあるだろうか。姫君の美貌に目が眩んだ王の方も手厚く扱ったとしたら、そのような思いも加速する、のだろうか。
――いかにも物語のように甘ったるいことだこと。
敵同士の美男美女が惹かれ合うのも。王が国を顧みず美女に溺れるのも。ブレンクラーレという外国にイシュテンが接していること、国内にティゼンハロム侯爵という敵がいること、いずれも知らないはずはないだろうに。もしも姫君の美貌の前に山積する問題を一時でも忘れたのだとしたらイシュテン王も随分と愚かな男だ。美しい者はその分知性に欠ける、というアンネミーケの持論がまたひとつ補強されたようにさえ思う。
この娘は、美しく教養があって誇り高いかもしれないが、だが、愚かだ。なまじ口が回るだけ賢しげなことを言えるというだけ、甘やかしてくれるイシュテン王に縋って愛したような気になっているだけ。ならばまともに取り合って苛立つ方がバカバカしい。
だからアンネミーケは余裕を見せつけるように、殊更にゆっくりと穏やかに声を掛けてやった。扇を操る仕草も優雅なもの、容姿には優れずともこの程度の業はブレンクラーレの貴婦人ならば当然にこなすのだ。
「――まあ、今は混乱しておられるのだろうが。まずはゆっくりと休まれるが良い。イシュテンとは違って我が国では御身に害が及ぶことはないゆえ。王女殿下の身柄も妾の名誉にかけて保証しよう」
「フェリツィアを――イシュテンの王女を利用しようというのですね」
「まさか。幼い御方がいらっしゃるからお気が休まらないのだろうと思っただけ。そのように構えられるとは心外な」
整った眉を寄せる姫君が碧い目に浮かべるのは、明らかな警戒と憤りの色。美貌に似合わぬその鋭さは、確かにこの姫には女王の矜持があるのだと思わせる。――だが、祖国からも夫君からも引き離されたこの地にあっては、そのようなものは何の役にも立ちはしない。
「本当に心外と思し召しならば誓ってくださいませ。私の夫がイシュテンの戦馬の神にかけて私の無事を保証してくれたように。ブレンクラーレの睥睨する鷲の神にかけて、この子の無事を」
母に高く掲げられたのを、王女はただ遊んでもらっているのだと思ったらしく愛らしい歓声を上げた。だが、その身体を支える姫君の顔は真剣そのもの。アンネミーケの口先だけの言葉は、信用ならないと言っているのだ。しかもイシュテン王を引き合いにだして、あくまでも夫を信じていると暗に含ませている。それもまた、アンネミーケの気に入らない。
――その誓いの結果がこのありさまではないか……。
イシュテン王が人質に過ぎないはずの元王女を過剰に見えるほど気遣ったことは聞いている。思えば、最近の耽溺ぶりもその頃から片鱗が見えていたのだろうか。つまりは美貌の姫君の気を惹こうと大げさな言葉を並べたというだけのこと、結果としてまんまと攫われるのを許しているのだから、誓いを果たしているとは言えないだろうに。
「……ならば誓おう。ブレンクラーレの名誉にかけて、王女殿下の無事を保証すると」
「王妃陛下の誓いでは足りません。ご夫君たるブレンクラーレ王陛下の誓いでなければ我が夫と同等の誠意を見せていただいたことにはならないかと」
「な……っ!」
どのみちフェリツィア王女は利用するつもりなのだから、と。声は幾らか低くなったが言われた通りに誓ってやったというのに。イシュテン王を惑わせた姫の高慢さ強情さ頑なさはアンネミーケを絶句させるほどのものだった。
――妾は王ではないと……王でなければ話すに足らぬ、というのか……!?
