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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
19. 戦火、山河を越える
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王妃の優しさ、王妃の甘さ ラヨシュ

 ラヨシュの鍛錬は、今日も宙に浮いたままだ。昨日の午後、これから剣の稽古をつけてもらうというところでアンドラーシは王のお召しを受けて慌てた様子で飛び出していった。あまりに急いでいたのでラヨシュに課題を与える暇もなかったようで――そして今日になってもまだ戻らないのだ。きつい訓練がなくなって、王妃や王女の話し相手を務めることができたのは彼個人にとっては良かったのかもしれない。けれど、マリカ王女の機嫌は決して優れてはいないようだった。


「お父様、今日もいらっしゃらないのね……」


 側妃の元に通ってばかりの父王のことを、憤るというよりは寂しがるような声の調子だった。最近は少し唇を尖らせる表情ばかりを見ているような気がするが、それも父君を嫌ってのことではなく、むしろ甘えたいからなのだと察せられる。フェリツィア王女が生まれたばかりとはいえ、マリカ王女も父の不在を割り切れるほど大人ではない。一方、両親の――不仲とは言わないまでも――ぎこちない雰囲気を感じられないほど幼くもない。

 側妃を訪れた翌日は、王は王妃と王女の傍で過ごすことが多いから裏切られたように感じているのだろうと思うと、傍で見ているだけのラヨシュも胸が締め付けられる思いがするのだ。


「シャスティエ様のところで何かあったのでしょう。仕方のないことなのよ……」


 王妃が言い聞かせるのも、姫君に対してというよりはご自身を納得させようとしているようで。美しい方々の悲しげな様子を見るにつけてもラヨシュの胸は締め付けられ、そして王への反発も確かに芽生えていく。それに王妃は優しすぎる、とも思う。


 ――本当に大事(おおごと)なのか分からないのに……。


 王妃の耳には聞こえないように声を潜めて、ではあるが、使用人の間で囁かれていることがある。側妃は王を独占するために赤子の王女まで使って引き止めているのだろう、と。何度か間近に見たことがあるクリャースタ妃は、容姿は王妃と同じくらいに美しく、優雅で優しそうにも見えたけれど。でも、見た目はあてにならないものだと母も言っていた。これまでは王妃と仲睦まじく、王女にも甘かった王が変わったのは側妃を迎えて、下の王女に恵まれてから。ならばそれこそが原因と考えるのが自然で、クリャースタ妃も噂されるだけのことはある方なのではないだろうか。


 王妃に仕える時間が長くなるほど、ラヨシュには母の想いがよく理解できるようになってきている。この方はあまりに優しくて、相手を悪く思ったり非難したりなどと考えもつかないような方。だから守って差し上げたいと思うのだ。この方が憤るべきことを、代わりに憤って、他の非を糾さなければ、と。


「……『くろまつかん』は安全なんでしょ……なのにどうしてあっちばっかり」


 そして、容姿は母君に似た王女は、実は気性は王に似ている。他者を責めるなど思いもよらないような王妃に代わって、ラヨシュが言いたいことを訴えてくれる。

 そう、そもそも側妃が王宮を離れたのは、王女の犬の件で赤子のフェリツィア王女の安全に不安を感じたからだったはず。王妃と王女は犬を殺した者がうろつく王宮に残して、自分たちだけ逃げようとしたのだ。王にそこまでの気遣いをさせておいて、それ以上を望むのは贅沢というものではないのだろうか。


 ――これでは……私のしたことが……。


 ラヨシュは密かに忸怩たる思いを抱いている。側妃を遠ざけるためになるなら、王妃と王女のためになるならと罪を犯したのに。犬のアルニェクにもそう言い訳をして、毒の餌を食わせたのに。その結果、ふたりが前よりも寂しく肩身の狭い思いをしてしまったのではその意味がなくなってしまう。


「マリカ」


 王妃が娘を窘める場面に居合わせるのも、歯痒く切なく痛ましいことだった。王女の憤りもまったく正当なものだから、王妃も言葉を選ぶのが難しいはずだから。母が納得しきっていない言葉で王女が収まるはずもなく、言い聞かされたところで更に唇を尖らせるのが常だった。


 だが、今日に限っては王妃の声は力強く、刺繍の手を止めて王女に注ぐ眼差しも確かなもののように見えた。


「お母様や貴女はお父様とおじい様が守ってくれているの。でも、シャスティエ様たちにはお父様――ファルカス様しかいない。弱い者の方を守らなければいけないのは、貴女にも分かるでしょう?」


 ――王妃様……何を……!?


