故郷の知らせ シャスティエ
「さすが、どのような衣装でもお美しい」
アンドラーシが目を細めて述べた賞賛は、なぜかひどくシャスティエを苛立たせた。どういうわけかこの男の言う言葉はひとつひとつ嘘くさい。
地味な色合いの衣装、できれば絹以外の生地のものを。髪は目立たないようにまとめて。
事前に指定されたことに従って、ドレスは朽葉色の毛織物。髪は――イシュテンで金髪を目立たないようにすることなど不可能だと思うのだが――左右に分けて三つ編みにしたのを、さらに頭に巻き付ける形にした。
先日王と会った時にも痛感したが、女にとって美しく豪華に装うことは男にとっての武装のようなもの。その点、今日の装いはあまりに心許ないし、村娘の扮装のようで気恥ずかしい。
「仰りたいのがそれだけなら帰らせていただきますが」
なので、反応は冷たく刺々しいものとなった。
以前に比べて、この男と接する時に遠慮がなくなったと思う。どうやらこの男は彼女を王の側妃に据えようとしているらしいと知ったからだ。下心が明らかになった以上、何を企んでいるのかと勘ぐって気を張る必要はなくなったし、王の様子からして彼の企みが成就することはなさそうだから尚更だ。
彼女の心中を知らないアンドラーシは変わらぬ薄笑いで言った。
「もちろん理由があってお願いしたのです。重ねての無礼で恐縮ですが、これを着ていただけますか?」
差し出されたのはやはり地味な色合いの外套だった。なぜ、と問うまでもなく説明が加えられる。
「フードを下ろして目を隠してください。髪も外から見えないように――貴女だとわからないように。できれば城下に下りる用事を言いつかった小間使いに見えると良いのですが」
――村娘ではなく小間使い、ね。
どちらにしても無理があると思うのだけど。絹ではないというだけで、今日のドレスも質の良いものだから。確かに目立つ色の髪と瞳を隠せば、一目で彼女と知られることだけはないかもしれないが。
「理由というのは?」
「陛下のご命令です。人目につかないように貴女をお連れしろと」
この答えはシャスティエには不審に思えた。
「でしたら王妃様からお話があるはずでしょう。なぜこのような扮装をさせる必要があるのですか」
確かに今日はミーナからの招きはない。でも、王妃に予定を確認した上で呼び出しはアンドラーシに命じたのだとしたら、何とも回りくどい話だ。だから、シャスティエが相手を見る目も、自然と険しいものになる。だが、この男はそれすら意に介した様子はなかった。
「陛下は政に関して王妃を巻き込むことを好まれませんので。
――お待たせさせる訳にはいきません。疑問があったら道道お願いいたします」
「……そうですか」
相変わらずこの男は王妃に対する敬意が薄くて眉を顰めさせられる。それに、あの無邪気で優しい人の知らないところで彼女の夫に会うというのは何となく後ろめたい。
しかも政の話とは。あの王が、シャスティエに対して何の用があるというのだろう。
――でも、二度と会いたくないという訳ではなかったのね。
一度は茶を囲んだとはいえ、喋ったのはもっぱらミーナで、大層気まずいひと時だった。
祖国のことは変わらず気にかかってはいるが、彼女から会いにいくことはどうしてもできなかった。ミーナに頼めば夫との時間を奪うことになるし、アンドラーシに頼めばこの男の駒に成り下がりかねない。
「わかりましたわ」
今度こそ、まともに言葉を交わすことができるだろうか。期待と不安を胸に、シャスティエは頷いた。
アンドラーシの後をついて歩く。
シャスティエが王妃たちが住まう王宮の奧から出るのは初めてのことだった。フードを目深に被って狭く暗い視界が許す範囲で装飾や造作を興味深く窺う。尚武の国柄からか、装飾は簡素で剛健な雰囲気を感じる。こんな場合でなかったら、様式の違いをじっくりと観察してみたかったのだけど。
――傍からはどう見えているのかしら。
時折すれ違う官吏や廷臣からは見咎められる気配はない。王の側近である武人が女連れで王宮をうろつくのはよくあることなのだろうか。細身で物腰柔らかな男だから、若い下働きの娘には受けが良いのかも知れない。変装とはいえ、そういう女と思われるのは不本意だった。
「どちらに向かっているのですか?」
周囲に人がいないのをよくよく確かめてから、シャスティエは小声で前を行く男の背に問いかけた。小間使いらしく、目線は慎ましく伏せたままで。聞きたいことがあるなら道中で、と言われたのを実行したのだ。
