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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
18. 傾国
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赦し シャスティエ

 目が覚めた瞬間に王の腕に抱きしめられていることに気付き、しかもそれで安心した自身にも気付いてシャスティエは驚いた。ぐっすりと眠り込む、ということができていたという事実にも。

 窓の外を窺えば、夜明けの直前、空がほんのりと白み始めた頃だった。王宮へ戻るべく王が起き出さなければならない時刻にはまだしばらくあるだろうと判じて、シャスティエはもうしばらくこの怠惰なひと時を味わうことに決めた。――王と肌を触れ合わせているのが安らぎになるということも、少し前ならば考えられないことだったけれど。

 王を起こさないように身体をずらし、その胸に頬を寄せる。早暁の薄明りは、王の身体に残る幾つもの傷痕を浮かび上がらせていた。かつては男の裸を直視するなど恥ずかしくてできなかったし、王と閨を共にした翌日は、このような時間を持つこともなく追い出すように送り出していたから、傷痕に気付いたのはごく最近のことだった。


 そのうちのひとつ、刃が掠めでもしたのか細い線が走っているものを指先でなぞる。と、さすがにくすぐったかったのか、身じろぎと共に王が目を開けた。


「……何をしている」

「ミリアールトを攻めた際に負われた傷なのだろうか、と考えておりました」


 胡乱に問う声にそう答えると、王は露骨に顔を顰めた。といっても機嫌を損ねたというよりは何を言えば良いのか分からない、というような表情だ。責めているようにしか聞こえなかっただろうに、怒らないとは。この男も変わったのだろうか、と思う。そしてシャスティエとしても、夫を詰るつもりで口にしたことはなかった。

 また別の傷――こちらは何かに抉られたような痕を残すもの――にそっと唇を落とし、夫の顔を上目遣いに窺いながら、続ける。


「でもきっと、ティグリス様と戦った時――私やフェリツィアを守るためのお怪我もあったのだろうな、と……」

「…………」


 シャスティエの言葉に対して、王はまた答えなかった。答えようもないだろうと分かっているから、シャスティエも重ねて何か言うことはしない。ただ、ふたりでお互いの温もりを分かち合う。どうしてこのようなことになっているのか――同じような朝を既に何度も過ごしてなお、これもまた全く分からないことだった。


 多分、あの時のシャスティエはどこかおかしくなっていたのだろうとは思う。フェリツィアのこと、祖国ミリアールトのこと、レフのこと――思い悩むことが多すぎた。グニェーフ伯が帰ったらレフが生きていることを打ち明けると決めたものの、それによって従弟を死なせるのだと思うと頼りになるはずの人の帰還も喜ぶことができなくて。泣き止まないフェリツィアを王がどう思うか、こうしている間にもレフや彼の企みのことが知られて責められるのではないかと恐ろしくて。――それで縋ったのが王の胸だった。王の方でもどうして黙って彼女の泣き言を受け入れてくれたのか、その心の裡も窺い知ることはできないけれど。


 ただ、王がいてくれることでシャスティエは安らぐことができるようになった。ここでの王はひたすら優しいから。政の合間を縫って彼女とフェリツィアに会いに来てくれるほどに、彼女たちに心を割いてくれると分かるから。――ミーナやマリカを放って、不在の間に起きるかもしれない不測の事態に目を瞑ってまで彼女を訪ねてくれる、そのような形で気持ちを量ることは間違っているとは知っている。それでも、ひと時であっても守られていると信じるために、王との逢瀬に溺れずにはいられなかった。


 窓から夜明けの光が差し込むと、王は寝台に半身を起こした。温もりが離れたことで、シャスティエは肌にひやりとした涼気を感じて少し震える。


「――そろそろ行かねば」

「……はい。お着換えを、お手伝いいたしますわ」


 ――早く送り出さないと……王宮を長く空けてはいけないから……。


 口では頷いて見せたし、頭でも分かってはいる。でも、シャスティエの手は王の胸に置かれたきり動くことができない。王は、内乱を間近に控えた情勢を考えればあってはならないほど頻繁にシャスティエを訪れてくれるけれど、それも毎日という訳にはいかないし、急な奏上などが持ち込まれれば次の機会はいつになるか分からない。そう思うと、この手を離したくないと思う――思うように、なってしまった。


「これ以上リカードに隙を見せる訳にはいかぬ……」

「はい。分かっております」


 王はこれ以上、と言った。つまり黒松館への訪れは既に度を越えていうということなのだろう。王が政を疎かにして側妃のもとに入り浸っていると見えればどうなるか――諸侯の力が強いイシュテンに置いては、きっと致命的な失態にもなりかねないのだ。にもかかわらず王が無理をしてでも来てくれるのは、シャスティエの不安を見かねてのこと、なのだろうか。閨で囁かれる言葉を全て鵜呑みにするのは愚かなのだろうけれど、でも、王は女に溺れるような男ではなかったはずだし、痩せ細ってしまった今のシャスティエにも女として魅力があるとは思えない。


 ――私の、ために……?


