翳る想い ウィルヘルミナ
ウィルヘルミナは初めて出会った、ほとんどその瞬間から夫に恋していた。以来、会うことができる機会を心待ちにしてきたのが彼女の人生だ。なのに今は――愛しさが減じた訳ではまったくないけれど――夫と顔を合わせるのには不安と緊張を伴うようになってしまった。ウィルヘルミナなどのために夫の貴重な時間を割くのはもったいない、と思うようになってしまったのだ。――それには、あまりにも多くの理由がある。
「あの、マリカが……申し訳ありません。でも、あれでも聞き分けは良くなってきましたの……」
娘のマリカは、かつてのように夫に――父に甘えて自室に戻ろうとしない、ということはなくなってしまった。夫が話しかけても終始素気ない態度で、時間が来るとさっと両親の前から下がってしまった。犬の件で芽生えた大人への不信はまだ尾を引いているし、その前からも、「大好きなおじい様」の悪口を吹き込む父に幼い憤りを感じているようだった。無論、ウィルヘルミナとしても慰め窘めようとしているのだが、強情な娘の心を溶かすには至っていない。そもそもの根源は父ティゼンハロム侯爵の叛意にあると分かっているだけに、夫に対しては申し訳なさしかなかった。
――お疲れなのに、更に煩わせてしまうなんて……。
夫の目の下には隈が黒く刻まれ、恐らくは溜まった疲労のために頬には赤味が差している。安らぎの時間を与えて差し上げられないことも苦しいけれど、夫の疲れの理由を考えると一層居たたまれない思いがウィルヘルミナを苛むのだ。王宮の奥に居てさえ以前よりも夫が多忙なように見るのは、ウィルヘルミナの父との衝突が近いからに違いない。王に背こうとしている者の娘のくせに、我が子を、王の子を躾けることもできないくせに、正妻面をしていても良いものかどうか。だって、今は黒松館にいるシャスティエやフェリツィア王女に会う時間を作るためにも、夫はかなりの無理をしているのに違いないのだ。
マリカにもそんな父の苦労を教えなければならないと思っているのに、娘はまだ妹姫に父を取られたとしか考えていないらしい。ラヨシュが鍛錬の合間を縫って構ってくれていて、その間は機嫌が良いようなのが救いではあるけれど。それ以外の時間も、母であるウィルヘルミナに対してはべったりと甘えて――娘の主張では守るために付き添って――くれているのだけれど。でも、その健気さは父には見せてくれないのだ。
ウィルヘルミナの懊悩とは裏腹に、夫はあっさりと肩を竦めてみせる。娘の態度については諦めているのかもしれないが、それはそれで切ないことだった。
「親離れしているというなら悪いことではなかろう」
「でも……」
「フェリツィアは母親が抱いていないとすぐに泣くようになってしまった。まあ一時のことだろうと言うことだが。だから、姉がしっかりしてきているならその方が良い」
「フェリツィア様が……」
夫は、ウィルヘルミナを慰めようとして言ってくれているのだろうか。父親に対して愛想がないのはフェリツィア王女も同じなのだ、と。ならば夫はふたりの娘の歳の差を忘れているに違いない。一歳にもならないフェリツィア王女がよく泣くのと、完全に物心ついているマリカが父に対して礼儀を知らないのとでは全く話が違う。何より、フェリツィア王女が泣くのはきっと母君――シャスティエの不安を感じ取ってのことに違いない。
「マリカは今まで手が掛からなさ過ぎたくらいなのだ。多少の反抗はかえって安心するくらいではないか」
「……ええ……」
――今まで……甘やかしすぎてしまったのね……。
夫はあくまでも軽く笑って済ませてくれた。彼女の気苦労を分かってくれない、と恨めしく思うのと同時に、娘の養育について深く考えてこなかった自分自身が情けなくてならない。明るく健やかでさえあれば良いと思って、彼女自身がそうだったように年頃になれば礼儀作法や嗜みは自然と相応に身につくものだと思い込んでしまっていた。娘の性格は母よりも父に似て、王女には似つかわしくない頑なさや苛烈さも持ち合わせていると――気づいたのは、つい最近になってからだった。
それに、教えると言っても何を教えれば良かったのだろう。ウィルヘルミナだって父と夫の間の確執に長く気づいてこなかったのだ。一応は大人の分別があるから泣き喚くことをしないだけで、父や母にもう会えないことも、父と夫が殺し合うことも恐ろしく悲しくて堪らないのだ。シャスティエやフェリツィア王女を脅かしていることも憂いている癖に、夫が彼女たちに時間を割いていることにも心を引き裂かれている。何と愚かで浅はかな女なのだろう。
――私なんて、いない方が良いの……?
