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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
19. 戦火、山河を越える
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計算違い② エルジェーベト

 王が諸侯を集めた場は、王の糾弾の場にもなりかねないはずだった。少なくとも、王が命じるであろうように、誰もが諸手を挙げて側妃の救出にあたることなどあり得ない。だから、王は相当な譲歩をし、頭を下げるような形で兵をかき集めることになるだろうとリカードは考えていたようだ。そのような烏合の衆ならば離反を誘うのも容易だろうし、ミリアールトからの予想外の反撃を受ければ脆いだろう、だから王を背後から討つのもそう難しくはないだろう、と。


 だが、そうはならなかった。それを、エルジェーベトは屋敷に戻ったリカードの顔色を見るだけで悟った。怒りにどす黒く染まり、飢えた犬のように苛立ちに歯噛みする表情を見て、甘い予想をする使用人は侯爵家にはいなかった。何か――予想もつかないけれど――主の意に染まないことが起きたのだと察し、その怒りが自身には及ばないように身を縮め、やり過ごそうとする。ただし彼女は例外だった。

 リカードにとっての不都合は、マリカたちにとっての不都合でもあるのだろうから。王宮にて起きたことが、主たちにどのような影響を及ぼすのか、リカードの怒りを恐れつつも、訊かない訳にはいかなかったのだ。


「殿様──王宮で、いったい何が……?」

「黙れ、邪魔だ!」


 リカードは、例によって女の疑問にいちいち答えるほど優しい主人ではなかった。だが、怒号や酒杯や書簡の紙束、時にもっと重くて物騒な置物だとか短剣の鞘、果てはリカード自身の拳が飛び交う中で、エルジェーベトにも少しずつことの成り行きが見えて行った。そしてリカードの怒りの原因もよく理解した。理解したところで主の勘気を和らげる、呪文のような言葉など考え付くこともできなかったが。何より彼女自身が、手ひどい裏切りに怒っていたことでもあるし。


 ブレンクラーレは、油断ならない女狐、アンネミーケ王妃は。密約を持ち掛ける裏で、重要な事実をリカードには伏せていたらしい。シャルバールの、あの忌まわしい罠――王に忠誠と誓う者とリカードに与する者、そもそも原因となったティグリスやハルミンツ侯爵についた者たち――いずれの陣営も等しく怒りに顔色を失くしたあの事件。

 あの戦いにも、ブレンクラーレは関わっていたというのだ。それも、あの時は王やリカードと敵対していたティグリスに助力するという形で。




 リカードが狼狽し、対応に迷うのを見た記憶がエルジェーベトにはほとんどない。物心つく前から、三十年に渡って侯爵家に仕えているというのに、だ。それほどにこの男は狡猾で周到で権力にも財力にも恵まれていた。諸侯の顔色を窺うのに終始していた先王よりも、後ろ盾のない若造に過ぎなかった現王よりも、リカードの方がよほど王らしいと、エルジェーベトは常々思ってきたものだ。事実、此度の策が成功すれば、実質的な王としてイシュテンを手にする日も近いだろうと思っていたのに。

 そんな男が、追い詰められつつあるのだろうか。多分、エルジェーベトは今、非常に珍しい巡り合わせに立ち合っているのだろうが。だが、喜んだり面白がったりする気には全くなれなかった。リカードの傲慢さや横暴ぶりには、彼女自身辟易させられることは多々あったけれど、だからといってこの男が失脚するのは困る。彼女や――ついでに、息子の進退などどうでも良いが、リカード亡き後、王がふたりのマリカをどう扱うかについて、全く信用できるものではないからだ。


 もちろん家の主が動揺している以上、その下につく者たちの有様も推してしるべし、という状況だ。


「全てブレンクラーレの陰謀だ、などと……万人が信じているはずもございません。側妃可愛さの妄想だと糾弾しては……?」


 リカードの長子、ティボールが恐る恐るといった表情で父に進言する。例によってティゼンハロム侯爵邸の最奥、家の主だった者たちで今後のことについて対策を練ろうという場だった。エルジェーベトはこの家の最も秘すべき陰謀も既に知っているから、当然のように酒などを給仕する役を与えられている。

 女の身の彼女には口を挟むことなど許されず、ただ目を伏せて男たちが話し合うことに耳を傾けるだけ――だが、その立場のエルジェーベトにも、ティボールの言は下策に思えた。


「確かに疑う者もいよう。だが大方の者は、今は激しておる。シャルバールの雪辱に水を差してみろ、惰弱と謗られるのは貴様の方だ」


 事実、リカードは顔を顰めて吐き捨てた。ブレンクラーレこそが全ての黒幕だ、復讐せよ、と。煽り立てた王に、諸侯がどれほど熱狂したかはエルジェーベトさえも聞き及んでいる。ましてティボールは直にその様を目にしているはず。卑劣な罠に対する怒りが自身に向けられるのを想像でもしたのだろうか、元から疲れて引き攣っていた顔が、更に血色が悪くなる。


