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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
18. 傾国
204/347

王の不在 アンドラーシ

「落ちぶれたものだな――」


 王宮の廊下を行きながら、耳にふと投げ込まれたその呟きを、最初アンドラーシは無視しようとした。言った者の姿はちらりと目の端に捉えただけだが、特別親しいということもなく、何かしらの関りがあった仲でもない。王に忠誠を誓う訳でもリカードにすり寄る訳でもない、イシュテンに多すぎる日和見の輩のひとり、あえて言うなら自身の力を過大に見積もって、王に高く売りつけてやろうとでも思っていそうな眼つきが気に入らないが。――とにかく、彼が話しかけられる謂れなどないのだから、つまりは先の言葉も彼に向けられたものではないはずだ。


 だから足早に王宮の奥、王妃と王女の一角へと向かおうとしたのだが――


「聞いているのか! 捨てられた者が捨てられた者の警護とは笑い話だな」


 あからさまに()に向けて愚弄の言葉を吐かれては、ひと言返さない訳にはいかない。


 ――(こら)えろ、というのが陛下のご命令だが――


 要は手を出したり剣を抜いたりしなければ良いのだろう、言われたままで黙っているのも主君の名を汚すだろう、と。心の中で言い訳をしてから、アンドラーシは改めて相手に向きなおった。


「……誰と誰の話だ」

「分かっているだろう、貴様のことだ! 王にも側妃にも飽きられた上に、王妃の世話を押し付けられるとはどのような気分だ?」


 おおよその予測はついてはいたが、それを少しも出ない上に予想以上に直截な物言いをしてくれたので、アンドラーシは心底うんざりした。


 ――こいつは何がしたいのかな……。


 最近、王は黒松館で過ごすことが増えている。クリャースタ妃が醜聞を避けて謹慎しているのだ、とは世間が勝手に思っていること。実際には王はあの方を微塵も疑っておらず、むしろ不安に苛まれる妃とその姫君を落ち着いた場所に移したというだけだ。だから足しげく見舞うのも不思議ではないしむしろ喜ばしいこと、とアンドラーシは考えていたのだが――どうも頻度が高すぎると見る者が増えてきたようだ。王が慌ただしく政務を片付けた後に馬を駆ってかの館へ急ぎ、そこで一晩を過ごして早朝にまた王宮に駆け戻る、ということが続けば無理もない、のだろうか。

 あの頃のクリャースタ妃の憔悴ぶりを見ているアンドラーシにしてみれば、王が気遣うことこそ当然のこと、何も知らない目の前の男のような連中が口さがなく噂するのが耳障りでならない。しかも、例によって彼自身についても不愉快極まりない風聞が流れているとなればなおさらだ。


「特に何も。どのようなものであっても陛下からの御下命には喜んで従うのが臣下の務めだ」

「健気なことだな」


 嘲るような厭らしい笑みに――これまでにも何人かから揶揄されてきたからでもあるが――否でも仄めかされたことを悟ってしまう。

 つまり、側妃は臣下との火遊びに飽き、王は寛容にも妃の移り気を赦した。その理由は、クリャースタ妃の美貌ゆえというのがひとつ。嫁して早々に王女を懐妊したことから、王子誕生に期待をかけているというのがまたひとつ。そして最後に噂され、かつアンドラーシがもっとも許せない説がある。


「王に長年侍りながらあっさりと乗り換えられたというのに、忠犬ぶりは相変わらずか」


 ……王自身も妻にかまけず臣下を()()していたから、側妃との間で痛み分けにすることになったのだ、というものだ。信じ込むほど愚かな者がいるとはそれこそ信じがたいが、彼を揶揄い貶める絶好の口実を得たと考える程度の愚者はそれなりにはいるらしかった。