父のこと夫のこと、シャスティエのこと。周りの人たちのことを思うにつけて頭によぎるのはそんなことばかり。夫の腕の中にいて胸が高鳴るのも、もうときめきのせいではなく心苦しさによるためだ。
「あの。私とマリカの方こそ王宮から離れた方が良いのではありませんか……?」
「何を言っている」
夫が顔を顰めたのを見たら、かつてのウィルヘルミナならそれ以上我を通そうとは思わなかっただろう。でも、今は違う。それに思い付きで言ったことではなく、ここのところ考えてきたことだった。
「父と通じたりは決してしません。マリカからも目を離しません。お気の済むまで監視をつけていただいて――いえ、むしろそうしてください。私は王宮に、ファルカス様のお傍にいるのに相応しい女とは思えません」
妻として、夫のために何ができるか考えて――何もできない、という結論にウィルヘルミナは至っていたのだ。シャスティエは若く美しく、夫にミリアールトとの同盟をもたらした。対するウィルヘルミナは、これから反逆者の娘になる。父の罪を娘には問わないという夫の心遣いには感謝するけれど、だからこそ甘えて王宮に居座ってはならないと思ったのだ。王妃という地位も由緒ある王宮の豪奢な一角も、ウィルヘルミナが未練たらしくしがみついて良いものではないと思うのだ。
――ファルカス様も、フェリツィア様の様子が気になるでしょうに。
「それは俺が決める。何度も言うがお前もマリカもリカードのこととは関係ない」
「でも、私がいなければ父も王宮に出入りする口実が減ります。そうすればシャスティエ様たちだって――」
「ならぬ」
強い否定の言葉に震えたのも一瞬のこと、夫の腕に優しく抱きすくめられてウィルヘルミナは泣きたいような胸の苦しさを味わった。夫に触れられるのが喜びだけでなく苦しみをもたらすようになってしまったことも、悲しくてたまらないことだった。
「……すべてが終わった後で、父を殺した男が許せないから去るというなら止められないが。だが、父のことでお前が引け目を感じる必要はない。……何度も言わせるな」
埒もない女の戯言に、何度でも付き合ってくれる夫は優しいのだろう。でも、優れた人であるはずなのにどうして分かってくれないのだろう。何をどのように言われようと、ウィルヘルミナが引け目を感じないで済むはずがないのだと。
夜も更けると夫婦ふたりして同じ寝台に横たわるのも以前と変わらない。でも今は本当に寄り添って眠るというだけだ。夫は疲労のために休息を求めているのか、万が一にもウィルヘルミナが懐妊してしまうことを懸念しているのか、もう彼女にそういう意味で触れる気はないのか――確かめるのが怖くて、ウィルヘルミナは聞くことができないでいる。それとも、夫とどのように触れ合えば良いのか分からないという、彼女の戸惑いが伝わってしまっているのだろうか。今までのこと、これからのこと――考えることがあまりに多くて、夫に求められたとしても無邪気に身体を委ねる気にはなれないのかもしれなかった。
だから、できるだけ夫に触れることがないようにと、なるべく寝台の端の方に丸まろうともぞもぞと蠢いていたところ――不意に夫が腕を伸ばしてウィルヘルミナの身体を抱き寄せてきた。
「お前が自身を無力と考えているなら誤りだ。俺の王位はお前から与えられたものなのだぞ」
「え……?」
お互いに寝台に横たわってのこと、全身が触れ合う温もりに血が熱く鼓動が早くなるのを感じ、そして夫の言葉によって更にウィルヘルミナの心臓は跳ねる。夫は自ら戦って王位を手にしたはずではなかったのか。イシュテンの王位は男たちが力を競った果てに勝ち取るもの。女のウィルヘルミナが関与する余地などないはずなのに。
「ティゼンハロム侯爵家の力を、上の兄たちも求めていた。そしてリカードは未来の王の祖父たることを。同盟の証としてお前は王妃になるはずだったのだ。……リカードにとっては、婿は誰でも同じだったからな」
ウィルヘルミナの髪を梳き背を撫でながら、夫はあくまでも優しく穏やかに囁いた。愚かな妻にも分かるように、辛抱強く語り掛けてくれているのだ。
言われれば確かに思い当たることがある。夫に初めて出会ったあの頃、ウィルヘルミナは父に言われるまま王子たちやその母たちとの席に招かれていたことがあった。もう十年以上も前のこと、それもとうに戦馬の神の常緑の草原に召された人たちだから、さほど記憶が残っている訳ではないけれど。ただ、「王子様」に会えるということそれだけに、当時マリカと呼ばれていた娘は胸をときめかせていた。エルジェーベトがその度に髪や衣装に趣向を凝らしてくれるのも嬉しくて――
