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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
19. 戦火、山河を越える
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疑念、不信、そして ファルカス

 イリーナから側妃を攫った()の正体を聞かされたファルカスは、ぎし、と奥歯を噛み締めた。妻を奪われ娘を傷つけられようとした怒りもあるし、亡霊が蘇ったかのような驚きもある。だが、最も大きいのはなるほど、という納得のような思いだった。王の直轄領を襲うなど、リカードが黒幕にいるとしても直截にすぎる策だ。国を滅ぼされた怨みが、女王を救うという信念が背景にあるとしたら、このような手段に訴えるのも理解できる。


 だが、その理解も納得や安堵とは程遠かった。あの女が助けの手を見てどう思ったのか、想像せずにはいられなかったのだ。シャスティエは、喜んで従弟だという男の手を取ったのだろう。彼の歯軋りは、妻の肉体ばかりでなく心も――そもそも彼のものであったはずはないが――攫われたことへの灼けるような嫉妬でもあったのだ。


 無論そのような感情は臣下たちの前で見せる訳にはいかず、彼はただ呻いた。


「シグリーン公爵……よく覚えている……」


 彼自身が首を刎ね命を奪った者たちだ。決して忘れるはずがない。とくにあの北の国の王族たちは彼が手にかけた者の仲でもとりわけ誇り高く潔かった。父も息子たちも誰ひとり怯えさえ見せることなく、背を曲げることなく死に臨んだ。死に行く者に静かな目で見据えられて、彼の方こそ怯んだ様子を見せないように苦労したものだ。そう、あの女を守ろうと考えたのも、そもそもはあの者たちに報いてやらなければと思ったからだった。

 その血脈が、まだ生き残っていたというのか。


「息子はふたりいたな。その者は――」

「公爵様の末の御子です。クリャースタ様とは同い年で……」


 イリーナの証言に更に歯を軋らせると、口の中に鉄錆の味が広がった。シグリーン公爵の子息らの容貌――シャスティエと相通じる金の髪と碧い目、白く整った顔立ちも記憶に鮮明だ。彼らが口を揃えて若い()()のことを案じ、自らの命で彼女の無事を贖おうとしたことも。彼らの献身を見なければ、女が人質として通じると考え付いたかどうかも分からない。ミリアールトの臣下は皆、雪の女王の姿をした王女を愛していたのだ。


 年の近い肉親となれば、その思いはとりわけ強いことだっただろう。もしかしたら――否、きっと、シャスティエからの思いも、また。


「あの者を許せと言っていたな。何を許せというのだ。その男とミリアールトなりへ逃げるのを見逃せとでも言うのか」


 ――フェリツィアを残したのは身代わりのつもりではないだろうな。


 腕に娘の重みを思い出してファルカスの声は尖った。恐らくは長く、楽しくない話になることを予想して、フェリツィアは村の者に預けておいた。王女と認められたからには、丁重に扱われることだろう。母親に似て淡い色の髪と目の姫。幼いながらに父の顔を見て笑っていた娘。確かに彼にフェリツィアを虐げるなど考えにも及ばないし、イシュテンとミリアールトの同盟の証としては十分だとでも思ったのだろうか。――だがあの女はあれほど娘を愛していたようだったのに。娘に向ける穏やかな笑顔こそが、彼の心を動かしたというのに。


「違います!」


 不審と不満、裏切られたような思い。昏い怒りに囚われかけて視界さえ翳りそうになった彼を、イリーナの悲鳴が呼び戻した。


「フェリツィア様をお守りするためだけです! そのためだけ――クリャースタ様は、御子様方のためにも陛下と共にあることを望んでおられました!」

「では何の話だ」


 とはいえイリーナはシャスティエの忠実な侍女だ。だから必死な叫びも主を庇うためのものとしか聞こえなかった。現にシャスティエは仇の娘を残して去った。最後に生き残った肉親と共に。許せるものではなかった。夫としても、王としても。妃を奪われるなどという屈辱、(すす)がなければ王位を保つことなどできはしない。シャスティエの望みがどうあろうと、彼はそれを踏みにじらなければならないのだ。


