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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
19. 戦火、山河を越える
212/347

亀裂 レフ

 黒松館を()とした後、レフは近くに潜ませていた馬に乗って夜明けまで駆けさせた。明るくなって周辺の住民や領主が状況を把握すれば、王に報告が上がるだろう。そして王が何らかの手を打つ前に、できるだけ距離を稼いでおかなければならなかった。どうせティゼンハロム侯爵も側妃と王女の身柄を横取りしようとしているのだろうし、早いところ国境を越えてしまわなければ。


 シャスティエはレフと同じ馬に乗せた。彼女に夜道を星明りだけを頼りに駆ける馬術などないから当然のことだ。だが、抱き寄せるように密着した体勢でも、愛する存在を腕の中に抱える喜びは程遠かった。寒さを防ぐために厚い毛皮を纏わせたから、体の線や温もりを感じられないから、などということはどうでも良い。シャスティエは――危ないから他の者に任せろと言ったのに――赤子を抱え込んで離そうとしなかったのだ。赤子に覆いかぶさった細い背中は、明らかにレフを拒み、警戒していると伝えてきていた。


 ――イシュテン王の子が、そんなに大事か……!


 王女を人質に取ったのは彼自身ではあったけれど、シャスティエは彼についてきたのではなくあくまでも脅されて拉致されたのだ、と。言葉によらずはっきりと告げられて、レフは大いに傷つき苛立った。できるだけ彼から身体を離すように馬首にしがみつくシャスティエを抱えながらでは手綱を取るのにも苦労させられて、心身の疲れは必要以上のものになってしまったはずだった。




 それでも東の空が白む頃には、無事にあらかじめ取り決めておいた隠れ家に辿り着くことができた。ブレンクラーレの――アンネミーケ王妃の間者たちが、長年かけてイシュテン国内に用意した場所のひとつだ。例によって商人の別荘を装った館で、人の出入りがあっても怪しまれないようにしてある。黒松館襲撃に参加し、そして少人数に分かれて離脱していた者たちも、それぞれ別の経路で集合していた。山火事の陽動を使い、館の警備を手薄にさせた後のこととあって、帰っていない者は思った以上に少なかった。

 いまだ敵地の只中とはいえ、一行には休息が必要だった。血に汚れた鎧はひとまず脱いで、何食わぬ顔で旅の商人を装うのだ。シャスティエも――本人はさぞ顔を顰めるだろうが――レフの病弱な()として馬車に閉じこもっていてもらおう。その旅路の間に、彼女の心も落ち着くだろうし話す機会も幾らでも持てるはずだった。


 ――そうだ。まだ、何も伝えていない……。


 ミリアールトに強いられた屈辱的な命令。グニェーフ伯の裏切り。アンネミーケ王妃の目論見とブレンクラーレの後ろ盾。シャスティエが知らないはずのことを教えれば、彼女も分かってくれるはず。

 朝日の眩さを希望の光のように感じながら、レフは用意されていた寝台に倒れ込んだ。シャスティエも、同じ屋根の下のどこかの部屋で休んでいるのだろう。




 次にレフが目を覚ますと、時刻はすでに夕刻だった。一日を無駄に寝て過ごしたことになるが、シャスティエの体調を考えるとどのみち今日は動けなかっただろうから良しとする。

 着替えや洗顔を済ませ、簡単な食事を摂って。人心地ついた後、手近な者を捕まえてまず尋ねるのは、もちろんシャスティエのことだった。


「彼女は――」

「お目覚めですよ。たった今お食事をお出ししたところです」

「会えるかな」

「お召し物はこちらの用意したものに変えていただきました。絹のドレスという訳には参りませんが、お髪なども精いっぱい整えさせていただきましたので――」


 大丈夫だと思います、と。その女はにこやかに答えた。隠れ家だけあって、女手も全て事情を把握したアンネミーケ王妃の手の者なのだ。イリーナを置き去りにするしかなかった以上、シャスティエの身の回りの世話は当面ブレンクラーレの間者たちに任せるしかない。王女の生まれの彼女が、見知らぬ者に髪や肌を触れられるのに耐えられるかどうか――レフは密かに懸念していたが、とりあえず受け入れてくれたというなら朗報だった。




