縋る指先 ファルカス
十日ほどぶりに会った下の娘は、ファルカスの腕に抱かれるなり火がついたように泣き出した。まるで不審な者に攫われたとでも思ったかのよう。否、これほど会う機会が少なければ、赤子には父の顔や声を覚えろというのは無理な話か。実際、娘は知らない者に抱かれて泣くほど嫌がっているのだろう。
政務を一通り片付けた後に馬を駆けさせ、夕刻になって黒松館に到着し。晩餐を供されてからやっと娘を構うことができるかと思ったらこのありさまだった。
「申し訳ございません。すぐに静かにさせますから」
そして成長した重さを実感する間もなく、赤子は母親によって奪うように彼の手から引き離された。その言葉通り、フェリツィアは何度か揺すってあやされただけで先ほどまでの泣き声が嘘のように大人しくなった。あまつさえ自ら小さな手を伸ばして母を求める姿には、一応は血を分けた父親としては何ともいえない思いがこみ上げてしまう。
――この歳で、母親が何を言い聞かせたという訳でもあるまいに……。
上の娘のマリカが最近父親を避けているようなのは、 覚悟しなければならないとは思っている。マリカにとっての祖父を殺そうというのだから、憎まれても仕方ないというものだ。フェリツィアについても、母親は復讐を名乗るような女だ。成長した暁には母の恨みを教えられて父を同じく嫌うようになるのだろう。だが、言葉が通じないような赤子の頃からこうまで泣かれるのはさすがに堪える。
「赤子が泣いたからといって気にしないぞ」
「いえ、折角なので機嫌の良いところを見ていただきたいですから」
側妃が嫌いな男に娘を触れさせたくないというなら分かりやすい話だった。が、この女は本当に申し訳なさそうにしてフェリツィアをあやしている。赤子の――それも、自分自身の娘の泣き声を不快に思うような男に思われているとしたら、それもまた面白くない。無論、信用がないのは彼自身の行いの結果に過ぎないから、不満に思う資格などないのもよく分かってはいるが。
それに、彼ら親子を巡る問題は父親への信用の有無だけに限らない。泣き声が気に障るのではと恐れるならば、娘を彼に会わせなければ良いだけのこと。なのに――
「――フェリツィア。お父様に可愛いところを見せてあげて」
信じがたく理解しがたいことだが、側妃はどうやら彼から娘を遠ざけようとはしていないらしい。それどころか彼の関心を惹きたくて必死ですらあるように見える。フェリツィアの機嫌が良くなったところを見てはファルカスにまた抱かせようとするのだが、赤子は見知らぬ大柄な男に近づけられる度に引き攣ったようなしゃくり声を上げて拒否の意思を示している。
彼と赤子の機嫌を窺って、困り切ったようにおろおろとしているのが、かつてはミリアールトの雪の女王に喩えられた美姫だとは信じがたい。今の側妃からは、凛とした誇り高さも度し難いほどの気の強さも、氷の華のような美しさも、全て失われている。
――どうしてまた窶れているのだ……!
黒松館に移らせた当初は、多少は安心したようだったのに。少し目を離した隙にこの女は王宮にいた頃よりも憔悴してしまったように見える。彼の訪れが間遠になったことで不安を感じているのか、何を思いつめているのか――その原因を探れるほど、ファルカスは妻の心を熟知していない。十年連れ添ったミーナでさえ完全に心を解してやることができない彼に、お互いの利と復讐のためだけに手を組んだ女の胸の裡など分かるはずもないのだ。
この黒松館を与えたのが果たして正しい選択だったのか、ファルカスは次第に自信をなくしていた。例の醜聞を押さえる必要は確かにあったし、マリカの犬の件で王宮の警備が十分でないと思い知らされた矢先でもあった。側妃も、王宮の方が安全だったと思っている訳ではないだろう。
ただ、避難先としてこの場所を選んだのは、彼の思い込みというか勝手な思い入れの結果ではないかと自問した時に、否定するのは難しい。彼にとっては幼少期を過ごした懐かしい場所でも、側妃にとっては結局馴染みのない他人の館に過ぎない。どこか別の城とか要塞とか、もっと堅牢な壁に守られた場所の方がこの女は安心できたのだろうか。だが、薄暗い石壁が赤子にもその母にも良い影響を及ぼすとは考えづらい。何よりそのような城砦があるのは、概ね国の辺境近く、彼が訪ねることは難しくなってしまう。
――否……完全に放っておいてやった方が良かったのか……?
