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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
18. 傾国
201/347

異国への帰還 アレクサンドル

 ミリアールトの大地は既に雪でうっすらと白く染まっている。とはいえまだ太陽が完全に地の下に沈む冬にはしばらく間がある。雪が溶けては少し厚く積もるのを繰り返して、次第に本当の冬が訪れるのだ。

 何十回と見てきた季節の移ろいを、この年は見ずに祖国を離れるのは、アレクサンドルの老齢を考えれば僥倖なのかもしれない。だが、今のミリアールトの状況を思うと、イシュテン人の総督に後を任せるのは果たして良策なのかどうか――出発のこの瞬間になっても彼には自信がなかった。彼の女王が不安を訴えているというイシュテン王からの書状も見過ごすことはできなかったけれど、もしもミリアールトがイシュテンに対してまた乱を起こすようなことがあれば、女王もその御子も等しく危険に晒されるのだから。




 もう二年近くも前、アレクサンドル自身が起こした乱の後にイシュテンに赴いた際は、挨拶をすべき者、逆に女王を彼に託すと激励をしに訪ねて来た者も多かった。だが、今回の旅立ちに際して彼が特に会ったのはイシュテンの者だけだった。つまり、王から征服したミリアールトを統治すべく総督に任じられた、エルマーという男だ。そして訪ねたのは、かつて王宮であったところ。もちろん今のミリアールトに王族は既にいないから、王宮といっても高貴な方々の御座所ではなく、単に統治のための人員と機能が集められた場所に過ぎない。


「冬の前に発たれるとは、羨ましい限りですな」


 典型的に想像されるイシュテン人らしく、よく言えば豪放、悪く言えば無神経な男はまだ若い。だからアレクサンドルの内心の懊悩など想像もつかないようで、ただ厳しい冬を味わわないで済む彼のことを羨んでいる。ミリアールトの臣下や民の恨みにも気づいていないような大らかさは、アレクサンドルの方こそ羨ましい限りだった。あのアンドラーシやジュラと同様、王の側近とはいえ――あるいはだからこそ、なのか――名門の出身という訳ではないと聞いた。なのにかつては王族に近しい者しか立ち入れなかった部屋や建物を仕事場にしているのにそれほど気にしていない様子、ある意味大物なのかもしれなかった。


「ミリアールトの冬は初めてではないかと思うが。まだ慣れられぬか」

「これで三度目になりますか。とはいえ最初の年は、総督を拝命した時には冬はもう終わりかけていましたからな――ひと冬まるまる過ごしたのは昨年が初めてのことでした」


 最初の年、とはつまりアレクサンドルが真冬に挙兵し、シャスティエの説得によって剣を収めた時のことだ。あの時は今一歩で殺し合いをするところだった相手だというのに、今はお互いにそれなりの敬意を持って接することができている。エルマーの声に過去を懐かしむ感慨のような響きが滲んでいる気がするのは、この男も数奇な縁に思いを馳せるようなことがあるからだろうか。


「共に冬を越えた以上は、ミリアールトの者たちの目も変わっているだろう」

「そう願いたいものですな」


 共に冬を乗り越えた者は友であり仲間である、とはミリアールトで古くから言われることだ。それだけこの国の冬は厳しいということでもあり、その格言に倣えばエルマーは既にミリアールトの者に受け入れられていると言えるはずなのだが。――だが、決してそうではないことを、彼らはよく承知している。

 ミリアールト語の公での使用を禁止するというイシュテン王の命は、それだけこの国の民に不信を植え付け侵略者への憎悪を新たにさせているのだ。


 当初は禁止令の重要性を理解していなかったらしいエルマーたちも、最近ではさすがに彼らに向けられる目の厳しさに気付き始めているようだ。あるいは、アレクサンドルのこめかみに今も残る、石をぶつけられた傷によって思い知らされたのかもしれない。ミリアールトの民がミリアールトの者に石を投げたということ、彼が無理もないこととして流そうとしたこと、いずれもイシュテンの者にとってはひどく驚くべきことだったらしい。


 ――何と浅はかな……だが、気付いただけまだマシというものか……。


 生まれや身分に関係なく、貶められ誇りを踏みにじられたと思えば人は敵意や憎しみを抱くものだ。言葉が誇りとはイシュテンの者には分かりづらかったのかもしれないが、気付いてくれたならこの先はミリアールトの者に接するのも多少は慎重になるだろう。


「……陛下がリカードを討たれる日も近いとか。その戦いに加われないのは遺憾ではありますが――せめて、ミリアールトが陛下の妨げにならぬように治めることといたしましょう」


 その証拠に、エルマーの言葉から窺えるのは若者らしい驕りではなく、静かな――しかし確かな決意だった。この様子ならば、老人の忠告も受け入れてもらえるだろうと信じることができる。だからアレクサンドルは思いつく限りのことを伝えた。雪の(コロレファ)女王(・シュネガ)がどのように信仰されているか、妨げてはならない祭事はどのようなものがあるか、決してしてはならない言い回しは――等々。そのひとつひとつにエルマーが頷き、時に質問を返したり書き留めたりするのが嬉しかった。