「何を言っているのか分からないな。王妃陛下の護衛を任せていただいたのだ、これほどの名誉はないと思うが」


 望んでもないのに母に似た容姿を持ち合わせて、それで王に気に入られたと思われるのも、王がそのような下劣な趣味を持っていると思われるのも業腹で仕方ない。何を勝ち誇っているのかだらしなく緩んだ唇を、剣の一閃で両断してやれたらどれほど胸がすくことだろうと思う。だが、王の命がある以上は、もうそのような軽挙は許されないのだろう。だからアンドラーシは――不慣れなことだが――言葉を使って相手を黙らせる術をこの間に絞り出していた。


「ふん、強がりを。王妃など――」

「その先を俺に言って良いのか? 陛下は今後も変わらず王妃陛下を遇するとの思し召しなのに」

「まさか……」


 相手は笑い飛ばそうとしたようだが、その陰に一抹の不安も見える。王と対立するリカードの娘で、王女しか生めなかった女、そして今は側妃に夫の寵愛を奪われている女、というのが大方の王妃への見方だ。だが、その割にこれまでと変わらず王宮に留め置かれているのは、リカードへの人質というだけでは説明がつかないことに気付いたのだろう。

 アンドラーシを――気に入らないと思っているのだろう相手を貶めるためだけに不敬の罪を犯すなどバカげている。口を開く前にその愚かしさに思い至っていて欲しいものだったが、それができなかったならば教えてやるのが親切というものだろう。


「まあ、既に()()()につくのかを決めたのならば良いのだろうが。――だが、それはそれで眉を顰める者もいるかもしれないな」


 駄目押しとばかりにあえてにこやかに言ってやると、相手の顔が赤く、ついで青く染まった。その醜態がアンドラーシには楽しくてならない。


 ――選ぶのはお前だけではないということだ、バカめ。


 この男が来る内乱に際して王につくつもりなら、その御意思に反した言動は処罰の対象になるかもしれない。一方のリカードにしたところで、娘に対する無礼な言葉を許すほど寛容な男ではないし、屈辱を忍んでまでこの男の力が欲しいということもないだろう。この男の言動が知れ渡れば、受け入れる陣営もなく栄華からは遠ざけられる。それどころか無理難題を押し付けられる立場にさえなるかも。そのような軽率な行動を嫌いな相手(アンドラーシ)に対して見せるとは、愚かと言わずに何と言えば良いのか。


「俺になど構わずゆっくり考えれば良いだろうよ。先ほどの言葉が陛下のお耳に入って、考える必要もなくなる方を選ぶならそれも良いが」


 ――さっさと消えろ。さもないと陛下に言いつけるぞ。


 非常に程度の低い脅しではあったが、相手に合わせてやったと思うしかないだろう。何より相手の愚かさ迂闊さがこうさせるのだから、彼の咎ではないはずだ。


「……王の威光を振りかざしおって……!」


 睨みあうことしばし――男は忌々しげな舌打ちを残すと踵を返して去っていった。いったい何のために声を掛けてきたのか、と思うが、無血で追い払うことができたのでまあ良しとする。


 ――余計な時間を取られたな……。


 無益な時間を費やしたことに心中で溜息を吐きつつ、目的の方向を再び目指そうとする――が、叶わない。アンドラーシの前に、立ちふさがる者が再び現れたのだ。


「やあ、良いところで会ったな」

「……待ち構えていたのだろう。白々しい」


 といっても先ほどの相手とは違って、今度は友人と呼んで良い男だ。ジュラや、今はミリアールトにいるエルマーと同じく昔から王に忠誠を誓う者だから、むしろ戦友とでも言うべきか。だから掛ける言葉も砕けたものだし、相手も軽く笑って悪びれずに受け流した。そして目線で物陰へ誘われるのにも、素直に従ってやる。


「ちょっと付き合え」

「ああ」


 敵味方を問わず、彼に絡んでくる者が絶えない理由は分かっている。最近の王の様子は――不敬な言い方をするならば――少し、おかしい。政務に滞りが生じている訳ではないし、リカードとの決着に向けて諸侯への根回しも怠っていない。だが、空いた時間の多くをクリャースタ妃のために費やしているようなのが、今までの王とはあまりに違っているのだ。まるで女色に溺れているかのような。

