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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
19. 戦火、山河を越える
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想いの在処 ウィルヘルミナ

 夫が彼女のもとを訪れてくれるまでに、ウィルヘルミナは気が遠くなるほど――と思えた――の日々を待たなければならなかった。黒松館とシャスティエを襲ったのはよほどの椿事(ちんじ)だったらしく、何も知らない、できない女を見舞う暇などなかったのだろう。それは、仕方のないことだ。


 ただ、夫を待つ間にも不確かな、でももっともらしい噂に多く接しなければならないのが辛かった。どれを信じてどれを退ければ良いのか――否、それは分かっていたと思うけれど。でも、信じるべきこと、信じるべき人を信じ続けるには、ウィルヘルミナの周囲で囁かれることはあまりに彼女を揺さぶったのだ。


 シャスティエが――イシュテン王の側妃が夫以外の男と手に手を取り合って逃げたのだ、という情報は、翌日になるともう少し詳しく、もう少し修正を加えて伝えられた。あの侍女、ドーラがどこからか仕入れてきて得意げに教えてくれた。

 黒松館を襲った者は、金色の髪に碧い瞳を持っていたとか。それは、イシュテンではまず見ることができない北の人々の特徴。つまりはミリアールトの者が人質となっていた元王女を助けようとした、ということらしい。それも――


『クリャースタ……様、によく似た美しい若者だったということですわ。だから、あの方にとっても予期せぬ救いの手だったのではないでしょうか』


 ウィルヘルミナが露骨に眉を顰めるから、仮にも王の妃であるシャスティエを呼び捨てることは、ドーラという侍女は控えてくれた。それでも、露骨に嫌そうな顔をしながら、ではあったけれど。乳姉妹のエルジェーベト以上に彼女の心情を知らず、慮ることもしてくれないこの若い侍女は、主の反応が薄いことに少し不服かつ不審そうだったが、気付かない振りを決め込むことにしたらしく、笑顔で続けた。


『――だから、陛下は近くミリアールトを攻められるでしょう。でも、一度は(くだ)した国ですから、王妃様の御心配には及ばないかと。クリャースタ……様、もきっと連れ戻されますわ。もちろん、こんなことがあった後では今まで通りのお立場という訳にはいかないのでしょうけど!』


 戦いに関わること、他の者の生死や不幸に関わることを、侍女が楽しそうに語るのがウィルヘルミナには信じられなかった。先日、王位争いの帰結に彼女の恋慕と選択が大いに関わっていたと夫に知らされて以来、彼女は人の血が流れること、人が争い合うことが今まで以上に恐ろしくて堪らなくなっているというのに。――でも、思えばエルジェーベトもよくこのような口調で語っていた。


 娘の目が突き刺さるように感じられるのも辛かった。お父様からもお話を聞かなくては、と言い聞かせているものの、父に与する使用人たちの噂話を先に耳にしたマリカは疑問を募らせているようだったのだ。綺麗で優しいと思っていた「お姫様」は父を裏切っていたのか、なのに父はその人のために自分や母を放っておいているのか。そんなことはない、そんなはずはないと何度言っても、頑なな娘の胸に芽生えた疑いを摘み取ることはできなかった。


 それに、ウィルヘルミナ自身の嫉妬とも向き合わなければならない。娘に対しては何と言おうと、父の非道を、自身の無知と無力を承知していようと、夫の心が他所に奪われるのを見せつけられるのは悲しい。夫が奔走しているのはひとえにシャスティエを助け出すため。危険な戦地に赴くのも、それを見送るのも常に心が痛むことだったけれど、今回はきっと今までで一番辛い別れになるだろう。


 ――いいえ、でも、当然のことだもの……! シャスティエ様を助けなくてはならないの……!


