負い目 ファルカス
王の執務室を訪れたアンドラーシを、ファルカスは目を細めて警戒した。
例の狩りの顛末は、広く知れ渡っているらしい。
バカ共を辺境に押し込むためには各方面に手続きが必要であり、理由を問われた時に彼はわざわざ隠すことはしなかった。懲罰として恥を与えようというのだから、むしろ広まってもらわなくては困るのだ。
そもそも本人たちが元王女を褒美にもらうのだと吹聴していたこともある。事前の噂と異なる結果になったとなれば、詳細を知りたがる者も多いだろう。かくしてティゼンハロム家は、暫時嘲笑の的となっている。彼の溜飲を下げるには足りないが、リカードも最近機嫌が悪い。
当然アンドラーシも一通りのことは知っているはずで、わざわざ彼を訪れる用件は絞られる。おそらく楽しい話題ではない。
「何の用だ」
くだらない話なら聞かぬ、と言外に込めて書類に視線を戻す。王の仕事は瑣末なものも多いとはいえ、署名は彼のものでなければならないのだ。無駄話に付き合う暇はない。
「例の姫君のことで――」
「帰れ」
中でも元王女のことは彼が最も聞きたくないことだった。署名しながら淡々と告げると、苦笑の気配が伝わってくる。
「今日はうるさいことは申しません。見ていただきたいものがあるのです」
一体何だ、と初めて顔を上げると、アンドラーシは何やら書面を捧げ持っていた。無言で受け取り目を通し――ファルカスは鼻を鳴らした。
「何だ、これは」
「文書院の長への礼状です。あの方の依頼で本を取り寄せさせたので、感謝を伝えたいとのことで――後後あらぬ疑いを招くのは嫌なので好きに内容を改めて良いとのことでした」
聞きながら、書面を流し読む。
手紙というより論文と呼ぶべき内容だった。書かれていることの妥当性を判じる知識は彼にはないし、暗号を仕込むことも不可能ではないだろう。しかし、文書院の長はいかにも本の虫といった無害な老人のはず。間諜の真似事に手を染める可能性は極めて低い。
「好きにさせろ」
問題ないと判断して手紙をアンドラーシに返し――彼がそれを持っていることの前提に思い至って、ファルカスは眉を寄せた。
「あの女はお前に会ったのか」
追い回されて犯されそうになった記憶も新しいだろうに、のこのこと男に会いに行ったのか。押し倒されながらも相手を冷たく睨め上げていた元王女の姿を思い出すと、何となく苛立ちを覚えた。
――自分が何をされていたのか分かっていないのではないだろうな。
アンドラーシも彼と同じ不審を抱いていたようで、首を傾げつつ頷いた。
「当分会っていただけないかと思っておりましたが」
「気付かれたのか?」
端的に聞いたのは、側妃の件のことだ。王に捧げる予定の女に手を出すはずがないという点では、この男は誰よりも安全ではあるだ。正面から側妃になれと言っても承服しないだろうから本人には言わないでおくということだったが。そして気付かれた時の元王女の反応は、想像するだに鬱陶しいものなのだが。
しかし、アンドラーシは首を振った。
「そのようなことは仰っていませんでした。……感謝のお言葉ならいただきましたね」
「礼だと?」
アンドラーシは、何か面白いことを思い出したかのように笑った。
「ミリアールトからの途上で、そういう意味で不快な思いをすることがなかったのは私の手回しによるものだろうと、遅まきながら気付いたと仰って。
そう、確かに貞操の危機という発想をあまりお持ちでないのかもしれません」
ファルカスは再び鼻を鳴らした。
王である彼の命にも関わらず、元王女のうんざりさせられるほどの気の強さにも関わらず、彼女に邪心を抱く者は皆無ではなかった。そういった者たちを排除したのは確かにアンドラーシで間違いない。しかし、若い娘が今までその可能性に思い至らなかったとは。あまりに迂闊で愚かで慎みがない。思えば、だからこそあんなにも強気に彼に楯突くことができたのだろうが。
「頭は良いのだろうに肝心なところで抜けている」
アンドラーシの手に戻った手紙を眺めながら呟く。
美貌や教養など後回しで良い。危機感というか恥じらいというか、もっと女として常識的なものを持ち合わせた娘であれば、まだ守りやすかっただろうに。
「私に礼を言うくらいなら陛下に、とお伝えしたのですが。会って差し上げないのですか?」
――結局そちらに持っていくか。
踏み込んだことを言ってきた臣下に、ファルカスはあえて穏やかに告げた。
「うるさいことは言わないのではなかったか? もう下がって良いぞ」
「ご機嫌が優れないご様子でございますね」
