壁の裏から エルジェーベト
最近、ティゼンハロム侯爵邸には深夜の来客が多い。夜の闇に紛れるようにリカードを訪ねるのは、かつてはあのミリアールトの貴公子だったものだが、彼は今は黒松館の付近に潜伏している。だから最近の客はイシュテンの者、王に不満を抱き、それをリカードに訴えに来た者たちだ。
王の目を憚っての深夜の訪問とはいえ、あの貴公子とは違ってイシュテンにいてはならぬ者たちではない。一方でエルジェーベトはいまだ死んだはずの身、屋敷の外の人間に顔を見られる訳にはいかない立場だ。だから彼女が謀の内容を知ろうとするなら、壁の裏で聞き耳を立てるほかなかった。幸いに、使用人しか知らない通路や控え部屋というものはどの屋敷にもあるものだ。
客に出す酒肴の支度を手伝いながら、手元ではなく耳に神経を集中させる。酒も入って気が大きくなったところ、それに壁の厚い屋敷の奥深くとあって、男たちは躊躇いを忘れて声を高め始めているようだった。
「王には全く失望させられましたな……!」
「まさしく。ティグリスの乱ではよくやったかと思っていたが――」
「しょせん片輪の悪あがきに過ぎなかったのだ。それを収めたところで大した手腕ではなかったということなのだろうよ」
複数の声が口々に王を罵っている。もっとも単純に貶め嘲るというだけではなく、どこか憤りを帯びているように聞こえるのはエルジェーベトの気のせいではないだろう。近頃リカードを訪ねる者が求めるのは権力やそのおこぼれではない。勇猛にして果敢、時に残虐とさえ恐れられる、強く正しきイシュテンの王なのだ。
無論、王女の方のマリカでは彼らが求める王にはなり得ない。だから彼らもリカードにつくことを決めたというよりは、まだ大っぴらに言いづらいことをぶちまけて憂さ晴らしをしているといった程度のことなのだろう。――だが、王がこれからも失態を重ねればどうなるか分からない。
――失態。あの王が、こんなことになるなんて……。
空いた皿を厨房に回し、給仕の者に新しい杯や酒を送る。そうやって手は怠けることなく動かしながら、エルジェーベトの胸には不思議な感情が渦巻いている。単に情勢が王の不利に傾いているというだけなら喜べば良いはずなのだけど、苛立ちや怒りも同時に感じてしまっている。だって王の失態とは、側妃に溺れているということなのだから。リカードとの確執は根深いものの、マリカたちには決してそれを見せることをせず、父や祖父とは切り離して妻子を慈しんでいるようだった、あの王が!
政の上でどれほどリカードと対立しても、思い通りにならないことがあっても、王はそれでマリカに当たることはなかったし、他所に女を作ることもなかった。後者の点に関しては、リカードへの配慮もあったのかもしれないし、ミリアールトとの同盟を得てリカードの力などもう不要だと思ったのかもしれないけれど。でも、今の状況はマリカよりあの忌々しい金髪の女の方が魅力が勝っていると言われているようで面白くない。王宮でひとり夫を待つマリカの寂しさ悲しさ悔しさを思うと、傍で慰めることができない我が身が歯がゆくてならないのだ。
「側妃は確かに美しいが……それにしても放逸の甚だしい……!」
「あの女、王族の生まれというのに大した娼婦ではないか。どのような手管で王を手玉に取っているのか……」
誰かが側妃に向けた矛先は、図らずもリカードの矜持をも抉ったのだろう。応じたリカードの声には必要以上に悪意という毒がまぶされているように聞こえた。客にそのようなつもりはなかっただろうが、王妃の容姿は王を溺れさせるほどではなかった、と言ったも同然なのだ。
――マリカ様だってあの女に劣らずお美しいのに……!