 シャスティエは、黒松館と同様に屋敷のもっとも奥まった、かつ最上の部屋を用意されていた。もちろんこの程度のことで彼女を宥められるとは思っていないが、せめてなるべく不自由がないようにはしてやりたいと思う。

 果たして彼の話に聞く耳を持ってくれるのか、シャスティエの機嫌はどれほど悪いのか。緊張に鼓動が早まるのを感じながらその部屋の扉を叩くと、やはり硬く尖った声で応えがあった。とにかくも許されたのに安堵しつつ入室し――目に入った光景に、レフは間の抜けた声を上げてしまった。


「――何を食べているの」


 先ほどの女から伝えられた通り、シャスティエの前には一通りの品が並んでいる。彼女が好む魚料理も用意させたし、湯気の立つ汁物は身体を温められるだろう。だが、彼女が匙を使って口に運んでいるのは、形を留めないほど煮込まれて潰された粥――大人が口にするのではない、赤子のためのもののはず――だったのだ。

 困惑する彼に投げられた視線は、氷の冷たさと刃の鋭さを兼ね備えていた。


「毒味よ」

「──君に毒を盛ったりするものか!」


 視線と同様に冷たく鋭いひと言に呆然とするのも一瞬、シャスティエの疑念に気付いたレフは思わず声を上げていた。だが、それに対する答えは更に冷え冷えと凍っている。


「私には、ね。でもこの子には何をするか分からない――だから私が確かめているのよ」


 言いながら、シャスティエは粥を掬った匙を唇にあてて熱さを確かめ、小さく頷いてから赤子の口元に近づけた。赤子には温かく心配げな目を注ぐ一方で、レフの表情を窺う目はあくまでも冷たく醒めて、彼に動揺がないかを探っている。うんざりするほどの周到さと用心深さだった。


「……君の子にだって害するような真似はしないよ」


 アンネミーケ王妃が欲しがっているから、とか利用価値があるから、などと言っては拙いのは分かっていた。しかし、彼の言葉はまだ正解にはほど遠かったらしい。シャスティエは匙を放り投げて食器に高い音を上げさせると、眉を吊り上げて叫んだのだ。


「したじゃない! こんなにかぶれて可哀想に……!」


 深夜から明け方にかけて、赤子は馬上でもぐずり続けた。隠れ家に着いた時には涙と(はなみず)で顔はどろどろになっていたし、粗相や乳母の血で絹の産着も台無しになっていた。だからシャスティエは地に足をつけるなり赤子の沐浴を命じていたのだが、どうやら遅かったらしい。赤子の顔や首回りはまだらに赤くかぶれていた。多分着替えた清潔な産着の下も同様なのだろう。


 ――でも、別に命に関わるようなことじゃないし……。


 またシャスティエの怒りを買いそうな感想は腹に深く呑み込んで、レフは軽く息を吐いてから切り出した。


「……君と話がしたかったんだ」

「ええ。私もよ。でも先にこの子に食べさせないと」


 彼の声に滲む懇願に気付かないはずはないだろうに、シャスティエはまた赤子に向きなおってしまった。辛うじて彼に向けられていた関心も、赤子の世話の前にはどこかへ霧散してしまった。




「さあ……良い子ね、いつもと味付けが違うでしょうに。よく食べるのよ」

「…………」


 ――どう見ても、似てない。


 別人かと疑うほどの甘ったるい声でシャスティエが赤子に話しかけているのも、赤子が汚く食べこぼすのも、それさえもシャスティエが優しく拭ってやっているのも。この場の全てが、レフの苛立ちをいや増した。かぶれた頬を差し引いても、赤子があまりにもイシュテン人の容姿に寄っているのも気に入らなかった。髪の色も目の色も、彼女とは違う――こんな存在を、どうしてシャスティエはこんなにも慈しむのだろう。レフとならば、明らかに血の繋がりを感じさせる容姿を互いに持っているというのに。どうしてこのように見えない壁を築かれたような気分にさせられるのだろう。