 あまりにも意外な王妃の物言いに、ラヨシュは目を瞠る。


 側妃は、彼の記憶にある限りでは常に毅然として弱さなど微塵も感じられない凛とした人だった。母からも、王やティゼンハロム侯爵に対してさえきちんと敬意を払わない高慢な性格で、王妃に所縁のある貴婦人たちにも見下すような態度だったと聞かされている。弱いだとか守らなくてはいけないというなら、王妃たちの方だと思うのに。

 もちろん、母や侯爵があの女性に対して企むことがあるのを察していない訳ではないけれど。でも、それこそ黒松館に移った段階でとりあえずの安全は確保されているだろうに、王が頻繁に訪ねる理由にはなっていない。


 マリカも裏切られたように感じられたのだろう。母君に対して声を高めた。


「でも……でも、アンドラーシは? あの人はお母様よりお姫様の方が好きなんでしょう? エルジーもアルニェクもいなくなってしまったのに、お父様は、どうして……!」


 ――マリカ様、母のことを覚えていてくださった……!


 従者のように部屋の隅に控えて成り行きを窺うラヨシュの心臓が、母への言及を聞いて跳ねた。王女が母の忠誠を忘れないでいたことが嬉しかった。けれど同時に、王女から見て失われたものの多さに胸が痛む。母や――彼自身が手にかけた(アルニェク)のことを別にしても、この間王の命令によって王宮を去った使用人は多い。そのほとんどはティゼンハロム侯爵に縁ある者たちだった。マリカにすれば日々味方が減っていく上に父君にまでも見放された思いに違いない。


 一方の側妃は、王に手厚く守られている。王妃の護衛を命じられたアンドラーシも、実はティゼンハロム侯爵との接触を阻む監視の役を帯びている上に本心では側妃に仕えたがっているのは明らかだ。母や自分よりも側妃が優先して守られるべきだ、などと。王女には信じられないのだろうしラヨシュも同じ思いだった。だから、王妃はどう答えるのか、固唾を飲んで見守っていると――王妃は微かに苦笑して席を立った。王女の座る椅子の傍に膝をつき、娘と目線を合わせて語り掛ける。その口調にはやはり不思議なほどに迷いがない。


「シャスティエ様を守る方たちよりも、おじい様は強いのよ。お父様はだからあの方を、それにフェリツィア様を心配なさっているの」

「どうして? おじい様が何かしたの? そんなことしないでしょう? お母様までおじい様にひどいことを言うの!?」


 マリカのひと言ひと言が、ラヨシュの胸に突き刺さるようだった。長くティゼンハロム侯爵との不仲を王女に対しては伏せていた王が、最近は対立の深さを少しずつ聞かせようとしている。その変化も、恐らくは側妃のために。王は大恩あるティゼンハロム侯爵を切り捨ててミリアールトと結び、王妃と王女の心を踏み躙ろうとしているのだ。


 ――王妃様にとっても、父君なのに。今の王位も、侯爵様あってのことなのに。


 侯爵の実の娘である王妃までも、父を悪く言うのか。そうして、王女の絶望を深めるのか。血の繋がりよりも、夫を選ぶのか。王の方は王妃よりも側妃を取ったのに。

 王妃の横顔を見つめながら、ラヨシュは緊張のために息をすることさえ忘れていた。母は彼に侯爵家から受けた恩のこと、王妃と王女に尽くすべき忠誠のことを子守唄代わりに聞かされて育った。それに逆らうことなど思いもよらないほどに。


 けれど一方で彼は知っている。侯爵が何事か、大きな声では言えないことを企んでいるのを。母が突然王宮から去ったのも、人目を忍んで夜に王妃を呼び出していたのも、その一環なのだろう。無論全ては王妃のため、裏表のない忠誠からのことではあるのだろうけど。でも、王に知られれば怒りを買い罰せられるようなことであるのもきっと事実に違いない。

