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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
18. 傾国
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襲撃③ レフ

 シャスティエの顔が青ざめ、喉から引き攣った悲鳴のような音が漏れるのを前に、レフの胸には悦びと苛立ちが同時に湧き上がっていた。一度は冷たく彼を拒絶した彼女の顔色を変えさせることができたのは楽しいが、その原因は彼というよりもうるさく泣き喚く赤子なのだと思うと苛立たずにはいられない。――だが、とにかく、夢にまで見た愛しい人、何としても助け出したかった人が目の前にいるのだ。


「クリャースタ様……!?」


 シャスティエの傍に控えた女が、彼と彼女の顔を見比べて顔を慌ただしく左右させているのも愉快な見ものだった。レフはあえて兜で頭を守ることはせず、金の髪も碧い目も露にしている。イシュテン王の側妃と、それを攫いに現れた()がよく似た顔をしているのだ。混乱するのも無理はない。


 ――この女は生かしておいてやろう……。


 わずかに唇に弧を描かせて、レフは心の中で思う。この女だけでなく、王都にすぐに報告に上がることができなさそうな女や老人は殺さない予定だった。側妃を攫った者の容姿を証言してもらわなければならないからだ。明らかにミリアールトの者、それも側妃自身に近しい血筋を感じさせる者だった、と。


「レフ、どうして……? どうしてこんなことをするの!?」

「なぜって、君を助けに来たんだ。ミリアールトに帰りたいだろう? いつまでもこんなところに囚われていたくはないだろう?」


 シャスティエが親しい者に対する砕けた口調で語りかけてきたのも好都合だった。全身で警戒を露にしながらではあったけれど、ミリアールト語ではなくイシュテン語なのは何か気に入らないけれど、侍女にも聞かせることができると思えば悪くない。後でイシュテン王の耳に入った時に、彼女が自らの意思で彼について行ったと思わせることができればなお良い。妻に逃げられた男の屈辱を味わわせる――あの夜は叶わなかったが、今度こそ彼女を力づくで奪った男に意趣返しできるだろう。だから彼も異国の言葉で祖国の名を発音した。


「嫌よ。私はイシュテン王の妃だと言ったでしょう。貴方とは行けない――いえ、行かないわ! こんなことは止めて――その子を返して!」

「シャスティエ……!?」


 だが、シャスティエは激しく首を振る。真っ直ぐに彼を睨みつける眼つきも、ぴんと指を伸ばした掌を差し出してくる仕草も、ミリアールトでもよく見たもの。歳下の従弟なら何でも言うことを聞くと信じ切っている時の顔だ。否、今は少し顔は引き攣って、指先も震えているか。

 一瞬だけ懐かしさに囚われるけれど、でも、館が兵に囲まれた状況を前には滑稽としか言いようがない。この部屋にはまだその気配は届いていないが、館の各所はすでに炎に包まれているというのに。


 ――彼女はこんなに愚かだったか? ここまで来て引き下がれると……イシュテン王や侯爵や摂政王妃が、それを許すとでも!?


 ここまでの時間と手間暇をかけ、国の行く末を左右する策なのだ。ティゼンハロム侯爵もアンネミーケ王妃も今さら下りるなど許さないだろう。そしてイシュテン王も、理由は違うが同様だ。妻子の――未だに認めるのは業腹だけど――身を脅かした犯人を、最後の最後で思いとどまったからと言って見逃すことなど考えられない。


 またも拒まれ、しかもあまりにも愚かなことを言われてしまった、その動揺を隠すために、レフは赤子を掲げ直した。乱暴に揺すられた赤子がひと際声高く泣き喚くのが耳障りだった。それを聞いたシャスティエの頬から、血の気が更に退いたのも面白くない。


「残念だけどそれはできない。君も、イシュテン王の子も連れて行かなくては」

「止めてと言っているの! 子供を返して!」

「そんなに子供が大事なら、一緒に来るしかないね」


 子供に向けて伸ばされたシャスティエの腕を掴んで、レフはぐいと引き寄せた。触れた瞬間に身体が強張ったのは無視して、片手に赤子、逆の腕にシャスティエを抱えた格好になる。


「止めて! 離して!」

「君がこんなに物分かりが悪いとは思ってもなかったよ。この状況で手ぶらで帰れるとおもってるの?」


 赤子の泣く声とシャスティエの叫ぶ声が、同時に耳元に響いてレフは顔を顰めた。シャスティエは拳を作って彼の胸を叩き、逃れようともがいている。か弱い女がどんなに力を込めても大したことはないはずだけど、こうも全力で嫌がられているのを間近に見るのは堪えるものだった。


「暴れないで。子供を落としてしまうかもしれない」


 そう囁いた途端にシャスティエが抵抗を止めて大人しくなったのもまた、レフの癇に障る。緊張に荒くなった息遣いを首元に感じることができるのは悪くないけれど。できることならもっと甘い空気で触れ合いたかった。


