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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
19. 戦火、山河を越える
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生存者の証言 アンドラーシ

 初冬の風が、頬を切るようだった。馬を全力で駆けさせているために、自ら風を生み出すような格好になっているのだ。急な出発で武装は軽い革鎧のみ、その身軽さが馬と風と一体になったかのような感覚を与えている。


 ――……速過ぎるな……。


 馬術の限りを尽くして駆けることは、本来ならば喜びのはず。だが、今のアンドラーシが覚えるのはそのような爽快感とは程遠い焦りと不安ばかり。無論、一刻も早く目的の場所――黒松館に至りたいとは思っているのだが。だが、彼ひとりで到着したところでどうにもならないことも承知している。妻の安否を思って居ても立ってもいられないとはいえ、そのくらいの落ち着きは残っているということだ。――つまり、今の王よりは。


「陛下! 後が遅れております! どうか足を緩めてください!」


 彼は今、黒馬(アルニェク)を駆る王の背を追っている。そして更に彼の背を従者や護衛の兵たちが追う形だ。王の剣や馬術の腕が卓越しているとはいえ、そしてアルニェクも優れた馬だとはいえ、ただ一騎突出している状況は拙い。黒松館の襲撃自体が王を誘い出す罠かもしれないというのに。


 先ほどから何度も呼びかけているというのに、王は振り向きさえしないまま。こうなると彼の妻も黒松館にいたことを思い出してくれたことすら僥倖だったのかもしれない。もっとも黒松館からの使者が伝えたのは側妃と王女の運命だけ。使用人については多くの者が命を失い、また怪我を負ったとしか聞いていない。妻のグルーシャがそのいずれかに入るのか、せめて命だけでも長らえたのか、まだ誰も教えてはくれないのだ。だが、その彼をしてさえも、単騎で駆け抜けたところでどうにもならないことは承知している。


 ――クリャースタ様のために、これほど……? 否、それだけではないのだろうが……。


 黒松館にはアンドラーシも何度か招かれたことがある。王の母君こそ会ったことはないが、祖父君の人柄も、王がそこでどのように育ったかも知っている。王にもっとも縁の深い地で、リカードの手も届きづらいはずの場所。だからこそクリャースタ妃を移したはずがこの事態だ。王の動揺も当然のこと、側妃への寵愛が度を過ぎているからとは断じることはできない……だろうか。そう、王は完全に理性を失っている訳ではなくて、ジュラなどにリカードを監視し王妃を守る役目を申し付けることはかろうじて忘れてはいなかったのだが。


 ――いずれ主君と定めた方のこと……従いお守りするまでだが……!


 行き過ぎを案じられ窘められ、時に咎められるのは、日頃はもっぱらアンドラーシの役回りのはずだった。なのに彼が王の暴走に思い悩む日が来るとは思ってもみなかった。皮肉な逆転を嗤う余裕などあるはずもなく――彼は王に追いつくべく手綱を握り直すと、馬を更に急がせた。




 黒松館に近づき、山火事の爪痕が明らかになると王の足取りは鈍った。焼けて倒れた木やいまだ燻って煙を上げる落ち葉を避けようとすると、自然と速度を下げなければならないのだ。


「ひどい有様でございますね……」


 ようやく追いついたアンドラーシが声を掛けても、王はやはり無言だった。だが、その心中を慮るのは難しくなかったので、今度は彼も返事は期待していなかった。むしろ痛ましいとさえ思う。


 生家のすぐ傍の森や野山がどのような存在か、彼にも覚えがあるからだ。初夏の新緑の香り、落ち葉を踏む感触、雪で一面の白に覆われたとしても迷うことなどないほどに慣れ親しんだ場所。初めて馬を駆り、初めて狩りの獲物を挙げて、火遊びの舞台にしたこともあるかもしれない。そのような場所が敵に無残に踏みにじられたらどう思うか――想像できるなどとは言えないが、簡単に言葉にできるようなことでないとだけは分かる。


「……側妃と王女を迎えたばかりにこの有様か。民には見舞いを弾んでやらねばな」


 ただ、王が誰にともなく呟いた声が、黒く炭になった木々の間を渡る風に乗って空へと消えた。




 森の惨状と同様に、黒松館も見る影もない姿を初冬の寒空に晒していた。その名の由来でもある、館を守るように並んでいた松の木も、燃え移った炎によって半ばから折れ、アンドラーシが上って遊んだ枝も大地に倒れて自らの重みで押し潰されている。

 そして館自体も。石造りの壁や土台こそ留めているものの、窓枠など木製の部分は焼け落ちている。正面の分厚い扉はさすが完全に燃え尽きてはいなかったが、だからこそ斧だか槌だかで抉られた跡が生々しく残っている。女を主とする館のこと、警備の兵こそいるものの、系統だった指揮ができる器のものなどいなかったのだ。だが、そんな場所にも敵は容赦しなかったのだと知れる。


 ――これで生き残った者などいるのか……?