「それは……」


 ――言わなくて、良かったな……。


 言い訳を探しているのか、目を泳がせて言い淀むイリーナを醒めた目で眺めながら、思う。愛しているなどと、言わなくて良かった。しょせんあの女とは敵同士だ。数多の肉親を奪った憎しみが、娘ひとりを与えたくらいで帳消しになるはずもない。生き残りがいたと知ったのは喜びだったろうに、それもまた無残に奪われて。そのような相手に愛を囁かれてもおぞましいとしか思わないだろう。相手を傷つけるだけの言葉、彼にしても虚しいだけの言葉など、口に出してはならなかった。そこまで浮かれていなかったのは、一抹の救いですらあるかもしれない。


 だから、イリーナが何を言おうと耳を傾けるつもりはなかったのだが。だが、小柄な娘は全身を口にするかのような、縋るような懸命さで訴えてくる。


「……クリャースタ様は、レフの――その、賊の誘惑を一度撥ねつけていたのです。もちろん、その時に打ち明けなかったのが咎になるとは承知しておりますけれど! 肉親の情に目が曇ったのは、あの方の罪です。でも――あの、私などの願いが叶えられるのでしたら、どうかクリャースタ様をお許しください! あの方は、これ以上失うことを恐れていらっしゃいました。そして、私が口にして良いことではないかもしれませんが、惜しんだのはレフの命だけではありません。陛下の御心を失うことをも、あの方は恐れていらっしゃいました!」

「――今、何と言った」


 取り合う気などさらさらなかったから、イリーナの言葉の多くは彼の耳をすり抜けていった。だが、その中にさすがに聞き捨てならないことを見つけて、ファルカスはいつまでも続きそうな娘の口上を遮った。


「あ……クリャースタ様は、陛下の御心を――」

「そこではない。あの者は、その賊とやらと会っていたのか? いつ、そのような機会があった?」


 シャスティエを攫われたことばかりに気が行っていて、ファルカスは真っ先に考えるべきことを考えていなかったことに気付いた。

 そもそも黒松館に妻子を住まわせたのは、敵の手が届きにくい場所だと信じたからだった。更に、ミリアールトの者、しかもシャスティエのような金髪碧眼はイシュテンでは目立ちすぎる。いかにその男の想いが深くとも、手引きする者なしでイシュテンで動くことは難しい。王宮で最初に襲撃の報を受けた時、彼はリカードが影にいると直感したのではなかったか。ミリアールトの王族の生き残りと、イシュテンで屈指の権を誇るティゼンハロム侯爵家と。両者がいかに結びつくのか、そのようなことがあり得るのかは定かではないが。とにかく、敵を見誤ってはシャスティエを取り戻すことなど叶わない。


 一度気づくと、一連の出来事には何ひとつ明らかなことなどなかった。


 ――あの者は今……どこにいる……!?


 ファルカスは、ミリアールトの者がミリアールトの者を攫ったのだから祖国に向かうのだろうといつの間にか考えてしまっていた。無論闇雲に狩り出そうなどとは思わず、リカードを抑えつつミリアールトとは全面的に争うことがないように、とは算段していたが。そう、彼は一時とはいえ(リカード)に背を見せることを想定してしまっていた。それは――何者かはまだ確とは知れないが――()()が望む通りなのかもしれなかった。


「あの、王宮にいた頃でございます。確か、そう……王女のマリカ様がフェリツィア様を欲しがってしまわれた頃のこと……。ただでさえご不安そうだったのに、あんな手紙が届いたから……」

「手紙。どのようにして届けられたのだ」


 同じ部屋で話を聞いていたグルーシャが息を呑む気配がした。それで、離宮に仕えた侍女の間でも見聞きしたことは全く同じではないことが分かる。マリカが無邪気な――だが無理な強請りごとで父を驚かせ母たちを怯えさせたのは、もう遠い昔のことのように思える。そんな時から、妻は彼に対して秘密を抱えていたのか。


「フェリツィア様のお部屋に、窓枠に挟まるようにして……。だから、そんなところにまで侵入できる者がいるかと思うと、怖くて……」


 確かに、シャスティエは彼には理解できないことにたいして怯えているように見えた。子供を持ち、その子ともども命を狙われていることへの恐怖と考えていたが、より明確な恐れがあったのか。なぜ言わない、言ってくれれば、と。苛立ちに歯噛みしつつ、ふとあることが胸に掛かった。


 ――では、あの者は喜んでいた訳ではないのか……?


