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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
18. 傾国
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血の選択 シャスティエ

 乳母の子を抱かせてもらうと、フェリツィアよりも少しだけ早く生まれただけあってその分重く、髪や瞳の色も娘とは違ってイシュテン人らしい黒に近い濃い色だった。それに、シャスティエの腕の中でも瞳を煌かせて楽しそうに笑っているのも、人見知りを始めた娘と違うところだった。


「お母様でなくても泣かないのね。良い子だわ」

「クリャースタ様はお美しくて優しい方ですもの。赤子といえども分かるのですわ」

「まあ、女の子なのに……」


 卒なく主をおだててくる乳母の口ぶりは大げさだとは思うけれど、それで赤子の愛らしさが変わる訳でもない。母になって以来、我が子だけでなく他の女の子まで愛しく思うようになった自身の変化は、シャスティエにも信じがたいことだった。


「名前は? 何というの」

「はい、ジョフィア……知恵、と……」

「良い名前ね」

「恐れ入ります。婚家名を頂く前の私の名から取りました」

「そうなの。――私もなの。ミリアールトでの私の名前も、幸福という意味だったわ……」


 ここ黒松館に住まいを移してから、このように使用人と他愛のない会話をすることも増えた。これまで特別気取っていたというつもりはないけれど、多くの者が出入りする王宮ではなくひとつの館に皆して起居していることで、主従の距離も縮まったような気がしている。数か月に渡って娘を任せていた女だというのに、その子からは母を奪ってしまっていたというのに、シャスティエはずっと名前を聞くことさえ思いついていなかった。それは多分恥ずべきことだ。


 ――色々なことがあったからでも、あるけど……。


 血を分けた娘という存在そのものに、次いで図らずも目覚めてしまった愛に戸惑って。そして愛はすぐに恐怖と不安を呼んで。グニェーフ伯もミリアールトに去ったし、マリカ王女の犬のこともあった。それに何よりも――


 ――レフ。今、どこで何をしているのかしら。


 王宮から出ることで逃げたかったのは、犬を殺した犯人からだけではない。ティゼンハロム侯爵と――王の敵と組んで、王宮にまで忍び込んできた従弟とまた対峙するのが怖かったからでもある。よく知っていたはずの肉親の、見たことのないぎらついた目つき。彼が仄めかしたミリアールトの情勢。不意に抱き寄せられた腕の力強さ。どれも思い出すだけで季節に合わない寒気を覚えさせる。王の直轄領であるここならば、ティゼンハロム侯爵も手を出しづらいとは思うけれど、その分次は何を企んでくるのだろう。


 最近ではいつも考えていることにまた囚われていると、シャスティエは赤子のぐずる声で我に返った。腕に抱いているジョフィアではなく、フェリツィアの声だ。娘の声を聴き間違えるなど母親には、あり得ない。

 はっとして顔を上げると、果たしてグルーシャがフェリツィアを揺すってはしきりに小さな声で宥めていた。母を他の赤子に取られているのに気づいてしまったのだろうか。


「おしめでもないようですし……フェリツィア様はお腹が空かれたようですね」


 シャスティエの目線に気付いたのか、グルーシャは赤子から顔を上げると少し苦笑してみせた。この娘についても、結婚したばかりだというのに不名誉な噂に巻き込んで、しかも夫と引き離すことになってしまった。なのに今までと変わらずシャスティエにもフェリツィアにも優しく細やかに接してくれるのが申し訳なくてならない。


「ええ、私があげましょう」


 ジョフィアを実母に返すと、シャスティエはフェリツィアの方へと手を伸ばした。娘が泣いている理由が、空腹なだけではないのは分かっている。マリカ王女の犬の事件があって以来、シャスティエは寝る時以外のほとんどの時間、娘を手放せなくなってしまっていた。もちろん腕の力にも限りはあるから、必ず抱いていたということでもないけれど。その状態に慣れさせてしまったからだろう、今ではフェリツィアは母以外の者の腕を嫌がるようになってしまった。

 さすがにシャスティエの疲れを慮った侍女たちが、気晴らしにジョフィアと遊ばせようとしてくれたのだけど――娘を泣かせていては、心を休めることもできはしない。フェリツィアを抱いて、泣き止ませようと思ったのだけど――


「クリャースタ様はお休みくださいませ。フェリツィア様は、母君様以外の者からも召し上がっていただけるようにならなくては」

「……でも」


 フェリツィアとの間にイリーナが立ちはだかり、にこやかな笑顔で制してくる。フェリツィアは少しずつ離乳を始めたところだけれど、ジョフィアと比べると――数か月の歳の差を考えても――明らかに食が細い。シャスティエが与えればまだ食いつきは良いけれど、この先の成長を思えば母は特別なのだと得意に思っている場合ではないのは分かっている。だからといって簡単にぐずる娘を他人に任せる気にもなれないからもどかしい。憂い顔のシャスティエに、でも、侍女たちは明るく請け負ってくれる。