 ……無論、王もクリャースタ妃も、為すべきことを見誤るような方ではないとアンドラーシは信じているが。だが、臣下の間に、疑いがさざ波のように薄く広く広がっているのは感じられるし止めることもできはしない。だから、近しい者の不安はなるべく聞いて、できることなら解してやるのが良いと思っているのだ。




 回廊から庭園に降りてそれなりの太さの木の影に程よい空き地を見つけ、幹に背を預けるなり相手は口を開いた。


「お前の過ぎた奥方からは何か聞いていないのか」

「何か、とは何だ」


 ――まるで俺が夫として不釣り合いとでも言いたげだな。


 王や国を憂える前に、相手の言い草がひどく不躾なものに思えたのでアンドラーシは抗議の証に少しだけ語気を荒くした。父や母やジュラなどもそうなのだが、妻のグルーシャに言及する際にお前にはもったいないとか出来過ぎているという枕言葉をつける者が多いのは大層不思議なことだった。確かに妻の実家は彼の家より格が高いが、彼にしてみれば見込まれて結婚したように思っているというのに。


 しかし付き合いが長いだけあって、相手もアンドラーシの不機嫌には無頓着だった。軽く身を乗り出して改めて問うてくる眼差しは鋭く、そしてやはり内容は予想通りのことだった。


「陛下やクリャースタ様のご様子についてなら何でも、だ」

「……大したことは聞いていないぞ。クリャースタ様がご不安な様子で、陛下は大層気遣っておられるということだが……」


 彼だとて王の変化に何も思わなかった訳ではない。離れて暮らすことになった妻の様子が心配でもあり、苦手な書き物をしては黒松館の様子を尋ねていたのだ。とはいえ妻の返信からも戸惑いに満ちたものだった。おふたりが仲睦まじいのは素晴らしいこと、フェリツィア様も父君様に懐いてきて良かった、と。良い変化を連ねる一方で――


 ――殿方は戦の備えにお忙しいところ、この館で穏やかに和やかに過ごしていることが申し訳なく思えてなりません。


 と、夫を気遣う体で大事な時に王宮を空ける主君を案じているようだった。


 とにかく妻から漏れ聞いたことは、友人を納得させるのに十分ではなかったらしい。相手は首を捻りつつ腕組みをした。


「あの方がご不安とは。信じがたいな……」

「フェリツィア様もいらっしゃるからな。前と同じという訳にはいかないのだろうよ。あの犬の件もあるし」


 王女の犬が殺された、と。クリャースタ妃に報告されたその場にアンドラーシも居合わせた。不貞の噂でいつもの強気を見せていたところから一転して、今にも倒れそうな顔色になっていたのが気の毒なほどだった。だが、目の前の男はその様子を見ていない。ミリアールトの乱で王を前に堂々と取引を申し出た時、雪の中で王の馬に同乗して金の髪をなびかせていた時。あのように勇ましく強気な姿ばかりを見ていれば想像もつかないのも無理はない。


「しかし、リカードを片付けねば根本の解決にはならないではないか。あの方にそれが分からないものか?」


 あくまでもかつての姿を思い浮かべて言っているのだろう、男はクリャースタ妃が王を諫めないのが悪いとでも言いたげだった。


「無論分かっておられるだろう。クリャースタ様も、陛下もな。だから案じる必要はない。時がくれば陛下はいつものように軍を率いて戦われる」


 アンドラーシが意図したほどに、迷いのない声が作れたかどうかは分からなかった。何しろ、彼自身もかつてない王の行動に少なからず戸惑っている。クリャースタ妃の危うい姿を知っているだけに、まさか全てを放っても溺れたいなどと主が考えていないかどうか、一抹の疑念が混ざってしまうのだ。

