冬に見る春の夢 アンネミーケ
ブレンクラーレ王家に嫁いで二十余年、アンネミーケは鷲の巣城で起居している。諸国に壮麗さを謳われ、多くの王族の逸話に彩られた王宮の主を名乗る栄誉は、この国の王妃ならではのものだ。――だから、卑しい女どもが王宮の一角に棲みついていたとしても、それは彼女の寛容があってこそのこと。彼女の夫君を取り囲んでいた美しく頭の空っぽな女たちはあくまでも一時だけ、仮に王宮のささやかな建物や一室を与えられていたに過ぎない。そう自身に言い聞かせて、アンネミーケは視界の端を掠める金の髪や碧い目、耳につく軽やかな笑い声に耐えてきたのだ。
「短い間でよくここまで整えたもの……」
その一角を見渡し、アンネミーケは呟いた。鷲の巣城の中でも、彼女が今まで足を踏み入れたことがない場所だ。というのも、夫君が愛人のひとりに与えたものだからだ。小さな屋敷に、庭には水を引いて川を模し、長閑な田舎の別荘のような雰囲気を演出している。夫君はここで、その女と夫婦のような時間を持つ遊びに興じたものだった。
その女は、結局他の男に気を移してその妻になった。一国の王が相手とはいえ遊び相手に過ぎない関係よりも、歴とした婚姻を選んだのなら意外と考える頭があったのかもしれない。それとも私生児の烙印を押されることになる子の将来のことを思ったのか。生まれ月の怪しい子と王家の醜聞を黙って引き受けてくれたその男に、アンネミーケとしては感謝しかない。
「はい、アロイジア様がいらっしゃった頃のことを思い出します」
父王に連れられて件の女を尋ねたこともあるマクシミリアンは、母の感慨には無頓着に目を細めて懐かしそうな表情をしている。夫君の愛人たちの例に漏れず、アロイジアもひたすら王太子を甘やかし可愛がるばかりだったのだ。
公務に勤しむ彼女を他所に、夫君と息子が遊び呆けていた場所だと思うと仮の女主人が去った後もここに近寄る気にはなれなかった。わざわざ不快な思い出のつきまとう一角を選ばずとも、鷲の巣城に美しく心地良い景観はいくらでもあるのだ。
「居心地の良いところでしょう。これならミリアールトの姫君も気に入ってくださるかと」
「うむ、なるべく憂いのないように過ごしていただきたいものだからな」
「はい」
マクシミリアンの得意げな笑みは、これくらいなら大過なくこなすだろう、と閉ざされていた一角の手入れの采配を命じていたからだ。実際、父王の様々な遊びを幼い頃から間近に見ていた息子は、こと美術方面についての趣味は良い。長く人の住んでいなかった建物は一点の曇りもなく磨き上げられ、経年によって色褪せていた調度や壁紙の類も一新されている。ミリアールトの元王女、あるいはイシュテン王の側妃がブレンクラーレに到着する頃には本格的な冬になっているだろうが、庭園に植え替えられた木々は雪の中でも花をつける種類のもののようだった。
――言われたことは真面目にやるのだな……。それとも姫君のことをまだ気に懸けているのか……?
