仕える道 ラヨシュ
閃光が目を射った、と思った次の瞬間にラヨシュの手に強い衝撃が走り、構えていた剣は中空へと跳ね飛んでいた。
「――っ」
手に鈍い痛みを認識したのは次の瞬間。アンドラーシに打ち込まれた一撃を、受けることさえできなかった悔しさが湧き上がったのは、更にその後のことだった。
「気を散らすな。もう一度だ」
「はい」
いつもの飄々とした空気もどこへやら、刃を潰した練習用のものとはいえ、剣を持ったアンドラーシの目は鋭く斬りつけられるような気分さえする。遊びではないと、言葉によらず気迫で伝えられているかのよう。
――分かっている……!
そもそも泣き言を言うならすぐに追い出すと、あらかじめ言われていることでもある。多少の痛みに堪えた様子など見せてはならない。ラヨシュは鋭い視線を感じながら、できる限り素早い動きで剣を拾い上げ、また教わった通りに構えた。
「――お願いします」
その後もしばらく打ち合って――というかラヨシュが一方的に打たれて――今日の鍛錬も終わるという時に、剣を鞘に納めながらアンドラーシが呟いた。
「意外と音を上げないものだな」
ラヨシュからすれば手も足も出なかった、という感想しかないのだが、相手の方もそれなりに汗を流していたらしい。襟元を緩めて首筋を拭いながらの言葉だった。
「それは……」
ラヨシュが一瞬答えに迷ったのは、やっぱり虐めて追い出す狙いがってやっているのか、と思ったことがひとつ。そしてよくやっていると褒められているのかと思ってしまったから。だがアンドラーシの口調は不思議そうで、疑問を口に出しただけのようにも聞こえる。だからラヨシュはただ彼にとっての事実だけを述べた。
「王妃様と王女様にお仕えするためですから」
彼の答えを予想していたのかどうか、アンドラーシは皮肉っぽく笑うと軽く肩を竦めた。
「本当にお二方への忠誠だというなら大したものだ。だが、お前は何のために力を得ようとしている? 誰に対して剣を振るおうというのだ?」
「お二方を脅かす者ならば、誰であろうと」
意地の悪い問いかけにも即答しながら、ラヨシュは自身の論理のおかしさにも気づいていた。アンドラーシがそれを指摘しようとしていることにも。
――王妃様たちの敵……いったい誰なんだ……?
つい先日王宮を去った側妃は、王妃たちの敵なのだろうか。目の前のアンドラーシは――それに王は、どうなのだろうか。王妃たちを脅かすと母から聞かされていた側妃がいなくなってもなお、ラヨシュが守ると決めた方たちの表情は晴れないままだ。もしもアンドラーシがおふたりを害そうというなら、教わった技で立ち向かうことに否やはない。しかし、この男は内心はどうあれ表面上は王妃と王女の警備を怠りなく勤めているように見える。
そして、もしも王がその妃や姫の敵になるようなことがあれば。彼としては、もちろんあの方たちの側につくつもりではあるが。だが、イシュテンの臣下としては反逆になってしまうのか――
「もしもお前があくまでもリカードについて陛下に仇なすというなら、子供といえども容赦はしない」
心中の葛藤に気を取られたところに投げられた声は低く険しく、視線も鋭かった。抜き身の刃を突き付けられるような心地に、まだ暑さも残る時期だというのに、ラヨシュは背に冷汗が伝うのを感じた。彼や母が王妃たちに忠誠を捧げているのと同様に、アンドラーシも王に身命を賭す覚悟を持っているのだ。
だが、この男の覚悟とは戦場で堂々と戦うためのものだ。彼のように、仕える方のために卑劣な真似にも手を染めたということではないだろう。その、奇妙な優越感のような思いがラヨシュに減らず口を叩かせた。
「恐れ多いことですが……陛下は絶対に過たれることはないのでしょうか。王妃様やその父君を蔑ろにするようななさり方を、お諫めするのは間違っているのでしょうか……!?」
相手を激昂させるかもしれない、この場で殴り殺されるかもしれないと分かっていながらの暴挙だった。事実アンドラーシの手は拳の形を作りわずかに上げられて、ラヨシュの心臓を跳ねさせた。――だが、それまでだった。握られた拳はすぐに解け、アンドラーシの唇はいつもの嘲るような笑みを浮かべる。
「リカードが過たないと信じているなら愚かなことだ。孫娘の犬を殺させる男のやり方をどう思う? お前もあの犬を可愛がっていたと聞いたが」
「あれは侯爵様のなさったことではありません!」
だってアルニェクに毒餌を食わせたのはラヨシュ自身だ。だから彼の声の力強さ揺るぎなさの理由はそれだけだ。だが、無論アンドラーシはそのようなことを承知していない。ラヨシュの幼稚な意地を嗤う笑みは瞬時に消えて、先ほどと同じく斬りつけるような鋭さで睨まれる。