「母君様にもしものことがあれば、フェリツィア様がお気の毒ですわ」

「ええ、ですから私共にお任せくださいませ」

「クリャースタ様はこちらへ。たまにはごゆるりと過ごしてくださいませ」


 グルーシャはフェリツィアを抱えて離さず、乳母も、年配のツィーラも有無を言わせぬ笑顔でシャスティエと娘との間に壁を作っている。更にイリーナに手を引かれるように別室へと導かれるに至って、シャスティエは侍女たちが初めからこうするつもりだったのだと気づいた。


「貴女たち……」

「クリャースタ様のお身体も心配なのですもの。どうか――」


 言いたいことはあったけれど、イリーナの若草色の目に浮かぶ心配の色には偽りがないと見えた。だから、後ろ髪を引かれる思いはあったけれど、シャスティエは娘を乳母たちに預け、イリーナを従えてフェリツィアの傍を離れた。




「シャスティエ様はまた痩せてしまわれたのですもの。せっかくのどかなところに移ったというのに……」


 茶器を並べながら、イリーナはミリアールト語で話しかけてきた。ふたりきりでのことだから単に故郷の言葉が懐かしくて、ということかもしれないが、シャスティエはもっと不穏な可能性を考えてしまう。――この侍女は、イシュテンの者には聞かれたくない話をしようとしているのではないか。


「ジョフィアはおとなしくて人懐こくて良い子ね……大きくなってもフェリツィアに仕えてくれると良いのだけど。私と貴女のように」


 胸に芽生えた不安を無視して、それにイリーナの狙いには気づかない振りをして。シャスティエはわざと呑気なことを口にしてみた。シャスティエの乳母はイリーナの母ということではなかったけれど、同い年で信頼できる者の娘ということで、イリーナはごく幼い頃からシャスティエの遊び相手を務めてくれていたのだ。フェリツィアにもそのような存在がいて欲しい、と――母としては当然望むところだった。もちろん、今はまだそんな穏やかな未来が来るかどうかは分からないのだけど。


「はい。ミリアールトが懐かしいですわね」


 わざとらしく話題を変えたのには気づいただろうに、イリーナは咎めることもなく頷いてくれた。どこか遠くを見るように細められた目に映るのは、シャスティエが思い描いているのと同じ、故郷ミリアールトの景色のはずだ。だが、安堵したのも束の間のこと、幼馴染の娘はすぐに居住まいを正してシャスティエを見据えてきた。


「……王太子様も、公子様たちも。大変良くしていただきましたから……」

「イリーナ」


 ミリアールト語を使っていてさえ、低く潜められた声で紡がれた人たちは、シャスティエにとって忘れることのできない大切な人、血を分けた肉親たちだった。でも、ただの思い出話だなどと思うことはできない。だって、とうに殺されてしまったはずの彼らのうち、ひとりは確かに生きていてつい先日シャスティエの目の前に現れたのだから。


「あのね……」

「レフ。あの子のことを気に懸けて、そんなに塞いでいらっしゃるのですね……?」


 何か――彼女自身にも何を言おうとしているのか分からなかったけれど――言い訳をしようとしたのを遮られて、シャスティエは俯く。侍女の眼差しと向き合うのから逃げるようにふと思ったのは、イリーナはレフのことをあの子、と呼ぶのか、という感慨だった。

 王族に連なる子供の中では一番年下だったから、誰しも自然とレフを末っ子として扱っていたのだ。シャスティエと同い年で、つまりはレフともそう歳の変わらないイリーナでさえもそうだということだ。最も新しい記憶だと、彼も立派な男になっていて、あの子、などと呼ぶのは似合わなくなっていたけれど。否、シャスティエが気づかなかっただけで、彼はとうに大人になっていたのだろうか。


 とにかく、この間身が細る思いをしていたのはシャスティエだけではなかったということだ。レフと親しかったのはイリーナも同じ、彼が何を言っていたか、もっと早く伝えていなければならなかった。


「イリーナ、あの、言わなければいけないと思ってはいたのだけど――」

「シャスティエ様。きっとお怒りになることは分かっています。でも、どうか聞いてくださいませ」


 気まずく視線を泳がせながらも口を開こうとして――でも、また遮られてしまう。沸かした湯を茶器に注いだままで、イリーナはシャスティエの膝元に跪き、真摯な目で見上げてきた。その真っ直ぐな目には、頷かざるを得ないと思わせる。


「……何なの」


 そしてシャスティエが聞く姿勢を見せてなお、イリーナはなおもしばらく躊躇う気配を見せた。シャスティエは辛抱強く待ち――イリーナが次に口を開いた時に、侍女の躊躇の理由を知った。


「レフのこと……王に伝えるべきだと思います」

「そんな。なんで!?」


 思わず腰を浮かそうとするけれど、縋るように手を握りしめてくるイリーナに妨げられる。手の甲に食い込む指の力に、涙の浮かんだ目に、イリーナも好き好んで言っているのではないと分かる。でも――