彼女の夫君、ブレンクラーレの名ばかりの王が伏せって長いと、人前に出られる身体ではないとこの娘も知っているだろうに。その上で、アンネミーケは代理の権力を振りかざしているにすぎないと断じたのだ。囚われの身を弁えないのは愚かさなのか。それとも、自身の価値を知っているからこそ害される恐れはないと踏んでいるのか。
「残念だが、我が夫君はもはやまともに言葉を発することも叶わぬ身。無論、妃たる妾と思いを抱いてくださるだろうが、姫君が望む誓いを口に出すことはできぬであろう」
「では、夫君陛下と|睥睨する鷲の神にかけて誓ってくださいませ。摂政王妃陛下がその名誉を決して損なわれないだろうと、私が信じることができる御方ならば納得しましょう」
今度は、姫君はよりはっきりとアンネミーケでは信用できぬと言ってのけた。――これには、侮辱された彼女自身よりも姫君の肉親の貴公子の方が顔色を変える。
「シャスティエ。言い過ぎだ……!」
「……よかろう。ならば姫君のお気が済むように」
こればかりは公子に全く同感だった。だが、怒りを露にするのは下策だろう。相手の挑発に乗っていると、伝えてしまうことになるのだから。美しい青年が狼狽えるのを見てやっと、小娘相手に激昂するのはみっともないと思い出すことができた。
「我が夫と睥睨する大鷲の神の名に懸けて、フェリツィア王女殿下の無事を保証しよう」
「私がこの腕に抱く子を、守ってくださるのですね?」
ここまで譲歩してやったというのに、更に念押しを求められて、くどい、と吐き捨てそうになったが。アンネミーケは意地でこらえた。
「無論。そのように申し上げたつもりだが」
それでもさすがに苛立ちを滲ませて答えた瞬間――花が綻ぶように咲き誇った姫君の微笑みこそ、国を傾けるに相応しいものだった。美しく艶やかなことに加えて優しく朗らかでまさに香り立つような。だが、なぜ今笑うのかは分からない。
不審に眉を寄せるアンネミーケを他所に、姫君は赤子に愛しげに頬ずりした。そして、会心の笑みの理由を明かす。
「ありがとうございます。この子を――イシュテンの王女であるか否かに関わらず――守ってくださると、確かに王妃陛下は約してくださいました」
「何だと……」
不覚なことに、一瞬何を聞き取ったのか分からなかった。姫君のブレンクラーレ語はしごく明瞭かつ上品なものでさえあったのに。ほんのりと紅い唇がまた華やかな笑みを描くのを、嘲笑と見てしまうのは、醜い女の僻みなのか。あるいは姫君が勝ち誇っているからか。
「この子はフェリツィアではございません。あの時、黒松館にいた乳母の子です。王女を守るために自身と我が子を犠牲にした女の子供――主として、守ってやることができて大変嬉しく思います」
「シャスティエ!? どういうことだ!?」
公子がこの場にいてくれて良かった、と。アンネミーケは心から思った。この青年が騒いでくれなかったら、彼女が無様を晒してしまっていただろうから。声を上げて騒ぎ立てる青年を前に、落ち着く余裕を持つことができたのは一抹の幸運だった。
「だって仕方ないでしょう。貴方は赤ちゃんをとても乱暴に扱っていたから。利用価値があるフェリツィアならまだしも、乳母の子だと知られたらどうなるか分からないから……!」
「イシュテン王の子じゃないなら赤子に何かしたりしない!」
「ほら! 私の子でもあるのよ!?」
――ああ、うるさい……。
対の細工物のように美しいふたりであっても、言い争う様はそれなりに見苦しく姦しかった。律儀にブレンクラーレ語を使っているのは話の流れを継いでいるからか。万一、アンネミーケにも分かるようにだという気遣いだとしたら、全く無用のものなのだが。
「――姫君の懸念は理解した。誓ったからには妾は――ブレンクラーレも――言葉を違えない。生まれに関わらず、その赤子の無事は保証しよう」
姫君と顔合わせするだけのはずが、とんだ茶番に立ち合うことになってしまった。苛立ちに声を上げると、さすがに眼下の言い争いはぴたりと止んだ。その隙に、アンネミーケはささやかな意趣返しを試みる。恐れを知らない姫君の高慢に、一撃を加えてやろうと考えたのだ。
