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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
19. 戦火、山河を越える
221/347

宣戦布告① アンドラーシ

 イシュテンの王宮の大広間に、王の命に応えた諸侯が集いつつある。アンドラーシにとっては既に何度も見た光景だ。内憂であれ外患であれ、王が対峙してきた者は多い。その度に戦いに伴う者、後ろの守りを任せる者を選び、あるいは任じ。あるいは負担を避けようとする臣下を宥め脅し、利害を調整して纏め上げる。そのような戦いの前の戦いの場が、この広間では繰り広げられてきたのだ。


 最も近い記憶で言えばティグリス王子の乱の時がそうだし、更に遡れば王がミリアールトを狙うと宣言した時も、アンドラーシはこの場の末席に控えていた。いずれの場合も、王に力を見せんとする気概と、戦いに臨むという心地良い緊張が彼を高揚させていたものだ。――だが、今は彼らしくない不安が心臓をちくちくと刺しているようだった。

 この落ち着かない気分は、イルレシュ伯――ミリアールトでの称号はまた違うそうだが異国の言葉はどうも覚えづらい――の蜂起を聞いた時と少し似ている。あの頃、今はクリャースタ・メーシェ妃と呼ばれている方は人質に過ぎなかったから。王の側妃にと見込んだ方が、祖国が背いた代償に死を賜るのではないかと気が気ではなかったのだ。


 あの時は、結局あの方は見事に王とイシュテンの諸侯を説き伏せるのに成功した。ミリアールトの雪の女王さながらの美貌と誇らかに響く声で、無血で乱を収めて見せるなどという大言を王に呑み込ませたのだ。真冬の北国への行軍自体はやはり気が重いものではあったが、彼我の戦力の差は歴然であった――だからいざとなれば勝機は十分にあったし、クリャースタ妃が王のために尽力しようしていたのは心強かった。


 ――だから、今の状況はアンドラーシの主観ではかつてなく悪い、と思えてしまう。クリャースタ妃は王の傍になく、敵の姿は定かではない。王が事前に打ち明けてくれた剣を向ける先は、彼にはあまりにも強大に思える。そもそも本当に側妃の誘拐に関わっているのか確かな証拠はなく、王とイルレシュ伯の推論を聞いてなお納得しきることはできない。しかもリカードの脅威を後方に残したまま、王が国を空けることになるのだ。


 ――だが、いずれ賭けになるのだな……。


 リカードを捕らえて拷問しようにも、今のイシュテンではそれこそ証拠なしにそのようなことはできはしない。事態の全容を知る手段がないならば、そしてそれでも行動を起こそうとするならば、万全の確信など望むべくはないのだろう。


 ならば、アンドラーシは王に命じられた役割を果たすしかない。王の主張を補強し、諸侯の心を動かすべく声を上げろ、という――あの時のクリャースタ妃にも似た役割だ。果たして彼に務まるものなのか、自信を持つことはできなかったが。


 だが、もうやるしかないのだ。




 玉座にはまだ王の姿はなく、来臨を待つ間、集った者たちが互いに囁きかわす声がさざ波のように広間を揺らしていた。


「王は何を言い出すつもりだろうな」

「側妃を救いだす、か? そこまで骨抜きにされているか、あの女の具合がそんなに良いのか……」

「褒美に味見をさせてくれるというなら力を貸してやらぬでもない」

「既に子を生んだ女だというのに物好きな」


 下世話極まりないやり取りは、やはり下品な笑い声で締めくくられた。王に対してもクリャースタ妃に対しても無礼千万な連中に、ひと言もふた言も言ってやりたい――できることなら拳なり剣の一閃なり加えてやりたいところだが、今騒動を起こす訳にはいかない。だからアンドラーシはただ拳を握り、爪が掌を抉る痛みで悔しさを堪えた。


 ――笑っていられるのも今のうちだぞ……!