 本来ならば冬の間中、時間を掛けて付き添って教えてやりたかったことではあるが。最初の総督のジュラの時といい、後進を育てる機会がないのはまことに惜しいことだった。彼がまたミリアールトに戻れるか分からないと思えばなおのこと、心から信頼できる統治者に祖国を任せることができないのが悔やまれる。


 そして最後に伝えるのはやはり最も重要なこと、近づく戦乱を見据えての忠告だ。


「シグリーン公爵夫人への警戒を怠らぬことだ。あの方こそ今のミリアールトで最も高位にある女性……あの方のお言葉ひとつで諸侯は従いも逆らいもするだろう」

「クリャースタ様の叔母君ですね。クリャースタ様に似て……と言っては順序が逆ですが、とにかく気丈な方とお見受けしました」


 正確に言えば、公爵夫人とシャスティエの間に直接の血の繋がりはない。が、先の王妃が早逝した後、王女の養育に主に当たった人であることに間違いはないから、アレクサンドルは敢えて訂正することはしなかった。それに、あの貴婦人が持ち得る影響力を前に、その程度の錯誤は些細なことだ。


「あの方はイシュテンにご夫君とご子息らを奪われたと思っておられる。そしてただひとり残ったクリャースタ様までも虜囚の憂き目にあっていると。今は抑えてくださっているが、対応次第で憎しみが理性を上回ることがあるかもしれぬ」

「あの方々も納得の上のことだったのですが。また無駄に乱を起こすことこそ御遺志を蔑ろにすることになるでしょうに」


 わずかに顔を顰めて言い放ったエルマーの傲慢なこと、公爵夫人がこの場にいなかったのは幸いというほかない。が、アレクサンドルには若者を強く咎めることもできなかった。


 彼は既に、かの女性に対して対応を誤っているのだから。


「そこは女人ゆえ、としか言えぬな。愛する夫と息子を不意に奪われることなど覚悟していらっしゃらなかったのだ」


 比較的平穏だったミリアールトでのこととはいえ、アレクサンドルは長く戦いに身を置いてきた。その中で友を喪うこと、その痛みと悲しみに慣れてきたし、更にそれをある程度割り切る術を学んできた。喪われた命を悼むことを決して忘れる訳ではないが、彼が立ち止まり剣を鈍らせ、そのために祖国や彼自身を損なうことこそ、雪の女王の御許に召された者たちは憂い憤ると思うからだ。


 だがシグリーン公爵夫人は違う。無論、夫君の公爵も公子らも、いざと言う時には国のために命を捨てることを承知していたのだろうし、夫人も理解はしていたのだろうが。だが、何もかもあまりに突然だった。更にいうなら、アレクサンドルにとっては公人の死でも、夫人にとっては家族の死、割り切るのも忘れるのも数段難しいということを慮るべきだった。


 ――シャスティエ様も。あの方にとっては女王というより姪だったのだな……。


 それだけ近しく愛しく思っていたということでもあるし、夫や息子には及ばない存在だったとも言える。公爵らが存命だったなら、夫人もシャスティエを何よりも優先してくれたのかもしれないが、そのような仮定はもはや意味がない。臣下として主君のことを第一に考えるのは当然――とアレクサンドルは考えていたが、夫人には姪が夫や息子の遺志や恩義を忘れたように見えたのだろう。


「確かに、女は心弱いものですからな」


 訳知り顔で頷いたエルマーの態度は、これまた公爵夫人やシャスティエの怒りを買いそうなものだったが、アレクサンドルは心を波立たせる苛立ちに蓋をした。彼にエルマーに対して憤る資格などないのだ。シャスティエを誇り高く強い女王と信じたこと――これもまた、彼の過ちだったのだから。

 最後に会ったシャスティエは、戸惑う幼い母親に過ぎなかった。アレクサンドルがミリアールトの復讐を託した氷の女王などでは全くなく、弱い命を抱えて、芽生えてしまった情を扱いかねて。その情とは、恐らくフェリツィア王女に対するものだけではないのだろう。復讐などと名乗りさえしなければ、あの方も怒りや憎しみを忘れることができたかもしれないのに。幸福(シャスティエ)という元の名前の通りに、憂いなく我が子を慈しむことができたかもしれないのに。

 そしてできることなら、夫となった男にも心を許すことができたなら。そんな姿を見ることができていたなら、たとえ逆臣の汚名を着ようと、思い残すことなく雪の女王の氷の宮殿に旅立つことができただろうに。


 そうならなかったのは――シグリーン公爵夫人が(なじ)った通り、復讐を(クリャースタ)誓う(・メーシェ)などという婚家名を許した……否、より積極的に、イシュテンの歴史にミリアールトの恨みを刻んで欲しいと願ってしまったアレクサンドルのせいだ。


 ――とはいえ、時間を巻き戻すことなどできぬ……。


 今となっては、できるのは未来を信じることだけだ。イシュテン王がティゼンハロム侯爵に勝利すれば。ミリアールトの怒りと憎しみが時と共に和らげば。まだ、シャスティエが幸せになる道も残されているかもしれない。そのためならイシュテンの若者に忠告を与えるくらいは何でもない。