「ですが……このままではファルカスに力が集まり過ぎる……!」

「分かっておる!」


 ティボールが――非常に珍しく――父に対して声を上げ、リカードもそれを怒鳴りつける。だが、いつもの暴君めいた傲慢さよりも、どこか迷うような弱気を感じ取ってしまうのは、エルジェーベトの気のせいだろうか。王が語った物語は、真偽はともかくイシュテンの諸侯の心を捕らえてしまったのだ。

 国の歴史の汚点にもなり得るあの一戦は、王族のひとりが考えたものではなく他国の陰謀によるものだった、と――実際の証拠がほとんどないにも関わらず多くの者が王に従ったのは、そのような考えがあまりにも甘美のものだったからだろう。自身に非がないこと、責めるべき他者がいること、いずれも心の持ちようを楽にしてくれるものだ。


 ――しかも、多分事実ではあるのでしょうね……。


 リカードの歯切れが悪いのもそこに理由があるのだろう。この男は、イシュテンの諸侯の誰よりも王の語ったこと――ブレンクラーレがティグリスの乱の陰で暗躍していたこと――を信じているかもしれない。レフというミリアールトの貴公子が、確かに側妃と同じ髪の色をしていること、愛する姫君とやらを救うために手段を問わない執着を持っていること。アンネミーケ王妃についても、自国の益のために他国に王への反逆を勧め、手勢を貸しさえしてくること。いずれも直に見てよく知っているからだ。


「ミリアールトからも目を離せぬ……この状況でイシュテンを攻めるほど愚かではないと思いたいが、相手は女だからな……」


 ブレンクラーレへの遠征の間イシュテンを守る役を、王はよりにもよってリカードに命じた。この隙に国内を制圧することができれば良いのだが、敵はブレンクラーレだけではないのが事態をややこしくしている。



「ファルカスは我らの策にも気づいているのでしょうか。ミリアールトとも密かに結んでいるがゆえに、かえって迂闊に動けないと踏んでいるとか……ブレンクラーレを下した後は、こちらにも反逆の罪を問おうと……?」

「何を怖じ気づいておるか」


 顔色を青褪めさせた息子に、リカードは嘲るように鼻を鳴らす。だが、そこにはどこか強がる気配もないだろうか。叱咤しているのはティボールではなく、リカード自身ではないのだろうか。


「どの道ファルカスも我らの忠誠など期待しておるまい。対決が近いのも初めから分かっていたことではないか」


 エルジェーベトの不安と疑いなど、気にも留めていないのだろう。リカードは一段と声を高めた。無論、事態を甘く見ているのではなく、並の者が考え付く程度のことは十分承知した上でのことのはずだ。


「女狐とファルカスは取りあえず争わせておけば良い。どちらが勝とうと、生き残った方に改めて思い知らせてやれば良い」


 思い知らせる――王についてはマリカを、ひいてはリカードを蔑ろにしたことへ。アンネミーケについてはティグリスへの助力を伏せていたことへ。確かにいずれもリカードにとっては許しがたい裏切りだ。エルジェーベトも――特に王についての怒りを――共有している。


「アンネミーケめ……追い詰められたら我らとのことを暴露するのでは。ファルカスの怒りをこちらへ向けようと……」

「対策できぬことをいくら考えても仕方あるまい。女狐めもわざわざ醜聞を公表しようとは思うまい。ファルカスの主張も言いがかりとして()ねつけるだろうしな」


 ――仕方ない……。そうなのでしょうね……。


 多分、あれこれと思い悩んでしまうティボールもエルジェーベトも小物なのだ。ブレンクラーレでの戦況がいかに案じられようと、イシュテンの守りを命じられて動くことができないのでは考えるだけ無駄なのだろう。


「では……今はどのように……」

「戦力の温存ができるのを僥倖と思うほかあるまい。ミリアールトが攻めてくるようなら動かざるを得ぬが、さすがにそこまで愚かではないだろう」

「は……」


 リカードの総括は、結局は何もしない、という消極的なもの。それに不満げな色を見せたティボールに、父親は口調を強くして喝を入れる。


「ファルカスの動向に揺さぶられることがないよう、我が陣営の者たちをまとめあげよ。仮に奴が帰国できるとしても、居場所など与えてはやらぬ。それから――マリカだ」


 次いでリカードはエルジェーベトに目を向ける。愛する主の名を聞いて、不安も忘れて顔を輝かせる彼女の方を。


「ファルカスが不在の間に手を打てるとしたらそこだろうな。奴が――できるものなら――帰る前に、娘と孫をこちらの手中に収めておくのだ」

「はい。今度こそマリカ様たちを説得してみせます……!」


 リカードが表立って動くことができない時こそ、彼女の出番のはずだった。元から顔を知られず存在を意識されず、今では命さえないことになっている。そういう立場だからこそ、男たちが剣を取って争う間に陰で動くことができるのだ。


 既に息子とも手紙のやり取りで準備を進めている。王がブレンクラーレへと発ったなら、新しい侍女ということでまたマリカたちの傍に侍るのだ。

 課せられた大役の重さと、また主に会えるという喜びの両方に、エルジェーベトは震え、深く頭を垂れた。

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