 ――まあ、追々か……。


 強引な手段を採ったのは自分でも分かっている。だが、これからの旅路は長いのだ。シャスティエと語り合って、頑なになってしまった心を解す機会は十分にあるはずだった。


「クリャースタ様……あぁっ」

「側妃はいただいて行く。イシュテン王にも伝えてくれ」


 動くことを思い出したかのように駆け寄ってきた侍女を突き飛ばし、嗤う。本当ならもっとシャスティエが喜ぶ素振りを見せてくれれば良かったけれど。でも、金髪碧眼の男が側妃を攫ったという事実だけで、イシュテン王が不信と怒りを抱くのに十分だろう。


 と、侍女への暴力を目の当たりにしたからか、シャスティエがまた暴れ始める。


「――ティゼンハロム侯爵なの!? それともブレンクラーレ!? こんな、卑劣な――」

「誰でもない。僕は自分だけの考えでここにいる。他に喜ぶ者がいたとしても関係ない」


 ――余計なことを言う……!


 自分でも驚くほどさらりと()を吐きながら、レフは床に倒れ伏した女の様子を窺っていた。ティゼンハロム侯爵だのブレンクラーレだのという単語を聞き咎める余裕があるのかどうか。あるならば殺さなければならないが、側妃の誘拐犯の姿を証言する者を他に用意しなければならなくもなってしまう。危険と手間と、どちらを選ぶべきか――彼の思案を赤子の泣き声が邪魔をした。彼が腕に抱えている子のものではない。部屋の外から、こちらへ――近づいてきている。


「ご報告したいことが――」

「何だ、それは」

「イリーナ……!」


 そしてその泣き声の源が姿を現した瞬間、レフとシャスティエの声が重なった。


 アンネミーケ王妃から借りた兵のひとりが捕らえてレフの前に引き出してきたのは、彼もよく知るミリアールト人の娘だった。衣装を何者かの――彼女は傷つけないように命じていたから、本人のものではないと思いたかった――血と煤で汚して、頬に涙の跡が残る姿は見るも哀れなもので、少しだけ罪悪感を覚えさせる。

 ともあれイリーナが見つかったのだけならば喜ぶべきことだ。旅路の間、シャスティエも慣れ親しんだ者と一緒の方が心強いだろうから。彼にとってもイリーナは幼馴染と言って良い。問題は、彼女がしっかりと腕に抱え込んでいる()()だった。


「赤子がもうひとりいたので、念のために……」


 イリーナが連れられて来たことで、室内の赤子の泣き声は倍になった。レフも、イリーナの二の腕を捕えた男も同じく顔を顰めている。騒音だけでも十分にうんざりするのだが、館に火の手が回っているという時、一刻も早くシャスティエを連れて脱出しなければならない時に面倒なことになった。アンネミーケ王妃はイシュテンの王女も確保したいと願っていたが――赤子がふたりもいるとは、これではどちらを連れていけば良いのだろう。


 だが、彼の疑問はあっさりと解決された。彼の腕の中のシャスティエが、侍女ともうひとりの赤子の姿を見てまた高い声を上げたのだ。


「イリーナ、その子は……!」

「ジョフィアです、乳母の子です! フェリツィア様をお連れして助けを求めに行って……私はこの子を預かっていました!」


 そしてイリーナも同様に。兵の腕に捕らえられた姿で許す限り、主に歩み寄ろうと全身をよじっている。無論どちらの女の抵抗も空しいものだから、レフにはイリーナの証言を熟考する余裕さえある。


 ――わざわざ王女の方を……? 本当に助けようとしていたのかな。


 その乳母とやらは自身と王女を囮にして我が子を生き延びさせようとしたのでは、と。意地悪い思いが胸を過ぎった。分かりやすく赤子を抱えてうろついていた女がいたからあっさりと王女を手中にすることができたと聞いている。結果的に、その女は王女を彼のもとへ届けてくれたようなものだ。

 言われてみれば、レフが渡された方は絹の産着、イリーナが大事に抱え込んでいる方は綿の産着を着せられている。衣装の質から見ても、こちらが王女で間違いないようだ。――ならば、もう問題はないと思ってだろう。


「ちょうど良かった、イリーナ。君も一緒に来るんだ」

「レフ……何てことを……!」


 旧知の間柄の親しみを込めて話しかけると、イリーナは涙に潤んだ目を瞠って叫んだ。言うことがあまりに(シャスティエ)に似ているので、思わず失笑しそうになってしまう。


「助けに来たのに喜んでくれないの? シャスティエもまた我が儘を言って困ってるんだ。君からも説得してくれよ」

「何てこと……!」


 イリーナは同じ喘ぎを漏らすと一度目を固く瞑り、次いで大きく見開いた。同時に、彼女を捕えた男が顔を顰めるほど、激しく首を振って金茶の巻き毛を振り乱した。若草色の目に浮かぶ表情は、彼の記憶にある優しい少女からは想像もできない強い決意だ。


「あんな、ひどいことして……! そこまでしてシャスティエ様を攫ってどうするの!? 今の貴方にシャスティエ様がついて行くと思って!?」


 ――ふたり揃って……!


