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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
19. 戦火、山河を越える
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合流 アレクサンドル

 ミリアールトから国境を越えてイシュテンへ。彼の女王に近づくほどに、アレクサンドルの気は急いた。シャスティエについての聞き捨てならない噂が、次第に大きな声で聞こえるようになってきたからだ。側妃が不貞を働いている――それも相手はあのアンドラーシだと……! ――との噂はミリアールトにも届いていたが、さらに加えて王の側妃への溺れようが目を覆わんばかりだとも囁かれていた。当てにならないのは承知で醜聞を楽しむ姿勢の者、心から信じ切って憂い、または憤る者。彼にそれを聞かせた者の表情や感情はそれぞれだったが、それだけに立場や陣営を越えて広まっている噂なのだと分かってしまう。


 ――だが、なぜだ……!?


 不貞の噂については、嘘だと断じることができるからまだ良い。ティゼンハロム侯爵の卑劣な策のひとつに過ぎない。シャスティエの気性からして、王への感情がどうあろうと不貞を働くなどあり得ないし、フェリツィア王女に愛情が芽生えた様子からしても他の男などに目が行くとは考えられないからだ。何より相手があり得ない。

 だが、クリャースタ妃が傾国の女だ、という方についてはどういうことなのだろうか。ティゼンハロム侯爵がわざわざ流すにしては、王妃にとっても屈辱になるだろうに。確かに王も、シャスティエへの想いは変化しているようだったが――復讐を(クリャースタ)誓う(・メーシェ)、などという側妃の婚家名の意味を知って、戸惑っているようでもあった。最後に会った時には、シャスティエの憎しみと我が子への情愛を同時に目の当たりにしたからか、常の傲慢さも多少は影を潜めていた。その状況では普通はシャスティエに触れるのは躊躇うものだろうし、国内の不穏な情勢も弁えず女に耽溺する男とも思えないのだが。


 何か、彼の老いぼれた脳では想像もできないことが起きているらしい。主たちに不利な噂を、あり得ないと断じたいのは山々だが、こうも多くの人の口が囁いているのを見ると、それなりの根拠があるのでは、とも思える。とはいえ王もシャスティエも状況を分かっていないはずもないだろうに、わざわざ敵につけ込まれるような隙を見せたのか、となるとまた怪しくなってくる。


 ――結局、シャスティエ様たちにお会いせねば何も確かなことは言えぬか……。


 イシュテンでの領地に落ち着いた後は、まずシャスティエのもとを訪ねなければ。それも、彼にも馴染みのある王宮の一角ではなくて、彼女は今は王の実家に身を寄せているのだという。ミリアールトで受け取った手紙の、アレクサンドルや叔母のシグリーン公爵夫人に訴えるような必死な筆致も心配だったが、王宮にいてさえ恐怖を感じるほどに、ティゼンハロム侯爵の手は長いのか。ならば王はシャスティエを案じるあまりに訪れる回数が増えているということなのだろうか。だが、それも結局はあの男の首を絞めることになるのに。


 考えるほどに仮定とそれへの疑問が螺旋を描き、彼の思考を行き詰らせる。そう、いくら考えたところで無駄なこと、事実は本人たちの口から聞かねば分からない。

 ならば一刻も早くシャスティエのもとへ、と。焦りがいかに駆り立てようと、アレクサンドルの老いた身体は心ほどに早く動いてはくれなかった。若い頃のように、単騎で山野を駆け抜けるだけの体力は、もはや彼には残されていない。更に、長年の経験によって培われた理性が、彼の枷となって急く思いを抑えつける。


 彼のような老人がただひとり馳せ参じたところで何になろう。シャスティエに幾ばくかの安心を与えることくらいはできるかもしれないが、それで何が変わる訳でもない。女王のもとに参じるとしたら、王に忠誠を見せミリアールトに借りを作ったと思わせたいなら、せめて一軍を率いていなくては。

