襲撃① フェリツィア王女の乳母
イシュテンの多くの女と同じく、彼女の結婚は夫と夫の家、そして父の間で取り決められた。程良く釣り合った年回りと家格と財産、親戚の女たちが囁く彼女の人柄や容姿についての評判、親兄弟のために繕った刺繍の腕などが決め手となったらしい。いずれも非常にありふれたことだ。
夫の親族に引き合わされて品定めの目を向けられて、夫となる人自体には何度かあっただけで結婚が決まり、母や姉妹や従姉妹たちと花嫁衣装の支度をして、盛大な式を挙げてもらって。そして、それまでに呼ばれて馴染んだ名前ではなく婚家名を与えられたのも普通のこと。
ただ、その後の結婚生活について、彼女は人並み以上に幸せだったと思っている。
彼女に与えられた婚家名は――友人や親族の女がしばしば嘆いていたように――夫の家で代々嫁に付けるものとして伝えられるものや、義母の結婚前の名前ではなく、彼女と会って何度か話した後、夫が似合いそうだからと選んでくれた名前だった。生まれた時から慣れ親しんだ名前と別れなければならない寂しさは同じでも、夫は確かに彼女自身を望み、妻にしたいと思ってくれているのだと信じることができたのだ。
そして実際に夫は優しく穏やかな人で、すぐに打ち解けることができた。この人に見初めてもらって良かったと思えた。不安に思っていた義母との関係も、最初は不慣れで怖いとも思ったけれど、彼女の妊娠が分かってからはとても喜んでもらえたし労わってももらえた。最初の子が男の子だと分かった時の夫や婚家の沸き立ちようは一入で、彼女もやっと一族のひとりとして認められた気がしたものだ。
夫がその相談を持ち掛けてきたのは、彼女がかなり楽な気持ちでふたり目の子の誕生を楽しみにしていた時のことだった。
『お前を、クリャースタ様の御子の乳母に推そうと思っている』
『クリャースタ様……ミリアールトの側妃様ですね』
十年に渡って王妃以外の妃を持たなかった王がやっと側妃を迎えたことは、女たちの間でも評判になっていた。非常に美しいというその方に会ったことがあるのは、王妃に招かれることがあるティゼンハロム侯爵家に縁ある女たちだけだったから、彼女の周辺ではただ漏れ聞こえる噂からその方のことを想像することしかなかったけれど。美貌に加えて、その方は男顔負けの気の強さも持ち合わせているということで、王も変わった趣味なのだろうか、王妃とは違った気質の姫なのが良いのだろうか、などと皆勝手に囁いていた。もちろんいささか不敬なことだから、内輪の場だけでのことだったけど。
とにかく、王の側妃など彼女には縁遠い――会うこともない方だと思っていたので、彼女は妙に真剣な顔の夫に首を傾げた。側妃が懐妊中とは聞いてはいたが、自身に関わってくることなど想像だにしていなかったのだ。
『俺は陛下の御代に賭けたいと思う。あの方は戦馬の神に相応しい強く猛き王なれば。――だが、まだティゼンハロム侯爵につく者も多いし、万が一陛下が敗れた場合はどうなるか……。まして御子の乳母を務めた者は……』
夫の懸念が分かって、彼女はああ、と息を吐いた。ミリアールトの後ろ盾がある側妃を迎えたことで、王妃の――ティゼンハロム侯爵の権勢は相対的に衰えていると見る者が増えているらしい。それでも、あるいはだからこそ、侯爵は側妃やその御子を狙っているはず。だから側妃に仕えることは決して安全なことではないし、仮に王と侯爵が戦うことになれば、必ず敵とみなされるだろう。夫は、王への忠誠、その証を見せることと妻子の安全を、秤にかけて悩んでいるのだ。妻には何も言わずに決めたことを命じる男も多いだろうに、なんと優しい人だろう。夫の愛を確かに感じて、彼女の口元は綻んだ。
『私は、あなたの決めたことに従います。私や、子供たちのためになることでもあると、考えてくださったのでしょう?』
『そう言ってくれるか……!』