いつものごとくに晴れた空を思わせて底が抜けたように見える息子の笑顔を、アンネミーケは目を細めて眺めた。母の命令にも臣下の要望にも真摯に誠実に応える素直さは息子の――一応は――美点だろう。マクシミリアン自身の考えや決断を信じ委ねることができるかどうかはまた別の問題だし、それについては母としてしっかりとじっくりと導かなければならないと思っているが。ともあれその辺りは若く未熟な者にはありがちなこと、特別に憂えるようなことではないと思う。際立った才知を持たずとも息子の治世がつつがなく治まるように――そのためにこそ、彼女は今諸々の企みを巡らせているのだから。
息子についてより懸念すべきは、父親から受け継いだ気質の方だ。母であるアンネミーケの目からすると、マクシミリアンは軽薄すぎるし遊び好きすぎる。そして何よりも、美しい女に甘く弱い。その病気のような悪い癖が動き出さないかどうか、そのことだけが気がかりだった。
「だが、そなたは無暗と姫君に会わぬのがよかろう」
「はあ、なぜでしょうか……?」
念のため、と思って釘を差すと、マクシミリアンは惚けた表情で首を傾げた。母の懸念を分かっていないようなのは良いことなのか悪いことなのか。アンネミーケとしては溜息を禁じ得ない。やはり息子は彼女にとっての最大の悩みの種だ。
レフというミリアールトの公子と行動を共にしている彼女の間者たちは、計画が首尾よく進んでいると報告している。赤子と姫君を連れた一行がのろのろと進むのを置いて、彼らの書簡は既にアンネミーケの手元に届いているのだ。公子は黒松館とかいう屋敷の使用人たちをほどよく見逃し、眩い美貌を――殊に、金の髪と碧い目を見せつけたとか。明らかにミリアールト人の特徴を持った者の凶行に、イシュテンの王も諸侯もかの国の離反を疑うだろう。
敗れ、一度は容赦したものに背かれて報復しないのはイシュテンの血と争いを好む気風に反する。臣下に侮られないためにも、イシュテン王はミリアールトを攻めなければならない。側妃の誘拐にティゼンハロム侯爵の影を疑うくらいはするかもしれないが、証拠もなしに表向きは王妃の父でもある重臣を糾弾することなどできはしまい。そしてミリアールトのシグリーン公爵夫人は、息子からの情報を受けてイシュテンを迎え撃つべく準備を進めてくれているはず。思わぬ抵抗に遭ったイシュテン王はその背後をティゼンハロム侯爵に襲われる。――この流れに対しては、アンネミーケはもうさほど懸念を抱いていない。ブレンクラーレが長年悩んだイシュテンの気質をよく知っているからこそ、それ以外の道に進むことは考えづらい。
だから今心を砕くべきは、イシュテンの血を引く御子を手中にした後、いかに上手く利用するか、その母君との間に遺恨を生じることなく、世間からも非難や疑いの目を浴びることがないように立ち回るか、だ。
間もなく鷲の巣城に到着するはずのミリアールトの姫は、イシュテン王を惑わすほどの美貌の主だとか。息子とは仮にとはいえ婚約を考えたことのある仲でもある。だが、だからといってその姫君に不埒な下心を抱かれては困るのだ。なぜなら――
「姫君は懐妊されているとか。健やかな御子を生んでいただくためにもそなたが煩わせてはならぬであろう」
姫君の第一子は王女だった。イシュテンでは女子に王位継承は認められていないからその点は惜しかったが、公子に同行している間者たちはまたとない朗報を伝えてくれた。姫君はまたも懐妊しているというのだ。もしも今度こそ男子であれば、ブレンクラーレはイシュテンに介入する正当な口実を得ることができる。野蛮な国の血筋を文化と教養でもって躾けた上で、穏やかな王をかの国に与えれば良いのだ。無論、母君ともども保護して養育した恩義をよくよく言い聞かせた上で。
――そのためには、御子の血筋に疑われる余地があってはならない。姫君の子の父親はイシュテン王以外ではあり得ない。よって、マクシミリアンは必要以上に姫君に近づいてはならないのだ。既に妻を得ているマクシミリアンと通じた嫌疑がかけられては、イシュテン王家の血筋を主張するのは難しい。息子の一時の快楽のために、折角の駒を失うのは避けたかった。
「なるほど。では、ギーゼラに話し相手になってもらうのはどうでしょうか」
噛んで含めるように言い聞かせると、息子は破顔して頷いた。妻と同様に孕んでいるというだけで、姫君を憐れんでいたことを、アンネミーケは苦々しく思い出した。マクシミリアンは単純で善良だ。それに何より美しい。凡庸な容姿の妻が、美貌を称えられる姫君、それも夫とは婚約していたこともある仲の女を前に何を思うか、まるで想像が及ばないのだ。
「ギーゼラか……」
