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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
19. 戦火、山河を越える
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旅路の果ては シャスティエ

()()、少し馬車を止めますの。外の空気を吸われてはいかがでしょうか……?」


 馬車の外から話しかける女のことを、シャスティエは張り倒してやりたいと思った。望んでもない、実態にも全くそぐわない呼び方で彼女を呼び、限りなく命令に近い、否と言われることを思ってもいないような口調の癖に言葉遣いだけは下手に出ている。腹立たしいことこの上ない。

 けれど囚われの身、それも赤子を抱えていては逆らうことなどできはしない。相手の余裕も、十分に根拠があってのことなのだ。


「ええ。出るわ」


 だからシャスティエは悔しさに歯噛みしながらも大人しく()()()()()を抱いて馬車を降りた。狭く暗いところに長時間押し込められて、新鮮な空気が恋しかったのは確かだから、赤子のためにも申し出自体は喜んでも良いくらいだったのだ。


「苦しくなかった? 少しお散歩しましょうね……?」


 霜を砕くさくさくという感触を足に感じながら辺りを見回してみると、車外に出るのを許されただけあってどことも知れない森の――あるいは山の――中だった。目の届く範囲に人家も人影もなく、ただブレンクラーレの間者たちの一行が彼女の挙動を見張っているだけ。逃げる機会などないのだと改めて思い知らされると、シャスティエの胸は重く沈む。


「……お顔が綺麗になって良かったわ。木の香りに風の香り、分かるかしら」


 ジョフィアを抱いた腕を伸ばして、できるだけ広い景色が見えるようにしてやると、何も知らない赤子は無邪気に笑い声を上げた。何も――母が死んだことも、その血に塗れたことも、母を殺した者たちに連れ回されていることも、この子は知らないのだ。この子が笑っているのも、母の血を浴びたせいでかぶれた頬が痕もなく癒えたのも、今はきっと喜ぶべきことなのだろう。でも、この子が成長した時にこのことを知ってどう思うか、そもそも成長するまで守り切ることができるのかどうか。考えるほどに、シャスティエは幸せだったであろう家族の運命を狂わせた罪の重さを感じるのだ。


 ――あ……気持ち、悪い……。


 ふと目眩のようなものを感じて、シャスティエは慌てて赤子を胸元に抱え直した。フェリツィアの時よりも軽いと持っていたはずの悪阻は、拉致された心労からか旅の疲れからか、また彼女を苦しめ始めていた。この苦しみを感じている間は胎の子は無事だということだから、辛さ煩わしさと同時にどこかで安堵も覚えるという、まことに奇妙な心情になっている。


「奥様、お加減が……? 何か上に羽織られますか」

「大丈夫よ。構わないで」


 唇を結んで俯いたのを目敏く見咎められて、シャスティエはふいと顔を背けた。彼女の不調も不安も不快も、全てこの者たちのせいだというのに、力づくで脅して攫って来たくせに、案じる振りを見せるとは笑わせる。


 ――本当に……油断のならない……!


 あの日――黒松館から攫われて、どこかの屋敷に落ち着いて。浅い眠りから目覚めた時にも、この女はシャスティエが口元を抑えたのを見逃さなかった。


『あら、まさか……』


 ご懐妊ですか、と。妙に嬉し気に聞かれて、顔色を変えてしまった彼女も愚かではあったのだろう。でも、女が続けて言ったことを思い出すと、シャスティエは(はらわた)が煮えるような激しい怒りに襲われるのだ。


『あの公子が知ったら動揺されてしまうでしょうね。内密にしておいた方が良いでしょうか……?』


 レフやシャスティエを気遣う体で、女の声は確実に脅しを含んでいた。このことを言われたくなかったら大人しくしていろ、という。事実、それまでは知らない者に侍られるのを拒否しようとしていたシャスティエも、その言葉には黙るしかなかったのだ。

 レフは、フェリツィア――と信じている乳母の子――に対して容赦しなかった。泣いているのに揺さぶって、母に対する囮にして見せびらかすように高く掲げて。だから、まだ生まれていない子に対しても容赦しないだろうと思ったのだ。