「――お待たせしたわね」


 ひどく長い間待たされたようにも思ったが、赤子はついに粥を平らげて満足げに目を閉じた。こちらの苛立ちを他所に、ひどく寛いだ様子がまた気にくわない。それでも、シャスティエが初めて彼に正面から向き合ってくれたので意気込んで口を開く。


「シャスティエ、僕は――」

「私とこの子を逃がしてちょうだい。この屋敷の者たち――ブレンクラーレの者のようだけど、彼らには捕まらないように。王に与する者の領地に置いて行ってくれれば、後は自分でどうにかするわ」


 ――が、何も言えないうちに遮られてしまう。シャスティエの主張は、彼を突き放すものであると同時にひどく愚かなものだった。兵を動かして館を襲っておいて、彼がどうして彼女を解放するなどと期待できるのか。いくら、何でも言うことを聞く弟分だと思われているのだとしても、彼はそこまで侮られているというのだろうか。


「……大人しくついて行くって言ったじゃないか……!」


 燃え盛る黒松館で、シャスティエは諦めてくれたと思ったのに。殺された乳母の子とやらに手を出さないのと引き換えに、彼に従うと言ってくれたのに。

 非難を込めて叫ぶと、シャスティエも苛立たしげに眉を寄せた。言質を与えたのにも、それを翻したのにも後悔というか後ろめたさを感じているかのように。


「あの時はね。だって逆らってもどうにもならないでしょうし……でも、落ち着いてからなら、と思ったの」


 彼とシャスティエは、期せずして同じことを考えていたらしい。落ち着いて話せば分かってくれる、と。だが実際に話してみればこのありさまだ。お互いに相手の言い分は理解できず耳を貸さず、苛立ちは募り亀裂は深まるばかり。その皮肉さにいっそ嗤いさえこみ上げながら、レフはシャスティエを詰問した。彼女が言い訳するようにわずかに隙を見せたのを逃すことなく、追い詰めるように。


「置いていって、その後はどうする気だ? またイシュテン王に囚われるんじゃないか。僕は、君を助けるために――」

「囚われるのではないわ。復讐のために表向き従って見せるだけ。この前会った時に話したでしょう……!?」


 レフが責め立てるのに伴って、シャスティエの声も高まっていく。落ち着いて話す、などとんでもない話だった。大人が争う騒音に、赤子が不安に唸り声を上げた。途端にシャスティエが唇を結んでそちらを見るのも気に入らない。彼に視線を戻した時、シャスティエの目にはっきりと怒りと苛立ちが滲んでいるのも。だからレフも声を抑えることができなくて──彼らふたりは感情のままに相手には通じない自らの言い分を言い立てるだけになっていく。


「復讐。本当に復讐のため……!?」

「……そうよ。貴方はどこまで聞いているのかしら。小父様が――グニェーフ伯が乱を起こした時に、私が復讐を遂げるからと言って剣を収めてもらったの。ここで退いたらあの方たちを裏切ることにも――」


 ――グニェーフ伯。あいつがミリアールトで何をしているか……!


 シャスティエを揺さぶるなら、目を覚まさせるなら、今こそ言わなければならないはずだった。シャスティエの頑なさは、イシュテンの王宮の奥に閉じ込められて祖国の情報も得られずに思いつめた結果なのだろうから。あのことを伝えれば、不可解に見えるイシュテン王やグニェーフ伯への信頼も揺らぐはずだった。だが、レフの口をついて出たのは違うことだった。


「なら王女が生まれてさぞがっかりしただろうね。その割には随分大事にしているように見えるけど。……王とも、仲が良いみたいだし」


 あの女が整えたのだろうか、軽く結ったことで晒されたシャスティエの白い首筋――そこに、紅い痕を見つけてしまったからだ。雪の上に一滴血が飛んだかのような。それが何を意味するのか、誰が残したものなのか、分からないような子供ではない。