「――ならば誰がやったのだと思っている? まさかクリャースタ様だとでも思っているのか? 王妃や王女にもそのような戯言を吹き込む者がいるのか?」
険を浮かべた目が間近に迫り、詰問がすぐ耳元に聞こえているのは、襟元を掴まれて引き上げられて爪先が浮きそうなほどだから。クリャースタ妃が犬のことに何ひとつ関わりがないのはラヨシュ自身が誰よりもよく知っているけれど、使用人の間で囁かれる噂は、アンドラーシに耳にも入っていたらしかった。
「いえ……王妃様たちは、何も……」
アンドラーシもアルニェクの一件以来、一層好奇と不審の目に晒されている。何者かに王女の犬を殺させるという失態を犯しながら王妃の護衛の役にとどまっているのは、それほど王の寵愛が深いのか、それとも側妃の口添えがあってのことか、などと。側妃の命令でこの男が犬を殺したのでは、とさえ信じ込んでいる者がいるほどらしいのだ。もともと短気な男ではあるのだろうが――ラヨシュのような子供の言葉に容易く激昂するあたり、よほど腹に据えかねるものが溜まっているのだろう。
「――ならば、良いが」
喉も締め付けられて苦しい息の中で辛うじて答えると、アンドラーシはラヨシュの身体を突き放した。喘ぎながら地面に倒れた彼に、更に冷え冷えとした――けれど内心は怒りと苛立ちで煮え滾っていると分かる――声が降る。
「リカードこそ王妃と王女の立場を追い詰めていることを知れ。この期に及んでも父の罪を娘に問おうとしない陛下のご厚情に感謝申し上げるが良い」
――私のような者を相手に何を言っているのだか……。
冷静に傍から見れば、子供相手に凄んで見せるアンドラーシは滑稽なのかもしれなかった。だが、ラヨシュにはそれを嗤う気分になれなかった。この男への醜聞も謂れのないことと彼はよく知っているし、むしろ彼こそその原因の一端を担っているのだから。怒らせると分かっていて生意気な口を叩いたのも、殴る蹴るされるくらいは当然の報いだと密かに思っていたからだと思う。そうして痛みを感じることで、彼は罰を受けた気分になりたかったのだ。
「はい。心します」
だからラヨシュは従順に頷いて見せてその場を収めた。
剣の訓練の間嵌めていた皮の手袋を外すと、ラヨシュの掌では肉刺が幾つも潰れて血塗れになっていた。
「痛……っ」
流れた血が固まりかけたのが手袋に引っ張られて剥がれ、思わず声が漏れる。だが、皮膚が破れる痛みも彼の胸を苛み続けている痛みを忘れさせてはくれなかった。アルニェクを手にかけたあの日から、彼はずっと罪を犯した心の痛みと、いつか誰かにそれを暴かれるのではないかという恐怖に追われているのだ。
王女の犬を殺した犯人が何者か、その狙いは何か、について王宮の使用人の間でも様々な推論が囁かれている。ラヨシュの――というか王妃と王女の周囲では、さすがにティゼンハロム侯爵では、と声高に唱えるものはいなかったけれど、その分側妃が例の醜聞から衆目を逸らさせるためにやったのでは、という説は人気だった。ティゼンハロム侯爵の恩義を受けた者もまだ王妃の周囲には多く、そういった者たちにとっては側妃の悪口は大層楽しいものらしかった。
一方で王女を気の毒がる者も多かった。新しい犬を贈るという侯爵からの申し出も、機嫌を取ろうとした王からの馬や鷹狩りの鷹などの贈り物も断って、マリカ王女はむっつりと沈み込んだ表情で日々を過ごしている。だが、側妃を貶める声も王女を憐れむ声も、アンドラーシの苛立ちさえも、等しくラヨシュの胸に突き刺さる。彼のような子供が為したことがこれほど多くの――それも身分高い人々に影響を及ぼすなど、彼は想像だにしていなかった。否、王女の悲しみは覚悟していたつもりだったけれど、突然に愛犬が無残な形で奪われるのをあの方がどう思うか、彼はちゃんと想像できていなかったのだ。
――どうして誰も私を疑わないのだろう。
ラヨシュには不思議でならなかった。彼がアルニェクと一緒にいるところを見た者もいるはずだし、彼自身も聞かれれば犬と遊んでやっていたことを話しているというのに。先ほどのアンドラーシのように、彼も可愛がっていたことを持ち出して哀れんでくる者さえいて――彼の罪を知っていながら甚振っているのかと、いっそ勘繰りたくなるほどだた。
母に彼の罪を仄めかす手紙を書いたことでも、ラヨシュは叱責されるのをどこかで期待していたのかもしれない。王女様の犬を手にかけるなどとんでもない不敬だ、と。そして王宮からティゼンハロム侯爵邸へ呼び戻されて、母か侯爵から罰せられればいっそ気が楽なのに、と。だが、母――というか母の言葉を綴ったのであろう侯爵家の使用人の筆跡は、さらりと彼の覚悟を褒めていた。変わらず王妃様や王女様にお仕えして守って差し上げるのだと続けられていたということは、つまり彼は王女の犬を殺した罪をずっと抱えていなくてはいけないのだろうか。見事に側妃を王宮から追い出すことに成功した、その功績を前にはおぞましい罪も許されるということなのだろうか。