『もちろんですわ』
彼女の答えに、夫は目に見えて緊張を緩めた。妻が怯えて嫌がるのではないかと恐れていたに違いない。そう思ってはっきりと頷いて見せると、軽く笑って抱き寄せてくれた。
『お生まれになるのが王子であれ王女であれ、同じ女の乳で育った縁は忘れられることはあるまい。めでたく王がティゼンハロム侯爵を破れば――我が家にも、子供たちにも必ず報いがあるだろう』
――ああ、この方は……。
だが、膨らんだ腹をそっと撫でる夫の手つきに、彼女はその心の裡を垣間見た。夫の提案は、彼自身の栄達を望んでのことではない。息子と――恐れ多いことに、側妃の御子と同様に――男か女かも知れないこれから生まれる子のことも考えての賭けなのだ。見返りが大きいほどに賭け金も代償も大きい、そのことへの懸念もあったのだ。
『大丈夫です。私、側妃様に気に入られるように努めますから……』
ならば、なおさら彼女は堂々としていなければ。夫が憂いなく妻を王宮へ送ることができるように。そのために、彼女は夫の大きな身体を優しく抱きしめ返したのだった。
クリャースタ妃は評判通りに美しく、また、評判通りに気難しい方だった。初めての出産、それもティゼンハロム侯爵の影を色濃く感じながらのことで憔悴している様子は見るだけでも心が痛むほど――更に生まれた御子が王女だったことでの気落ちも甚だしく、最初は気に入られるどころかまともに言葉を交わすことさえ気後れする有様だった。
それが、しばらくするとクリャースタ妃は蕾が綻ぶように母として美しく咲いた。フェリツィア王女を見るたびに眉を寄せて首を傾げていたのが嘘のように、姫君を腕に抱いていないと気が済まないように見えて。美しいと言っても凍った花のようだった方が、かぐわしく柔らかく微笑むようになったのだ。そうすると王の態度も目に見えて優しく労わるようなものになったし、彼女たち傍に仕える者も主と共に王女の成長を見守ることができるようになった。
マリカ王女の犬の件は、側妃と同じく乳飲み子を抱えた彼女にとっても言い様もなく恐ろしかったけれど。でも、王が用意してくれた黒松館は居心地の良い場所だったし、王の訪れが頻繁になったことでクリャースタ妃の顔色も大分良くなっていた。そこへ二度目の懐妊も明らかになって、外の不穏な状況も重々察しつつ、側妃を取り巻く環境だけは希望を持てるものだと思っていた。――いた、のだが。
「何が起きているの……」
イリーナの呟きは、彼女の本心からの疑問でもあった。ふたりの女に抱かれたふたりの赤子――フェリツィア王女と彼女の娘のジョフィアも、母たちの不安を感じ取ってか今にも泣きだしそうにぐずっている。
――本当に、どうして……?
王女が深夜におしめを濡らしたから、着替えさせるついでに乳を含ませていたところだった。ジョフィアもつられたように泣き始めたのでイリーナにも手伝ってもらって。寝室で姫君を待っているクリャースタ妃のためにも、急いで返して差し上げなければ、と乳を欲しがる赤子たちを宥めていたのに。
そこへ、館の入り口の方から不穏な物音が聞こえたのだ。警備の兵の言い争う声と硬いものがぶつかり合う音――あまりにも予想の外の出来事に、扉が打ち破られようとしていると気づくのに数秒かかってしまった。
その後、男が争い合う物音、剣が噛み合う恐ろしい音は館の中まで入ってきた。更に窓の外が深夜に相応しくなく明るいのは火も掛けられたからだろう。そうと思うと、身を守るように張り付いている壁も何か熱く、炎がすぐそこまで手を伸ばしているような気がしてしまう。――それは怯えが感じさせる幻だとしても、クリャースタ妃とフェリツィア王女を狙う刃が迫っていることは疑いようもなかった。
――ティゼンハロム侯爵が、ここまで思い切った手を……? でも、怪しい者が館に近づいていたら民が教えてくれるはず……!