 夫の行動を、変心などと思って責めてはならない。面と向かって尋ねても――ウィルヘルミナが信じられるかどうかは別として――夫は否定するだろうし、若さも美貌も、父親や祖国の後ろ盾の有無もこの際関係のないことだから。でも、だからこそどうしようもない。あの方と自身のどうしようもない違いを見せつけられ思い知らされるようで息もできないような苦しさを味わわさせられる。


 シャスティエは懐妊、しているのだという。




「――遅くなって、すまなかった」

「いえ……」


 だから、やっと夫を迎えた時にはウィルヘルミナは疲れ切っていて、愛しい方の顔を見ても微笑むことさえできなかった。ただぼんやりと見返すだけの妻に、夫が軽く眉を寄せたのを見て、やっと形ばかり口角を上げる。それでも、きっと笑みとは呼べないような表情でしかなかったのだろう。夫は何か痛ましいものを見るように彼女を見て、眉を解くことをしてくれなかった。


「お忙しいことと、存じておりましたから」

「何があったか……おおよそのところは聞いたのだろうな」

「はい――いいえ! でも、ファルカス様のお言葉でなければ信じてはならないと思っておりました……!」

「そうか……」


 かつてのように、ウィルヘルミナは夫に駆け寄って抱き着くことはもうできない。自分にそんな資格があるとは思えないから。でも、その代わりとでもいうのか、夫は自ら歩み寄ると彼女の身体を抱きしめてくれた。そっと、そこにいるのだと、確かめるかのように。


 ――ああ……ファルカス様……。


 その探るような手つきに、悟ってしまう。夫が抱きしめたいのは、目の前にいるウィルヘルミナではないのだろう。遠くへ連れ去られてしまったシャスティエを思って、手近にいる女の身体を求めているだけなのだろう。そうと気づいてしまうのは辛く悲しいことではあるけれど、でも、夫が近くにいてくれるということだけでも得難い幸福、なのかもしれない。


「近く、戦に出なければならぬ」

「はい、承知しております」


 それは愚かなウィルヘルミナにでさえも分かり切っていたことだ。王の妃、それも、世継ぎかもしれない子を宿したシャスティエは、何としても取り戻されなければならない。そして御子のことや外聞がなくても、夫は妻とした女を見捨てるような方ではない。最初の出会いでこそ秀でた容姿に目を奪われたけど、そういう方だと知るうちに、彼女はますます夫に惹かれていったのだ。だから、胸の痛みを感じるのは多分間違ったことだ。


 ――それとも、夫が戦う相手のことを思って心が痛んでしまうのだろうか。


「あ、あの……今度は、どちらへ……?」


 声が震えるのを必死で抑えて――抑えようとして――、ウィルヘルミナは夫に問うた。分かり切ったことを、と自身の覚悟のなさを嗤いながら。

 前々から夫は父との対決が近いと告げてくれていた。それに、シャスティエのこともどうせ父が絡んでいるのだろう。だから今度こそ夫も見逃してはくれないのだろう。そう、だから今さら怯えたり嘆いたりしてはならないし、父の所業を思うとシャスティエを羨み嫉妬するのも絶対に間違っている。


 そう、自身に言い聞かせて身構えていたというのに。夫の答えはウィルヘルミナが予想もしていなかったものだった。


「ブレンクラーレを、攻める」


 抱いていたウィルヘルミナの身体を離し、両肩に手を添えて顔を正面から見据えて。青灰の目に確かな決意を浮かべて――そう、夫は告げたのだ。




 それからマリカも呼んで、膝の上に乗せながら、夫は噛み砕いた言葉で状況を説明してくれた。

 ティグリス王子の乱の時から見え隠れしていたブレンクラーレの影。更にアンネミーケ王妃の意を受けて暗躍していたと思われるミリアールトの青年。国境を越えた思惑は一点にシャスティエを指し、黒松館を襲ったと考えられるということ。


 ――外国にまで戦いに行くなんて……。


 夫が国境を越えて戦いに赴くのは初めてではない。それこそシャスティエと出会うことになったのもミリアールトを攻めたことが切っ掛けだった。でも、相手がブレンクラーレとなれば話は全く違う。無知なウィルヘルミナでも恐ろしさを感じてしまうほどに、かの国の強大さはあまねく知れ渡っているのだ。