 いずれ逃れる機会を狙っていたための緊張なのかもしれないし、彼に甘えて縋るような素振りも、油断を誘うためだったかもしれないが。その割には、シャスティエの不安も怯えも――彼に凭れてくる姿も、真に迫っていたような気がするが。死んだと思った肉親が目の前に現れたら、普通は喜ぶものではないのか。あの女は、何を思ってその時は従弟の手を()()()()()()のか。

 とはいえ、答えの出ないことを今考えたところで仕方がない。より実があるとしたら、何事が起きたのか起きようとしているのかを、少しでも明らかにすること。関りを持つ者と持たない者、信じられる者とそうでない者を分けることだ。


「王宮の奥にまで手を伸ばすことができる者は限られる。――イルレシュ伯は、その頃にはミリアールトに発っていたな?」


 手始めにシャスティエが頼りそうな者の名を挙げながら、ファルカスはまたひとつ思い当たって暗澹とした。


 ――今頃は()()()()も知らされているのだろうな。


 その生き残りの男がどこに潜んでいたのかは知らないが、ミリアールトで行われていることは当然知っているのだろう。滅ぼしたとはいえひとつの国でその言葉を禁じるなど強引にもほどがある命だった。総督らからも、民の不安や不満も大きいと聞いている。どこに潜んでいたとしても、その声は国境をも越えて届いただろう。情報が絶対に届かないように手を回すことができるのは王宮の最奥くらいのものなのだ。


 秘密を持っていたのは、相手だけではなかった。ファルカスもまた、妻に決して言うことができない秘密を抱えているのだ。シャスティエが彼に従ったのは、祖国を粗略には扱わないと信じたからだろう。無論彼にも言い分はあるが、あの女にはその理由は理解できまい。ただ、彼に一層の不信を抱いて憎しみを――一時でも消えていたかのような言い方こそ傲慢だろうが――再燃させるのだろう。


「はい。伯爵様がいらっしゃらないからこそ、なおさらご不安だったようにお見受けいたしました。そう……それに……!」


 ファルカスの胸に広がる黒い染みは、あくまでも心の中だけのこと。そのようなことを知らないミリアールトの侍女は、何事かを思いついたように若草色の目を輝かせた。


「シャスティエ様――クリャースタ様は伯爵様にご相談申し上げると仰っていました。その……賊の者を、何とか人に知られずにミリアールトに帰すことはできないか、説得できないか、と……。ですから、あの方はご存知のないことです!」

「……ならば諸侯にもそのように信じさせねばな。安直にミリアールトの――イルレシュ伯の関与を疑う者もいよう。今の時期にミリアールト全土を敵に回すことは避けねばならぬ」

「はい……!」


 ファルカスの言葉は、少なくともイルレシュ伯の潔白を信じるものではあったし、イリーナの――そして間接的にはシャスティエの――言い分を認めるものだった。だからだろうか、娘の頬はやっとわずかながら緩んで微笑みに似た表情になった。


「恐れながら、陛下――」


 一方で、強張った声を上げる者もいる。今まで聞き手に徹していたアンドラーシだ。声だけでなく表情も、この男には珍しく硬い。その理由は、ファルカスにもおおよその予想がついた。


「何だ」

「お気持ちは重々察しております。クリャースタ様のことも、イルレシュ伯が加担するはずがないことも。ですが……」


 珍しく目を伏せ、言いづらそうに濁したことで、アンドラーシは言葉ほどの確信はないと雄弁に語っていた。それでもファルカスが目で促すと、意を決したように居住まいを正して改めて口を開く。その表情は、主君の勘気を被ってでも諫言することを覚悟した者の顔だった。


「今、ミリアールトに対して手心を加えたと思われてはなりませぬ。クリャースタ様を――その、攫った犯人がミリアールトの王族だというのは確かなのでございましょう。少なくとも、隠し立てすることがないか、申し開きはないのか――反逆に対する態度を持って臨まねばならぬ、と存じます」