 負け惜しみのように、心中で吐き捨てる。王がひと度言葉を発すれば、どれだけ自身を高く売りつけ、王に恩を着せてやろうと算段している不忠者どもも揃って目を剥くに違いないのだ。問題は、アンドラーシ自身も嗤って見ていられるような心情にはなれないであろうことだが。


「――いよいよお出ましか」


 ともあれ、広間に集った者たちの声も、ついに鎮まる時が来た。侍従が王の来臨を告げたのだ。リカードに従う者も、王に忠誠を誓う者も、自らの利のみを考える者も。表向きは従順にイシュテンの王に膝を折る。王が纏っている、重い刺繍を施されたマントの衣擦れの音さえ響く中、王が玉座に着く気配がした。


「急な命に応えての参集、心から感謝する。――面を上げよ」


 王のそれに数百倍する臣下の衣擦れが、人声とは違った種類のさざ波を起こす。周囲の者に倣って顔を上げたアンドラーシは、王の顔が常の傲慢さを纏っているのを遠目に見て取った。黒松館を目指して駆けていた時の焦燥も、クリャースタ妃の侍女の話を聞いていた時の弱気も、今は読み取ることができない。王が――内面はともかく――平静を取り繕うことを思い出してくれたなら、諸侯の説得の成否にも希望が持てるというものだ。


「陛下に忠誠を示す機会を、我らは常に待っておりますれば。どうか早く御下命をいただきたいものでございます」

「ふん、俺が何を言い出すかと気になっているのだな」


 (へつら)いを装って王を試し皮肉る言葉を投げた者をあしらう笑みも、堂に入ったものに見える。側妃に溺れたと見做されたことで、諸侯の信頼と忠誠が弱まっているのを、王も承知していた。だからバカ正直に――そして意地の悪い者が期待するように、クリャースタ妃を助けたい、などとは言い出さない。


「ならばつまらぬ前置きはなしにしよう。――貴公らにとって、シャルバールの地はどのような意味を持っているか?」


 事前に王が何を言うつもりか聞いておいて良かった、とアンドラーシは心から思った。でなければ唐突に、脈絡がないとさえ思える問いに戸惑わなかったはずがない。無論、奇襲のように先手を取って相手の鼻先を挫くことで主導権を握ろうという、王の策だ。


「――どちらの意味か、との理解でよろしいでしょうか」


 リカードでさえ顔を顰めて言葉を探しあぐねている中、いち早く声を上げた者の度胸は褒められて良いだろう。


「歴史として伝えられたシャルバールの戦いは華々しいもの。ヤノシュ王はブレンクラーレの侵攻を見事退け、大鷲の羽根を毟ってやった。――ですが今やその栄光は過去のもの……!」

「そう。今ではシャルバールの名は忌まわしい響きを持つようになってしまった。数多の戦士が卑劣な罠によって剣を抜くことさえなく命を落とした。父や息子や兄弟を喪った者もここには多かろう。父祖が築いた栄光を当代で汚すことになるとは、まったく遺憾なことであった」


 王が満足げに微笑んだのは、予想した通りの答えが返ってきたから。それに余裕を装う意味もあっただろう。しかしティグリス王子の乱でのシャルバールの惨状を思い起こした者たちには、その笑みは挑発にしか見えないはず。事実広間に並んだ諸侯からは口々に怒号が飛んだ。――王の、思惑通りに。


「――なぜ、今その話を持ち出される!?」

「前置きはないと仰られたはず。何を迂遠なことを……!」

「さっさと本題に入られるがよろしかろう!」


 さすがに立ち位置を離れて詰め寄る者こそいなかったが、頭に血が上った者たちの怒気で広間の気温が幾らか上がったようにさえ思えた。それほどの苛立ちや憤懣を受けて、しかし、王は今度こそ心から笑ったように見えた。この反応もまた、王が予想しそうなるようにしむけたものに他ならないから。


 ――だが、これは煽り過ぎてはいないか……?