 だから内心ではじりじりと不安に炙られるような思いを抱えながら、彼はじれったいほど鈍い歩みに耐えているのだ。




 だが――


「前方の平野に、兵が集まっております。狩りにしては完全に武装しておりますし、演習ならば良いのですが――」

「力づくで我らを阻もうとしているのかもしれぬ、ということか……」


 斥候として放った者の報告を受けてアレクサンドルは顔を顰めた。ついに、という思いもある。


 彼の想いとは裏腹に、ミリアールトからの旅路は順調ではなく、通常以上の時間が掛かってしまっている。ただでさえ糧食や徒歩の者も抱えての行軍は思うほどの速さは出ないもの。無論、無理を重ねれば多少は急ぐこともできようが、王に届けるのが疲弊し擦り減った軍では意味がないから速度は抑えざるを得ない。

 そして更に、何かと理由をつけてアレクサンドルの一行を通そうとしない領主もひとりやふたりではなかったのだ。


 王の召還による帰国ということは伝わっていただろうから、あからさまに道を塞がれることこそなかったが。通行の証書を読める役人が体調不良で不在だとかで待たされたり、山崩れでいつもの街道が通れないからと迂回させられたり。事実とも嫌がらせとも判じがたいために強く抗議もしづらいような、そんな事態には道中度々見舞われた。


 質が悪いのは、何もティゼンハロム侯爵に与した者ばかりではなく、新参者、あるいは祖国を売って王に媚びを売る者と見ての横槍だろうと察せられるというところだった。旧主を敵に差し出してイシュテンでの地位を得たように見る者がいるのは、ミリアールトで浴びせられた怒りや軽蔑の目からして仕方のないことだし、彼としても言い訳しようとは思っていない。必要以上に反発を買うことを避けなければと思えばこそ、これまでは極力衝突を避けて進んできたのだが。


 ティゼンハロム侯爵の差し金か、単にこの地の領主が特に短慮なのかは判じがたいが、今度こそは武力での衝突を避けられないのかもしれなかった。相手が戦いを望むならば、アレクサンドルがいかに乞うたところですんなり通してくれるはずもない。


「――仕方あるまい。他の経路では時間が掛かり過ぎる。警戒を怠らず、衝突に備えながら進むのだ」

「はっ」


 アレクサンドルが率いるのは、イシュテンの侵攻の以前から彼が共に戦ってきた子飼いの部下だ。ミリアールトで多くの者から売国奴呼ばわりされてなお、またイシュテンにまで付き従ってくれた者たちだから、不穏な気配にも怯む様子はない。たとえ一戦を交えることになったとしても、相手に後れを取ることはないだろう。


「とはいえ相手を殲滅させようなどとは考えるな。ひとりでも多くシャスティエ様のもとへたどり着くことこそを第一の命と心得よ」


 果たして、アレクサンドルの言葉に兵たちは口々に力強く応と答えたのだった。




 彼らを待ち受けているという一軍に近づくにつれて、状況は思った以上に良くないと知れた。その一団は旗などで指揮官の名や出自を示してはおらず、一方で兵は既に馬上で槍を構えていた。言葉は不要、語るのは刃によってのみ、と。一切の交渉を受け付けないと態度で示しているようだった。数も、アレクサンドルが率いる手勢と拮抗するか、やや多いかといったところか。ただの嫌がらせや足止めで動かすには多すぎる――だから、相手の意図もますます不穏なものと予想できるのだ。


 アレクサンドルも麾下の兵に騎乗と抜剣を命じ、緊張は(いや)が上にも高まっていく。そして更に近く、お互いに声の届く距離まで彼の軍が進んだ時――()の指揮官と思しき一騎が進み出て、槍の先で真っすぐにアレクサンドルを指し示した。


「裏切者め!」


 あまりにも直截な罵倒に、アレクサンドルは兜の陰で顔を顰める。見も知らぬ相手に罵られたからといって何ら痛痒を感じるものではないが、イシュテンの者に裏切者呼ばわりされるのは不審だった。ミリアールトにおいては聞きなれた言葉だが、彼は王の命に従って祖国へ赴き、今はまた王の命によってイシュテンに()()()というのに。


 彼の疑問は、それを生んだ当の相手によって晴らされた。アレクサンドルに対して、また、同時に彼の軍や自軍にも向けるかのように、その男は高らかに叫んだのだ。


「陛下のご厚情によって生き永らえながら、その恩を踏み躙るとは……! クリャースタ様、フェリツィア様への姦計、真に許しがたい! 言い逃れなどできぬよう、捕らえて陛下の御前へ引っ立ててくれる!」


 ――何だと!? シャスティエ様とフェリツィア様の身に何があったというのだ……!?