 不安に言葉もでないウィルヘルミナを他所に、夫はマリカに目線を合わせて語り掛けている。


「マリカ。突然母がいなくなったら寂しいだろう? 悲しいだろう?」

「うん……。お父様がいなくなるのも、イヤよ……」

「嬉しいことを」


 父の胸に頭をすり寄せた娘の思いを、夫は多分完全には分かっていなかっただろう。マリカもそれには気づいたようで、頭を撫でられても少し不満げに頬を膨らませている。でも、マリカがまた意地を張って顔を背けたりしなかったのも、夫が少し笑ってくれたのも、ウィルヘルミナの心を少しだけ和らげてくれた。


 ――マリカも、お父様が嫌いな訳ではないのよ……。


 父の不在に機嫌を損ねてどんどん心を閉ざしていくようだったのは、会えないのを寂しく思うからこそ、父を慕う思いも確かにあるからこそだ。生まれたばかりの妹に父の関心を奪われたのだという疑いは、母がどんなに言葉を尽くしても解きほぐすことはできなかった。久しぶりに会えた上に、夫は娘に誤魔化しや隠し事をすることなく語り掛けてくれている、と見える。マリカにもそれが分かるから、最近では珍しいほど素直に父への思慕を露にしているのだろう。今の、これからの状況に不安は尽きずとも、父と娘の絆が絶たれてしまわなかったのは嬉しいと、素直に思うことができた。


「ブレンクラーレは同じことを側妃とフェリツィアに対してしたのだ。母と子を力づくで引き離した。それも、このイシュテンで、王たる俺の目を盗んで。王としても夫としても父としても、見過ごす訳にはいかぬのだ。分かってくれるな?」

「うん……」


 マリカはまだブレンクラーレを強大な隣国としては認識していないだろう。精緻な意匠の装飾品や羽根のように軽い絹、目新しい料理や菓子に使われる刺激的な香辛料――そういった珍しく高価なものがやってくるところ、とぼんやりと知るだけのはず。だから父の言葉には頷きつつも、それと戦うことがどういうことかはよく分かっていないようだった。それでも細い眉を寄せて父の衣装を掴んでいるのは、母の、ウィルヘルミナの不安を感じ取っているから、だろうか。


「……フェリツィアも、お母様がいなかったら寂しいと思う。だから、お父様が助けてあげて……」


 幼い顔には似合わない難しい表情のまま、娘が噛み締めるようにゆっくりと呟いたことに、夫もウィルヘルミナも目を見開いた。マリカは腹違いの妹姫のことを嫌ってしまったのだと思っていたから。相手の立場に立って、その心中を慮って、自らは譲る――いつの間に、娘はこれほどに成長していたのだろう。


「でも、私だってお父様がいなかったら寂しいわ。だから、絶対に帰ってきて……」


 親しい人、愛しい人がいなくなる不安と恐怖を教えたのは、親たちと大人たちに他ならないのだとしても。気丈に父に訴えるマリカの姿はウィルヘルミナの胸を打った。


「ああ、必ず。約束しよう」


 きっと夫も同じ思いだからこそ、力強く頷いてみせてくれたのだろう。




「――父は、今回のことに関わっているのでしょうか……?」


 マリカは、ひとまずは父の出立に納得してくれた。だからしばらく他愛ないことを語った後は珍しいほど大人しく床についてくれた。娘の寝顔をひとしきり共に眺めて、夫の傍らに横たわって。ウィルヘルミナが気に懸かっていたことを口にすることができたのは、やっとその時のことだった。