正しい道などいまだに分からないし、迷い悔いることは多い。だが、仮にも妻として迎えた相手、彼の娘を生んだ女のことだ。訳が分からないということと、萎れていくのを捨て置いて良いかということは全く別だ。
「……フェリツィアは揺籃に戻してやったらどうだ。そんなに泣いては疲れるだろう」
「でも……はい……」
娘を抱えて右往左往する姿を見かねて口を挟むと、側妃は眉を下げながらも頷いた。だが、侍女に預けられて別室へと移されるフェリツィアを目で追う表情はひどく悲しげで、彼が赤子がぐずるのを疎ましがったのだと捉えられたのは明らかだった。
――どうも上手くいかぬ。
表情には出さないように努めて気を配りながら、ファルカスは内心で舌打ちをした。側妃の懸念は全く無駄なことなのだ。彼だとて娘は可愛いのだから、ぐずったくらいで嫌うものか。そんなことは気にせず、母親らしく堂々としていろと言いたいだけなのに。どうして上手く伝えることができないのだろう。この女は何を悲しみ何を喜ぶのか、やはり彼には掴みがたい。
だから――夫としては非常に業腹ではあるが――ファルカスは他の男の力を借りて妻を喜ばせようとした。つまり、この女が彼よりも信じ頼っているであろう祖国の忠臣の名を出したのだ。
「……イルレシュ伯はミリアールトを発ったそうだ。手勢を引き連れてのこと、すぐに到着するという訳にはいかないだろうが。だが、本格的な冬の前にはここの守りを受け持ってもらえるだろう」
「小父様が……そうですか……」
だが、彼の期待に反して側妃は笑顔を見せなかった。ぴくりと肩を震わせて俯く姿は、むしろ何かに怯えてさえいるようだ。顔色も一段褪せて、今にも倒れそうな頬の色になっている。この女にとっては嬉しい報せのはずなのに、少しは明るい顔を見たいと思っただけなのに、彼はまた妻を委縮させただけなのか。
――なぜだ。何を恐れている……?
口に出して問うても意味はない気がした。この女はどうせ何でもないと言うに決まっている。そうではないと全身で語っているのに、だ。互いの目的のために結んだだけとはいえ、形の上は妻である女が本心を見せないことへの苛立ちは募るが、憎む相手に心を明かす者がいないのもまたよく承知している。この女とは、そもそもの出会いから何もかもが間違っていたのだ。身体を重ねて子を成して、何かしら通じ合った気になっていたのは彼だけだったということだ。
だから、側妃の態度に苛立ちを感じる方が筋違いなのだ。言葉に出せない鬱屈と溜息は肚に深く呑み込んで、ファルカスはすっと席を立った。夜とはいえ月や星の明かりはあるし、自身の馬術のほどは彼が一番よく知っている。ここにいて側妃に気まずい思いをさせ続けるよりは、王宮で休む時間を増やす方が有意義な時間の使い方というものだろう。
「――そろそろ、戻る。俺がいないほうがゆっくりと休めるだろう」
「そんな……いらしたばかりなのに。フェリツィアの泣き声がお気に障りましたか? それとも私が面白いことも言えないから……?」
「ここの暮らしではそうそう目新しいこともないだろう」
従者に目で支度を命じながら扉の方へ足を向ける彼の袖を、白く細い指が掴んでいた。縋るような必死さをいっそ不思議に思いながら、ファルカスはそっとその指先を剥がそうとした。この女と雑談のようなことをした機会はどれほどあったのかと記憶を手繰りながら。フェリツィアが生まれてからはともかく、以前は会話が途切れたら閨に引っ張るか、話すとしてもリカードの動向だとかミリアールトの情勢ばかり、お互いについて何も知らないのも思えば道理でしかなかった。
「何も咎めてもいないし怒ってもいない。本当に、邪魔者がいない方が良いだろうと言っているだけだ」
「そのようなこと……私、陛下だけを信じて頼りにしておりますのに」
――心にもないことを言う……!
思わず嗤いそうになるのを堪えたのは、碧い目に宿る必死さだけは真実だと信じたからだ。祖国の安寧と娘の無事のためには彼の歓心を買わねばと、勝手に思いつめているのだろう。フェリツィアを無理にでも笑わせようとしていたのも、恐らくは同じ理由だ。子への愛と祖国を案じる不安のためだけにこそ、似合わない媚びるような言葉さえ紡いでいるのだ。
「その信に応えるためにこそ戻らねば。留守の間に何かあっては――」
「愚かなことだとは分かっています。でも、お傍にいて欲しいのです。陛下のお心を失ったのではないかと思うと怖くて……」
だから、抱きしめたいとか口づけたいと思っても我慢するのが正しいはずだ。この女は彼を憎んでいるのだから、そのようなことをしては弱り切ってひび割れた矜持を一層傷つけることにしかならないだろう。この女の心はあくまでも祖国と娘だけに向けられている。ミーナでさえも最近は彼に触れられると身体を強張らせて心が離れているのを教えてくるというのに。ましてこの女に対して不用意に触れたりしたら、どれほどの心労になることか。
そう、自らに言い聞かせようとしているのに――冷たい氷が溶けたように、碧い目が涙で潤んでいるのに気付くと、理性を保つのは難しかった。
「……またすぐに来る。前の時からそう日を空けた訳ではないだろう? どうすればお前は安心できる……?」
「……どうしても無理だと思います。でも、陛下がいてくだされば……」
「バカげたことを」
つい――つい、としか言いようがなかった――腰に手を回して抱き寄せても、側妃は抗わなかった。それどころかやっと寄る辺を見つけたとでもいうように彼の胸に顔を埋めて、緩く結って下ろした金の髪が彼の腕をくすぐる。赤子の乳の匂いだろうか、ふわりと鼻先に漂う甘い香りがまたファルカスの理性を揺るがせた。
「私はイシュテン王の側妃です。陛下と共に行くと決めたのです。なのに……陛下に信じていただかないと……」
――例の噂か? まだ気にしているのか?
