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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
19. 戦火、山河を越える
224/347

計算違い① ナスターシャ

 イシュテンの総督が屋敷に向かっているとの報を受けて、ナスターシャは念入りに身支度を整えた。彼らの目的は分かっている。彼女の息子のレフが、イシュテンで動いたのだろう。金髪碧眼の――明らかにミリアールト人の容姿をした者が王の妃を攫うのだ。イシュテン王は、国の沽券に賭けてもミリアールトに報いを与えようとするだろう。今のミリアールトでもっとも身分が高い者と見做される彼女が真っ先に標的になるのは当然のこと。ならば、それを見越した上で堂々とした姿を見せつけなければ。




 痩せて腰を失ってしまった髪を丁寧に梳いて、精いっぱいの艶を取り戻させる。量はともかく長さは十分にあるから、精緻に編み込んで結い上げれば雪の(コロレファ)女王(・シュネガ)の王冠さながらの威厳を装うことができるはず。

 姪のような若々しい、眩い美しさは彼女にはもうない。だから新雪のような純白の衣装などイシュテンの男どもの失笑を買うだけだろう。代わりに選ぶのは、光沢のある銀鼠(ぎんねず)色の生地。重く降り積もって凍った雪を思わせて、ミリアールトの忍耐を表すのに相応しい。


 ミリアールトが敗れた時、姪のシャスティエは美しく装ってイシュテン王を迎えたのだという。首を刎ねられるのを想定して髪を上げて(うなじ)を晒し、あえて首飾りはつけなかったと人づてに聞いて、ナスターシャがどれほど心を痛めたことか。女王というだけで若い娘がそこまでの覚悟をしたこと自体も想像を絶するが、イシュテン王は更にその覚悟を笑い飛ばして無にしたのだ。死を持って国を贖うことさえ許されず、囚われの身に甘んじなければならなかった屈辱は、いったいどれほどのものだっただろう。

 姪の命を救うために我が身を投げ出した夫と上の息子たちのことを思うにつけても、ナスターシャはイシュテン王の傲慢を赦してはならないと思うのだ。


 ――そう、だから……今こそ、復讐の時……!


「奥様、いかがでしょうか……?」

「ええ、良いでしょう。ありがとう」


 侍女が差し出す鏡に映った自身の姿を見て、ナスターシャは頷いた。姪もこのような張り詰めた気分を味わったのだろうか、と思いながら。彼女は公爵の妻であって王族――ましてや女王ではないし、姪のように輝くばかりの若さや美しさを持ち合わせてもいない。イシュテン王の手の者が彼女を捕らえてすぐに命を奪うとも思えないから、()()()のシャスティエの恐怖や絶望を、今の彼女は知る由もない。


 それでも姪と自身を重ね合わせてしまうのは、あの時始まった憎しみや悲しみを終わらせる第一歩を、今やっと踏み出すことができると思うから、だろう。


 ――私を捕らえて、好きなだけ甚振れば良い……それで意趣返しになると信じれば良い……!


 弱気や怯えが表情に上らないように、ナスターシャは意識して背筋を正した。歳若いシャスティエにもできたことだ、姪のためにも死んだ者たちのためにも――そして、彼方の地で奮闘している末の息子のレフのためにも、毅然として為すべきことを為さなくては。


 否、彼女は既に自らの役割を()()()


 息子の生存と、ブレンクラーレとティゼンハロム侯爵との同盟を知らされて以来、彼女は密かにミリアールトの諸侯に蜂起の準備を、心構えを促してきた。女王を人質に取られ、武力の差を見せつけられて諦めていたようだった彼らも、大国の後ろ盾があると知れば反応も変わった。しかも、女王を救い出す見込みがあればなおのこと。

 イシュテン王がミリアールト語を禁じたことは大した障害にはならなかった。総督を始めと知ったイシュテン人はこの地にはほんの一握りしかいない。イシュテン王の横暴は、ミリアールトを委縮させるよりもいかに征服者の目を盗んで団結するかという執念に火をつけることになったのだ。


 もはや、ナスターシャが指揮を執ろうと執るまいと事態は変わらない。イシュテン王が再び兵を向ければミリアールトは立ち上がる。そして予想外の反撃に遭うイシュテン軍の背後を、ブレンクラーレの後援を受けたティゼンハロム侯爵が討つ。

 囚われの身の屈辱は、シャスティエほど長く耐え忍ばずとも良いだろう。ナスターシャが助け出される時は、きっと息子が姪を伴ってやって来てくれる。そうだ、少なくともふたりは戦いの及ばないブレンクラーレに逃れるのだ。ミリアールトがまた戦地になるとしても、ナスターシャの肉親たちが巻き込まれることはない。長い冬を忍ぶように、この戦いさえ耐え抜けば、きっとまた生きて会うことができる。イシュテンの総督らが、その前に業を煮やして彼女の首を刎ねたとしても構わない。祖国のために戦った者は必ず雪の女王の氷の宮殿に迎えられるだろう。だから、少なくともナスターシャは夫と上の息子たちに再会できる。