 シャスティエのために、王がわざわざ危険を冒し汚名を被ろうとしているのだろうか。ミリアールトとの同盟は確かに王に必要なのだろうけれど。でも、諸侯の信頼を失うようでは本末転倒も良いところだろうに。

 とにかく、王はこれ以上この館に留まるべきではない。離すことができない手を無理に引き剥がして、シャスティエは王の身支度を手伝った。


「……また来る」

「はい。お待ちしております……ファルカス様」


 交わす言葉も口づけも、離宮にいた頃と変わらない。けれどそこに込める思いはかつてよりも真摯なものになったのかもしれなかった。




 王を見送った後は、娘や侍女たちと屋内に篭って過ごすのが黒松館での日常だった。周辺の領民は王女をひと目なりと見たいと熱望しているとは聞いているけれど、フェリツィアを外に出すのはまだ怖かった。木々の葉が赤や黄に染まり、日に日に気温も涼しくなる季節でもあり、太陽の日差しを十分に浴びせてやれないことは哀れに思うけれど――でも、フェリツィアは前ほど泣かなくなった。一時、シャスティエの手を離れた途端にぐずり始めていたのは、やはり母の不安を感じ取ってのことだったのだろう。


 ジョフィア――フェリツィアにとっては乳姉妹にあたる乳母の子――に対しても、「何かうるさい奴」という以上に関心を持ち始めたようだ。柔らかい敷物を敷いた上で、赤子ふたりが小さな手を伸ばし合ってはきゃあきゃあと笑うような悲鳴のような声を上げるのを見ると、母としては頬が緩むのを止められない。


「フェリツィア、ジョフィアと遊んでいるのね」

「王女様相手に無礼をしないと良いのですが」

「遊んでくれているのだもの。無礼だなんて……」


 赤子の母親同士ということで、乳母と交わす言葉も砕けたものになってきた。レフのことに、ティゼンハロム侯爵との対決、ブレンクラーレの影。シャスティエの手ではどうしようもないことどもに怯えていたのが嘘のように、最近は穏やかな心持ちで過ごすことができている。少なくとも王は彼女たちを気に懸けてくれていると、信じることができるようになったからだろうか。――もちろん、この平穏も上辺だけのこと、実のない幻のようなものだとはよくよく分かってはいるのだけれど。




「シャスティエ様――」


 赤子たちに乳をやるために乳母が退出すると、入れ替わりにシャスティエの傍に侍るのはイリーナだった。誰よりも心を許しているはずの同郷の侍女なのに来てくれたのを喜ぶことができないのは、若草色の目に焦るような急かすような色を浮かべて主を見つめてくるからだ。手元では手際よく茶の準備をしながら、イリーナの目と声は今日もシャスティエを責めてくる。


「イリーナ……」

「今日も王には仰らなかったのですね」


 イリーナがミリアールト語で話し掛けてくるのは、最近は故郷を忍ぶためではなく他の者たちに聞かれてはならない話をするためになってしまった。この館に、彼女たちふたり以外にミリアールト語を解する者はいないけれど、度々深刻な顔で話し込んでいるのを怪しまれはしないか、祖国の言葉を使うのが不安になるほどだ。


「……ええ。でも――」

「今が好機だと思いますのに。王はシャスティエ様もフェリツィア様も心から案じているようです。今なら……あのことを言っても……」


 主従の間のやり取りは、ほとんど決まり切っていることなのだが。イリーナはレフのことを一日も早く王に告げるべきだと繰り返し進言している。確かに最近の王は信じられないほどシャスティエに甘い。王としての務めを疎かにしてまで彼女の傍にいてくれるほどに。シャスティエだって、朝のように王と横たわる時、何度となく()()を言おうかと思ったか知れないのだ。抱き着いて甘える振りをしながらならば、もしかしたら咎められずに何か――上手くいくのではないかと思ってしまって。

 でもどうしてもできなかったのは、その度に叔父と従兄たちの死に顔を思い出して舌が凍ってしまうからだ。


 ――レフのことを言ったら……王はきっと彼を殺す……。また、私の大切な人を奪う……。


 恐ろしく悲しい記憶に乱れた息を整えようと深く息をすると、今度は王の身体に残された幾つもの傷痕が目の裏に浮かんだ。その傷の幾つかをつけたのは、シャスティエが知る者だったのかもしれない。彼女が愛し、彼女を愛した者たちを、王は確かに殺したのだ。傷痕はその何よりの証拠だ。でも、一方でシャスティエや――生まれる前のフェリツィアを守るための傷もあるのだろう。彼女たちのために王は命を懸けた、その証拠もまた消えることなく残されていて、しかもこれからも増え続けるのだ。王に受けた恨みと、王から負った恩。いずれも忘れることはできなくてシャスティエの心の中の天秤は拮抗したままだ。もし、それをどちらかに傾けることがあるとしたら――