「王女殿下はレオンハルトと同い年なのでしょう。遊び相手になれば姫君もお心安らかなのでは、と」
――遊び相手、か。本心から言っているならなんと気楽なこと……。
息子の浅慮を扇の陰で嗤いながら、それでもアンネミーケはそれを叱ることはしない。単純な気遣いや思いやりからでは全くないが、彼女も高貴な赤子ふたりを親しませることを考えていたのだ。
何事にも第二の手というのは必要なもの。姫君の胎に宿る子が無事に生まれるかは分からないし、生まれたとしてもまた王女の可能性もある。ならばイシュテンを取り込むのに既にいる王女を利用するのは当然の策だ。赤子に長旅は不安だからこれもまた不確かなことではあるが、公子が確保したという王女が無事に鷲の巣城に到着してさえくれればレオンハルトの許嫁として養育するのも吝かではない。母君との縁は不首尾に終わった――見方によってはミリアールトを見捨てたと謗られる恐れもある――ことへの埋め合わせにもなるかもしれない。
ただ、ギーゼラがそれを喜ぶかどうかは怪しいところだ、と思う。あの娘はただでさえ姑が息子を養育していることを快く思っていない。そこへ、夫と浅からぬ縁のある美貌の姫君が現れたらどうなるか。それも、その姫の娘とレオンハルトの婚約を早くも取り決められるとしたら。かつてのアンネミーケならば、凡庸な嫁を憐れんでしばらくは赤子たちを遊ばせたりはしなかったかもしれないが。
――まあ、良いか。
憂い嘆く嫁の姿を想像して――その上で、アンネミーケはその姿を心の中で切り捨てた。
「――そうだな。ギーゼラには折を見て話しておくとしよう」
「美しい方の御子はきっと美しい王女なのでしょうね。レオンハルトにはもったいないかも……でも、きっとギーゼラは喜ぶでしょう」
「だと良いが……」
あくまでも無邪気に微笑むマクシミリアンは、アンネミーケの笑みに潜む陰には気づかないだろう。妻に愛があるようには見えずとも、一応の思いやりは持っているようだから、母の本心を知ったら怒るだろうか、詰るだろうか。
嫁を居たたまれない気分にしてやろう、アンネミーケ自身のように、常に夫の愛人たちと引き比べられることがないあの娘に、自分よりも遥かに美しい女が夫と共にいる気分を味わわせてやろう、などと。
あるいは信じないだろうか。アンネミーケはこれまでは常に息子よりも嫁の側に立って、何かとマクシミリアンを叱ってきたものだから。ただ――これも息子は気付いていないのだろうが――孫、ことに未来のブレンクラーレを負うべきレオンハルトに関して、ギーゼラは彼女の信用を失っている。ミリアールトの美しい公子に心を奪われて、夫以上に目で追っていた、それだけならばマクシミリアンにも非があることとしてまだ許せたかもしれない。だが、あの娘は夫の子に、よりにもよって恋した男にちなんだ名をつけた。王太子妃として何よりも国を思うべき立場を忘れて、レフという公子に肩入れする言動を繰り返した。
――レオンハルトにどのような影響があるかも考えずに……!
ミリアールトの姫とその御子に対する懸念は、そのままギーゼラとレオンハルトにもあてはまる。子の生まれの正当性を確信できるのは実母のみ、世間にも同様に信じさせようとするならば、疑いを招くような言動は厳に慎まなければならないというのに。
……そう、だからこれはギーゼラの軽率な言動への罰のようなものだ。それに、王の伴侶を決めるのは何かと国や家の力を慮らなければならなくて面倒なもの。イシュテンの王家の血を引きながら力はなく、恩を売ることさえできるかもしれない王女はその点得難い相手とも言える。レオンハルトの、孫のためにもなることだ、どうしてその母への嫌がらせなどであるものか。
「姫君の到着が楽しみです。それに、あの公子も。苦労をされた方々ですから、鷲の巣城で心安らかに過ごしてくださると良いのですが」
「そうだな。イシュテンは勝手に戦えば良い。国の中で争い合って――そうすれば、ミリアールトの復讐も果たされよう」
息子の見解は例によって甘ったるすぎるようにも思えたが。少なくとも、安全なブレンクラーレで愛する姫と共に過ごすことができる公子にとってはきっと幸せなのだろう。そして姫君にとっても。祖国を滅ぼし、矜持と貞操さえ奪った男の破滅を見ることができるのだから。そう、ならばほとんどの者にとって良いようになると思って良いだろう。
息子と並んで、アンネミーケはまだ寒々しい庭園を眺める。マクシミリアンのことだから、春になればより色鮮やかに、様々な花が咲き誇るように命じていることだろう。春になって――どのような心持でそれを見ることになるのか。常は甘い見通しを、自身に厳に禁じているアンネミーケでさえ、その時のことが楽しみに感じられた。