決行の朝 レフ
夜が明けたばかりの白っぽい空の下、イシュテン王は側妃を住まわせている館を後にして王宮へ発った。従者や護衛の兵を従えた一団の中、王の黒い馬はよく目立つ。夜の闇を切り出したようなその姿を、レフはもうはっきりと覚えてしまった。
レフはブレンクラーレの間者たちと共に館の付近の小さな家屋に潜んでいた。元は領主一族に仕える者の住まいだったらしいが、王がこの地を離れてからは使用人たちも去り、今は空き家になっていたようだ。ここを拠点に、兵も馬も装備も、館を襲って彼女を奪う手筈を整えているのだ。
「王はまた泊まったのか……」
「夜道を駆けさせるよりは危険はないから、ということはあるかと思いますが。とはいえ最近とみに頻度が上がっているようですね」
「呑気なものだな。ティゼンハロム侯爵の企みを全く知らないではないだろうに」
黒松館と呼ばれるらしい館は、小高い丘の上に建てられていた。小さい領地とはいえその主の居城だから、防衛の際の利や周辺の警戒のことも考えているらしい。とはいえ城塞のように堅固な壁や堀が巡らされているということもなく、レフが少しずつ侵入させた手勢をもってすれば落とすのはそう難しくないだろう。使用人の住まいだったからには主家の様子を窺うのに程よい距離と場所に位置しており、館の者に気付かれないようにさえ気を配れば、人の出入りも警備のほども手に取るようによく分かった。それは都合が良いこととしても――彼女のもとでイシュテン王が夜を過ごしたという想像はレフの心に不穏な波を呼び起こす。
「侯爵は近頃上機嫌だそうですよ。王が側妃に入れあげて自ら評判を落としていると……」
――だから何だ? 僕も喜んでおけというのか?
機嫌を取るような間者の言葉も彼の苛立ちを増すばかりだ。確かにイシュテン王を追い詰めるのはブレンクラーレのアンネミーケ王妃、イシュテンのティゼンハロム侯爵、それにミリアールトが揃って望むことではことではあるが。王が諸侯からの信頼を失う様は、それだけならば嗤って眺めることもできたかもしれないが。
だが、その原因がシャスティエと見られるのかと思うと穏やかではいられない。王を惑わした女などとはとんでもない、彼女は親と国の仇によって閉じ込められて、その訪れを拒むこともできない立場だというのに。
――王はあの中で彼女と何をしている? 何をさせている? 赤子の前で、不埒なことはしていないだろうけど……!
彼女を迎えに行って拒絶されたあの夜のことを、レフは何度となく思い出して、時に夢に見てさえいる。シャスティエがイシュテン王に寄り添っているように見えたのは――機嫌を損ねないように必死だったのだと思いたいけれど。とにかく王の訪れは彼女にとっては心労にしかならないだろう。こうなるように仕向けたのは彼自身ではあるのだが、こんな田舎に閉じ込められた彼女の心情を思うと、一刻も早く助けてあげたいと思う。
実のところ、レフは黒松館にいるところを狙えばイシュテン王を討ちとることさえ可能なのではないか、と考えたこともある。もともとの館の警備の兵と、王が従える手勢を加えても大した数ではないのだから。夜の闇に紛れて奇襲をかければ王がいかに手練れといえども対応できないのではないか、と。ティゼンハロム侯爵に提案してみたところ、あの老人の反応はごく冷淡なものだったが。
『ファルカスはあれで戦に慣れている。無理をせずとも館を離れたところを狙えばよかろう』
レフの采配で勝てるはずがない、と。言外の彼への侮りを隠そうとしない態度は屈辱だった。
王妃や側妃を巡る確執はあるとしても、侯爵は決して王を過小評価してはいないのだ。むしろ娘を与えて玉座に押し上げたからには、相応の器と見ていた、ということだろうか。それでも婿として操るはずが、あてが外れて思いのほかに反抗されているのが現状という訳だ。侯爵の慎重さはその手痛い裏切りに由来してもいるのだろうか。
――でも、僕だって兵を率いたことはある……!