 牙を剥く狼を思わせる王の笑みはいかにも獰猛で、この状況を愉しんでいるのではないかと思うほど。これも演技の一環なのだろうと信じたいが、もしや自棄が含まれていたりはしないかと思うと、アンドラーシの心は落ち着かない。王がこちらを見ることさえしないのは、当面の()である諸侯から目を離せないからなのだろうが。とにかく、彼ができるのは己の出番を待つことだけ。今はまだ、王が臣下に語るのを見守ることしかできないのだ。


「何を早合点している? どうして王の心中を計り知ることができたなどと思うのだ。俺は最初から本題の話しかしていないぞ」

「本題。本題とは……いったい、臣らに何を命じるおつもりでしょうか」


 ここにきて、リカードはやっと舌を動かすことを思い出したらしかった。恐らくこの広間で最も落ち着かない気分を強いられているのがこの男だろう。王が失態を犯すのを手ぐすね引いて待っていたのだろうに、王が言わんとしていることを全く予想できないのだろうから。策が成功したと思い込んでいたのが崩れ落ちようとしている不安――せいぜい、噛み締めれば良いと思う。


「命じるのではない。俺は、貴公らに恥を(すす)ぎ復讐を果たす機会を与えてやろうというのだ」

「何を……!」


 リカードの方はちらりと見ただけで、広間全体に向けて答えた王の言葉も態度も表情も、あくまでも高圧的に、諸侯の反発と不審を誘うように。誘われるように次々と上がる怒声は、もはや誰の口から出たものかも分からない。誰もが、王の言葉に引き込まれている。ここまで思ったように釣られるものか、と。アンドラーシの緊張も高まり血が熱く全身を巡る。


「ティグリスは既に死んだ! なぜ今さらそのようなことを仰るか!」

「恥というならそれは何よりも王のものであろう! みすみす乱を起こさせ、今また無様を重ねている……!」

「復讐だと? 何者に? ハルミンツに与した者どもを屠らせてくださるとでも!?」


 最後の声には、広間の空気が剣呑にひりついた。ティグリスの乱に際して王についた者とティグリスについた者との間に、見えない壁が築かれたようだった。前者は後者を睨み、睨まれた後者は身体と表情を強張らせて身構える。騎馬を誇るイシュテンの戦士を、罠に嵌めた上で泥に塗れさせて一方的に弓矢で殺した――正々堂々とした戦いの結果ならばともかく、汚い陰謀によってのこととあって、恨みも憎しみも一入なのだ。

 あの後、罠の仕掛けを施したのは――シャルバールの野に穴を穿ち水を引き入れたのは何者か、結局分からないままだった。だから捕らえられた者は、誰もが死んだティグリスとハルミンツ侯爵のせいにした。彼らは預かり知らぬこと、非道に加担させられたという点では彼らも欺かれていたのだ、と。口を揃えて王に弁明したのだという。


「それこそ今さらだ! 過ぎたことをいつまでも蒸し返すな!」

「何を!」


 つかみ合いが起きかけているのは、乱の生き残りと、乱で身内を喪った者の間でのことだろう。広間のあちこちで、同じような言い争いが始まっていた。


 確かに何も知らなかった者もいるのかもしれないが、死者に語ることができないのを良いことに言い逃れたと考えている者も多い。反逆への罪は問われ、それぞれに相応の罰は与えられたといっても、まだまだ足りぬと不満が燻っていたのだ。


 ――良い具合に燃え上がらせることができた、か……? あとはこれを陛下の思う方に向けられれば……!


