側妃の行方 エルジェーベト
「なぜだ、なぜ見つからぬ……!?」
リカードが投げた酒杯は、床に叩きつけられて高価な敷物を汚した。同じく高価な酒は飛沫となって、平伏する使いの者の衣装に跳ねる。その酒が勝利の美酒であったのは、ごく短い間だけのことだった。一度はリカードが描いた通りに進んだと見えた事態は、今やこの老獪な男の手を離れて無様な混乱に成り果てていた。
慌てて王宮を飛び出すほどに取り乱していた王が、思いのほか冷静に事態を把握しようとしているのも嫌な兆候ではあった。だが、リカードの苛立ちはまた別のところに理由がある。
側妃を攫って逃げたミリアールトの貴公子が、どうしても見つからないのだ。
「申し訳もございません!」
「ミリアールトまでの地図は確かに渡したのだろう!?」
「は……これで祖国までの道のりが楽になったと、大層喜んでいたように見えたのですが……」
リカードは、あの美しい青年の行動を操ったつもりだったのだ。イシュテンからミリアールトに至る経路はひとつではないが、中でも安全なものを、と善意を装ってリカードに与する諸侯の領地を選んで教えておいたのだ。否、その経路が比較的安楽なものだということ自体は嘘ではないが、あの青年と――そして、共にいるはずのあの女を無事に祖国に辿り着かせてやるつもりはなかった。
マリカを侮辱し貶め、王妃としての地位を脅かした罪は重いのだ。後で捕らえてリカードの前に引き出して苦痛と屈辱の限りを味わわせた上で死ぬのではなければ到底許されるものではない。一度は救い出された喜びから叩き落してやる方が恐怖もなおさらだろうと、そのためだけにリカードはあの青年やブレンクラーレの摂政王妃の策に乗る気もなったというのに。
「女と赤子を連れた一行だぞ。山中を強行できるはずもない。街道で見張っておればいずれ現れるはず。見落としたのではなかろうな」
「は……見張りは万全のはずだったのですが。その……今はより細い道にも手を広げて、下々の者にも証言を求めているところでございます」
「無能どもが……!」
酒杯を投げ捨てたリカードには、恐懼する相手にぶつけるものがもう手元にない。代わりにとでもいうのか、握った拳が掛けている椅子の肘掛けを殴り、鈍い音が室内に控えた使用人たちの首を竦めさせた。
昨晩には、エルジェーベトを閨に呼んで珍しいほど――優しいほどの手つきで彼女を抱いたのに。まだ短い彼女の髪を梳いて、あの女の金髪で鬘を作ってみれば良い、などと悪い冗談を言っていたのに。
とはいえ、リカードの変貌ぶりは全く無理のないことだった。あの女を探すのは、もはや罰を与えて思い知らせるためだけではない。是が非でも見つけ出して息の根を止めねばならない理由ができた――王が、明かしたのだ。
側妃は攫われたものの、赤子のフェリツィア王女は無事だった。とはいえ側妃の胎には新たな王の子が宿っている。イシュテンの王の血筋を盗んだ者は決して許されてはならない。地の果てまでも追い詰めて、必ず償わせなければ。
王がそのように発表したと知らされた時、リカードはその報せをもたらした者を危うく殴り殺すところだった。妃を鼻先から掠め取られた王の狼狽を小気味よく眺めた後、黒松館の惨状を見ればすぐに度を忘れて側妃のために兵を動かし、また臣下の信頼と忠誠心を損なってくれるだろうと嗤っていたところだったのに。悪ふざけとしか思えない報せだから無理もない。ちょうど今側妃の行方について報告している者がされているように、ひとしきりその哀れな男を叱責し、そしてどうやら間違いなく事実であると得心した後――リカードは怒った。そして必ず側妃ともどもあの青年を必ず捕らえるように必ず命じたのだ。
「若造が……どこへ逃げようと必ず儂のこの手で引き裂いてやる……!」
吠え猛るリカードに、その場にいた者たちは一様に目を伏せた。迂闊に今の主の関心を惹こうものなら、側妃や青年に対する殺意をその身に受けかねないと分かっているがゆえに。
ミリアールトの王族などという面倒な立場の者だ、リカードも初めから生かしておく気はなかっただろう。あの女の悲嘆を一層のものにするためにも、目の前で斬り捨てると決めていたはず。だが、こうなってはあの美しい青年にもたらされる死は決して楽でも素早くもないものになるだろう。愛した女と同じ苦しみを受けてもらわねば、期待を裏切られた格好のリカードの気が済まないだろうから。あの夢見がちに見えた若者は、どうやら信じがたい誤謬を犯したらしい。黒松館を陥としながら、なぜ王女を見落とすことができたのか。エルジェーベトにはさっぱり理解できないが、だからこそリカードの焦りが憤りがよく分かる。
――王女が王の手元に残ったなんて……! あの女が孕んでいたなんて……!