「俺にはこれ以上過ちを重ねる余裕はないから、だな」

「そのようなことは……!」


 ファルカスの指摘に顔色を変えたことで、アンドラーシはやはり言葉よりもはっきりと懸念と――そして、王への不信を伝えてきた。もっとも忠実と評して良い側近をしてこの態度、彼は側妃に溺れ過ぎたのだ。

 背いた敗者に対して容赦するのはイシュテンの王のすることではない。なのにあえてそれをするのは側妃に対する耽溺、惰弱の表れとしか傍目には見えないだろう。だが――


「敵を見誤ってはならぬ。ミリアールトの王族がどのようにしてイシュテンの王宮に忍び込むことができた? リカードは黒松館の襲撃の報せがあった時にちょうど俺を訪ねていた。そのような偶然があるものか? リカードが俺とミリアールトを争わせようという肚なら、思い通りにさせてはならぬ」

「は……」


 これまでの考えを纏めながら、ファルカスは半ば自身に言い聞かせるように述べた。冷静になってみれば、その男がわざわざ目立つ容姿を晒し、自身の正体を証言できるイリーナを残したのがそもそも腑に落ちない。そのようなことをすればミリアールトに累が及ぶのは明白、女王を救出しようとする者が祖国に戦禍を招くようなことをするものだろうか。考えるほどに、事態はどこか歪だった。


 ――ミリアールトではない。――だが、リカードとその生き残りがどのようにして結んだのか……まだ、何か見落としているのか……?


 シャスティエの言動を思い出そうと記憶を探れば、不安げに縋る姿ばかりが浮かんで心を乱す。何か心に秘めることがあるとは分かっていたのに、強いて聞き出そうとしなかったのが悔やまれた。ミーナに対してもそうだったように、女の不安とは漠として根拠のないものとして宥めてやれば良いとだけ思っていたのではなかったか。妻の不安を拭えないのは彼の不徳によるものと、認めるだけで諦めてはいなかったか。


「……ですが、陛下」


 そしてアンドラーシは。沈思するファルカスに、まだ戸惑うような表情を隠さない。リカードの名にはさすがに背筋を正したものの、主の妄想ではないかと言いたいのを堪えているかのよう。しかし頑迷さを叱責する気にはなれなかった。これも彼の失態の結果であるがゆえに。妻を取り戻そうとするならば、この男以上に彼を疑い落胆しているであろう諸侯を納得させなければならないのだ。


「──お怒りを恐れずに申し上げますが、陛下は急がれているとお見受けいたします。ミリアールトの者がクリャースタ様を傷つける恐れは低いのではございませぬか? まずは、御心を鎮められて――」

「そう、冷静に状況を読んで動かねば。だが急がぬことなどできはしない」

「陛下……!」


 彼の乱心を疑ってでもいるのか、絶望の表情を見せるアンドラーシがいっそおかしくて、ファルカスは嗤う。


「懐妊しているからな。王の子は一刻も早く返してもらわねば」


 そしてアンドラーシが絶句して、グルーシャやイリーナの顔を見渡す様を見て、更に声を立てて笑う。恐らくは彼自身への嘲笑でもあっただろうが。シャスティエの懐妊は、それ自体は彼の無軌道が原因だ。側妃の不安を捨て置けず、王の義務を疎かにしてまで通い続けた。縋る手を振り払うことができず、ひと時の快楽で相手の不安を慰め、彼が抱く罪悪感を誤魔化そうとした。


 だが、これは――その正体が何者であろうと――()が承知していない手札のはず。側妃への寵愛が過ぎるために、王が私情で兵を動かすのではなく、イシュテンの名誉に関わる問題に仕立てるのだ。


 ――結局、また明かすことになるのだな。


 出産まで心穏やかに過ごさせてやる、などと。儚い夢に過ぎなかった。結局、彼は妻を守ることができず利用するばかり。その苦さ愚かさ至らなさは、重々承知してはいるが。


「まずはイルレシュ伯を無事に王都に来させるのだ。側妃の誘拐に加担したと責める者が騒ぐ前に」


 その全てを噛み殺して、ファルカスは力強さを装って命じた。

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