 実際アンドラーシも反逆者どもの言い訳と考えていた。卑劣な策に頼ったばかりか、その結果を償うことさえしない惰弱と見下していた。あの戦いで片腕を喪ったカーロイ・バラージュへの憐れみもある。――だが、それも王に本当の()()がいると聞かされるまでのことだ。


 彼でさえも完全に信じ切ることができている訳ではないが――だが、もし王の言葉を真実とするならば、何よりも憎むべきは自らは安全な場所にいて他国(イシュテン)に貪欲な鉤爪を伸ばそうとするその黒幕だ。乱に加担した者にとっては、いらぬ罪を負わされたと思えば二重の意味で恨みがあるとさえ言える。


 全ては、この後の王に掛かっている。それにか彼が正しく加勢できるかどうか。黒幕の存在を諸侯に信じさせ、怒りと憎しみを向けさせることができれば……!


「落ち着け。今この場にある者たちは例の企みには関わっておらぬ。あの乱の後十分に詮議した上で断じたことだ」


 王がひと際力強く声を響かせ、腕を掲げることで混乱に沈みかけた広間に一時の静寂を取り戻させる。とはいえそれは本当に一時だけのことだろう。喪った身内を、罠の屈辱を思い出させられた者、償ったはずの罪で詰られた者――誰もが殺気立った目で王に注目している。未だ王の意図を掴み切れていないであろうリカードも、言わずもがなだ。


「では、どうか早く教えてくださいませ。復讐すべきは何者か。どのようにして恥を雪げば良いと仰るのか……」


 リカードの鋭い目は、まさか自分を名指しするのではないだろうな、とでも言っているかのようだった。とんでもない濡れ衣を着せて、諸侯の怒りの的にする気なのでは、もしもそのようなことを言い出したら、即座に侮辱だ忠誠への裏切りだと言い立ててやる、と。

 だが、本気でそのような懸念を抱いているならば、王を侮り過ぎているというものだ。根拠もなく罪を作り上げて非難することの危険を、王が分からないはずがない。


 まだ敵の先を行くことができていると確信したのだろう、王はまた笑ってリカードの顔を一層顰めさせた。口元を笑ませたまま続けるのは、特別に低く力強くゆっくりとした言葉。ひと言ずつ、諸侯に噛み締めさせるかのような。


「――そもそも最初から不思議には思わなかったか? ティグリスがただひとりであのような策を思いつけるものなのか。健常な者を妬み憎む思いがあったとしても、イシュテンの王族がイシュテンの誇りを踏みにじろうとなどするものか。ましてハルミンツ侯爵――あのような小物に、未来永劫に渡って悪名を語り継がれる覚悟が持てるものか」


 だから、あの罠を思いついたのはイシュテンの者ではない――言外の含みを正しく聞き取ったのだろう、ごくりと唾を呑み込む音、恐らくは複数の人間が出した音が、やけに大きく耳に届いた。


「イシュテンの誇りに挑み、汚し、国内に不和と不信をばら撒いた! そればかりか今なお卑しい目でこの国を狙い、汚い手を伸ばそうとしている! ()のごとく、空の高みから全てを見通し操っていると信じている――だが、その実は狡猾な狐に過ぎぬ!」


 王の声は次第に高まり、最後は雷鳴のように轟いた。並み居る諸侯が王の言葉に聞き入り、身動きせずに食い入るように玉座を見つめる様は、まさに雷に打たれたかのようだ。

 ぎし、と王が歯を噛み締めるのが遠目にも見えた。諸侯を煽るための演技というだけでなく――国をかき乱され、妃と王女にまでも手を出された王の怒りは真実だ。受けた屈辱は必ず返すのは、イシュテンの王としての、もはや務めでさえあろう。


「今こそ貴公らに剣を向ける先を教えよう。ブレンクラーレのアンネミーケ王妃――あの女狐こそ、長年に渡ってイシュテンを狙い乱そうとする真の敵。それを討つためにこそ、俺は貴公らを呼び集めた! シャルバールの雪辱を果たせ! これ以上女狐めの思い通りにはさせてはならぬ!」


 王が宣言したのは、臣下への命令、イシュテンへの叱咤。そして何よりも、王自身に対しての決意の表明――名高き強国、ブレンクラーレへの宣戦布告にほかならなかった。

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