「そう。だからくれぐれも丁重に扱って差し上げるように」

「不調法者ではありますが、精いっぱい注意することにいたしましょう。――すると、クリャースタ様の例の噂もお耳に入れない方が良いのですね。まあ、元々聞かせる気もありませんが……」

「……その方が良いだろうな」


 エルマーが仄めかした()こそ、アレクサンドルがミリアールトを放ってイシュテンへ――このような言い方はまことに不思議でおかしいと思うのだが――()()ことを決めた理由だった。


 シャスティエのみならず王の側近のアンドラーシをも巻き込み、フェリツィア王女の出自さえ疑われかねない醜聞。ティゼンハロム侯爵がそこまで卑怯な手段に訴えていること自体も恐ろしいが、シャスティエが憤るより先に王女の無事と未来を憂えて塞ぎ込んでいるということが何よりも信じがたく、また放っておけない。イシュテン王も、侯爵を討たない限り側妃の不安を絶てないと分かっているのだろう、事情を説明する筆致から渋面が見えるようだった。


 ――公爵夫人が聞けば……シャスティエ様への侮辱を捨て置けないと思うだろうな……。


 イシュテン王が側妃の婚家名の意味を知ったと公爵夫人に打ち明けてから、ミリアールトの諸侯の反発は――少なくとも表向きは――幾らか和らいだように思う。復讐という名の意味が広く知られればシャスティエの身に危険が及ぶからと、夫人が広めてくれたのだろう。だから、彼女の姪への情は完全にはなくなっていないということだ。男の、そして年老いたアレクサンドルにも、シャスティエにかけられた疑いがあり得ないものだとは分かるが、肉親の女性ならば一層許しがたく感じるだろう。


 アレクサンドルらが先に乱を起こしたのと同じ構図がまた起きるのが怖かった。あの時、彼らはシャスティエがイシュテンの無軌道な若者に汚されたと聞いて挙兵したのだ。女王を守るというイシュテン王の誓いが守られないならば、せめて誇り高い死を持ってミリアールトの終焉としようとしたのだ。結局あれはシャスティエへの邪な妄想を膨らませた先の総督の作りごとに過ぎなかったが――ミリアールトに居ては、ことの真偽は分からないのだ。それに、こと若い女性に対してのこと、醜聞が蔓延るのを許したというだけで、夫人がイシュテン王に一層の怒りと憎しみを抱いたとしてもおかしくはない。


「ミリアールトの者には、陛下はクリャースタ様もフェリツィア様も愛しんでいらっしゃると伝えましょう。少なくとも、そこは嘘ではありませんし」

「そうだな。頼む」


 ――イシュテン王が……シャスティエ様を愛している、か……。


 かつてのアレクサンドルならば、おぞましいと思った考えだろう。だが、今やシャスティエと王が寄り添う姿を思い描いた時に感じるのは仄かな希望のような温かさだった。復讐という婚家名の意味を知ってなお、王はシャスティエを責めようとしなかった。王女を慈しむシャスティエの穏やかな美しさが王にそうさせたのだろう。王女の存在がふたりの絆となれば良い。ミリアールトの血を引くイシュテン王という結果が同じなら、シャスティエの心のありようは何も憎しみに捕らわれたままでなくても良いはずだ。


 ――ティゼンハロム侯爵を斃す……ミリアールトへの政策も和らげ、支持を得る……そして、シャスティエ様が男児を授かったなら……。


 道のりのひとつひとつは不確かで、まだどうなるかは分からない。だが、わずかでも可能性があるならアレクサンドルはそれに賭けたかった。復讐という甘美な――だが愚かな夢に酔って女王に道を誤らせてしまった彼の、せめてもの償いになれば良い。そのためならば、老い先短い身を惜しんではならない。


「それでは――ご武運を」

「お互いにな」


 最後に短く挨拶を交わすと、アレクサンドルは()王宮を辞した。屋外へと出れば、空はどんよりと鉛色をして、雪の欠片が白く風に舞っている。薄暗く寒々しい、ミリアールトの晩秋の景色だった。


「――旅には向かない季節でございますね」

「イシュテンの冬はミリアールトよりも過ごしやすかろう。むしろ僥倖と考えれば良い」


 老いぼれの身を案じたのか、それとも単に自身が嫌だというのか、従者の呟きにアレクサンドルは軽く笑ってみせた。イシュテンで待ち受けているであろう戦いに目を瞑れば、冬を南方で過ごすことができるのは悪くない。

 それに、何よりもかの地には彼の女王がいる。二度と会わない覚悟で別れた方に、また会うことができるのだ。


 ――またシャスティエ様とフェリツィア様にお目通りが叶うとは。喜ばしいことではないか。


 彼の命はもういつどこで果てても惜しくはない。だが、最期の時を迎えるのが敬愛する女王の傍であるならば。それ以上の幸せはないのだろう。


 旅立ちの用意は既に済ませている。女王を守り、イシュテン王に加勢するはずの一軍を率いて、アレクサンドルは一路南を目指して出立した。

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