 館を攻めた者たちは、少ない手勢を相手にも決して油断はしなかったらしい。森に火を放って更に警備を手薄にさせようとしたことからもそれが窺える。

 ――そこまでしておいて、立ちふさがる館の者を見逃すなどということがあるのだろうか。いち早く危険を察して隠れるか逃げるかすれば無事に命を長らえることがあるかもしれない。だが、妻のグルーシャに限ってそれはない。彼女ならば、身を盾にして主とその子を守ろうとするはず。そうでなければ彼は妻に幻滅することになってしまう。しかしそれは妻の命を諦めるということで――


「陛下。お待ちしておりました。この度は真に申し訳もございません……!」


 嫌な想像に息が詰まりそうになるのを感じた時、王の馬の足元に跪く者があった。身なりからして、裕福な農家――近隣の家々を纏める役目にある者、といったところだ。面識があるのかもしれない、王はその者の名を問うことはなくただ軽く頷いた。


「そなたたちを咎めるつもりはない。ただ、何が起きたのか詳らかに報告せよ」

「はは……っ」


 側妃を守り切れなかった罪を問われるとでも思っていたのだろうか、男は大げさなほど感激した様子で平伏した。次いで顔を上げた時も、どうにか王の機嫌を取ろうと必死なようで、媚びるような歪んだ笑みを浮かべていた。


「内通者と思しき()も捕らえてございます。中々口を割らぬのですが、陛下のお出ましとなればさすがに観念することでしょう」

「内通……?」


 離宮にいた頃からも含めて、リカードに与する恐れのない者を選りすぐってクリャースタ妃の傍に仕えさせていたのだろうに、その中から裏切る者が出たということなのか。それが本当だとしたらいったい何者なのか――男の得意げな表情に何か不穏な予感を覚えつつ、アンドラーシは王と共に内通者とやらが捕らえられている場所へと案内された。




 火の手はその村にまでは及んでいなかったようだった。だが、鎮火や、黒松館の襲撃に居合わせたために怪我をした者、後始末に追われる者は多いようで、村中が慌ただしい雰囲気に包まれていた。

 そして中でも最も大きく、かつ人の出入りが最も激しい家――恐らくは村の長のもの――に通されると、馴染みのある声がアンドラーシたちを迎えた。


「アンドラーシ様――陛下!」

「グルーシャ!?」


 間違えようもない、彼の妻のグルーシャだった。襲撃以来ろくに休めてはいないのだろう、髪は乱れ化粧気もなく、目の下には隈が色濃く刻まれていたが、だが、とにかく生きていてくれた。その一事だけで、アンドラーシはようやくまともに呼吸することができた。

 王と夫に駆け寄ろうとして、グルーシャは自らの姿を軽く見下ろすと恥じ入るように目を伏せた。


「このような格好で申し訳ございません――」

「この際構わぬ。そなたが無事で良かった。――内通者を捉えたと聞いたが」


 王はグルーシャ自身とも以前から面識がある。ゆえに側妃と王女の大事のこの時も、親身な言葉を賜ることができた。王に他所に目を向ける余裕ができた証拠でもあり、やはり見知った者が無事であったという事実は大きいのだろう。


 王の問いに、グルーシャは激しく首を振った。その勢いで髪が更に乱れて幾束か首筋に堕ちるほどに。両手を胸の前で組んで訴える姿は、縋りつかんばかりですらあった。


「そのようなはずはございません。イリーナがクリャースタ様に仇なすようなことをするはずが……ですが陛下でなければ何も言わないとの一点張りで……村の者たちが不審に思い始めているのです」

「イリーナ? あの金の巻毛の娘だな? なぜあの者が疑われる?」

「フェリツィア様まで……! 私どもの――女の言葉では信用に足りぬとか。お父君の、陛下のお言葉がないと……」

「待て。フェリツィアがどうしたと言うのだ。母親とふたり、攫われたと聞いているぞ」

「そうではございません!」


 気丈なようで動転してもいるのだろう、グルーシャが口早に訴えようとすることは要領を得ず、アンドラーシは王と顔を見合わせた。そして無言のうちに、あの侍女と会うのが早いだろう、と頷き合う。イリーナという侍女とはアンドラーシも面識がある。ミリアールトで最初に顔を合わせた時、彼をずっと睨んでいた記憶も鮮明だ。確かにあの娘が主を裏切る等考えづらい。しかも妻はフェリツィア王女の名を口にした。王の動揺は、一歳にもならない姫君が攫われたことにも由来しているのだろう。もしも王女だけでも無事ということなら――