「それに、姫君が宿していらっしゃる御子も。同様にお守り申し上げよう」
「な――っ」
そして思った通り、姫君は顔色を変えて我が子ではなかったらしい赤子を抱きしめた。赤子と共にまだ平らな腹を庇うような仕草は、やはりアンネミーケの思惑を疑っているのだろう。だが、どれほど警戒したところでどうしようもないことだ。王女についてはしてやられたが、もうひとりの御子は何としても手中に収めて見せる。レオンハルト同様に、そしてレオンハルトと共に、彼女が養育しなくては。
アンネミーケは、今度は余裕を示すためにゆっくりと扇をそよがせる。公子はもはや口を開いたきり何も言うことができない様子。どれほど美しくてもこうなってしまうと間抜けなことこの上ない。共に旅を続けてきておいて、姫君の懐妊に気付かなかった――知らされなかったのだと突きつけられれば当然だろう。
「公子が動揺されることを恐れて道中は伏せてこられたとか。だが、もはや心配は無用であろう。ずっと隠しおおせることでもないし……」
「守るだなんて。無理に攫っておいて。この子たちも危なかったのに……!」
姫君がたち、と複数形を使ったのには、残されたフェリツィア王女も含まれているのだろうか。まあどうでも良い。イシュテン王亡き後、ティゼンハロム侯爵が側妃の子をどう扱うかは目に見えているが、それは置いてきた母の責というものだ。
――大人しくついて来ていれば、弟か妹と共に育つことができたものを……。
怒りに碧い目を燃やす美姫に、何かもう一言痛烈な打撃を浴びせてやろうと言葉を探した時――室外に慌ただしい足音が響き、扉が慌ただしく開かれた。
「摂政陛下――」
「何事か。騒々しい」
彼女の目の前に転がるように跪いた者を、アンネミーケは眉を寄せて叱りつけた。内々に大事な者と会うから邪魔をしないようにと言いつけてあったというのに。相手が誰であろうと、慌てて駆けこんでくるような醜態を見せては彼女の沽券にも関わるというものだ。よくよくの大事でなければ容赦しないぞ、と。鋭く見下ろした視線は、しかし、予想したように畏れで迎えられはしなかった。その者は、膝で彼女ににじり寄るようにして、必死の形相で叫んだのだ。
「イシュテン王の軍が動き出したとの報告です!」
「なんだ、そのようなこと――」
だが、それでもアンネミーケには相手の焦りの理由が分からなかった。何を当たり前のことを言っているのか、と思う。イシュテン王が諸侯に参集を呼び掛けているとの報せは既に届いている。ミリアールトに攻め込むのは時間の問題、わざわざ血相を変えて報告しなければならないようなことではない。
「違います! ミリアールトではございません!」
左右に首を振るその激しさは、アンネミーケの察しの悪さを非難しているようですらあった。彼女が久しく浴びることのなかった類の責めだ。その無礼に軽い苛立ちを感じつつ――それでも、その報せが何を意味するのか理解するのに数秒を要してしまった。
「ミリアールトではなく、我が国の方へ! イシュテン王自らが率いる大群が、風の早さでこの鷲の巣城を目指しております……!」
「何を……」
呆然と、呟きながら。草原を駆ける戦馬の群れが、アンネミーケの眼前に広がるような気がした。イシュテンと国境を接する諸国が、長く恐れ忌んだ死と破壊をもたらす嵐のような災厄だ。それが、この国を目指しているというのか。彼女の夫や息子や孫もいる、この王宮に!
「王が……!?」
眩暈を感じて立ち竦んだアンネミーケの耳に、姫君が小さく叫んだのが聞こえた。そこに宿る驚きは、アンネミーケのそれとはまったく種類が異なる。予想外の――予想外に過ぎる事態に言葉を失い唇をわななかせる彼女の動揺とは裏腹に、心からの歓喜に満ちて。
姫君の頬には紅く血がのぼり、唇は弧を描く。先ほどの勝ち誇った微笑よりも更に一段と愛らしい、はにかみさえ含んだような美しい笑みだ。
それがあまりに美しいので、アンネミーケは腹の底からこみ上げる吐き気と戦わなければならなかった。