「あのね、イリーナ……」


 恐る恐る、侍女に呼びかける。心を決めるために、今日こそはっきりと口に出しておかなければ。そうして、後戻りができないようにしておかなければ。そう思ってもそれを実行に移すのは怖かった。祖国を――つまりはシャスティエの憎しみをも同じくするこの娘が、これから告げることを裏切りと捉えるのではないかと思うから。

 けれど呼びかけたからにはもう言葉を呑み込むことはできない。シャスティエは意を決して、考え抜いたことを言葉にした。


()のこと……やっぱり小父様が戻られてからお話してみようと思うの。分かってくれなくても――力づくでも叔母様のところへ戻ってあげるように」


 イリーナと同様、シャスティエも誰のことか何のことか、ミリアールト語を使っていてさえ伏せた。国の行く末に関わることを、女ひとりの情によって王に伏せている後ろめたさ、黙っている間に取り返しのつかない事態になるのではという恐れがそうさせる。でも、その後ろめたさや恐れを抱えてもなお、縋りたい希望を見つけてしまったのだ。


「彼さえ生きていてくれたら……私は、王を……許せると、思う……」


 シャスティエが見出した、天秤の最後の重しがそれだった。王はもはや憎むべき仇だけではない。それは認めなければならない。でも、国を滅ぼされ肉親を殺された憎しみ、女王であることを否定された屈辱も忘れられない。でも、王が全てを奪ったのではないなら。たったひとりだけでも――その存在を知らないだけだからだとしても――見逃してくれたなら。


「イリーナは……許せないかしら。そんな風に考えるのは、いけないことかしら……?」


 許すか、というのは王のことではない。ミリアールトの者がシャスティエを許してくれるかどうか、ということだ。クリャースタ・メーシェ――復讐を誓う、などと名乗りながら、その相手を許す、などと。そんなことを考えても良いのか、許されるのか。祖国を同じくする者が何と言うのか怖くて、シャスティエはイリーナが無言のままで茶の支度を進めるのを凝視した。


 やがて温かな湯気がシャスティエの前にふわりと香気を漂わせた。茶器を差し出したイリーナの顔は――


「……いいえ。シャスティエ様が幸せならば良いと思います」


 少し苦しげに悲しげに、弱々しく、でも確かに微笑んでいた。それはレフのことを諦めるからなのか、主の翻意を本心では責めたいからか、彼女自身が失った知己に思いを馳せているからか。でも言葉の上では認めてくれた。


「イリーナ……本当に……?」


 それを赦しと捉えて良いのか自信がなくてシャスティエは恐る恐る侍女の顔を覗き込む。と、イリーナはシャスティエの前に跪いて優しく両手を取ってきた。


「はい。本当に。――簡単なことではないのは重々お察し申し上げますが、でも、シャスティエ様が望まれるようになりますように」


 包み込まれた手の温もりが、言葉よりも雄弁にイリーナの赦しを伝えてきていた。もちろん、シャスティエに忠実な侍女の言うこと、ミリアールトの民の全てが同じことを言ってくれるはずもないけれど――でも、逆を言うならば全ての者に謗られる考えではない、と思って良いのだろうか。


「私も急かしてしまって申し訳ありませんでした。あの……王に伝えなければいけないことが、他にもできたものですから……」


 喜びそうになる気持ち、早まりそうになる鼓動を落ち着かせようとイリーナの手を強く握ると、侍女は不思議なことを言ってきた。


 ――王に……何を……?


 たっぷり数秒の間、シャスティエ自身にも心当たりがないのに、と訝って――イリーナの目が、彼女の下腹に注がれていることに気付く。


「あ……」


 それに、この茶葉の香り。シャスティエが日常に好むものとは違う種のもの。これは――フェリツィアを腹に宿していた間、いつもの茶葉は胎児に悪い影響を及ぼすからと代わりに使っていたものだ。


「――きっと大丈夫です。王だってこんなにシャスティエ様を想っているようなのですもの。シャスティエ様もフェリツィア様も、下の御子様も。何があっても、きっと守ってくれます……!」


 イリーナの声を呆然と聞きながら、シャスティエは自身の腹を撫でた。フェリツィアの時もそうだったけれど、何の変化も感じられないうちからここに命が宿っているとは。あの悪阻や怠さや陣痛を、また味わうことになるのか。ティゼンハロム侯爵のこともレフのことも、何ひとつ落ち着いていないというのに。




 ただ、フェリツィアの懐妊に気付いた時とは違って、おぞましいという思いはまったくしなかった。

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