 ――この子()()を、守らないと……。


 母を死なせてしまったジョフィアも、肚にいる子も。そのためにも心を強く持たなければならないと思うのに、ジョフィアに比べればまだ安全なところにいるはずなのに、フェリツィアのことを思うと心が荒れ狂うのを止められなかった。


 イリーナはちゃんと王に届けてくれたのか。レフに――明らかにミリアールトの容姿を持った男に攫われた側妃のことを、王はどう考えたのか。不貞や裏切りを疑われるのは仕方ないけれど、怒りを娘に向けることはしないで欲しい。あの男も血を分けた娘への情はあると思うし、だからこそイリーナに託したのだけど。

 でも、たとえ身体は無事だとしても、母を恋しがって泣いてはいないだろうか。泣いていなければ良い、と思うと同時に忘れられたらどうしよう、と思ってしまって。でも、二度と会えないなら忘れられた方が良いのか――


「浮かない顔だね。イシュテン王のことでも考えてるの?」


 他人の娘を抱きしめながら我が娘に思いを馳せていたところに、凍てつくような声が掛けられて。シャスティエは身体を震わせた。


「……違うわ。この子がどうなるかと思っていただけ」


 レフが彼女たちを見る目も氷のように冷ややかで、か弱い赤子を晒すには忍びなかった。だからジョフィアを隠すように身体をずらすと、嘲るように鼻を鳴らすのが聞こえた。レフは彼女の言葉を信じていないのだ。黒松館の襲撃以来、何度も彼と話そうと試みているけれど、必ず詰られて終わっている。祖国を忘れ、仇に恋して仇に溺れて、その男のことしか考えられなくなっていると、彼にはそう思われているのだ。


 ――本当に、違うのに。


 娘の身が案じられるのだと訴えて、彼女の方こそレフを詰りたかった。イシュテン王への恨みはあるとしても、娘には罪はないはずなのに、と。けれどジョフィアのことを思うと恐ろしくてできなかった。

 彼らが赤子の世話をまがりなりにも焼いているのは、イシュテンの王女だと信じているから。考えるのもおぞましいけれど、利用価値があると思っているから。そうではないと知られた時に、この子が打ち捨てられてしまうかもしれないと思うと、フェリツィアのために命を(なげう)ってくれた乳母を思うと、決してこの子の正体は知られてはならない、と思う。


 黒い髪に黒い目、明らかにイシュテン人の容姿をしたジョフィアを、レフやブレンクラーレの間者たちが彼女の子だと信じているようなのを、最初は不思議に思っていた。けれどレフと話すうちに何となく分かった。彼らの目的は、あくまでもイシュテン王の子なのだ。ならばイシュテン人の容姿をしているのも当然、シャスティエには似ていないことなど些末なこと、考える必要さえ感じていない――ということなのだろう。


 彼女のものと同じ色をしている彼の目が、何も見ようとしていないのが恐ろしく、そして悲しかった。それとも目が塞がれているのはシャスティエの方なのだろうか。だから、親しいはずの従弟の考えが分からないのだろうか。


 ふたりの間の亀裂を決定的にしたやり取りを、シャスティエは苦々しく思い出した。





『そんな……』


 ()()を聞かされた時、シャスティエは絶句し、レフはそんな彼女を見て満足そうに微笑んだ。

 イシュテン王はミリアールトから奪っていた。フェリツィアに愛情を注いでいると見えた間、同盟者として認めてくれていると思っていたシャスティエには何も言わずに。シャスティエが信頼するグニェーフ伯も、その命令に加担していた。

 その報せがもたらした衝撃はあまりに大きくて――だから、シャスティエはレフの思いも考えないで頭に浮かんだことをぽろりと溢してしまった。


『それじゃ……王に聞いてみないと……。どういうつもりで、そんな命令を下したのか……』


 そうと聞いた途端にレフが顔を顰めたのは、呆れと落胆と憤りと、どの感情が一番強かったのだろう。どれであっても何の不思議でもない。囚われの身では王とまた話すことができるかも定かではないし、再会を期待していると思われたらきっとまた軽蔑されるのだろう。