王は、これからでもミリアールトなりを攻めて、リカードに隙を見せてくれるのかもしれない。だが、そうなっても、そしてリカードが勝利したとしても。フェリツィア王女を今度こそ始末することができたとしても。王の血を引く子がどこかで生きていれば全てが無意味になってしまう。イシュテン王の遺児を利用しようとするのはブレンクラーレかミリアールトか――いずれにしても、後々禍根になると分かっている種は今のうちに摘み取らなければならなかった。
「お前はもう良い。あの女どもを見落とすことがないよう、また戻って励むのだ」
「ははっ」
ひとしきり怒鳴ると、リカードは上がった息を整えながら側妃の探索にあたっている者に退出を命じた。叱責がよほど堪えたのだろうか、しきりに頭を下げながら後ずさりするように下がる姿は、器用で、かつどこか滑稽だった。
側妃たちの行方が誰にも知れない以上、リカードの怒りも結局は八つ当たりのようなもの、何か具体的に役に立つ命令も進言も、主従ともに持ち合わせていない。だから、やや締まりのない形にならざるを得ないのだろう。
続けてリカードは、控えていた長子のティボールに剣呑な視線を投げた。側妃が捕らえられるのを待って屋敷に留まっていた父の代わりに、息子が王宮に遣わされていたのだ。次に何が起きるのか、その材料を集めさせるために。
「王宮の動向は」
「は……っ」
不機嫌の絶頂にあるリカードの目つきの前に、親子の情など期待してはならないと知ったのだろう。ティボールは――常日頃から大なり小なりその傾向はあるのだが――父親というよりは主君に対する態度で畏まって見せた。
「王の参集に応じた諸侯が集まりつつあります。とはいえ王に与すると決めたというよりも、何を言い出すか見極めたいといったところかと」
「ファルカスめは側妃を救うため、などとは言っておらぬのだな」
「は。無論、噂は広まっておりますから、そのように疑い身構えている者はいるのでしょうが……」
もしも王がそうと口にしでもしたら、諸侯は女に溺れる主君に失望し、王宮に集まった兵はそのまま反乱の大きな波となって王を呑み込んでいただろうに。そして、リカードもそれを期待していたのに。自らの破滅を招く道が見える程度には、王は平静を保っているのだろうか。
「餓鬼は残されたからか……だから落ち着いていられるのか……?」
こちらも思惑通りに進んでいないと知らされて、リカードはまた不機嫌そうに唸る。王の失態を責め立てる機会を狙っていたというのに、今のところ王は目立った愚行には至っていないようだった。
――側妃への想いも大したものではなかったということなのかしら……?
少しでも胸の空くような見方をしようと努めてみても、大した役に立つとは思えなかった。王があの女を諦めて見捨てるというなら良い気味だが、それでも胎にいるという新しい子は依然としてマリカたちの脅威となるだろう。あの青年は、イシュテンを脅かし得る手札を祖国ミリアールトに持ち帰ろうとしているのかもしれない。第一──諸侯を呼び集めたからには王は何かしら行動に移そうとはしているのだ。ただ、それが何なのかが分からないのが落ち着かない。
唇を歪めて黙考する父に、ティボールはへつらうように少し笑った。リカードの後継と見做される以上、エルジェーベトが懸念する程度のことが分からないはずはないのだろうが、とにかくも父が漂わせる怒気が恐ろしくてやりづらくてならないようだ。
「王の子を救うために立て、と……たとえそう命じたとしても、それもまた無茶なことには変わりありません。何しろ側妃の懐妊を証言するのは黒松館に仕えていた女どもとファルカスのみ、側妃を救わんがための虚言なのかもしれないのですから。そこを指摘してやれば――」
「それも手ではある。だが、虚言と明かすためには、少なくとも女の死体を公に晒さねばならぬ。証拠がなくてもこちらにつく者もいるであろうが、逆に言いがかりと見做して嫌う者も出てこよう……!」
おそらくは誰がどのような反応をするかおおよその予想がついているのだろう。リカードはいかにも忌々しそうに歯軋りをした。
今のイシュテンでは、誰もが次に権力を握る者を見極めようと息を呑んで見守っているのだ。有利な者についてその恩恵を得るか、不利な者について恩を売るか。リカードの脚を引っ張ろうとする者もきっと多くいるのだろう。側妃の不利がリカードの有利となる状況で、証拠なしに相手の言い分を嘘だと言い立てるのはあまりに分が悪いということか。
男たちに気付かれぬよう、エルジェーベトは密かに落胆の溜息を吐いた。
――あの女の全てを衆目に晒すことができたら良いのに……!