 男の言葉は、叫んだとおりに憤っているにしてはあまりにも説明的だったし、恐らくは実際に説明なのだろう。男が率いる兵に対して、こういう訳で戦うのだと言い聞かせているのだ。兵の士気を上げて流血への躊躇を捨てさせるのに、確かに有効な手段ではある。そして戦場で喧伝されることが必ずしも事実ではなく、しばしば自軍に都合の良い誇張や嘘が含まれているのもよくあることだ。――だが、たとえ口実だとしても、男が叫んだことは不穏だった。


 これではまるで、シャスティエたちの身に何事か起き、しかもその罪をアレクサンドルに押し付けようとしているかのようだ。――それが、起きてもいないことへの弾劾ならば、まだ良い。だが、もしも彼にかけられた嫌疑が事実に対してならば――


「――駆け抜けよ!」


 黒い予感に鞭打たれて、アレクサンドルは叫んでいた。道中さんざん聞かされた噂は、今や曖昧な陰ではなく、現実に主たちを脅かす刃となった。事態の全容は見えないが、とにかくシャスティエから――そして、もしかしたら王からも――味方を削ごうという悪意があるのは間違いない。


 ならばここで足を止めてはならない。道を拓くために戦う時さえ惜しかった。できれば剣を交えるのは最小限に抑えてこの場は駆け抜けたい。

 叫ぶと同時に馬を勢いよく掛けさせることで、アレクサンドルは麾下に自身の意を伝えた。それを読み取ってくれたのか、あるいは単につられただけか、彼の軍は(やじり)の形となって敵軍へと刺さる。まだ何か口上を言おうとしていたらしい指揮官が、慌ててアレクサンドルの蹄を避けた。


「おのれ――止めよ! 通すな!」


 悔し気な叫びを背後に、アレクサンドルは混乱している敵を踏み躙る。既に戦いは不可避と双方承知していたとはいえ、指揮官の口上を皆まで聞かずに突撃するとは思わなかったのだろう。騎馬の速さでイシュテンの者の意表を突くことができたと思えばほんの少し愉快だった。――だが、敵もいつまでも狼狽えたままではいてくれない。白刃が眼前に迫り、突き出る槍の穂先が行く手を阻む。


 ――押し負けるか……!?


 鎧に包まれた――戦いを予感して装備は万全に固めておいた――背に、冷汗が伝う。相手の不意を突いて列を乱し、敵軍に切り込むことができたのもほんの一時だけだった。最初は刃が肉を裂くように容易く敵陣の中を突き進むことができたのが、今は岩を斬りつけているかのように硬い抵抗に遭っている。

 もしも、敵の只中で足を止めれば、もう退くことは叶わない。待っているのは押し包まれて踏み潰される末路だけだ。否、先ほどの口上からすれば相手はアレクサンドルを捕らえたがっているのか。とはいえいずれ明るい見通しとは思えない。


 この場を切り抜ける路はないか――見渡したところで、四方には敵が満ちて逃れることはできそうにない。ならばひとりずつでも斬って進むしかない、と。覚悟を固めて槍を握り直した時――戦場に、澄んだ声が響いた。


「イルレシュ伯!」


 若々しく、少年のようにまだ高いその声には聞き覚えがあった。声の聞こえた方へと首を巡らせれば、果たして片腕の青年が一団の騎馬の先頭に立って、こちらへと駆けてきていた。軍と呼ぶにはあまりにも少ないが、だが、予期せぬ援軍は敵にも味方にも大きな作用を及ぼすもの。事実、アレクサンドルを囲んでいた敵兵の圧力は目に見えて弱まっていた。


「カーロイ・バラージュか……!」


 内と外から攻められ、逃げ場を失ったのは今や敵の方だった。アレクサンドルが馬を向けても抵抗というほどの抵抗はなく、あっさりと既知の青年と再会することができた。


「陛下のご命令で参上いたしました。加勢いたします!」

「ありがたい……!」


 カーロイは、ミリアールトに発つ前に会った時よりも遥かに安定して、片腕で馬を御し武器を扱っているように見えた。離れている間の変化は不可解なもの不安を感じさせるものだけでなく、若者の成長も含まれていたのだ。その気づきこそが、アレクサンドルにとっては何よりの励ましだった。