ティゼンハロム侯爵に言うつもりはないが、ティグリス王子の乱の際にレフだって戦況を左右したことがあるのだ。ブレンクラーレの兵を率いて、イシュテン王の軍に罠を掻い潜ってティグリス王子に至る道を示した――あの動きがなければ、侯爵が今、王に悩まされることもなかったかもしれない。その場合、王を討ったティグリス王子によって王妃も王女も亡き者になっていただろうけど。
彼も、疑いようもなく国の歴史に関わりその行く末の鍵を握っている。そのような密かな自負も手伝って侯爵に食い下がろうとした彼を止めたのは、ブレンクラーレの間者だった。
『王が正体の知れぬ者に討たれたとなれば、イシュテン全土が荒れるでしょう。疑心暗鬼になった諸侯が相争う、嵐の様相を呈するかと』
『アンネミーケ王妃も構わないだろう? むしろ望むところではないのか?』
『遠目に見る分には。ですが、そのような渦中から姫君を無事に逃がし奉るのは、かなりの難事になるのではないでしょうか。まして幼い王女殿下もお連れしなければならないことですし……』
『…………』
シャスティエのことを持ち出せば彼が引き下がると見透かされているようなのは気に入らなかったし、実際反論を見つけられなかった彼自身にも腹が立った。とはいえ間者の言にも一理あることは認めざるを得ない。イシュテン王の娘などどうなっても良い――というか混乱の中で行方知れずになれば良いとさえ思うが、シャスティエに対しては決して同じことは言えなかった。
『ファルカスは必ず儂が息の根を止めてやろう。貴公はその切っ掛けさえ作ってくれれば良い』
切っ掛け――つまりは見事シャスティエを攫ってみせろということだ。それも、侯爵が望んだ時に。そうして王をミリアールトに向かわせておいて、その後背を討つのだ、と。祖国を囮に使うことへの躊躇と嫌悪は消しきれず、しかもそれがイシュテンの者の意のままだということにも後ろめたさはつきまとう。
――でも……シャスティエを助けるために手を組むだけだから……!
そのような後ろ暗い思いに蓋をして、レフはティゼンハロム侯爵に対して小さく頷いて見せたのだった。
だからレフは愛する人のもとに憎い相手が通うのをすぐ傍で見るしかなかった。彼女が何をされていれるのか何を思っているのか――想像を巡らせては恐れ憤り、館を攻め落とす準備を整えながら。
だが、それももう終わりだ。周辺の地理の把握は既に十分、商人や旅人を装って少しずつ呼び集めたブレンクラーレの間者や兵も集まった。そして、ティゼンハロム侯爵もついに機は良しと見計らったらしい。側妃を王の手の内から攫ってやれと――非常に傲慢な物言いでやはりうんざりさせられるのだが――許しが、出たのだ。
「王は発った――これまで通りなら、次の訪れまで二日は空ける」
状況を確かめるように呟くと、傍らの間者も頷いた。
「今日の昼前には王宮に着くはず。逆に言えば、この地から早馬で危機を報せたとしても同じ時間が掛かるということ……」
もちろん簡単に使者を出させたりはしない。館にいる馬も、馬を使えそうな者も始末する予定だ。周辺の農家から馬を借りたとしても、農耕馬では長距離を駆けるには向かないだろう。更に王が急報を受けたとして、状況を把握して判断を下すのに掛かる時間、救援や調査の手を整える時間もある。その頃には、レフはシャスティエ――と、おまけの赤子――を連れて安全な場所に到達しているはず。
「脱出の経路も万全です。お渡しした地図の通りに」
満面の笑みで述べたのは、ティゼンハロム侯爵からの使者だ。主が王に背く意思を携えてきたからには、篤い信頼を置かれているものなのだろう。例の侍女は、さすがにこういう場面には用いられないようだった。
「侯爵閣下のご厚意には心から感謝申し上げる」
「とはいえ書面で差し上げる訳にはいかず、恐縮ですが」
「後々を考えれば当然のこと。安全な経路を教えてもらっただけでも破格のことだろう」
黒松館の襲撃に関して、レフはほとんど心配していない。王がいない今ならば館の警備もごく限られた者、指揮しているのだってその人数に相応の器と経験しかない者だろう。側妃と王女のために警戒を怠らないといっても、王が想定する敵はまず領外から分かりやすく攻めてくると思っているはず。要は異変を察知していち早く王宮に伝えることこそが最大の防御なのだから。――普通ならば。
――だが、異変があまりにも近くで起きたら……?
