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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
18. 傾国
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黒幕は嗤う ファルカス

 午後のやや遅い時刻になってリカードが目通りを願い出てきたと聞いて、ファルカスは少し苦笑した。ティゼンハロム侯爵家に連なる家の相続について相談があるのだというが――


「今さら奴が俺に何の許しを求めるというのだ」


 彼としてもあちらとしても、剣を交えての衝突が間近なのは百も承知。彼が側近と見込んだ者たちに密かに()()を促しているのをリカードも察しているだろうし、彼の方でもティゼンハロム侯爵邸に密かに出入りする影があるのをよく知っている。

 だからリカードの本心は相談などではなく嫌がらせの方にあるのだろう。なぜならこの時刻は、ファルカスが黒松館を訪ねる日に政務を切り上げる頃合いだからだ。わざわざこの時間を選んだのは偶然ではあるまい。遊びに出ようとしてもさせぬ、とでも言いたげな幼稚な横やりだ。


 ――昨日帰ったばかりなのを知らぬではないだろうに……。


 彼としても側妃に溺れすぎていると見做されれば臣下の離反を招くことはよく承知している。……一部の者に対しては、既に遅きに失していることさえ。それだけ憔悴したシャスティエを放っておけなかったということだが、それでも愛馬の脚も労わらなければならないし、連日王宮を空けたことなどないというのに。内心ではとうに叛旗を翻してはいても、まだ娘や孫が蔑ろにされるのには耐えられないとでもいうのだろうか。


「は、陛下、その……」

「ふん、会うだけは会ってやろう。どのような顔でどのようなことを言いだすか、見ものではないか?」


 何か気の利いた追従でも言おうとしたのか、あるいは執り成しの言葉を探したのか。結果、曖昧な表情で口ごもった侍従に対し、ファルカスは獰猛に笑って見せた。リカードと肚の探り合いをする機会もあとわずかだ。イシュテンには珍しい老獪で狡猾な政敵とのやり合いに、名残を惜しんでも良いと思ったのだ。


 それに、心の片隅に疑念もある。


 ――まさか、気付いているはずもないが。


 シャスティエの懐妊のことは彼のごく近しい従者と黒松館の者たちだけが知る秘密だ。妻が黒松館にいるアンドラーシでさえまだ知らないし、ましてリカードに知る手段はないはず。だが、側妃に新たな子――それも、今度こそ王子かもしれない――が生まれる可能性は、リカードも常に警戒し恐れているだろう。

 だから、言葉や態度の端々から彼が浮かれていると読み取られてはならない。万が一にもリカードが側妃の懐妊を現実のものと認識したなら、黒松館へも戦火が及びかねない。王を討ったとしても、その子が生きていればリカードの完全な勝利にはならないのだから。


 その辺りを考慮すると、リカードの目がどこに向いているか、直に会って探っておくのも良いだろう。




 ちょうど書類仕事がひと段落ついたところでもあり、ファルカスはリカードを執務室へ招き入れるように命じた。形ばかりは客になるからと、もてなしのために動き始めた従者たちを他所に、彼はひと時手持ち無沙汰になることになる。敵が訪れるのを待つ間に思い浮かべるのは、黒松館にいる方の妻と子のことだった。

 リカードの脅威に、ミーナへの気遣い。更には密かに抱いた復讐の誓い。その達成のために王子を生むのが必要だとしても、仇の子を胎内に宿すのはどんな気分がするものだろう。彼の子を孕んで喜ぶ理由など何ひとつないはずなのに、しかし、シャスティエはまだ平らな腹を大事そうに撫でて微笑んでいたのだ。




『フェリツィアの時には楽しみに待ってやれなかったので……今度はちゃんと話しかけてあげようと思っています』


 ファルカスは最初、その微笑みの理由が理解できなかった。シャスティエの懐妊を聞かされた時、彼はまずしまった、と思ってしまったのだ。頻繁に夜を共に過ごしては身体を重ねていたのだから、その恐れは当然十分にあったのに。

 胎児ともども母親が狙われる危険、懐妊中の――それも、前回からそう時を置いている訳でもない――女体の負担、ただでさえ不安に怯えていたシャスティエの心労――どこを取っても、今新たに子を儲けるべきではなかった。そして我に返ってみれば、果たしてシャスティエも彼との関係を望んでいたのか、さっぱり自信がなくなってしまっていた。時に甘え、彼に心を赦していたようだったのは本心だったのか。微笑んでいるのは今だけのことで、次の瞬間にも無軌道と思い上がりを詰られるのではないか、と。


『……この状況で余計な気苦労を負わせてしまったな』


 だが、彼のその詫びの言葉をこそ、シャスティエは不快に捉えたようだった。非難するように細い眉がぴくりと跳ねたのは、どこか懐かしい表情でさえあったが。――だが、相手の怒りの理由は次の言葉を聞くまで分からなかった。まずは子の誕生を喜べ、と言われるまでは。