「機嫌が良い訳があるか」
大人しく従わない臣下にファルカスは唸った。今回の件で最も恥をかいたのはリカードだが、彼にも影響がないということではない。結局のところ臣下のしでかした不始末はそのまま彼の不名誉になるのだから。
更にミリアールトの総督の人事に口出しされたのも不愉快でならない。占領地を掌握し、同時に腹心の経歴に箔をつけるつもりであったのが、実質上の反逆者の左遷先にされたのだ。リカードのことだからミリアールトが荒れるのを期待しているに違いない。あの老獪な野心家は、自身にとっての奇禍さえ王の勢いを削ぐのに利用しようとしているのだ。
――老いぼれが。先のことなど考えていないのだな。
イシュテンの国土は肥沃な平野を誇るが資源は乏しい。先祖がこの地に定住を決めたのは、戦馬の神が死者を待つという常緑の草原を思わせる景色に心惹かれたからだろうから無理もないし理解できる。ファルカスも自身の領土に対して愛着と誇りを持っている。
だが、それとは別に、国として強くなるためには国の中でいつまでも争っていて良い筈がない。更には他国を攻めるにしても奪うだけでは足りはしない。戦馬の神の民の幾らかが地を耕し家畜を追うことを覚えたように、王も国を育てることを考えるべきだ。ミリアールトの海も鉱山も知識も技術も、イシュテンを富ませるに必要だというのに。
彼と同じことを考えた王は先にもいたに違いない。だが今のところ誰ひとりとして厄介な諸侯を完全に従えるには至っていない。彼も先人と同様に貴族どもに屈するか否か、ミリアールトの戦果を保てるかに掛かっていると言えるだろう。
「――ミリアールトの件は重々お察し申し上げますが。少なくともジュラがお手元に戻るのは喜ばしいことではないでしょうか?」
沈思するファルカスに対するアンドラーシの声には、気遣うような調子があった。
確かにミリアールト総督として残したジュラも彼の腹心。リカードを始めとする大貴族とやり合うのに思い通りになる手駒が一つでも多いに越したことはないのも事実。だが、臣下に哀れむようなことを言われて彼の矜持はひどく傷つけられた。
「そうかもしれないし、そうでないかもしれない。いずれにせよ単純に喜ぶことなどできぬ」
「……左様でございますね。出過ぎたことを申し上げました。お許し下さい」
主君の不機嫌をよく理解したらしく、アンドラーシは一礼すると今度こそ退出した。その足で文書院に向かうのだろうか。ご苦労なことだ、と思う。
「礼だと……?」
再び仕事に戻りながら独りごちる。
アンドラーシに言われるまでもなく、元王女からは王妃づてに会って礼を言いたいとの申し出を受けていた。だが、ファルカスはそれを断っている。
純粋に会いたくない、というのが理由の一つ。
口を開けば生意気なことしか言わないあの娘は、危険から脱したばかりでもよく喚いた。馬上に乗せる際に抱え上げた身体は熱かったし、聞けばその後しばらく寝込んだという。その体調でも言いたいことを言わずにはいられない気性は、彼を心底うんざりさせた。
見かねて説教じみたことを言ったが――柄にもない真似をしたという意味でもまるごと記憶から消したい一幕だった。
さらに王妃やリカードの元に戻った時には、一秒でも早く彼から離れたいと言いたげに、侍女を呼び寄せて馬上から飛び降りた。下敷きになった侍女も気の毒だし、聞けばそれで幾つか痣を増やしたという。まったく何をやっているのか。
そこまで嫌われている相手に――理由は重々思い当たるとはいえ――会いたいなどとは思えない。
そしてもう一つ。より大きな理由は、礼を言われることなどしていない、というものだ。
彼の関知するところではなかったとはいえ、臣下の幾たりかが人質を害そうとしたのは事実。バカを一人斬ったくらいで帳消しにできるものではない。
そのバカが死の直前に晒した醜態といい、元王女から聞かされた言動といい、合わせる顔がないと思わされるのに十分だった。
そもそも元王女が傷を負った時点で厳密には彼女の身を保証するというは誓いを守れていないのだ。その状況で礼などと言われても嫌がらせの一種としか思えない。
――やはり、会う必要はない。
会ったところでお互い苛立つだけ。あの娘にしても本心から会いたい筈もないだろう。
今までと変わらず、王宮深くに閉じ込めて守っておけば良い。ミリアールトの情勢が落ち着けば、国に帰すなり適当な相手に嫁がせるなり見通しも立つだろう。
そう結論づけると、ファルカスは元王女の姿を脳裏から振り払い、仕事に没頭した。