イシュテンの者が思い描く戦いとは、もっぱら平野で騎馬同士が剣や槍を交えるものだというのは、ティグリス王子がかつて証明してくれた通り。害意のある存在が鎧を脱ぎ馬を降りて密かに近づいているなど、イシュテン王の想像の外だろう。
ならば考えるべきはシャスティエの奪還に成功した後のこと。王の追っ手を逃れて、いかに彼女を安全な場所に送り届けるか。そのために、レフはティゼンハロム侯爵にイシュテンの地図を見せてくれるように依頼していたのだ。イシュテンからミリアールトへ、どう進めば侯爵に与する諸侯の領地を通れるか、主要な街道や都市、逆に裏道は――ブレンクラーレにも情報が流れるであろうことは侯爵も承知しているだろうにこの大盤振る舞いだ。邪魔な側妃を片付けられて、あの老人がどれほど喜んでいるかが窺えるというものだ。
「クリャースタ様が無事に祖国に戻られますよう、主も願っておりますので」
――願っているのは邪魔者が消えること、だろうに……!
恭しく頭を垂れて見せた使者は、その陰で嗤っているに違いない。仮にも王の側妃が、他の男の手に落ちたら後の世では何と噂されるか――先に流した噂と併せて、彼女の評判が下がるのは侯爵の陣営にとってはさぞや愉しいことだろう。
若造と侮られているのかもしれないが、レフも、ティゼンハロム侯爵が本心からシャスティエの無事を願っているなどとは考えていないし、それを敢えて口にして話を拗らせるつもりもない。ただ、娘の王妃を想う親の心、外国と組んでまで自国の王を排除しようというティゼンハロム侯爵の貪欲さは信じている。せいぜいそれを利用させてもらおうと思っているだけだ。
「さて――」
イシュテンの者と、ブレンクラーレの者。その場に揃った者たちを、レフはぐるりと見渡した。ミリアールトの出の彼と併せて、三つの国の者がひとつの陰謀を企てている。それぞれの最終的な目的は違うけれど、それだけに利害が一致しているうちは手を組むことはできるはず。その意味では、ここにいる者たちは彼の心強い味方だった。
「決行は、今夜だ。黒松館を陥としてミリアールトの女王を奪還する」
計画は、既に誰もがよく承知している。だからわざわざ口に出すのは無駄かもしれない。それでも言葉にして区切りをつけるのは重要な気がしたし、緊張に強張ったレフの声を笑う者もいなかった。
「王のことはご心配なく。主が足止めをいたしますので」
ティゼンハロム侯爵の使者が頷けば、ブレンクラーレの間者も力強く胸を叩く。
「王女殿下をお連れするために女手も用意してございます。長旅の間、幼い御方に大事がないようにいたしましょう」
こちらの気遣いに関しては、レフとしては無用のものだったので思わず軽く顔を顰めてしまったが。――だが、シャスティエが子供と離れたがらなかったのだから仕方ない。
『フェリツィアが……娘がいるから戻らなきゃ。あの子、私がいないとよく泣くのよ……』
あの新月の夜に、ひきつった顔でそう告げた彼女のことを思い出すと胸が灼ける思いがした。危険を冒して助けに参じた肉親よりも、彼女は仇の子の方が大事だと言ったのだ。ならばフェリツィア王女には存分に泣いてもらおう。その甲高い泣き声で、母の心を揺さぶるように。
――まず赤子を押さえなければ。そうすればシャスティエも来てくれるはず……。
密かに、そしてしっかりと心に決めて。レフは更に控えていた兵を束ねる者にも目をやった。
「昼の間はしっかりと休憩を取ってくれ。日が沈んだら各自決められた場所へ。そして深夜になったら――」
後は、言うまでもなかった。その場に集った者たちは無言のうちに頷いて、それぞれの役割を心得ていることを示した。
いよいよ今夜、と思うと気が高ぶって、休憩など到底不可能なことのように思えた。しかし十分休んでおかなければなるまい。館を襲った後は、王に報せが行くまでにできるだけ距離を稼ぐ必要がある。女と赤子を連れての道行は、きっと苦労も多いだろう。日が高い間は、梟や狼のように塒に潜んでいなくては。
寝室として使っている部屋はの道すがら、レフは朝靄に佇む黒松館を窓の外に眺めた。すぐ目と鼻の先に彼女がいる――なのに会うことができない歯がゆさももうすぐ終わる。王の度重なる訪れに、シャスティエは憔悴しているだろうか。
彼が、それを救うのだ。