 王妃は状況をどのように認識しているのか。王女に何と説明するつもりなのか。母が何者からも守り、何も憂えることがないように努めてきたこの方が、今はもう世俗の醜い争いを知ってしまっているのか。


「あのね、マリカ――」


 王妃は、何を言おうとしているのだろう。少し色を失ってはいるけれど形の良い唇は、何を紡ごうとしているのか。そして、それを聞いた王女は何を思うのだろう。

 ごくり、と自身が唾を呑む音が耳元に響いた、その時だった。ラヨシュの耳は、室外からの物音をも拾った。王妃たちの住まう一角に相応しくない、無作法なばたばたという足音だった。


「何事だ!?」

「無礼は承知しております。ですが火急の用でございます!」


 扉の外に駆けつけた何者かを誰何するのは、アンドラーシが残した兵だ。ラヨシュがいくら王妃たちを守るのだと熱望したところで、しょせん子供に過ぎない。実際のところは話し相手と雑用を兼任しているという程度のこと、実際に武器を構えて警護に当たっているのは大人の、そして十分に訓練を積んだ男たちなのだ。


 王妃も王女も、そしてラヨシュも。言いかけていた言葉や乱れた思いは呑み込んで、じっと扉の外を窺う。王女の小さな手がそっと母の衣装を掴むのが見えた。急な報せに良いことはないと、幼い王女も既に学んでしまっているのだろう。


 ――マリカ様……おいたわしい……。


 漏れ聞こえる声からして闖入者はどうやら女のようで、押しとどめようとする兵と果敢にやりあっているようだった。


「怪しい者を通す訳には――」

「怪しい者などではございません、私はそもそも王妃様にお仕えしている者でございます!」

「とはいえ無作法の理由にはなるまい。なぜそのように急いで押し入ろうとする!?」

「ですから火急のことだと――」


 ドーラだわ、とマリカ王女が小さくつぶやいた。言われてみれば、女の声には確かに聞き覚えがある。王妃に仕える侍女のひとりで、当然のように侯爵家に縁ある家の出身だと聞いたと思う。大事な役に相応しく、常日頃は落ち着きのある女で、このように声を荒げることなど聞いたこともないのに。


 王妃の困ったような目が、一瞬だけラヨシュに向けられた。まるで助けを求めるかのように。けれど彼が子供の使用人に過ぎないことをすぐに思い出したのだろう、王妃は扉の方に向き直ると外の者たちに声を掛けた。


「構わないわ。入れてあげてちょうだい。何があったか知りたいわ」




 やや不服そうな表情の兵が扉を開けるとすぐに、ドーラは転がり込むように入室してきた。


「王妃様! とんでもないことを聞いてしまいました! お気を確かにして聞いてくださいませ!」

「え、ええ……何があったの……?」


 王女を押しのける勢いで、ドーラは王妃の目の前に跪くとその手を取った。母ほどではないかもしれないが、この女も王妃への忠誠心は確かだろうと思う。王やアンドラーシの不在と併せて、外では何か非常の事態が起きているのも確かなようだ。それが、王妃にどう関わるというのだろうか。


 王妃が握り返した手を更に引っ張って主の顔を引き寄せて、ドーラはその耳元で早口に囁いた。


「側妃が――クリャースタ・メーシェが、男と逃げたそうですわ!」


 囁いたといっても、王妃に顔を寄せる仕草からそう形容しただけ、ドーラの声量は外で兵士と揉み合っていた時と変わらない。だが、王妃の顔が強張ったのは大声に驚いたからだけではないはずだ。


「何ですって……」


 絶句した王妃の手を、傍目にも強く握って侍女は上下に激しく揺さぶった。そういえば、ラヨシュの目には同じ大人に見えるが、この女は王妃や母よりも年若い。その分の落ち着きのなさというか激しさがあるのかもしれない。


「王妃様、お気の毒に……どれほど驚かれていることでしょう! あの女、黒松館に間男を引き入れた上に、館に火を放って姿を消したのだとか! 大した女狐ですこと!」

「ドーラ、マリカの前よ……言葉を慎んで……」


 よく知っている侍女の、初めて見る剣幕にマリカ王女は口と目をぽかんと開いて呆然としている。口調の荒さ激しさもさることながら、間男だの女狐だのという単語の意味を、幼い王女が理解できるのかどうか。――否、聞かれたところで何と教えれば良いのか、ラヨシュにも、そして恐らく王妃にも分からない。