 地上か、あるいは死後の世界での再会を信じて、ナスターシャはイシュテンの総督らと対峙する勇気を奮い立たせた。




 着飾ったナスターシャをひと目見て、イシュテンの総督であるエルマーという男は軽く目を瞠った。だが、彼女の盛装に気付いても追従めいたことは口に出さず――その緊張した面持ちが、やはり用件は予想通りのことだろうと思わせてくれる。


「――今日は、公爵夫人にはお辛いことをお伝えせねばなりません」

「まあ、これ以上辛いことなど私には想像できませんのに」


 そしてエルマーが切り出した時には、ナスターシャの心臓は喜びに跳ねた。イシュテンの者どもが、果たして彼女たちの計画通りに動き、考えているのだとほぼ確信できたから。ただ、この喜びは決して悟られてはならない。どきどきと高鳴る心臓を懸命に押さえて、ナスターシャはいつもと変わらぬ冷ややかで皮肉っぽい態度を保とうとした。


「クリャースタ様がご滞在されている館から攫われました。――お守りすることが叶わず、まことに申し訳のない次第ではあるのですが。ですが、犯人はどうやら夫人もご存知の者のようなのです」


 彼女の演技は成功しているのか、エルマーに他人の感情の裏を読む目がないだけか。とにかく、相手は疑問を持った様子もなく手短にことの経緯を説明してくれた。ナスターシャはもう知っていることだから、ほとんど二度手間のようなことではあったけれど。話が進むにつれて息を呑む、口元に手をあてる、そんな仕草がわざとらしくはないか、頭の隅では常に計算を巡らしていたけれど。


「そんな……レフが……!」


 言葉も出ないほどに驚いた()()をするナスターシャを、エルマーは憐れむような目で眺めた。本当に何も知らなければ腹立たしいだけの憐れみだろうが、彼女の演技を信じ込んでいるからだと思えばいっそ愉快だった。


「ご子息のことです。さぞやご心痛とは存じますが陛下が見逃されることはないでしょう」

「まさか、私が匿っているとでも? 息子が生きていることさえ、たった今知らされたばかりだというのに……!?」


 だが、怒りも装わなければならない。生きていることが分かった息子を、同時に奪われると告げられた母の憤りを演じなくては。そして、自身にかけられた疑いに初めて気付いたかのように、気分を害した表情を作るのだ。息子が生きていたと教えて喜ばせておいて、その望みをすぐに取り上げ、叩き潰す――何も知らなかったとしたら、エルマーの言葉は彼女にとって侮辱でしかないのだから。

 もちろん、ナスターシャは内心では期待に震えている。イシュテン王がミリアールトに目を向けて彼女を疑っているなら僥倖だ。ブレンクラーレやティゼンハロム侯爵への警戒を、今は忘れているということだから。


 ――さあ、私を捕えれば良い。そうすれば、それを契機にミリアールトは怒りで立ち上がる……!


 拘束されることを予想して身体を固くしたナスターシャに、しかし、エルマーはあっさりと首を振った。


「いえ、そういうことではございません。その賊――と、言わせていただきますが――の行き先は知れております。襲撃を生き延びた者やイルレシュ伯の証言、更にはイシュテンの国内でもかねてから怪しい動きがありまして」


 彼が続けたのは、彼女には理解できないこと。計画し予想していたのには当てはまらないこと。ただ、あのイルレシュ伯(裏切者)の名に、何か嫌な予感を覚えた。そして――


「その者は、クリャースタ様を攫ってブレンクラーレへ逃げたものと思われます」

「な……っ!」


 今度こそ、ナスターシャは驚きのために言葉を失った。演技の驚愕と本心からの区別がつかないのか、エルマーはやはり彼女を気遣うような――吐き気がする――口調と表情で続けたけれど。


「ゆえに陛下はクリャースタ様を奪還すべくブレンクラーレを攻めます。他国からの干渉は我が国への侮辱、イシュテンの諸侯も心を一つにして戦意を猛らせております」

「そんな……では、レフは!」


 ブレンクラーレは戦場にはならないから息子たちは安心だ、と思ったばかりなのに。どうして、こんなことになったのだろう。第一、この男が語るのは本当のことなのか。彼女を揺さぶって陰謀を暴こうとしているのではないか。いや、でも、彼女が疑われているならば、もう全て露見しているということなのか。ならばなぜこの男は彼女に対して表面上だけでも礼儀を守って見せるのだろう。


 だが、不安も混乱もどうでも良い。重要なのは、イシュテン王が兵を動かした先に、彼女の息子がいるということだ!