恐ろしい敵はどこから、どのように現れたのか。主を救うため、御子の無事を報せるため、早くこの場を動かなければという思いはあるけれど、扉を開けた瞬間に敵と鉢合わせたらと思うと軽々に飛び出すのも愚かに思える。だから、彼女はイリーナとふたり、産着を着せ直した赤子たちを抱えてこの部屋にうずくまり閉じこもっているのだ。
「シャスティエ様はご無事かしら……」
イリーナは側妃のことを婚家名ではなく結婚前の名前で呼んだ。普段ならば不敬だけれど、今この時に限っては気が動転しているためだろう。子を持つことは愚か、結婚さえ経験していない若い娘がこの状況に置かれるなど、彼女には哀れでならなかった。それは、戦いを知らないのは彼女も同じことだけど、戦場へ向かう夫を見送ったことは何度もある。夫が不在の間、イシュテンの女は家や領地を守らなければならないのだ。だから、イリーナに比べればほんの少しだけ、彼女は――戸惑い怯えるだけではなくて――自身にできること、為すべきことを考えることができていた。
「……クリャースタ様だけでは、ないわ。フェリツィア様もきっと狙われている」
「そんな……!」
どこにいるかも知れない敵に聞きつけられることを恐れて低い声で囁くと、イリーナは若草色の目を瞠って喘ぎ、腕の中の赤子を抱え直した。この場にいるふたりの赤子のうち、綿の産着を着せられた方を。一方の彼女が抱いている子は艶やかで滑らかな絹の産着にくるまれている。同じ女の乳で育つとはいえ、王女と乳母の子ははっきりと区別がつけられているのだ。――それが、この場合には吉と出るか凶と出るか。
「ティゼンハロム侯爵が手を回したというなら、王女様も見逃さないわ。王妃様にとって屈辱だからというだけでなく、マリカ様を脅かすから」
夫の懸念が、最悪の形で実現しそうになっているのかもしれなかった。侯爵が側妃やその子を快く思わないのは自明のこととしても、ここまで直截的な手段に訴えてくるとは誰も――王ですら思っていなかっただろう。王の直轄領に守られた側妃を害することができるとしたら、先日の毒のように迂遠な方法か、直に暴力に晒すとしても戦場で王を下した後に敗者をどう扱うか、ということになると思っていたのに。
――王女様はここにいる。お守りするのが、私の務め……!
そう、自身を奮い立たせようとしても、身体は簡単に言うことを聞いてくれなかった。足に力を入れようとしても竦み上がり、震えてしまって上手く歩くことができない。
女ひとりが身命を賭したとして、何ができるのか。王女はこの場の誰にも増して守られなければならないけれど、娘のジョフィアはどうなるのか。義母に預けている上の息子と、再び会うことはできるのか。
――でも、夫は私を信じてこの役目に推してくださった……!
胸を裂くような恐怖を無理に抑えつけて、彼女は絹の産着の赤子を腕に抱いて立ち上がった。そしてよろめくように向かうのは、扉の方だ。
「――王女様が、見つかってはいけないわ……」
「待って。どこへ行くの」
悲鳴のようなイリーナの声は、様々な種類の恐怖を帯びていた。扉を開けて、外を見ることへの恐怖。ひとり取り残されることへの恐怖。それに、彼女が赤子を抱えたままなことへの、恐怖と――不審。混乱と疑問を湛えた目からそっと視線を外しながら、彼女は言い訳のように呟く。
「ここにいてもいずれ見つかるだけ。どうにか館の外に出て……助けを求めないと」
「そんな、ひとりで……!? それに、その子は……!」
「これは、賭けになるでしょう。ふたりして飛び出して、ふたりとも捕まったら何にもならない」
「でも……」
年若い娘は何を指摘しようとしていたのだろう。彼女の身を案じてくれたのか、それとも赤子に対してか。赤子にしても、どちらに対してのことだろう。彼女はあえて言わなかったけれど、彼女が赤子と共に捕えられれば敵はもうひとりには気づかないかもしれない。もうひとり――仕立ては良いとはいえ、ありふれた綿の産着を着た方の子。絹の産着を着た方は、彼女の腕に抱かれている。もちろん、どちらがより安全なのかは今この場で判じることはできないけれど。
「――火の手が回ったら出られないかもしれない。行くわ。貴女はここに隠れていて」
もの言いたげに、でも思い切ることができない様子のイリーナに短く告げると、彼女は息を止めて扉を押し開けた。
廊下に出ると、黒っぽい煙が目を刺し、鼻をついた。味わったことのない臭気に、腕の中の赤子がぐずり始める。それを必死に宥めながら、彼女は外への扉を目指した。敵は正面から侵入してきたのだろうから、使用人が使う裏口へと。幸いに、目の届く範囲に不審な者の姿はない。赤子の世話をしているのは館の奥まったところだから、ここまではまだ手が届いていないのか。
――でも、出入り口になりそうなところは見張られているかも……!