「疑ってはいる。しかし証拠はないし、他国を攻めるにあたって国内で争うのは得策ではないと考えた。だから当面追及することはしない」


 唐突な問いかけ――でも、夫も覚悟していたかのようにすらすらと答えてくれる。娘の手前伏せていただけで、訊かれることを予想していたのかもしれない。


「そう、ですか……」


 ならばマリカがお父様とおじい様の対立と向かい合うのは少しだけ先延ばしにすることができたのだろうか。それが良いことだ、と簡単に言ってしまえるのかどうか、ウィルヘルミナには分からなかったけれど。


「……留守の間は引き続きアンドラーシをつける。だからお前の父親につけ入る隙は与えないつもりだ」

「はい」


 当然のこと、と頷くと、不意に夫はウィルヘルミナを抱きしめてきた。先ほどの探るような触れ方ではなく、きつく、息苦しいと感じるほどに。


「……シャスティエを攫ったのはミリアールトの王族だとか。あの者にも親しいと聞いた。他国と通じてまで助けようというほどの執念、見逃す訳にはいかないが――」

「はい」


 ――ファルカス様……何を……?


 夫との触れ合いには、もはや嬉しさよりも戸惑いが先に立つ。抱きしめながら囁かれるのが、彼女には直接関わりのないこととなればなおさらのこと。夫が戦場で人を殺すのは恐ろしい。でも、それは弱いウィルヘルミナだからこそのはず。夫が戦いに際して怯むところなど見たことがないのに、どうしてこの方はこんなに抑えた――何かを堪えるような声をしているのだろう。

 でも、その疑問は夫の次の言葉で解ける。


「肉親を殺せば、シャスティエはまた俺を憎むだろう。分かっている。分かっているが、それでも俺はあの者を連れ戻したい」

「……はい。分かります」


 そうだ。夫が戦いを恐れるはずがない。とても強い方だから。でも、そんな方でも愛する人の心を喪うのは怖いのだろう。そしてその恐怖を越えてなお諦められないほどに、夫の心はシャスティエに向けられている。

 抱きしめられながら、他の女性への想いを突きつけられるのは辛かったけれど。夫の心の揺らぎが触れた肌から伝わって来たから、ウィルヘルミナはせめてもの慰めになれば、とその背を撫でようとした。でも――


「お前も、そうだ。父を殺せばいくらお前でも俺を憎む。かつてならば仕方ないことと思って諦めていただろうが……」


 その手が、夫に一層強く抱きしめられたことで止まってしまう。否、腕の強さだけではなくて。声に込められた思い、その強さが、ウィルヘルミナの力を奪ってしまった。指一本動かすことができないほどの驚きが、彼女を打ったのだ。


「それでも、お前を失いたくない。恥知らずな望みと分かっていても。強がりでも、父を選んでも良いなどとは言えぬのだ。だから、お前は恨むのだろうが――」

「ファルカス様……。――いいえ、そんなことはないのです」


 言葉も出せずに固まってしまったのも数秒のこと。縋るように彼女の身体をなぞる夫の手、その触れられたところから、じわじわと喜びが沸き上がる。夫の心はシャスティエだけでなく、彼女にも確かに向けられていると、感じることができたのだ。


「……ありがとうございます」


 シャスティエと同じくらいに思われている、と。愛をふたりの女に捧げること、それ自体を夫は恥知らずと思っているのかもしれないし、確かに胸を刺す嫉妬は完全に消えてはくれないけれど。でも、シャスティエには全く敵わないと思っていたのた。比べられる存在であると言われたことだけでも、望外の喜びで幸せだった。


 ウィルヘルミナも怖かったのだ。その資格がないと知りつつも、シャスティエをねたんでしまう我が身の浅ましさ。夫が不在の間に、それを父たちに利用されることがないように気丈に振る舞わなければならない、と――でも、彼女にそんなことができるのかどうか。甘い言葉で誘惑してくるであろう父たちに、逆らうことができるのかどうか。


 でも、夫がここまで言ってくれたのを聞いた後なら。


「私はずっと、ファルカス様の妻です。父のところへは、行きません……!」


 心から、躊躇いなく。そう誓うことができた。

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