「クリャースタ様は必ずお救い申し上げますのでそこはご安心ください。立ち塞がる者は必ず滅ぼされるでしょう」

「どうして私にそんなことを言うの! ここに何をしに来たの!?」


 シャスティエを奪い返すためにレフを殺す、と。ナスターシャはそう言われたと感じた。もちろん、最初からそうなると分かっていたはずではあるけれど。でも、イシュテン王はレフやシャスティエを探して闇雲にミリアールトを攻めるのではなく、的確に彼らの居場所を狙おうとしている。そのことが、怖くてならなかった。

 それに、既に戦う覚悟を固めているミリアールトの諸侯はどうすれば良いのだろう。イシュテン王がブレンクラーレを目指せば、ミリアールトに背を向けることになるのだろうか。だが、今イシュテンを攻めても、取り戻すべきシャスティエはいない。迎え撃つであろうティゼンハロム侯爵も、本来はイシュテン王の敵のはずなのに。敵を同じくする者同士で戦うのは愚行、なのだろうか。ならばナスターシャは、ミリアールトは、今、どうすれば良いのだろう。


 激昂したナスターシャに対し、エルマーは軽く眉を上げただけだった。これだから女はうるさい、と。声にならない溜息が聞こえた気がして、こめかみに血が集まるのが分かる。彼女にだって分かっている。この男を怒鳴りつけたところで何にもならない。でも、息子に危機が迫っていると聞いて、平静でいられる母親がいるはずもない。


「――ミリアールトが此度のことで動揺することがないように。そのために臣にでき得る最善を為しにまいりました。無論、陛下がクリャースタ様のために挙兵されること、大方の者は理解してくれましょうが。夫人は特に御心穏やかではいられませんでしょうから」

「ええ! 息子のことだもの! また私から奪うというの!?」

「クリャースタ様のご無事はミリアールトの民の望むところと存じます。ですから、夫人にはどうか賢明に振る舞っていただきたい、と――お願いしに、参ったのです」


 ――賢明に、ですって!? そんなこと、できるものですか!


 エルマーが言うのは、息子が殺されるのをここで黙って見守っていろということだ。イシュテン王がブレンクラーレと戦う時に、余計な騒ぎを起こすなというのだ。

 ミリアールトの方から討って出たところで利はないというのは、確かに先ほど考えたばかり。イシュテン王がシャスティエを救うために挙兵するというなら、意趣返しや報復ということではなく、あくまでもブレンクラーレの干渉を退けるという大義を掲げるなら、ミリアールトの諸侯もその背を襲うことを躊躇うかもしれない。そんな中でナスターシャがひとり声を上げたところで、世の人の信用を失うだけかもしれない。


 それでも、状況を理解してなお、エルマーの言葉は彼女の神経を逆なでる。この男が彼女のもとに来た以上、ナスターシャはミリアールトの民を扇動することさえもう許されないのだ。願い、などとへりくだるような言い草こそ図々しい。ミリアールトを下し征服する者たちのこと、彼女が大人しくしなければ力に訴えるつもりでやって来たのだろうに。


「見せしめに捕らえておくと正直に言いなさい! 要はそのために来たのでしょう!」


 エルマーはついにあからさまに溜息を吐いた。うんざりとした表情で片腕を上げると、背後に従えていた兵がナスターシャを取り囲む。それでも彼女の身体にイシュテンの男どもの無骨な手が触れられることはなく、あくまでもどこか――幽閉場所へ誘導するだけのつもりのようなのが腹立たしい。夫や息子や姪と違って、彼女には血を流して戦うことすら許されないのだ。


「……乱暴はするな、との陛下の仰せです。それにイルレシュ伯の望みでもある。戦いが終わるまで、余計なことはなさらないように願います」

「イルレシュ伯! あの裏切者……イシュテンに帰してやるのではなかった……!」


 イシュテン王がこうも素早くナスターシャを取り押さえることを考え付いたとは思えない。ならば近くにそのように進言した何者かがいたのだろう。否、何者か、ではない。考えるまでもなくそのような存在はただひとりしかあり得ない。


「ミリアールトの臣下が! どうしてミリアールトの復讐を邪魔するの!? ミリアールトの王族を脅かすの! どうして、レフを守ってくれないの……!?」


 ミリアールト語での叫びを、咎められることはなかった。狂乱した女が口にすることなど意味のあることではないとでも思われているのだろうか。ああ、確かに何と無意味なことを口走っていることだろう。


 どれほど喉を枯らして叫ぼうと、もうナスターシャには何をすることもできない。イシュテンの者に見張られ、閉じ込められて、待つことしかできない。戦いの帰結がどうなるか。イシュテン王とブレンクラーレと、どちらが勝利を収めるのか。誰が生き残って――誰が、死ぬのか。


 息子には、また会えるのだろうか。

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