「……とにかくあの娘のところへ案内せよ。道中、そなたの目から見た経緯も聞かせてもらう」


 改めてそう命じた時、王の声には常の力強さが多少なりとも戻っているようだった。




 グルーシャは、屋敷の襲撃があった時には外に出ていたらしい。山火事の鎮火のため、薬や情報を滞りなく必要な場所に届けるため、女ながら馬を出していたとか。


「だから私は実際にその場にいた訳ではございません。……そうであれば、私の言葉ももっと信じてもらえたのでしょうが」


 館に留まっていれば、と。グルーシャは悔し気に漏らしたが、アンドラーシは密かに喜びを噛み締めていた。妻は務めを放り出して自分だけ逃げたのではなかった。それに何よりも無事でいてくれた。王の手前、はっきりと口に出すことはできなかったが、彼にしてみればこれ以上望むべくもない結果だった。


「その女は賊と一緒にいるところを見られているのですが、無傷で助かっておりました。生き残った者でも助けを呼べぬよう傷を負わされた者も多かったのに、でございます! そのような者の言葉に耳を貸す訳には――」

「でも、内通者ならば置いて行かれるはずがないでしょう!」


 ()()()()へと先導して案内する村の者が吐き捨てるとグルーシャも声を荒げた。


「フェリツィア様にまであのような――」

「側妃様を攫いながら王女様は見落とすなど、それこそおかしな……! すり替えて誤魔化そうとしたに決まっている!」


 ――農民風情が無礼だな。


 前代未聞のことに、相手も動転しているのは理解できる。だが、それでも妻が疑われ睨まれ怒鳴りつけられるのを目の当たりにして気分が良いはずはない。何か痛烈なひと言を浴びせてやろうと息を吸った時――先に、王が口を開いた。


「残された赤子がいて、フェリツィアかどうかの確信が持てないというのだな。俺が会えば分かる。だから今は双方口を慎め」


 王の命令にさすがに男もグルーシャも従って口を噤んだ。そして、一行は無言のうちにその部屋に辿り着いた。





「――間違いない。フェリツィアだ」


 村の女にあやされていた赤子は、王の腕に抱かれるなり歓声を上げた。小さな手を伸ばして王の顔に触れようとしている仕草は、明らかに初めて見る他人に見せるものではない。王に懐いている――つまりは、親子として触れ合っているのだろうと自然に思わせるものだった。


「母君様に似ておいでとは伺っておりましたが……」


 何より、その赤子の髪も目も、イシュテンでは珍しい淡い色をしていた。クリャースタ妃のように金を紡いだような髪や宝石の碧とまでは言えないが、この容姿を見てなお、王女でないことを疑っていたとは信じがたい。


「その、賊の中に異国の者がいたとも聞いておりましたから……他所から連れて来た赤子かと……。王女様にお目通りすることも私どもはございませんで……」


 アンドラーシの咎める目に気付くと、例の男は額に汗を浮かべながらもごもごと言い訳を述べた。とてつもない失態、無礼を犯してしまったのだと気づいたのだろう。一方、やっと言葉の正しさを明かすことができたイリーナは、やつれた頬に微かな笑みを浮かべていた。


「……乳母の機転でございます。館が襲われていると気づいた時に、乳母の子とフェリツィア様と一緒におりましたので、とっさに産着を取り換えて……。私も一度は捕らえられてしまったのですが、御髪や目の色は見せないようにして……。賊……、が攫ったのは乳母の子の方なのです」


 だが、その笑みをすぐに泣きそうな表情で歪ませて、ミリアールトの娘は王に対して膝を折り、深く頭を垂れた。


「その子を父君の元に返すように、とのクリャースタ様のお言葉でした。……やっと、叶えて差し上げることができた……!」


 フェリツィア王女を抱いた王は、それまで纏っていた殺気にも似た空気を和らげていた。だが、それでも完全な安堵にはほど遠い。クリャースタ妃の居場所が知れぬのは同じことだし、何より村の男は聞き捨てならないことを述べたのだ。異国の者、それもこの娘が疑われていたからには、どの国の者か――想像は、嫌でもひとつの方へと向かう。


「そなたの献身には感謝する。乳母の無私の忠誠にも報いよう。だが、まだ休ませてやることはできぬ。側妃を攫ったのは何者か、その手がかりなりと証言してもらわねばならない」


 だからだろう、王がイリーナに更に掛けた声は硬く、見下ろす視線も険しいものだった。そしてイリーナも覚悟していたかのように、より一層深く跪くと懇願の口調で王に叫んだ。


「陛下――どうか、シャスティエ様――いえ、クリャースタ様をお許しくださいませ……!」


 ――許す? 助けて、ではないのか……?


 イリーナの不穏な前置きに、王は軽く眉を寄せると村の男に下がるように命じた。グルーシャと共に残ることを許されたアンドラーシは、そうして襲撃の夜の全貌を知ることになった。

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