王を惑わし、マリカから奪った部分も、全て。そして王の虚言を暴くことができたなら。生きていようと死んでいようと、それができるなら女として最高の屈辱を与えてやれることになるのに。なのに、あの女はリカードの手の届かないところにいる。やはり身動きが取れないことには変わりなく、もどかしさが募るばかりだ。
「――結局は、側妃を見つけねば、ということになりますか」
ティボールが諦め顔で――それでも父親の顔色を窺いながら――総括すると、リカードはまた椅子の手すりを殴りながら吠えた。
「否。ファルカスの出方をただ待つなどできるものか!」
「では、どのように……?」
自身が殴られたかのように首を竦める息子を、リカードは冷ややかな目で眺め、そして吐き捨てた。
「ミリアールトの老いぼれだ。まだ王都には到着しておらぬのであろう。堂々と王都の門を潜らせることはならぬ。罪人のように縛り上げて諸侯の前に引き出すのだ。ミリアールトがまた逆らったのだと、そのように人に思わせるために」
「イルレシュ伯……王に加勢するために手勢を率いての帰国と聞いておりますが……」
「だから圧し潰せるほどの兵を動かせということだ! あの老いぼれは此度のことは与り知らぬであろう。だが、そのように証言させるのも、ファルカスにそれを信じさせるのもあってはならぬのだ!」
「は……ははっ……!」
父の剣幕に、息子は危うく跪きそうになる衝動を堪えたようだった。一歩、後ろへとよろめいて――さすがに、それだけで衝撃と恐怖は乗り切ったらしい。すぐに頷く仕草も、父に応える声も、もう力強いものだった。
「一族の者を動かしましょう。もともとミリアールトに至る道は監視しているのです、イルレシュ伯がどのあたりにいるかもすぐに分かるはず……!」
「うむ。早く行け。一刻も早く、事態を我らの手に戻さねばならぬ」
ひとまずの目的を得て、ティボールは先ほどの男よりは確かな足取りでリカードの前から辞した。そして残されたリカードは、エルジェーベトに目で合図して酒を所望する。新しい杯に新しい酒を注ぐエルジェーベトに掛けられるのは、男たちに対するのとはまた違った調子の声だった。
「ファルカスが何を考えていようと、近く王宮を空けるだろう……その時はお前の出番だ。準備をしておくが良い」
「私の覚悟は常に定まっております。ただ、その時を待ちわびているだけでございます」
「マリカにも使いを送らねばな。もうすぐ助けてやれる、と……息子に手紙を書いておけ」
「……はい……!」
指先が喜びで震えて酒をこぼさないように苦労しながら、エルジェーベトは主に杯を差し出した。混迷するこの事態の最中、リカードが彼女のことを忘れていなかったのが嬉しかったのだ。たとえそれが、娘や孫を想う気持ちのおこぼれのような、気遣いとは呼べないようなものだったとしても。
杯を干したリカードは、それをエルジェーベトに帰すと同時に腕を彼女の方へ差し出してきた。揉みほぐせという意味だ。昨日から絶えず思考を巡らし指示を下し、無能どもを怒鳴り続けている。老体には疲れが溜まっているのだろう。無言の命令に、やはり無言で従いながらエルジェーベトは一心に祈る。
――早く戦いが始まれば良い……!
相手がミリアールトだろうとリカードだろうと、王が戦いのために王宮を空ければ、その時こそエルジェーベトがマリカたちのもとに帰る時だ。一度発てば――リカードを信じる限り――王が戻ることはないだろう。ならばエルジェーベトが生きていることを咎められる者はもういない。戦いの準備の慌ただしさ、その隙をついて王宮の奥深くに入り込んでしまえばこちらのものだ。ふたりのマリカの寂しさも悲しみも、みんな彼女が慰め癒してあげられる。
早くこの落ち着かない状況が過ぎ去れば良い。過ぎ去って――遠く振り返るものになれば。そしてその時にマリカが微笑んでいるのを、近くで見守ることができれば良い。そう、エルジェーベトは願ってやまなかった。