 イリーナの叫びは、まぎれもなく拒絶で非難で詰問で、軽蔑さえ含んでいるようだった。シャスティエの時と同じく、差し出した手は全力で払いのけられて、レフの胸に苛立ちが滾る。


「ねえ……」


 低く冷え切ったシャスティエの声も、その苛立ちを更に掻き立てた。腕の中の愛しい存在を見下ろせば、碧い目は怒りと弾劾の色を浮かべて彼を責めている。


「乳母に何をしたの? フェリツィアにとても良くしてくれて――子供も、もうひとりいたはずなのよ。この血、まさか……」


 ――どうして、イシュテンの者をそんなに気に懸けるんだ!?


 どう考えても、この状況は理不尽だった。泣き喚く赤子たちも、親しいはずの女性ふたりが彼を詰るのも、シャスティエがいまだに彼から逃れようともがいているのも。完全に上手いくなどと信じていた訳ではないつもりだけど、どうして彼がこのように非難の目を向けられなければならないのか分からない。イシュテン人の使用人が良くしてくれたからどうだというのだ。そんなもの、ティゼンハロム侯爵と争う王に恩を売ろうという打算に過ぎないだろうに。なぜシャスティエはそんなものをありがたがるのか。


「殺したよ。王女を渡そうとしないで邪魔をしたからね。仕方なかった」

「な……!」


 苛立ち紛れに吐き捨てると、シャスティエの顔も舌も凍り付くのがいっそ愉快だった。彼女は彼にとって常に仰ぎ見るような存在だった。そんな彼女が、彼の一挙手一投足を窺って、怯えたような目を見せるのは、非情に新鮮な感覚を呼ぶ。


「――話をしている暇はない。行こう。君もだ」

「駄目!」


 とはいえ煙の臭いが鼻を刺激し始めてもいる。だから強引にシャスティエを引きずろうとすると、彼女は足をその場に踏みしめて逆らった。レフから背けられた顔も悲鳴のような必死な声も、イリーナの方へ向けられている。


「貴女はここに残って! ……その子を、父親に返してあげて! そうしてくれたら、私は大人しくついて行くわ」


 そして言葉の後半は彼に向けて。だが、到底受け入れられることではなく、レフは顔を顰めた。イシュテンの女、王女の乳母など取るに足らない者のはずだ。その子も、ましてその夫など会ったことがあるかも怪しい。そんな者たちのために、幼馴染でもある侍女を敵地に置き去りにするなど正気の沙汰とは思えなかった。膝元から妻子を攫われた腹いせに、イシュテン王が生き残った使用人たちにあたるのは想像に難くないのだ。


「何を言い出すんだ!? イリーナがどうなっても良いのか!?」

「王がひどいことをするはずないわ」


 だが、レフが詰ってもシャスティエは残酷な命令を翻さなかった。イシュテンの赤子をそこまで案じているのか、それとも――イシュテン王を信じているのか。イリーナを見れば、顔を青ざめさせつつも唇を結んで、主に抗議する気配はない。主従揃って、あくまでも彼を拒絶するというのだ。


「……分かった」


 イリーナを捕えている兵に、離してやれと目で命じると、戸惑う素振りを見せながらも従った。自由になった途端、イリーナは乳母の子とやらを抱えて彼らから距離を取った。まるで彼らを恐れるかのように。


 ――イシュテン王の方が確実に君を害するだろうに……!


「シャスティエもひどいね。君を見捨てるなんて」


 あまりに心外な反応に皮肉を漏らすと、イリーナの顔が恐らくは恐怖で引き攣った。だが、それでも弱音や懇願は漏らさないのに苛立って、レフは兵に短く命じた。


「――そっちの女は殺して良い」


 こうなれば、()()はイリーナに務めてもらうのが早い。聞くべきでないことを聞いたかもしれない女には口を閉ざしてもらわなければ。


 剣が鞘から抜かれる音と、女の悲鳴を背に聞きながら、レフはシャスティエとまだ泣き喚く王女を抱えて部屋を出た。彼に腰を抱かれて、シャスティエはほとんど爪先を床から浮かせるようなふわふわとした足取りで歩いている。まるで夢の出来事だとでも思っているかのように。


 ――でも、これが現実だ。イシュテン王の側妃としての君は死んだ。これからは――


 これからは、どうなるのか。ミリアールトの女王か、それとも、彼にとっての何かしらになってくれるだろうか。今は突然のことに混乱しているのかもしれないが、落ち着けば、きっと。


 ――きっと、彼女も分かってくれる……!


 シャスティエを抱く腕に力を込め、自身の胸に言い聞かせながら、レフは館を包みつつある炎を潜り抜けて夜の闇へと踏み出した。

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