「申し訳ありません。……でも、後で王に知れた時のことが恐ろしいのです。シャスティエ様が疑われるようなことがあったら、と思うと……」

「でも、王はレフを見逃してなんかくれない……!」


 イリーナの進言は、シャスティエの最後の肉親に死ねと言っているのも同然だ。レフがティゼンハロム侯爵や、あまつさえブレンクラーレとまで通じているのが重大事であると承知していてなお、シャスティエが誰にも、イリーナにさえも言えないでいたのはそのためだ。だからイリーナが知っているのはレフが生きていた、シャスティエに会いに来たということだけ。彼との思い出を語ったその口で、どうして彼を見捨てるようなことを言えるのだろう。


 信じられないという思いと、少しの非難を込めてイリーナを見下ろしても、若草色の目が揺らぐことはなかった。ただ、そこには深い悲しみがあるだけ。イリーナもよくよく考えた上での言葉なのだろうと、分かってしまう。


「レフは何と言っていたのですか? シャスティエ様を必ず助け出すと言っていたのでは? 説得できると、聞き入れてくれるとお考えなのですか……?」

「それは……」

「彼は何を言っても聞いてくれないと思います。絶対に諦めないでシャスティエ様の元へ来るはず。でも、それで王に疑われたりしたら……ご自身も、ミリアールトも……フェリツィア様も。どうなることか……」


 イリーナの問いに何ひとつ確かな答えを返せないまま、疑い、のひと言がシャスティエの胸に深く突き刺さった。


 ――王は信じてくれるのかしら……。


 先の不貞の噂を王が取り合わなかったのは、相手がアンドラーシだからということもあるだろう。王の忠臣で、妻ともどもシャスティエに対しても忠誠を誓っている。それに、王宮の奥に守られていた側妃が不貞などと、実際上も考えづらい。でも、王の目を離れたこの館で、ミリアールトの王族の生き残りと会っていたのが知られたらどうなるだろう。不貞とは思わなくても、ミリアールトに叛意ありと見做されるには十分な()()になってしまうのだろうか。否、疑いの余地はない。レフが――ミリアールトの王族がティゼンハロム侯爵やブレンクラーレと通じていながら黙っているのは、王への背信に他ならない。


 ――真っ先に王に言うべきだったの? でも……!


 もしも王が知ったらどうなるか――想像するだけでも恐怖に喉を絞められる思いがした。でも、そうと気づき認めたからといって、従弟の命を諦めるなど簡単にはできはしない。


「レフは、どうしても聞いてくれないかしら……? 私、叔母様のところに戻ってあげてって言ったのに……」

「無理だと思います。彼は……シャスティエ様を愛していますから」


 少しでも心を楽にしてくれる言葉が欲しくてイリーナの手に縋っても、返されるのはさらに鋭く胸に刺さることだけだった。あの新月の夜のレフの目と、突然の抱擁。……認めなければいけないことだとは思うけれど。でも、それはレフは決して諦めないと認めることでもある。


「……そんなこと、知らなかった……」

「みんな知っていました。でも、シャスティエ様が嫁がれるからどうしようもないことだと。……でも、こんなことになるなんて」


 イリーナの震える声が、どこか遠くから聞こえるようだった。こんなこと、というのは何を指して言っているのだろう。ミリアールトがイシュテンに滅ぼされたことか、シャスティエがイシュテン王の側妃になったことか、それとも死んだと思っていたレフが生きていたことか――いずれにしても、今さらどうしようもないことだ。


 ――レフよりも……フェリツィアと、ミリアールトを選ばなければならない……? どれも大切な存在なのに、区別をしなければならないなんて。


 イリーナの進言の正しさは認めざるを得ない。シャスティエの本心がどうあれ、既に王に対して秘密を持ってしまったのは事実なのだ。レフの企みが知られたら、そしてシャスティエも承知のことだと思われたら――王はまたミリアールトを攻めるかもしれないし、フェリツィアもどう扱われるか分からない。


 でも、そのためにレフを見捨てるのかどうか、すぐに決めることはできなかった。もちろん、どこかから漏れるよりは自分から言ってしまった方がずっと良いのだろうけれど。答えを求めるように見上げてくるイリーナから目を逸らすと、シャスティエは逃げるように立ち上がった。


「……もうすぐ小父様がミリアールトから戻られるわ。そうしたらご相談申し上げてみましょう。私からは無理でも、小父様ならもしかしたら……」

「……はい」


 多分、問題を先送りにしただけだというのは彼女自身よく分かっていたけれど。そもそもレフがどこにいるのかも分からないし、あの夜のあの様子からして、グニェーフ伯にレフの取りなしをしてもらえるとは期待できない。イリーナが言うように、どうしてもレフが王の敵に回り、それによってシャスティエの復讐を妨げるというのなら――覚悟を、決めなければならないのだろうか。


 ――でも、もう遅くはないの……!? 今から打ち明けたとして……王はどう思うの……!?


 まだ冬には遠い季節だというのに、シャスティエは突然身を切るような寒さを感じた。肌を震わせるこの感覚は、恐怖なのだろうか。レフを見捨てることへなのか、フェリツィアに危険が及ぶことへか、それとも王の怒りを買うことに対してだろうか。


 話をしている間、茶器には湯が入ったままだったので茶葉はすっかり開き切ってしまっていた。淹れ直すというイリーナを制して出させた茶は色も濃く、香りも強すぎて――でも、口にしても何の味がしないのが不思議だった。

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