マリカとあの女とでどれほど違うというのか、王の考えが全く理解できない。マリカは優しく穏やかな気性で、常に王を癒していたのだろうに。どうして今になって刺々しく可愛げのないあの女の方を選ぶのか。苛立ちに紛れて、高価な食器の扱いが雑になってしまったのかもしれない。銀が触れ合う高い音にエルジェーベトは我に返り、傷ができていないかを慌てて確かめる羽目になった。
「髪や目の色が目新しいからと――異国の女に惑わされるとは情けない」
「側妃は懐妊も早かったですからな。期待をかけているのかもしれませんが」
「要は盛りのついた雌犬ということか。いよいよもって品性の卑しい……!」
リカードの語気の荒さに、客たちも屋敷の主の不機嫌を察したようで、しばらく食器や杯が触れ合う音だけが拍子の合わない曲のようにぎこちなく響いた。戦うことばかりしか頭にない男どもには王妃の立場を慮るなどできないだろうが、リカードの不興をわざわざ買いたいという変人はそうはいないのだろう。
あるいは、自らの去就を決めるにあたって、考慮しなければならない点があるのに揃って思い至ったか。エルジェーベトが知らない男が漏らしたひと言は、リカードにとってもマリカにとっても見過ごしがたい危険を示唆していたのだ。
――あの女がまた孕むだなんて……ありえる、のかしら。
フェリツィア王女が生まれてもう半年ほどになるか。立て続けに子を生む女もいない訳ではない――そもそも高貴な女性が乳母に子を委ねるのは、煩わしい役目を免れるのと同時に家の血を引く子をひとりでも多く儲ける目的もある――が、このような時節に懐妊を急ぐほど王は愚かなのだろうか。あるいは側妃さえ懐妊すればリカードから離れる者が増えるとでも思っているのだろうか。いずれにしても、やはりイシュテンの王らしからぬ惰弱と言うほかない。……だが、確かにリカードにとっては好まざる事態であることに違いはない。
何より、あの女ばかりが子に恵まれるのを傍で見せつけられたら、マリカの心労は一層重いものとなってしまう。そう思うと、エルジェーベトの胸には急に焦りが頭をもたげてくる。
――手をこまねいて良いのかしら。一刻も早く王を討った方が良いのではないの……?
折しも壁の向こうでは、興が醒めたかのように客たちの声の調子が落ちていた。まるでこの屋敷を訪ねたのが正しい行動だったのか、彼らに利する選択だったのか、迷い出したとでも言うかのよう。王に不満があるからといって安易にリカードに擦り寄っても良いものか――状況はまだ予断を許さないと、思い出してしまったのだ。
その後も再び座が盛り上がることはなく、客は――とりあえず一斉に席を立つような無作法を働くことはなく――ひとりまたひとりと屋敷を辞していった。
少し悪酔いした様子のリカードを寝室まで送るのはエルジェーベトの役目になった。侯爵夫人さえ渋々ながら彼女の存在を認めて久しい。特にあの会合の終わり方でリカードの機嫌が良いとは思えないから、他の者は引き受けたがらない役でもあった。まったく、死んだはずの人間、他に行き場のない人間がいるというのは誰にとっても都合が良いものなのだろう。
――マリカ様のためにも私は決して逃げたりしないけど。
幸いにもリカードは足元が危ういほどには酔っておらず、着替えさせるのもエルジェーベトひとりの手伝いで足りた。とはいえこの時間でこの疲れようならば、閨の相手を命じられることはないだろうと思ったのだが――
「殿様、お水を……」
エルジェーベトが差し出した冷水を飲み干すと、リカードは空いた杯を寝台に放って彼女の手を掴んできた。老人のかさついた指が肌に食い込み、間近に引き寄せられると酒臭い息が嗅覚を襲った。
「なぜさっさと王を討たないのかと焦れているな?」
酔った男の相手など長くしたいものではない。それにリカードにはよくあることだが、エルジェーベトの疑問に答えるというよりは、愚かな女に教えてやるという構図を好んでいるように見える。望み通りに何も分からない振りをするのが面倒になることもあるのだが――確かに彼女も気になっていたことではある。だからエルジェーベトはいかにもどうして、訳が分からない、というような表情を作って媚びてやった。
「あのミリアールトの公子とやら……子供のような――というか女のような若者でしたわ。あのような者が、本当にやりおおせるのでしょうか?」
側妃の懐妊の可能性に言及しなかったのは、リカードの勘気を恐れてのことだった。何より彼女自身考えたくもないことでもある。だから、代わりにあの女にそっくりな若者を貶めることで男たちの策に疑義を呈することにした。すると、案の定リカードは機嫌よく笑った。たとえ当面は手を組んでいる相手でも、この男にとって大抵の者は見下す対象なのだろう。
「黒松館の周囲には既に十分な手勢を潜ませたとか。そろそろ良い頃合いだろうよ」
「あの女を――ひと時のことなのでしょうけれど――手に入れさせてやる、と……?」
月の光の金の髪に、輝く宝石の碧い目。そっくりな美貌を持ったふたりが抱き合う姿は、どうも想像しづらかった。あの女は従弟の救いの手を一度は撥ねつけているのではなかったか。無論、剣を突きつけられて力づくで攫われれば逆らうことはできないのだろうけど。あの公子の思い描くのは夢幻に過ぎないように見えるからこそ、信用しすぎるのは危うい気がしてならないのだ。
「どうせすぐに切り刻んでやるのだ。孕んでいるかなど関係あるまい」
リカードがさほど心配しているように見えないのは、酒気によって気が緩んでいるからか、男らしく力だけを信じているからか。
「それに――あれほどの執心ぶりなのだ。今ならファルカスは必ずあの女を取り返そうとするだろう。そしてミリアールトを無謀に攻める。――女に狂って道を誤った愚王に成り果てるという訳だ……」
――そして王妃よりも側妃に心を傾けた王と言われるのかしら。マリカ様は、夫を奪われた女として歴史に刻まれるの……?