重い心を抱えたまま、足を引きずるようにしてラヨシュは兵の宿舎の近くに与えられた自室に戻ろうとしていた。訓練による肉体の疲れよりも、思い悩み続けて擦り減った心の疲れの方が彼を苛んでいて、寝台に横になったところで癒えるようなものではないと分かってたけれど。
「ラヨシュ。剣の練習をしていたのね?」
と、俯きがちに歩いていたところに不意に声を掛けられて、ラヨシュは慌てて顔を上げた。その高く澄んだ声は、彼がよく知る――でもここ最近はあまり聞いていなかったものだったのだ。
「マリカ様……」
顔を上げれば、思った通りに王女が微笑みかけてくれていた。かつては足元に犬のアルニェクを従えていたものなのに、今はたったひとりで。その姿を見ることさえ、ラヨシュの胸を一層締め付ける。だが、彼の罪悪感はひとまず置かなくてはならない。
「あの……母君様は? お部屋にいらっしゃらなくて良いのですか?」
アルニェクの一件以来、王妃も不安に怯えながら過ごしているらしい。幼い王女が目の届かないところにいるなど、どんなに心配されることだろう。
「ええ、お母様が心配なさる前に帰らなくちゃ」
強情なマリカ王女のことだから、ラヨシュの言葉など聞いてくれないのではないかと思っていた。だが、王女は拍子抜けするほどあっさりと頷いてくれる。逆になぜここに来たのか、と思わせるほどの不気味な素直さだった。
「……私に会いに来てくださったのですか……?」
「うん」
まさか、と思いながらもとりあえず尋ねたことに対してもまたあっさりと頷かれて、ラヨシュは言葉を失ってしまう。彼としては、王女は今もっとも会いたくない人間のひとりだった。忠誠を失ったということでは全くなく、ひたすら申し訳なさが募るから、という理由で。
「ラヨシュ、剣を教えて。ラヨシュが教わったことを、私に教えて欲しいの」
「え……」
ラヨシュの葛藤には気付かないようで、王女は彼に歩み寄ると真っ直ぐに見上げて乞うてきた。青灰色の目に宿るひたむきさ真剣さは、一も二もなく頷いてしまいそうになるほど。――だが、王女の願いは簡単に叶えられることではない。
「お父様は絶対ダメだって……だからラヨシュしかいないの」
王女は唇を尖らせるが、それも無理もないことだ。父君が王でなくても、王女という身分がなくても、女性は剣を握ったりはしないもの。この方の気性は、つくづく王女であることが惜しまれる。王子だったならば、さぞ頼もしく、この国の将来を担う方と期待されていただろうに。
――王女様に危ないことをさせたと知れたら、誰に何と言われるか……。
王妃の悲しむ顔に、アンドラーシの呆れながら怒る顔を思い浮かべて、ラヨシュは王女を思いとどまらせる言葉を探そうとした。だが、説得の言葉の前に、彼の脳裏に雷のように落ちた想念がある。
アルニェクを殺した犯人を知ったら、この方は絶対に許さないだろう。
ラヨシュも楽になりたい一心で王妃や王女に罪を打ち明けようと考えたこともあったのだ。何度も告白の言葉が喉までせり上がって、けれど口にすることができなかったのは、罰を受けるのは彼だけではないだろうと考えたからだ。命じたのはティゼンハロム侯爵だと言わせるために、王は手段を選ぶまい。拷問に耐え切れずに侯爵や――母にまで累が及ぶ証言をしてしまうと、目に見えていた。
彼のせいで母を害させてはならない――否、それでは王女の悲しみよりも自身や母の保身を考えていることになってしまう。そうではなくて、ただでさえ少なくなってしまっている王妃と王女の味方を減らすことになってしまう。だから彼は今罰を受けようと考えてはならないのだ。
でも、もしも王女が剣の扱いに慣れたらどうだろう。大事な犬を殺した犯人を、怒りのままに手討ちにしてくれるのではないだろうか。母を慕っていたこの方のこと、母や、ましてや侯爵にまで怒りを向けることはないのではないだろうか。
――いつか必ず、この方に裁いていただこう……。
既に犯してしまった罪を取り消す訳にはいかない。ならば、いかに償うかを考えなくては。全霊を王妃と王女に捧げると誓ったからには、相手が王だろうと側妃がこれから生むかもしれない王子だろうと躊躇ってはならない。誓った通りに王女たちを守り通して。そして、勝利の暁には、褒美として罰を強請るのだ。そうだ、侯爵が王を退けたなら、この方はイシュテンの王になるかもしれないのだ。王に剣を――聞きかじりの真似事のようなことであっても――教えるなど、名誉なことと思わなくては。
「はい……分かりました、マリカ様。お受けいたします」
「ありがとう」
彼の心情などやはり知らない王女は、ラヨシュの答えに久しぶりの満面の笑みを見せてくれた。