『まずは喜んでくださいませ。マリカ様や――フェリツィアと同様に、この子も守り慈しんでくださいますように』


 その言葉も、何気なく触れられた手の温もりも、ファルカスにはにわかには信じられないことだった。だが、彼の手に腹を撫でさせる手つき、その時の誇らしげな微笑みから確かに伝わってくる。この女は生まれてもいない子をもう愛している。確実に自身を苦しめ脅かし、憎い男の血を分けた存在でもあるというのに。それとも、まさか彼が許されているということなどはあるのだろうか。ここのところ甘えるような素振りさえ見せるのは、不安のあまりに縋っているだけではなくて、彼への想いに変化があるからだ、などと――


 ――否、やはりそのようなことは期待してはならないか……。


 もう何度目になるだろうか、口をついて出そうになった愛している、という言葉はしまい込んで、彼はただ身重の妻にリカードを討つこと、懐妊を公にしないことを誓った。前の懐妊の時、シャスティエが子の誕生を楽しみに待つことができなかったのは彼のせいでもあると。大いに心当たりがあるからこそ、今度こそ同じ轍を踏みたくはなかった。悪阻への無理解も、懐妊に気付いていなかったのを責めるようなこともさすがにもうしないが、何よりも心を配るべきは母となった女に身の危険を感じさせないこと、だろう。


 彼の誓いをどこまで信じてくれたのかどうか――シャスティエに彼を信じる根拠はないこともまた重々承知してはいた。それでもふたりの子の母となる女の表情は目に見えて安堵した、和らいだものになった。だからだろうか、お互いに心が通じ合っているかどうかはさておいて、シャスティエを抱いてその腹に触れながら、普通の夫婦のように語らうこともできた。


『何を語ってやるのだ? 歌でも歌うのか』

『そうですわね。侍女たちからイシュテンの歌を教わらなくては。おとぎ話も……ミリアールトのもイシュテンのも聞かせてあげて。それからお父様やお姉様……あの、お姉様、()()のことも……』


 先にマリカに言及した時と同様、シャスティエは自身の子らと王妃の子を並べることに遠慮を感じているようだった。無論、ファルカスとしてももうひと組の妻と娘のことも忘れてはいない。マリカは相変わらず父よりも祖父に懐いているし、ミーナの心が急速に夫から離れているのを感じてもいる。だが、だからと言って側妃の懐妊までも無関心に受け止めるはずがない。シャスティエの懐妊を、膨らんだ腹を見て初めて知らされたミーナの涙は彼の記憶から決して消えることはないのだ。


 だから、彼は不安に揺れる碧い瞳を見下ろして、宥めるように口づけを落とした。囁く言葉は、彼自身に言い聞かせたことでもある。


『ミーナとマリカにも折を見てきちんと話す。今度こそ、子の誕生を祝ってもらえるようにしよう』

『はい……』

『……前のようなことがあったのはリカードのせいだ。奴などに任せず、必ず俺から説明するから』

『信頼、申し上げております……』


 信じている、と。シャスティエの口から何度か聞いたことはある。だが、冷ややかな碧い目は内心の不信をはっきりと伝えてきていて時に苛立たせてくれたものだ。原因は彼の方にあると分かっていたからこそでもあるし、その状況は今に至っても変わっていない。――なのに、なぜこの女は彼に縋ってくるのだろう。彼に対して復讐を企んでいる癖に、なぜ身体を委ねてくるのだろう。


 不審と疑問は尽きないながらも、彼を頼る妻の姿を愛しいと思わないことは難しかった。




「ティゼンハロム侯爵が参られました」

「うむ。通せ」


 従者の声に、ファルカスは甘い記憶から戦うべき現実へと意識を戻した。リカードは彼が王位を目指した、ほとんどその瞬間からの敵だ。王を差し置いて権力を狙い、王位を()()()恩義で彼を縛ろうとする強欲な男は、常に嫌悪と苛立ちの対象だった。彼のことに限っても確執は深いが、妻たちの憂いの源の多くもあの男だと思うと憎悪はより一層のものとなる。


 リカードの罪はシャスティエを脅かしたことだけではない。ミーナに何も教えず、自身の野望の都合の良いように何も知らず考えない女に仕立て上げたことこそあの男の最大の罪だ。フェリツィアの懐妊を伏せ続けていたのもその良い例のひとつ。王の妻である王妃が、王の子の存在さえ知らされなかったのだ。王妃として何もできないと憂いに沈んでいたミーナを思うと――彼も長く妻の思いを顧みることができていなかった咎はあるが――、そのような状況に閉じ込め続けたリカードは決して許せないと思う。


 ――さて、今日は何を言い出すか……。


 油断はしてはならず、彼の裡でより強く渦巻いている怒りも気取られ過ぎてはならない。リカードがどのように図々しく恥知らずな難癖をつけてきたとしても、精々うまくのらりくらりと躱してみせなくては。


「――陛下。お目通りをお許しいただき、恐悦至極に存じます」


 そしてリカードも同じようなことを考えているのだろう。猫撫で声での口上はいつも以上に丁重で、浮かべた表情も必要以上ににこやかで、いっそ無礼とさえ見えた。老人が背後に従えている者は確かにティゼンハロム侯爵家と親しい家の者、その者の領地や近隣の地で何か問題があったか、王に与する者との利害があったか、ありそうな問答を幾つか思い浮かべて言葉でのやり合いに備える。――備えようとして、無駄になった。なぜなら――


「陛下! 陛下にお目通りを……!」

「何事だ!?」


 執務室のすぐ外で、押し合う声と物音が騒がしく響いてきたからだ。王と重臣の会見に割って入るのは確かに無礼、しかしその声には相応の理由があってのことだと思わせる必死さがあった。


 ――お前が関わることではないのか……?