 そして何よりも、彼女は反応を間違えてしまったのだ。王の裏切りを、祖国の逆境を聞いたら、何を置いても彼女は怒るべきだったのだ。まだミリアールトの女王を名乗るつもりなら。


『聞く必要なんか、ある? 何と言われたら納得するの?』


 でも、そうと気づいたのはレフの冷ややかな声を浴びせられた時だった。怒りと失望を明らかににじませる声の鋭さとは裏腹に、彼の目は絡みつくように粘ついて、怖い。

 馬車の中で閉じ込められるようにして、あるいは森や草原に簡易な天幕を張って。夜休む時に必ずあの間者の女がシャスティエの傍近くに控えているのはどうしてなのだろう。赤子を抱えては逃げることなどできないのに、何を警戒しているのだろう。レフがたまに彼女の方に手を伸ばして、思い直したように引っ込める意味は、何なのだろう。


『でも……だって』


 その時は、馬車を止めた横に(おこ)した火を囲んでいたのだったか。当然星空の下で寒風から身を守る壁もなく、周囲にはブレンクラーレの間者たちがたむろしてそれぞれの仕事をこなしていた。でも、密室ではないこと、敵とはいえ人の目があることが不思議なほど心強かった。今や、それほどに従弟は彼女にとって遠い存在になってしまったのだ。


 でも、だからといって見損なわれたままでいるのも辛くて悲しくて、シャスティエはどうにかレフに言葉を届けようと空しく試みた。


『だって、王がそんなことをする理由がないもの。ティゼンハロム侯爵との争いも近いのに、ミリアールトまで敵に回してどうするの? 小父様だって。理不尽な命令に従うはずがないわ。出立の前には私とフェリツィアに会いに来てくれたのよ? そんな……ひどいことを命じられたようには、とても……』

『ひどいことだと思っていなかったのかもね。敵に心を売り渡したから何も感じなくなっていたのかも』

『そんなはず……』


 ない、と言い切らなかったのは、レフの苛立ちに火をつけるのが怖かったから。その隙を突くように彼は歪んだ微笑みを見せて、さらにシャスティエを追い詰めた。


『何も言わなかったのは、言えなかったからではないかな? 君が納得するような理由なんてなかったから言わなかった。イシュテン王は儘ならない国内の八つ当たりがしたかったのかもしれないし、君の子が女だった罰のつもりだったのかもしれない』

『……ありえないわ』


 レフの茨のような声に言葉に傷つきながら、それでもシャスティエは必死に首を振った。


 だって、王はあれで忍耐強い。十年に渡ってティゼンハロム侯爵と陰に陽に牽制し合って、手ごわい相手と渡り合っていた。ミリアールトを攻めたのも諸侯に力を示すためでむやみに血を求めたのとは訳が違う。何より――フェリツィアを慈しんでいた。落胆は皆無ではなかったのかもしれないが、あの表情は全くの嘘ではないと思う。

 それを、レフにも説明しようとして――


『ふうん』


 でも、それもまた考えなしのことだった、と。気付いたのは、一層冷たく凍ったレフの視線を浴びた時だった。


『君は僕よりイシュテン王のことを信じるんだね』


 そう吐き捨てた彼も、きっと傷ついていたのだろう。シャスティエが次の言葉を見つけることができる前にレフは立ち上がり、彼女に背を向けてしまったのだった。




 ――やっぱり、いけなかったのね……。


 心の痛みを宥めるように、温かく柔らかい赤子を胸に抱きしめながら、思う。娘を愛しく思い始めたからといって、守ってくれる唯一の存在だと思ったからといって、王に絆されてはならなかったのだ。まして、許せるかもしれない、などと。イリーナが頷いてくれたのは親しさと忠誠のゆえだけで、レフの反応こそが大方のミリアールトの者の感情なのだろう。