「あ……申し訳ございません……」


 ドーラがやっと我に返ったように王妃の手を放して俯いた隙に、王妃は穏やかに問いかける。先ほど王女に対して見せたのと同様、今までにないしっかりとした口調だった。


「ドーラ。その話は誰から聞いたものなの? ファルカス様ではないわね?」

「あ……は、はい。私、今日は表に出る用事がありましたもので……誰も、口々に噂をしておりました。陛下はまた黒松館の方ですから、王妃様にお伝えせねば、と思いましたの……」

「そう」


 王妃はちらりと王女を見下ろしてから、また侍女へと視線を戻した。側妃の悪評が娘の耳にどう聞こえたのかを確かめたのだ、とラヨシュには見えた。大人たちの交わす言葉の意味の全てを理解しているようではなくて、王女はただ困ったような顔で母君のことを見上げていた。


「噂にしか過ぎないのならば……確かなことはファルカス様から窺わなくては分からないわね。……私は、シャスティエ様がそのようなことをなさるとは思えないの」

「王妃様!? お優し過ぎますわ!」


 窘められたばかりなのを忘れたようにドーラが叫ぶ。そしてラヨシュも同感だった。彼はドーラの進言を聞いて、驚きと同時に嫌悪を覚えた。不貞を働く女は汚らわしいもの、と彼の歳でも分かるものだ。アンドラーシとの噂については王妃はいまだに知らないし、ラヨシュも偽りだろうと察してはいるけれど。でも、側妃が実際に消えたというなら、侯爵は何かしらの事実を掴んでいたのかもしれない。


 王妃は、甘すぎるのではないか。彼の懸念を他所に、王妃はあくまでも根気強く侍女に説いていた。


「だって、おかしいでしょう。万一――その、そんなこと、があったとして、逃げるならこっそりと逃げれば良い。わざわざ館に火を放つ必要なんてないでしょう。それに、フェリツィア様は?」

「王女は……いえ、消えたと聞いたのは側妃だけです。王女様については、何も」

「シャスティエ様がフェリツィア様を置いて行くなんて。あんなに可愛がっていらっしゃったのに」

「それは……ですが……」


 まだ不服げな表情のドーラに、王妃はやや強い声を上げた。


「その噂を言っていたのは、お父様に近しい方ではなくて? 貴女が言葉を交わすとしたらきっとそうでしょう」


 ラヨシュには最初、王妃の問いかけの意味が分からなかった。まだ事態が呑み込めていない様子の王女と同様に、大人の女たちが言葉を交わすのを、首を左右にして眺めるだけ。とはいえドーラも下問の意図が掴めないのは同様のようで、曖昧な表情で頷いた。


「はい。実家とも縁ある方で、以前にもお話したことがある方でした。ですから信頼できる方で――」

「それではきっとファルカス様はまた違うことを教えてくださるでしょう。――マリカ、お父様の仰ることとおじい様の仰ること……どう違うかどちらを信じるか、よく聞いて決めなくてはならないの」


 ――王妃様……! 侯爵様よりも王を信じると仰っている……!?


 今日の王妃の言動には戸惑わさせられてばかりだったが、今度こそラヨシュはこらえきれずにほうと溜息を吐いてしまった。侯爵家に近しい者の言葉だから信頼できる、と。言いかけたドーラを遮って王の言葉を待つと言うなんて。


「マリカ、刺繍の続きをしましょう」

「……お母様……?」

「おじい様の話はまた後で。ちょうど、良かったのかもしれないから……お父様がいらしたら、また……」


 ラヨシュと同じく、驚きに――雷のように――打たれて固まってしまったドーラに下がるように目で命じて、王妃は針と糸をまた手に取った。話しかけるな、と態度で語るその姿も、これまでの優しいこの方からは考えづらい。


 ただ、いつもは確かな針先が、今は微かに揺れていた。その揺れが、王妃の心の揺れをも表しているようで。ラヨシュの胸の痛みが止むことはなかった。

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