襲撃② シャスティエ
「クリャースタ様、お休みになれば良いのに……」
グルーシャが苦笑と共に出してきた白湯を、シャスティエは器を両手で抱えながら啜った。深夜に近い時刻のこと、茶を淹れてもらうのは流石に手間だしこの後眠れなくなってしまう。とはいえ何もしないでいたら身体が冷えてしまうかもしれない。薄い寝間着で過ごすには季節は冬に近づき過ぎているし、彼女の身体は今は彼女だけのものではないのだ。
もちろん、素直に休んでしまえば話は早いのだが、侍女に呆れられても起きているのは――
「ええ、でもフェリツィアが戻るまでの間だから」
乳母と共に別室に行っている娘を待っているからだ。離宮にいた頃は、時々はこっそりと自ら娘に乳をやったこともあるけれど、諸々の心労でシャスティエの乳は止まってしまっていた。それにふたり目の懐妊に気付いたからには、胎にいる方の子に栄養を届けてやらなければならないと思う。だから、フェリツィアに授乳するのはもう乳母だけの役目――でも、実の母として、任せきりにしてひとりで眠る気にはなれなかった。
「フェリツィア様は健やかにお育ちですわ。クリャースタ様こそ、大事な御身でいらっしゃいます」
「ええ、だから少しだけよ。そんなに掛かることでもないでしょう」
二回目のことだからか、心の持ちようが違うからか。今度はフェリツィアの時ほどひどい悪阻に苦しめられるということもなかった。だから今起きているのも気分の悪さからではなく、単純に娘の存在を確かめてから眠りたいというだけのこと。グルーシャもそれを分かっているから、窘める語調もさほど強いものではなかった。
――本当に……前とは全然違う……。
シャスティエはまだ膨らんでもいない腹を撫でると微笑んだ。
前は、自分では気づかぬうちに不意打ちのような形で懐妊を知らされ、しかも王には隠していたと疑われて責められた。王との子を孕み、生み育てる覚悟も定まっていなかった頃のこと、身体の変化は恐ろしくおぞましくすらあった。でも、我が子がどれほど愛らしく愛しいものか、シャスティエはもう知っている。
それに、変化していたのは王の方もだったのだ。
懐妊した、と告げた時、王は真っ先に目を瞠り――それから、詫びた。
『……この状況で余計な気苦労を負わせてしまったな』
かつては傲慢で謝ることを知らない男だと思っていた王が、身体を縮めて眉を下げる姿にシャスティエは口元が緩みそうになるのを堪えた。笑ってしまっては、さすがに王も気を悪くするだろうから。王との逢瀬に溺れたのはシャスティエも同じ、こんな時にと言うなら彼女も責められるべきなのに、夫がそうは思っていないようなのが不思議でもあり嬉しくもあり、くすぐたいような感覚だった。――変わったというなら、何よりも王との関係なのかもしれない。
気まずげな王の手を取って、シャスティエは自身の腹へと導いた。ごく自然に、何の構えもなく王に触れることができるようになったことを、心の片隅で少しだけ驚きながら。
『まずは喜んでくださいませ。マリカ様や――フェリツィアと同様に、この子も守り慈しんでくださいますように』
触れたところで何を感じた訳でもないだろうに、王はシャスティエの言葉に愁眉を解いて微笑んだ。そこに新しい命が宿っていると、確かめるかのように掌を置いて、その温もりがシャスティエにも伝わってくるまで留まって。やがて何かしらを感じ取ったのか、王も微笑むと、シャスティエを抱き寄せてきた。