心臓がどきどきと高鳴って、耳元で煩いと思うほどだった。赤子を胸元に押し付けるように強く抱いて、泣き声を少しでも抑えようとして。早まる鼓動と緊張のために、どこか色を失って見える館の中、懸命に目を凝らす。物陰に敵が潜んでいないかどうか。闇に包まれた廊下の奥に、炎が忍び寄っていないかどうか。
強く抱き過ぎて赤子が窒息していないか、時に抱え直して気休め程度にあやしながら。それでも裏口の近くまでは無事にたどり着いて、わずかに気が緩んだ――その瞬間だった。
「――――!」
低い男の声が彼女の耳に刺さり、身を竦ませた。弾かれたように振り向いた先には、大柄な男の影が。更にその声に応えてか、他にも数人の男が集まってくる。いずれも鎧を纏い、その鎧に煤と火の粉を纏わせて。
――クリャースタ様……フェリツィア様……。
この黒松館にまで敵勢が迫ったからには、万全の態勢で臨んでいるのだろうと想像しなければならなかった。でも、実際に剣を持った男たちに囲まれる恐怖は覚悟してどうにかなるものではない。
声もなく、動くこともできず。立ち竦む彼女に、なぜか異国の響きの詰問が浴びせられる。なぜこのような場に、このような拙いイシュテン語を話す者がいるのか――考える余裕は、ない。
「フェリツィア王女だな」
「……いいえ、違います」
鋭い視線から隠すように赤子を腕の中に抱え込む。武装した男の力の前では儚い抵抗だと知りながら。暴力に備えて、せめて赤子の盾になろうと身構えるが、意外にも舌打ちと共にもう一度促される。同時に男たちの包囲がひと回り小さくなって彼女に迫り、高い壁の中に閉じ込められたような気分になる。
「王女さえ渡せば命は取らない。さあ!」
「いや――止めて……!」
後ずさって逃げようとして――でも、許されるはずもない。腕を捻りあげられる痛みと共に、赤子はあっさりと奪われてしまう。乱暴に――もののように掴み取られて、赤子が火がついたように泣き始める。その声が、身体の痛み以上に彼女の心に突き刺さった。
「止めて! 返して!」
――やっぱり駄目……!
イリーナとあの部屋に隠れている方ではなく、こちらの子を連れ出した時点で、こうなることはどこかで分かっていたはずだった。でも、だからといって明らかに害意を持った者が無力な赤子を掴んでいるのを見過ごすことはできなかった。たとえ、この蛮勇が彼女の命を脅かすとしても。
「――……!」
赤子を奪い取った男の呟きは、やはり彼女には理解できない異国の言葉だった。でも、怒りと苛立ちをはっきりと伝えている。突き飛ばされ、足蹴にされた彼女の視界の端に、白刃の煌きが映る。それよりも泣き続ける赤子の声の方が彼女にとっては大事だったけれど。この子も、イリーナが守っている方の子も、一体どうなるのだろう。この夜を無事に越えることができるのか。
――ああ、ジョフィア、どうか、生き延びて……!
最期の瞬間に思うのが、側妃や王女ではなく我が娘のことであるのにわずかに後ろめたさを覚えながら。彼女は自身の心臓を貫く刃を灼けるような熱として感じた。