 だが、臣下としてはそれは決して口にしてはならないこと、彼にとっても目の前の男にとってもだ。だからアンドラーシは友の忠誠心を利用することにした。


「それは、そうだろうが……」

「陛下を疑うというのか? 不忠者め」

「バカなことを……!」


 そう、たとえよく知る戦友が相手であっても、やすやすと王の器を疑うことを口にするなどできはしない。内心を操ることまではできないが、少なくとも言葉で否定しておくのは心構えとしては重要なはず。


「ならば剣を磨いて待つことだ。我らに他に何ができる?」

「うむ、そうだろうな……」


 相手も胸の裡で同じような計算をしたのかもしれない。話は終わりだ、と示すために軽く肩を叩いてやると、躊躇いがちに、だがしっかりと頷いた。




 そしてアンドラーシはようやく目的の場所――王妃と王女の住まう一角へとたどり着いた。


「ご領地は変わりありませんでしたか」

「お陰様を持ちまして。ひと時とはいえお傍を離れたこと、申し訳もございませぬ」

「いいえ、私が無理を言って来てもらっているのですから。それに、ラヨシュもいてくれましたし」


 王と王妃から預かったラヨシュという子供について、今日は剣ではなく礼儀作法の訓練だと申し渡してあった。とはいえアンドラーシ自身もまったく心もとない類のことだから、要は王妃と王女に無礼のないように傍にいろというだけのことだ。可愛げのない――今もアンドラーシを見て露骨に顔を顰めている――王女も、ラヨシュといると割と機嫌が良いようだから、王妃が助かるというのも恐らく本音なのだろう。


「お前なんかいなくて良いのに。お父様は今日もいらっしゃらないのね……!」

「マリカ、失礼でしょう! ……ごめんなさい、よく言い聞かせますから……」

「いえ、気にしておりませんので」


 大の大人がねちねちと嫌味を言うのに比べれば、見た目は母親に似て整っている王女が頬を膨らませている姿は可愛いものだ。それに王女の脱走を度々妨げている彼が嫌われるのも道理なので、アンドラーシは本心からさらりと答えた。そしてふと思いつくことがあったので付け加える。


「よろしければ陛下にご伝言いたしますが。王女様が寂しがっていらっしゃる、と……」


 王に諫言した者もいないではないが、今のところ聞き入れられてはいないという。何事かあれば黒松館から駆け戻る、の一点張りだとか。確かに王の馬術も愛馬も優れているが、臣下の不安は拭いがたいのだが。――だが、もうひとりの妃であるこの(ひと)が強請れば、さすがに聞き入れられるのではないだろうか。妻の傍にいるのは同じでも、王都から離れた黒松館と王宮の一角では話はかなり変わってくる。


 ――この女に頼るのは、多少癪ではあるが……。


「いいえ、シャスティエ様も心細く思われているでしょうから」


 もしかしたら、と期待を掛けての申し出だったのだが、王妃は穏やかに苦笑すると首を振った。嫉妬の欠片も見えないその表情は、複数の妃を持つ王の正妻としては褒められるべき態度、なのだろうか。今この状況にあっては、物わかりが良すぎるのも問題と言えば問題だが。


「私たちはもう十分ファルカス様を独り占めしてしまいましたもの。シャスティエ様やフェリツィア様に譲って差し上げなければなりません」

「さようでございますか」


 ――この女も変わった、のか?


 あくまでもおっとりと語る王妃は無理に取り繕ってはいないようだ。そもそもこの女に演技力などあるはずもない。ならば本心から夫を側妃に譲って良いとでも思っているのだろうか。


 ――切っ掛け……思い当たる節はあるような、ないような……。


 父親のことで身を引こうと考えるのも、若い側妃に王の妻の座を譲ろうとするのも、大いにありそうなことではある。クリャースタ妃こそ王の隣に相応しいと考えているアンドラーシにしてみれば、歓迎すべき変化と言っても良いのかもしれない。


 だが、王もクリャースタ妃も今までからは考えられない行動を取っている今、王妃の変化がどのように作用するのか分からなかった。だから、不機嫌な王女に刺繍の手ほどきをする王妃を見ながら、アンドラーシの胸には何かもやもやとした思いが渦巻いていた。

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