『そうだな……よくやってくれた、嬉しいぞ』
『と言ってもまだ生まれてもおりませんが』
『無事に生まれるよう、全力を尽くす。――体調はどうだ? また辛いのか?』
『いえ、今回は前ほどではございませんの』
王が、悪阻に苦しんだことを覚えてくれていたこと、気遣ってくれたこと、いずれも嬉しくて、シャスティエは頬が熱くなるのが分かった。当たり前の夫婦のように子供の誕生を待ちわびて語らうことなど、一年前までは無縁のことだと思っていたのだ。それが、いつのまにかこれが自然なことのように王と笑い合うことができている。祖国を思うといまだ後ろめたさが胸を刺すけれど――この思いは、幸せと呼んで良いのかもしれない。
『この子が生まれるまでには国内を収めよう。王の子なのだから王宮で生まれなくては――それまでは、この館にいる方が良いだろうが』
『はい』
王宮に戻った方が良いか、戻るとしたらいつになるのか。シャスティエとしても王と話しておかなければと思っていた。それでも子供たちや彼女自身の安全を思うと気が進むことではない。だから思わず身体を固くしてしまったのだが、王はそれもほぐそうとするかのように優しくシャスティエに腕を回した。
『リカードを斃すまでは懐妊は明らかにしないつもりだから安心しろ。生まれるまでには必ず片を付けるから』
『え……』
王の申し出は願ってもないもの、できることならそのようにしたいと、シャスティエが望んでいたものだった。けれど同時に叶わないだろうと半ば諦めていたことでもある。だから素直に嬉しいというよりは不審と不安が勝って、今度はシャスティエが眉を顰めた。
『ですが……あの、世継ぎが生まれると喧伝した方が従う諸侯も増えるのでは……?』
『だが、それではお前の心労を増やすことになるだろう』
恐る恐る進言すれば、何を当たり前のことを、と言いたげな答えが返ってきて、シャスティエの戸惑いは深まるばかり。更に返すべき言葉が見つからなくて黙した彼女に、王は軽く苦笑すると告げたのだ。
『俺が信用の置ける夫ではないのは承知している。だが、子供の無事が懸かっていることでもある。妻の信を得る機会くらいは与えてくれてもよかろう』
シャスティエが白湯を飲み干し、器を置いたのを見計らったようにグルーシャが口を開いた。
「夫から手紙が届きましたの。陛下がティゼンハロム侯爵を討つ御意思を明らかにしてくださったので、臣下一同安堵している、と――内々に、確実にお味方になる方々に対してだけとのことですけれど、それでも皆さま気を揉んでいらしたようですから」
「そう……心配を掛けてしまっていたのね」
「戦いが近いと知った途端に、手跡までもがどこか活き活きしてきたようで……殿方はやはり剣を交えての戦いを好まれるのですね」
「そうなの」
シャスティエの懐妊は、王の側近たちでさえまだ知らないこと。だからグルーシャは夫に対して秘密を持つことになってしまっている。離れて暮らさなければならないことに加えて、夫婦の間を裂くようで申し訳ないとは思うのだけど、この口ぶりだと何かは分からなくても、アンドラーシらも確実に王の変化を感じているということだろうか。――多分、王が黒松館に入り浸っていることを、彼らも苦々しく思っていたのに違いないのだ。
――フェリツィアは、まだかしら……?