 誰よりも陰謀を巡らし、王に背こうとしている者は今、この場にいる。リカードが直接に命じたことではないのか、この会見さえ謀の一環なのか。訝り警戒を深め、リカードの顔を横目で窺いながらも、ファルカスは扉の外へ命じた。


「危急のことか。ならば許す。入れ」

「は、はは……っ!」


 従者が慌てて扉に駆け寄り、開け放つと同時に室内へ転がり込んで来た男は、砂埃に塗れた姿でファルカスの前に跪いた。馬を駆けさせてきたままの姿だと、ひと目で分かる。その男が黒松館にほど近い領地に館を構える者だと気づいて、ファルカスの嫌な予感は深まった。


「取り急ぎご報告したき儀がございます! 無礼は重々承知しておりますが、何分――」

「前置きは良い。話せ」


 男の言い訳が長引きそうなのを察して、ファルカスは短く遮った。この間、彼は跪く男よりもリカードの顔の方をよく見ている。闖入者を咎めるでもなく、口を挟むでもなく、ただ老いてなお炯炯とした目に興味の色を湛えて王と臣下のやり取りを見守っている。敵であるこの男をこの場に居させて良いものかどうかは迷うが、しかし、ことが黒松館に関わることとあっては先延ばしにするなど思いもよらない。


「はっ。実は――」


 ――フェリツィアの身に、何かあったか……?


 彼の胸に浮かぶ最悪の想像はそれだった。これまでは健やかに育っていたとはいえ、まだ幼い彼の娘。シャスティエの腹の子も、無事に生まれるまでは万一のことがないとは言えない。そしてもちろん母体の方も、そのようなことがあればどうなるか――そう思うと、心臓を氷の手で掴まれる思いがしてファルカスは生唾を呑み込んだ。


「……黒松館が何者かに襲われ、焼け落ちました」

「何だと」


 だが、男が気まずげに目を伏せながら告げたことは、彼の想像の遥か外にあることだった。呆然とすること数秒、次いで疑問が次々に湧いてくる。


「――何者かに、だと? 正体は分からないのか? 誰ひとりとして捕らえられなかったと? そなたたちは何も気づかなかったのか?」


 ――いや……そのようなことではない……!


 真っ先に確かめなければならないことがある。しかし、それは同時に答えを知るのが恐ろしいことでもあった。


「シャスティエ――側妃は無事なのか。フェリツィアは!?」

「お二方は……その、賊によって拉致された、と……」


 どこかで覚悟していたことであっても、答えとして伝えられた内容はファルカスの言葉を奪うのに十分だった。


「……黒松館の近隣で山火事が起きておりました! それで、民どもも我らも鎮火の指揮に忙しく、黒松館からも人手を借りるような有様で……思えば、それも賊の策であったのでしょうが……!」

「もう良い!」


 男が早口に捲し立てる言い訳は終わりがないように思えた。だから彼は今全て聞いたところで無駄だと断じた。


「詳しい話は後で聞く。まずは俺が自ら黒松館へ出向く。――(アルニェク)の用意を!」


 黒松館は彼が育った懐かしい場所。そして今は妻子を住まわせていた場所。そのすべてが一時に失われたと聞いて、伝聞での報告で彼の気が収まるはずもない。先に駆けこんで来た男よりも慌ただしく、剣だけを掴んで飛び出そうとしたところ――


「臣にはお構いなく。また落ち着かれてからお時間をいただければ深甚でございます」


 場違いに落ち着いた声を掛けられて、ファルカスは声の主を――リカードを睨め付けた。


 ――こいつ……!


「クリャースタ様もフェリツィア様もまことにお気の毒な。僭越ではございますが――ご心中、お察し申し上げます」


 白々しく、気遣うような表情を繕って見せているのが憎たらしくてならなかった。内心では高らかに嗤っているに違いないのに。この男自身がふたりの命を狙っているというのに。


 側妃と王女の一大事を聞かされて、驚く素振りさえ見せようとしない――そのふてぶてしい態度に、ファルカスは確信する。


 この男は、彼の狼狽ようを間近で見物するために訪ねてきたのだ。今日のこの時にこの報告が来ることを知っていたのだ。――ならば、この件の裏で糸を引いているのはこの男以外にあり得ない。


 どのようにして黒松館に兵を差し向けたのかは分からないが。その汚い手を、必ず暴かなければならないが。


 ――だが、それも後のこと……!


 ぎり、と貫くような目線だけをリカードにくれて、ファルカスは急ぎ剣を取ると執務室を後にした。

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