リカードは、王の逸脱を見て計画が上手くいくことをいよいよ確信したようにさえ見える。得意げに語る主に対して、エルジェーベトが案じるのはやはり主のことだけだった。マリカを裏切った王が悪名を被るのを素直に喜ぶことができれば良いのに、あの優しい方はやはり悲しむだろうと思うのだ。それともあの方でも、さすがに王や側妃を憎むことを覚えただろうか。
と――
「お前――」
――感慨に耽っていると、リカードの手が顔の近くまで上げられたのでエルジェーベトは身体を強張らせた。上の空なのを見抜かれて怒らせたかとおもったのだ。だが、老人の手は拳を作ることも彼女を傷つけることもなく、ただ短く切ったままの髪を軽く引っ張っただけだった。
「改めて見てもみっともないな……」
「……申し訳ございません」
肉体の痛みはなくても、無造作に容姿を貶められることでエルジェーベトの矜持は確かに痛んだ。死んだはずの身を隠すためには仕方のないことだったけれど、髪をばっさりと断ち切って平然としていられる女などいるはずがない。マリカのことさえなければ、いっそ死を選んだ方がマシだとさえ思っていたかもしれないほどだ。
だが、リカードに訴えても嘲笑で迎えられるだけのこと、悪くすれば本当に機嫌を損ねて手をあげられるかもしれない。だから顔を伏せて屈辱に耐えようとした時――滅多にないほど優しい手つきで、リカードはエルジェーベトの髪を梳いた。労わるというよりは、やはり犬の毛並みを撫でるような空気をまといながらではあったけれど。
この男から示される優しさめいたものが慣れなくて、安心しきることができずに無言で従順な態度を保っていると、リカードは髪の感触に飽きたのか手を離した。
「そろそろ髪を伸ばし始めるが良い。ファルカスを片付ければまたマリカたちに仕えることができるのだから。太后に仕える者に相応しい身なりを整えねばな」
リカードはマリカを指して太后と呼んだ。王の寡婦であって王妃だった方には相応しい称号なのだろうか。その父が王を討つのだという前提を考えれば奇妙にも思えたけれど、その時のイシュテン王とは幼い方のマリカなのだろうかということも不思議だったけれど。でも、それらも些末なことだ。リカードが見せびらかした希望に、エルジェーベトは不安も疑いも忘れて飛びついた。
「また……お仕えできる……? お許しいただけるのですか!?」
「お前の罪など罪ではない。娘のために、衷心からの行いだったのだからな」
主からの寛容な言葉に、エルジェーベトは高揚し、頬に血が上るのが分かった。そうだ、王の子を生まれる前に殺そうとしたのが彼女の罪だ。だが、その王は女に溺れて王たる資格を失った。側妃の子も、生まれてみればしょせん王女に過ぎなかった。そして王も側妃も生まれるべきでなかった王女も、間もなく命運尽きるのだ。ならばこの地上の誰にも、エルジェーベトの罪とやらを問うことはなくなるのではないだろうか。
――間もなく……間もなくなの……!?
「……さすがに疲れたな。今日はもう下がれ」
「はい。ごゆるりとお休みになりますよう――」
リカードは急に彼女への関心を失くしたかのようにエルジェーベトを突き放した。深夜まで陰で客の接待を手伝い、主の世話を焼いていた彼女の方こそ心身に疲労が溜まっていたのだけれど。でも、もちろんそれも口に出してはならないことだ。
それに、リカードの最後のひと言であらゆる苦労も報われた思いだった。マリカを思って心を痛めるのも、離れていて様子を窺うことができないからこそだ。もしもまた傍に仕えることができたなら、きっと慰めて差し上げることもできるはず。エルジェーベトが寄り添うことさえできたなら、あの方のお心もきっと安らかでいられるはず。
――思い悩むことなんて、なかったのね。
使用人さえほとんど休んで、静まり返った夜の廊下で、エルジェーベトはひとり唇に弧を描かせた。エルジェーベトさえ傍にいることができるなら、マリカたちの心の持ちようについては何の心配もない。ならば後は男たちが戦いに勝つかどうかだけ。
王が側妃に溺れて醜態を晒している今ならば、それもきっと大した問題ではないのだろう。