 援軍の登場に浮足立った敵は、その後は大した犠牲もなく追い散らすことができた。指揮官と思しき者は捕らえた方が良いか、とも思ったがカーロイは首を振った。


「どうせ衷心からの暴走ということにするのだろうから捨て置け、との陛下の仰せです。――ティゼンハロム侯爵の、いつもの手段()です」


 その悔しげな口調に、やはり一連の動きの背後にはあの老獪な男がいるのだと知らされて。窮地を脱したばかりだというのに、アレクサンドルの胸にはまた暗雲が立ち込め始めるのだった。




 ここ数年は悲運に見舞われているとはいえ、バラージュ家は由緒正しく誉れ高いイシュテンの名家だ。だからカーロイと合流した後、彼に護衛されるような形での旅は非常に滑らかに、何の障害もなく進むことができた。


 だから黒松館の襲撃とその犯人、およびシャスティエとフェリツィアの母娘が引き裂かれる現状について、詳しい話を聞く時間もたっぷりあった。


 ――レフが……生きていたか……。そして、シャスティエ様を……。


 アレクサンドルの荒れ狂う心中を、ミリアールトの若い王族を間近に見守り続けたからこその諦めに似た納得を、カーロイが慮り切れたはずはない。だが、このイシュテンの若者はとにかくも彼を慰めようという思いはあるようだった。


「陛下は――それに私も、伯爵はご存知のないことだったと信じております」

「そうか……」


 確かに、王は彼を疑ってもおかしくなかった。ミリアールトの者がミリアールトの女王を攫ったのだ。ミリアールトの臣下である――あるいは、だった――彼が関与していると、考えない方がどうかしている。彼がそこまで王の信頼を得ていたことこそ不思議だった。

 アレクサンドルの顔に浮かんだ疑問の色に気付いたのだろう、カーロイは軽く目を伏せた。


「黒松館には姉もおりました。幸いに怪我ひとつなく済みましたが、殺されていてもおかしくなかった。――伯爵は、姉に危険が及ぶようなことはなさらない気がするのです」

「姉君はご無事であったか。それは……良かった……」


 カーロイの姉のグルーシャは、アレクサンドルもよく知っている。ティゼンハロム侯爵の陰謀によって父を失い、弟も完全に癒えることのない傷を負ってしまった。若くして苦労の多かった娘だから、これ以上の不幸に見舞われることがなかったのは本当に喜ぶべきことだ。だが、それはカーロイの信頼の理由であって、王が彼を疑わない理由にはならないように思えるのだが。


義兄(あに)もそれで納得したようです」

「そうか」


 グルーシャとの婚姻を通して義理の兄弟になった男の顔を思い出しながら、アレクサンドルはまたひとつ頷いた。シャスティエを――不遜にも――気に入っているようだったあのアンドラーシでさえ、一時は彼を、ひいてはミリアールトとシャスティエの裏切りを疑ったのだろう。そう見えて当然の状況だということだ。


 ――ならば、王はなぜ……?


 沈思するアレクサンドルへ、カーロイはやはり気遣うような声を掛ける。


「……陛下は、クリャースタ様をお救いするおつもりのようです。そのために、伯爵の助言が必要なのでしょう」


 だから急がなくては、と。言外の言葉を聞き取って、アレクサンドルは虚を突かれる思いがした。王やシャスティエに実際会わねば何も分からないと承知していたはずなのにこの様だ。老人は無為な考えに囚われがちなのかもしれない。


「……そうだな。私の知ることが何かしらの助けになれば良いが……」


 レフが生きていた。ミリアールトの亡国から黒松館の襲撃に至るまで、どこで何をしていたのか。今はどこに潜んでいるのか。彼にも分からないことだらけだ。だが、少なくとも彼はレフもシャスティエもよく知っている。ミリアールトの現状も――シグリーン公爵夫人、レフの母の凍てついた憎悪も。ミリアールトを抑えつつシャスティエを取り戻すにはどうすれば良いか――確かに、彼にもできることがあるはずだった。


 ならば今は足を止めて考え込む時ではないということだ。

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