 今の境遇も、ただひとり残った肉親に軽蔑されてしまったのも、甘く都合の良い夢に浸っていた報いだと思えた。

 だからもうレフに話しかけるのは怖い。何を言っても怒らせるか悲しませるかしてしまいそうで、しかもそれはジョフィアには益をもたらさないのだろう。でも今はどうしても確かめたいことがある。だからシャスティエはおずおずと、従弟に呼びかけた。


「あの……北に……ミリアールトに向かっているのではない、わね……?」


 黒松館から攫われた当初は、レフはミリアールトを目指しているのだと思っていた。だが、一行はどうやら北を目指しているのではないらしい。無論、人が通る道は山や湿地を迂回して蛇行しているものだし、人目を憚る逃避行ならなおさら真っ直ぐに目的地を目指すものではないだろうとは思ったが。けれど数日に渡って太陽や星の位置を意識して見ていればさすがにおかしいと分かったのだ。


 王に関する話ではないからか、レフは久しぶりににこりと笑ってくれた。やはりどこか冷ややかな印象は変わらなかったけれど。


「さすが。気付いたんだ。ならどこに向かっているのか分かる?」

「……ブレンクラーレ?」


 ティゼンハロム侯爵の元でなければ良い、と祈るような思いで、シャスティエは予想した場所の名を口にした。ティゼンハロム侯爵が彼女とフェリツィア――と思われている赤子――を生かしておくはずがない。復讐と憎しみに囚われたような今のレフでも、さすがに分かってくれていると信じたかった。


「ご名答。やっぱり君は聡明だな」

「……そんなこと……」


 愚かな選択と発言を繰り返してしまっていると、息をする度に思い知らされるようなのに。聡明などという評はバカにされているとしか思えなかった。愚かというなら、この事態を招いたのは彼女が何も言わなかったからだ。ミリアールトの王族の生き残りが、ティゼンハロム侯爵とブレンクラーレと組んで何事か企んでいる、と。王にそう言っていれば、黒松館も仕えていた者たちも無事に済んでいたかもしれないのに。

 失われたものと人を悼みつつ、子供たちの未来をこの上なく案じつつ、それでもなおレフにも死んで欲しくないと思っているのが一番愚かなのかもしれないけれど。


「私、王には貴方のことを話さなかったのよ。ブレンクラーレのことも……」

「ありがとう。少しは僕の命を惜しんでくれたんだね」


 俯いて呟いたことには、レフのことも案じていたのだという言い訳と、王に言っておけば良かったという悔恨が半々に混ざっていた。けれどレフが読み取ったのは後者の想いだけだったのだろう、反応といえば軽く肩を竦めただけのごく冷淡なものだった。


 ――やっぱり何を言っても聞いてくれない……。


 イリーナ以外の者とミリアールト語で語らうのは本当に久しぶりだというのに、異国の言葉よりなお通じない。諦めと絶望に心を抉られて、続く言葉は説得というよりも溜息に近い、無為なものになる。


「……ブレンクラーレに行ってどうするの。黒幕は摂政王妃陛下ね? あの方は、何を企んで――」

「君は何も心配しなくて良い。鷲の(アードラース)巣城(・ホルスト)に戦火が及ぶことはないから。全てが終われば一緒にミリアールトに帰ろう」

「全て……」

「ミリアールトでは母が備えていてくれる。イシュテン王が怒りに任せて攻めようとしても思い通りにはならない。王が背を向けた隙に、ティゼンハロム侯爵は恩知らずの婿を討つ。――君だって死んだ夫に操立てしようとは思わないだろうしね」

「――っ」


 叔父たちの死を忘れていたように。言外の当てこすりを聞き取って、シャスティエは小さく息を呑んだ。彼女の狼狽を見て取ったレフがよく使うようになった手だが、何度言われても慣れることなどできはしない。その度に、父と兄を殺されたレフもまた復讐を誓う権利があるのだと思い出させられるから。


 シャスティエが言葉を失っている間に、レフはまた嘲るような冷たい微笑みを投げかけると去って行った。多分、ブレンクラーレの者たちと謀ることがあるのだろう。

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