「レフ……」

「王が通うのも、次の子のためには都合が良かった――君は喜んでいたのかな。僕は余計な心配をしていたということか?」


 レフが凝視する先に気付いて、シャスティエの頬が赤く染まり、次いで紙の色に青褪めた。首筋を手で覆う仕草に、彼女の方でも思い当たる節が重々あるのだと思い知らされて、レフの声は一層尖る。


「もう復讐するつもりなんてなかったんじゃないのか? 王を愛していないと、今も言える? 君はあいつが何をしたか忘れたのか――許せるのか!?」

「…………」


 シャスティエが彼の言葉に何ひとつ答えず、言い訳さえもしてくれないから。そのことこそが彼女の本心を伝えているようで憎たらしくて――言おうと思っていなかったことも言ってしまう。


「……ミリアールトで父と兄の首を見たんだ。イシュテンの奴らが自慢げに語って広まっていたんだろうな、どんな風だったのかも知ってしまった。子が親に先立つのは不孝になるからと、まず父が首を差し出した」

「レフ、止めて……」

「といってもイシュテン王に跪いた訳じゃない。王の腕を試そうとでも言いたげに、立ったまま、目を逸らさずに刃を受けた。兄たちも倣って――」

「止めて! お願い!」


 シャスティエの悲鳴に、眠りを妨げられた赤子が唸った。この期に及んでも娘を気に懸けているのか、母親は唇を――全身を震わせながらも舌を凍らせた。だからレフも最後まで言い切ることができる。


「僕は父たちの死に顔を忘れることができない。君もそうだと思っていたけど違ったのか? 王を……愛している……?」

「私は……そんな……」


 ――こんなシャスティエを見るのは初めてだ……。


 彼の従姉は常に美しく強く誇り高かった。なのに今は涙を目に浮かべて小さく首を振るだけだ。何か言おうとして唇を開いてはまた閉じて、彼の顔色を窺って。彼女のそのように弱々しい姿を見ることは不思議と彼を満足させた。あの新月の夜に拒絶されて心に傷を負わされた分を、彼女にも味わわせているかのようで。


「いや。良いんだ。責めている訳じゃない。安心したと言っても良いくらいだ。君は意外と移り気だったんだね」


 常に仰ぎ見ていた存在を打ちのめすことができるのが愉しくて、彼は殊更に優しく告げた。肩に流れる髪に手を触れようとすると、火を押し付けられでもしたかのようにシャスティエは身体を退いて、愉悦に水を差されてしまったけれど。でも、彼女を傷つけられる言葉は幾らでも思いつくことができた。


「肉親の死さえ簡単に忘れることができるんだ。イシュテン王のことだってすぐに忘れられるさ」

「――……っ!」


 シャスティエの頬を、真珠の涙が一滴伝った。その煌きが胸に刺さって、レフは不意に我に返る。守り、助けるはずだった人を傷つけて、しかもそれを愉しんでしまったこと。父と兄の死を利用してシャスティエを追い詰めたこと。許されるはずがないことを言ってしまった――そうと気づいてもなお、許しを乞いたいと思ってしまうほどのことを、彼はしでかしたのだ。


「シャスティエ、ごめん……!」

「……ひとりにさせて……」


 空しく口を開閉させるのは、今度は彼の方だった。顔を覆って肩を震わせるシャスティエを抱きしめたいと思うのに、彼女は全身で彼を拒んでいた。突き飛ばされたのでも、強い言葉を投げられたのでもない――でも、決して近づくことは許されないのだと分かってしまう。


 彼と彼女を隔てるのは、ほんの一歩の距離に過ぎない。異なる国、幾つもの山河を隔てた彼女を思い続けた日々に比べれば、何と近づいたことだろう。

 なのに、今になって彼女がかつてなく遠い。シャスティエが変わったから――否、それだけではなくて。




 彼が彼女の心を遠ざけてしまったのだ。

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