自身が国を乱しているという後ろめたさが胸を刺し、娘の不在を寂しく心もとなく思った、その時に寝室の扉を静かに叩く音がした。だが、それは待っていた娘ではなく――
「クリャースタ様、失礼いたします。近隣の村の者が参っておりまして――」
「……こんな時間に?」
入室してきたのは、グルーシャと同じく離宮から仕えてくれている侍女のツィーラだった。年老いて経験豊かなはずの女が、珍しく焦りを滲ませた表情をしている上に、告げられたのは時刻に似合わず不躾なこと。シャスティエは眉を寄せつつ寝間着を纏ったままの自身の身体を見下ろした。とても人前に出られるような姿ではない。
「ああ、クリャースタ様へのお目通りを願っているのではございませんで……。近くの森で火事が起きたので人手を借りたいと願い出ております」
「まあ、それは大変」
木々の葉が落ちた季節、空気も乾燥しているところに、落雷などのために火災が起きることがあるのは知っていた。下々にとっては暮らしの糧を得る森なのだろうし、黒松館に兵が詰めているのを知っていれば頼りたくなるのは無理もない。シャスティエとしても、娘がいる近くだと思うと放っておけない。
「喜んでお手伝いすると伝えてちょうだい。怪我をした者がいるなら薬も分けてあげて」
この館を開放した方が良いのか、ともちらりと頭をかすめたが、赤子のいるところに――領民とはいえ――知らない者を入れる気にはなれなかった。だが、侍女たちは彼女の心の狭さには気づかないようで、ただ安堵したように笑んだ。
「何と慈悲深い。皆、喜ぶことでしょう」
「では、私が使いに出ましょう。馬に乗れる者がいた方が良いでしょうから」
それどころかグルーシャがそのようなことを言いだしたので、シャスティエは思わず腰を浮かす。足取りも軽く、今にも外に出ていきそうな侍女を止めようとして。
「こんな真夜中に……危ないでしょう」
「森に分け入るならば危険でしょうが、道に沿って歩かせるくらいならば大したことではございませんわ」
シャスティエには十分大したことのように聞こえるけれど、おっとりと微笑むグルーシャの様子からは、イシュテンの女としては当然の嗜みなのかもしれなかった。この娘も良家の出だから、有事の時には領民を助けるものと、あの父親に躾けられているのだろうか。
「それに、男手は沈火に忙しいのでしょうから。伝令だけに使える者がいるのは良いことでしょう」
あくまでも穏やかな表情と声で、そこまで言われてはシャスティエに止める理由を見つけることはできなかった。夫のためにもくれぐれも気をつけて、と言い聞かせると、新妻でもある娘は少し恥ずかしそうに微笑んでからシャスティエの前を辞した。
そのようなことがあったから、館の中が深夜というのに騒がしくても、最初シャスティエは気に留めなかった。森の火事に人手を割くからといって、館の警備が全く手薄になるのは困る。誰を派遣して誰を残すかのやり取りがあるだろうし、村の者から話を聞いてもいるのだろう。馬で運びやすいように薬などを梱包する必要もあるだろうし、この場で手当てを受ける者もいるのかもしれない。女主人ひとりだけ呑気に寝ているなどあってはならないから、後で労ってやらなければならないだろう。そう、館の者たちはこの時間にもかかわらず慌ただしく立ち働いている。今夜は誰にとっても忙しくなるだろう。
だから、不安が胸を過ぎってからシャスティエがそのことを言いだすことができるまでに、しばらくの時間が掛かってしまった。とはいえまだ明け方は遠く、窓の外は闇に包まれていたけれど。
「フェリツィアは遅いわね……迎えをやろうかしら」
こんな時に赤子の心配ばかりをしているのは勝手ではないか、と思ってしまうのだ。フェリツィアがむずがって宥めるのに手間取っているかもしれないし、乳母の娘のジョフィアも一緒のはずだから、ふたり共に授乳するにはそれなりの時間が掛かってもおかしくはない。だが、それでも遅いと思ってしまうのだ。まさか火の手がこの館まで迫ることはないだろうが、普段とは違う時だけに、娘が目の届くところにいなくては安心できない。
「そうですわね……」
グルーシャに代わってシャスティエの傍にいてくれているツィーラに漏らしてみると、まずは頷いて耳を澄ます素振りを見せた。館の中の気配を窺いながら、同時に目ではシャスティエの顔色を観察しているようだった。娘のことが気が気ではないと、きっと傍目にもよく見えてしまっているだろう。