「陛下の執務室です」
「一体どのようなご用件なのでしょうか?」
アンドラーシは彼女に合わせて歩く速度を抑えているようだった。それがまた、女連れに慣れているのかという印象を与えて嫌な感じがする。
「はっきりと仰った訳ではないので私の推測になりますが」
「構いません」
「ミリアールトの総督が変わりました。姫君にとってはご不快でしょうが、例のバカの一人です」
「……聞いています」
シャスティエの声が更に低く沈む。
不快などという一言で片付けて欲しくない。無用の流血を避けるなどという王の言葉を信じたとしても、あの連中は王の命を平然と無視したのだ。その中の一人が、征服した国に対して容赦してくれるとは期待できない。
不安でたまらないのに祖国のために何もできない悔しさと不甲斐なさ。この男にはわからないだろう。
「で、交代に伴って前任者が帰国しました。陛下は今頃その者から報告を受けておられることかと」
いつか聞かされたことがある。アンドラーシの友人で、信用できる男だと言っていた。この男と信用という言葉が既に矛盾している気さえするが。
「まさか、その方に会わせてくださると? 何のために?」
信じ難いと言外に言うと、アンドラーシは肩を竦めた。
「これも推測ですが。
陛下は、例の狩りでの一件を意外と気になさっているようです」
確かにあの日王に斬られた男は大層見苦しかった。ティゼンハロム侯の説明も苦しいものだったと、シャスティエにでさえわかったほどだ。王たる者が臣下の暴走を抑えられなかったとあっては大変な恥となるだろう。それはまあ推察できるが――
「埋め合わせをしてくださるということですか」
悪いと思っているなら償い方を勝手に決めるのはいかがなものか。先日謝罪した時も、必要ないとは言われたが、王からは何の言葉もなかった。埋め合わせを考える前に一言あってしかるべきではないのか。
声に滲んだ呆れは、アンドラーシには彼女の本意とは異なる解釈をされたようだった。振り返った肩越しに、面白がるような笑みを向けられる。
「若い姫君へのお詫びとしては不似合いとは思いますよ。
この際だから何かねだってみたらいかがです? 衣装でも宝石でも……今なら大抵のことは聞いてくださるでしょう」
「そんな卑しい真似はいたしません!」
思わず荒げた声が王宮の廊下に響いて、慌てて口をつぐむ。そんな彼女を見て、アンドラーシは冗談ですよ、と笑った。冗談にしても質が悪いし腹立たしい。虜囚とはいえ元王女を側妃に、などと考える男だ。節度や常識など望むのが間違いかもしれない。
――側妃なんて……!
この国では妻に数えるのかもしれないが、結局のところ王の愛人、娼婦と似たようなものだ。当代のイシュテン王には妻も子もいて、王妃は夫を愛している。何より王はシャスティエにとって仇だ。
どこをどうとっても恥ずべき企みとしか思えない。
――絶対に思い通りにさせたりはしないわ。
決意を込めて先を行くアンドラーシの背を睨みつける。
思考を巡らす間も足は進んでいる。二人は幾つかの角を曲がり、庭園を通り、階段を上ってひとつの扉の前にたどり着いた。
「お連れしました」
アンドラーシの声を聞きながらフードを下ろし、室内を見渡す。王の執務室というものはどこの国でも似たようなものなのだな、と思った。
入ってまず目に入るのが窓を背にした大きな机。読みかけらしい書類や筆記具、封蝋や印璽などが並ぶ様は、ミリアールトの父の部屋とよく似ている。違いといえば、父は亡き母の肖像を机上に飾っていたが、この部屋にはそれに類するものはない。代わりにというべきか、傍らには剣が立てかけられている。
部屋の主は椅子に掛けて、もう一人立たせたままの男と相対していた。この男――ファルカス王が座っている姿というのは何か違和感がある。横たわった猛獣がいつ動き出すかわからないのと同じように、警戒すべきだと思わされる。
「お召しに応じて参上いたしました」
いつまでも王を無視して室内を観察している訳にもいかない。王宮の中でも剣を手放せない気性に心中で眉を顰めながら、跪いて礼をとる。王は軽く頷くと、もう一人の男を顎で示した。
「その者は先日までお前の国にいた。俺の話は信じられぬようだから、納得するまで話を聞くが良い」
――この男の推測が当たっていたのね。