「あ……私が、ファルカス様に……その、恋してしまったから……」
灯りを消した暗がりの中でのことで良かった、と思った。明るいところで見られたら、耳まで真っ赤になってしまっていたに違いないから。
十代の少女だった頃のこと、あの頃のときめきを思い出すと、年甲斐がないと思えて恥ずかしくてならなかった。それでも、夫との出会いはウィルヘルミナの人生でもっとも輝いた瞬間のひとつ。高鳴る鼓動も胸にこみ上げる甘い思いも大切にしたいから、折に触れて自分の心の中だけで繰り返し大事に味わってきた――その思いは、今このような状況になっても変わらない。
でも、夫に言われて初めて、その大切な思い出に翳りを見つけてしまった。ウィルヘルミナは恋した人と結ばれることができた、父もそれを認めてくれたと思っていたのだけれど。彼女の結婚は、本当にそのように幸せなものだったのだろうか。
「だからお父様は……ザルカン様やオロスラーン様、他の王子様たちは……」
王位を巡っての内乱の時、父が夫を助けたのは当然のことだと信じてきた。娘との縁はもちろんのこと、イシュテンの王は誰よりも強くなくてはいけないと言われたから。夫は明らかに他の王子たちよりも秀でていて、だからこそ父を始めとする諸侯が従ったのだと。でも、父は彼女を王妃にするためだけ、自身の野心のためだけに王を決めたというのだろうか。
――そんな、恐ろしくて……傲慢な……。
ウィルヘルミナが震えたのは夜の涼気のためではなかったけれど、夫は一層強く優しく抱きしめてくれた。囁く言葉も、きっと彼女を慰めるために。やっと気づかされた自身の選択の重さに、ウィルヘルミナの身体は硬く強張ってしまっていたから。
「結果は変わらなかったのかもしれぬ。どちらが王になっても兄王子たちは俺を警戒しただろうし、俺も難癖をつけられて殺されるつもりは毛頭なかった。――だが、力及ばず斃れる可能性もそれなりにあったな。だから俺がこうして王を名乗ることができているのはお前のお陰だ」
「私の……」
――私の、せいで……。
夫が言おうとしているのは、ウィルヘルミナにも手柄、のようなものがあったということなのだろうか。だからシャスティエに対して引け目を感じることがないとでも言うのだろうか。夫を王位に就けたのは他ならぬ自分自身の想いなのだと誇ることができれば――そんなことができれば、どんなに良いだろう。
実際には、ウィルヘルミナの心を揺らしたのは誇らしさではなく恐怖だった。彼女の無邪気な恋心が国を動かし争いを呼び、多くの人の命を奪ったのだと、考えるだけでも恐ろしい。
「俺はいずれの妻からも受け取ってばかり、奪うばかりだ。夫として至らぬのは俺の方……だからお前が気に病む必要はない」
そう続けた夫の声には苦々しさが満ちていた。夫は夫で心に抱えるものがあるのだろうか。灯りを消した暗闇の中、妻だけには聞かせてくれているということなら、ほんの少しだけ嬉しくもあった。
彼女自身も腕を伸ばして夫を抱きしめる。固く、強く。欲望を覚えたからというよりは、多分慰めたいと思ったから。夫から弱音に似たことを聞いたのは初めてだった。それも、彼女と同じように伴侶に対しての負い目を持っていたなんて。
夫を腕の中に抱きしめながら、それでも、ウィルヘルミナの想いは彼だけに向けられてはいなかった。抱きしめた温もりを愛しく思うのと同時に――それ以上に、胸を刺す一筋の恐怖から気を逸らすことがどうしてもできなかったのだ。
――私はどれだけの時間を無駄にしてしまったのかしら。
魂が擦り減るほどに思い悩んだと思っていても、ウィルヘルミナはまだ父と夫の間とのことだとどこかで考えていたのではないだろうか。愛する人たちが争うことに心を痛めはしても、根本の原因が自分にあるとは今まで考えもしなかった。アンドラーシが時に見せる皮肉な表情の理由も、今ならよく分かる。ウィルヘルミナの選択が全ての元にあるのに、何も知らない顔をしていたのだから。
何も知らないとはどういうことか、彼女は今こそ思い知った気がした。何も知らないままで国を動かしてしまったことが怖い。父が野望のために彼女を利用しようとしていたことが悲しい。それでも彼女を妻として扱ってくれる夫がなおのこと愛しい。――いずれの感情も余りに強く激しく胸に渦巻いて、息をするのも苦しいほど。そして、渦巻いた思いはひとつの考えへと導かれていく。
――私は、やっぱりいない方が良い……!?
どきどきと高鳴る胸が夫の眠りを妨げることがないように、ウィルヘルミナは懸命に乱れる呼吸を押さえようと努めた。