――でも、迎えと言っても誰に行ってもらえば良いのかしら。
「――分かりました。では私が参りましょう。何ができる訳でもない年寄りですし……母君様が心配していらっしゃるとお伝えすれば、そうすればフェリツィア様も聞き分けてくださるかもしれません」
緊急の時に、既に乳母たちがついているフェリツィアに更に人を向けようとしている後ろめたさに、ツィーラは上手く口実を与えてくれた。年寄りなどとんでもない、気の付く頼りになる女の気遣いに、シャスティエは素直に甘えることにした。
「ありがとう。ではお願いね」
「クリャースタ様もあまりお気を張らずに……何かありましたら他の者を呼んでくださいませ」
「ええ、そうするわ」
言葉の上では頷きつつも、シャスティエは実際にそうするつもりはなかった。ツィーラを遣わすことだけでも我が儘だと思うのに、この上他の者を煩わせることなどできはしない。フェリツィアの顔を見て安心した後は、もう一度着替えて働く者たちの様子を見に行こうと思っていた。
グルーシャに続いてツィーラも見送って、シャスティエはひとり寝室で待つ。他の侍女なり召使いを話し相手に呼ぶこともできるけれど、ただでさえ忙しいところに邪魔をしてはいけないと思う。外の者がいるかもしれない時のこと、寝間着では出歩くこともできないから、待つよりほかにどうしようもないのだ。
そしてひとりになってみると、耳につくのが屋敷の入り口あたりから聞こえてくる人の出入りの物音だ。ひどく慌ただしく、怒号のような声まで聞こえて。もちろん急ぎ焦っている者、怪我をした者が大勢集まっているのだろうから当然なのだが、まるで戦場を思い出させて落ち着かない。
――それにしても騒がしい……そんなに大規模な火事なのかしら。
心臓の上に手を置くと、鼓動が早くなっているのが分かった。更に手を滑らせて下腹に触れると、そこは見た目には何の変化もなかったけれど、母の不安と緊張が胎児に良い影響をもたらすはずもない。早くツィーラが戻れば良いのに、と思った時――扉が勢いよく開かれた。
「クリャースタ様! ご無礼をお許しくださいませ!」
「何なの!? 何があったの!?」
跳ねるように立ち上がって、だが、入ってきたのがツィーラでもグルーシャでもイリーナでもないことに鼓動が更に早くなる。この黒松館まで伴ったからには、信頼できる侍女のひとりだったのに、顔色が紙のように青ざめているのが不安を煽る。
「賊が――押し入っております! 火事は陽動だったのでしょう、男たちが発ったのと入れ替わるように……!」
「何ですって……」
喘ぎと共に絶句したシャスティエの肩を、侍女は強く掴んで揺さぶった。
「私だけでも辿りつけて良かった……お気を確かに! 早く逃げなくては……!」
「待って! フェリツィアがいないの……!」
言われるがまま、扉の方へ引きずられそうになって、シャスティエは必死に抗った。叫ぶ声はもはや悲鳴のよう。先ほどからの物音は、火事で助けを求めに来た領民だけではなかったのか。護衛の兵たちが敵と斬り合って殺し合うのを他所に、彼女はのんびりと構えていたのか。そして娘は、フェリツィアは――この侍女だけがやっと彼女のもとに来たのは、他の者が来ていないということは――どうなってしまったのか。
娘の名を呼ぶと、侍女はひどく悲しそうに顔を顰めてシャスティエを絶望させた。まるでもう諦めろと言わんばかりで。王女だから、女だから王の子を宿した妃の方を優先させるとでも言うのか。
――そんな……嫌……!
あくまでも娘と一緒でなければ嫌だ、と叫ぼうとした時。赤子の甲高い泣き声が響いた。まさか、と。その声の方へ顔を向け――そして、シャスティエは絶句した。
「君の娘はここだよ、シャスティエ。こんなに泣いて可哀想に。……来て、泣き止ませてあげるよね……?」
猫の子のように襟首を掴まれて掲げられて、顔を真っ赤にして泣いている赤子。着ているのは、確かに彼女が拙い刺繍を施した絹の産着。黒い煤と――なぜか赤いものでべったりと汚れて、見る影もないけれど。
そして、泣き喚く赤子を他所に、満面の笑顔を浮かべている顔は、彼女のものとそっくりで――でも、自分も、彼も、こんな恐ろしい表情をしたことはなかったはず。こんな、他者を甚振って愉しむような、邪な笑顔は。でも、煤で汚れてなお煌く金の髪に、宝石の碧の瞳。間違えようもない。目眩のようなものを感じながら、シャスティエは認めた。
赤子を掲げてそこに立っていたのは、彼女の従弟のレフだったのだ。