シャスティエはアンドラーシを横目で見ると、評価を上げるべきだろうか、と嫌々ながら考えた。
王はそれきり黙り、アンドラーシも壁際に下がって傍観者の位置に立った。紹介される気配がないので、シャスティエは仕方なく自らもう一人の男に近づいた。
イシュテン人に多い黒髪黒目に、がっしりとした体格。日焼けした精悍な顔。武人といわれて思い浮かべる姿の典型といったところだ。謹厳そうな顔に困惑の表情が浮かんでいる。なぜ、と思うが、すぐに理由に思い当たる。
人質として捕らえた敵国の元王女。そのように複雑な立場の者を相手に、どの程度の敬意を表すべきか。きっと面倒な問題に違いない。
――丸投げされて気の毒なこと。
大げさな礼は不要と示すため、シャスティエはドレスの裾を摘んで軽く膝を曲げるだけの簡単な挨拶をした。
「初めまして、戦馬の国の勇敢なお方。ご存知とは思いますがシャスティエ・ゾルトリューンでございます。
私などのためにお時間を割いていただいて、心から感謝いたしますわ」
男は安堵した顔をすると、腰を折って礼を取った。
「ジュラ・カマラスと申します。
実のところ、姫君とは以前にお会いしたことがあります。ミリアールトの王宮で、二度」
「……そうですか」
王と対峙して言い負かされた時のことに違いないので、ぜひ忘れて欲しいものだと思った。あの時は無様に泣き喚いてしまった。
「先日までミリアールトにいらしたとのことですが――」
気恥かしさを振り払うように口を開くが、何から聞いたものか、と言葉が宙に浮く。
どれだけ言葉を尽くされれば信じられるだろう。見た目が真面目そうというだけで、彼女はこのジュラとかいう男のことを何も知らないのだ。
「よろしければ、先に伝言をお伝えしても良いでしょうか」
シャスティエの躊躇を読み取ったかのように、ジュラが口を出した。
「伝言?」
「はい。グニェーフ伯という方から」
ジュラの出した名に、目を見開き、息を呑む。
グニェーフ伯アレクサンドル。ミリアールトの国境の守備を預かっていた人で、シャスティエにとって祖父のような存在だった。イシュテンの侵攻に兵を動かすことが間に合わなかったから、確かに健在のはずではあった。
「アレク小父様――いえ、グニェーフ伯。お会いしたのですか。何と仰っていたのです?」
「女王の大事に間に合わず申し訳なかった、と。そして、異国にある御身の苦難を、ミリアールトは決して忘れない、いつか必ずお救い申し上げる、と」
――女王と言ったのね。
ジュラの伝言はシャスティエの胸に苦いものをよぎらせた。王といっても彼女にはそれらしいことは何もできていない。とはいえ、同時に喜びも湧いた。女を王と呼ぶ発想はイシュテン人にはないものだから。作り事ではないと信じることができたのだ。
「確かに小父様のお言葉のようです。――剣を交えられたのですか?」
グニェーフ伯は国に王家に忠実な人だった。侵略者に伝言を託す状況が想像できなくて、まさか捕虜にでもなったのかと案じた。しかし、ジュラは首を振った。
「あの老人は手勢を牽制として使うことを選んだようでした。民に非道を働こうものなら必ず動くとほのめかして。そのようなことは我らの王の本位でもないので、彼の存在にはかえって助けられました」
「目に見える敵が残っていることで緊張が保たれる、といったところでしょうか」
「その通りです」
なるほど、と呟くと、シャスティエは沈思した。イシュテン人は誰であろうと信じられない。真実を語っているとしても、彼女に見分けることが難しい。だが、彼女がよく知るグニェーフ伯の言葉なら。真偽を見分けることはできるだろうし、イシュテン人ではそれらしい物語を作り上げることはできないはずだ。
「小父様とは他には――」
更に問いを重ねようとした時、扉を叩く音がした。
書類に目を落としていた王が苛立たしげに顔を上げ、シャスティエを見た。抑えた声で命じてくる。
「隠れろ」
――どこに、どうやって?
例によって反射的に口答えしようと息を吸ったところに、アンドラーシが彼女と王の間に文字通り割って入った。
「貴女はここにいるはずではないのですよ。こちらで静かにしていてください」
彼が示す方を見ると、続き部屋へ繋がるらしい扉があるのに初めて気付いた。
「ちょっと……」
抗議する暇もあらばこそ。追い立てられるように続き部屋へと押し込まれたシャスティエは、背後に扉の閉まる音を聞いた。