アンドラーシらを呼び出した時点では、この女も不貞の醜聞をあり得ないことと憤っていたのに。なぜ今になってこのように不安げな表情を示すのか。人の目がなくなるのは良いことだろうと思ったが、ひとりになったことで悪い想像に囚われてしまったということか。この女に限って、非常に考えづらいことではあるが。
「お前は俺の妻で、フェリツィアは俺の娘だ。何を疑うことがある?」
そう言ってみても、腕の中の側妃は弱々しく首を振るばかり。こちらの言葉には聞く耳を持たず、一方で指先は彼の服を掴んで離さない。煮え切らない態度に対しても苛立ちを見せずに宥めなければ、とは思うのだが――理性と同様に、彼の忍耐も削られていく。そうだ、彼が抱いているのは彼の妻だ。相手もそのように言っている。ならば――
「――こうすれば信じるか?」
言うなり、色を失った唇に口づける。深く激しく、不安も疑いも貪るように。碧い目が驚きに見開かれるのが間近に見えるが、恐れていた抵抗はなかった。逆に――呼吸を求めてのことかもしれないが――自ら口を開いたのを承諾と受け取って口内に舌を侵入させると、彼に縋る指先に力が篭り、味わう吐息も次第に甘いものになる。
「あ……陛下……?」
「名前で呼べ」
他人行儀に称号で呼ばれるのが急に癇に障って、命じる。そうしておきながらまた唇を塞ぐのだが。それでも息の合間に喘ぐように、妻がほとんど初めて彼の名を呼ぶ。
「あ、の……ファルカス、様……!?」
「シャスティエ……」
そして彼も妻の名を。復讐を意味する婚家名ではなく、幸福を意味する元の名で。彼の想いを妻は知らないが、頬が朱に染まったのは息苦しさからだけではないと思いたかった。
「今日はこちらで休む。王宮には使いを送れ」
羽根のように軽くなってしまった身体を抱き上げながら命じると、従者や侍女たちが慌ただしく動き始めた。
朝陽のもとで妻の寝顔を見るのは――少なくともこちらの妻については――非常に新鮮なことだった。かつて離宮に通っていた頃の記憶では、この女は彼の挙動に敏感で眠りも浅かったような気がする。今朝に限ってそうではないのは、彼への想いが変わったから――などと自惚れてはならないだろう。
――気を張っていた反動が出たということだろうな。
共に夜を過ごしたからといって思いがあるという証明にはならない。フェリツィアという娘をもうけてなお、ファルカスはこの女のことが何ひとつ分からないのが良い証拠だ。だが、この女は多少なりとも安心したのだろう。抱くからには彼の関心を惹けているのだ、と。あるいは単にゆうべ疲れさせてしまったからか。なるべく負担にならないようにはしたつもりなのだが。
とにかく、眠る妻の――シャスティエの、頬を撫でても髪を梳いても、目蓋が動く気配がない。懐かない猫がやっと気を許してくれた嬉しさに似た感情で、ついあちこちを触ってしまう。
「う……ん……?」
と、さすがに調子に乗り過ぎたのか、細い眉が顰められ、碧い目が瞼の下からその色を現した。寝ぼけていた目が焦点を結んで彼の姿を認めるなり、さざ波のような戸惑いに揺れる。
「あの……なぜ……?」
「分からない」
この女は何を問うているのだろう、とどこか他人事のように訝りながらファルカスは答えた。
なぜ抱いたのかということか、なぜ王宮に帰らなかったのかということなのか。王が王宮を長く空けて良い道理などなく、あちらにはミーナやマリカもいるというのに。なのになぜこちらに留まってしまったのか、彼にははっきりとした答えなどないし、シャスティエの方もそうだろう。
王宮で待っているであろうもうひと組の妻子を思い出して胸を過ぎった後ろめたさを無視して、ファルカスは目の前の妻を抱き寄せた。
「ただ、こうしたかった……それでは理由にならないか?」
「いえ……十分です」
声にはまだ戸惑いと――恐らくは彼とも相通じる苦さがあったが、シャスティエは額を彼の胸にすり寄せてきた。
腕の中の温もりを離したくないと思い、この時がいつまでも続けば良いと思う――この感情は、きっと愛しさというものだ。夫婦としての順序は大変おかしなものだったが、やっと彼らふたりの間に心のつながりが生まれた気がした。たとえ、甘いだけのものではないとしても。
ムーンの方の番外編集に夜の間のことを描いております。よろしければ本編と併せてお楽しみください。