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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
17. 疑いという毒
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黒松館 シャスティエ

 シャスティエが落ち着くことになった館は、黒松館と呼ばれているのだという。由来となったのは、庭に真っ直ぐに(そび)える一群の黒松だというから、例によって非常にイシュテンらしい安直な命名だ。


「子供の時は松毬(まつかさ)を集めて遊んだものだな」


 針状の青葉が夏の日差しに輝くのを見て王は目を細めていた。王の少年時代など、想像するだけで気味が悪いのでシャスティエはあえて答えることはしなかったが。




 シャスティエたちを無事に黒松館へ送り届けた後、王はすぐに王宮に帰った。取り残されたシャスティエはまずは新たな住まいの造りを把握することに努める。初めての場所に戸惑うのは、離宮から連れて来た使用人たちも同じこと。主の我が儘のせいで振り回してしまった以上は、各々働きやすいように心を砕いてやらなくては。

 フェリツィアについては、誰よりも何よりも大切に扱った。馬車の揺れさえ感じないようにしっかりと産着にくるんで腕に抱いて。肌着も寝具も玩具も離宮で使っていたものを全て持ってきた。遊び相手がいない寂しさを紛らわせるため、乳母には自身の子さえ同行してもらうことにした。もちろん、フェリツィアと同じく幼い赤子を、母から引き離すのが忍びないと思ったこともあるけれど。

 そこまでして気遣っても、やはり環境の変化は敏感に感じ取るものなのか――黒松館に到着してから数日の間、フェリツィアは熱を出して母をまた少し痩せさせた。


 王が再び幼少期を過ごしたという館を訪れたのは、シャスティエや乳母や侍女たちの必死の看病が功を奏してか、フェリツィアがやっとはしゃいだ声を上げるようになった頃だった。


「わざわざお越しいただき、誠にありがとうございます」


 王宮にいた頃と同じ決まり文句でシャスティエは夫を迎えたが、言葉の重みはまるで違う。

 イシュテンの王宮は広大とはいえ、ともかくも王たちの住まいも側妃の離宮もひとつの施設の中に収まっている。一方、王都から黒松館――というか王の祖父の領地の間は小旅行に値する距離によって隔てられている。シャスティエたちが移動した際には数日掛かったほどなのだ。わざわざ、と言うのは心からの感慨だった。


「アルニェクの脚で駆ければ大したことはない。半日というところだったか」

「そんなに急いで……」


 王はさらりと言うが、往復すること、黒松館にもある程度滞在するを考えれば丸一日以上王宮を留守にすることになってしまう。それだけの時間を捻出するためにどうやって政務をこなしたのか。不在の間をティゼンハロム侯爵に狙われぬよう、どれだけ心を砕いたか。そこまでの手間をかけてもらったという落ち着かなさ、そしてそこまでしても決して万全の体勢ではないであろうことを思うと、シャスティエには言うべき言葉が見つからない。

 これではまるで、王が彼女とフェリツィアを案じてくれているかのようだ。否、思い出深いであろう祖父君の館を与えてくれた以上、少なくとも生まれたばかりの王女の安全は考えてくれていると考えなくては。


「……アルニェク……」


 王に心配されているなど気持ち悪い。波立ったシャスティエの胸に、王の愛馬の名は鋭く刺さった。イシュテン語で「影」を意味するその単語は、先日殺された――シャスティエが王宮を出る切っ掛けになった、王女の犬の名でもあるからだ。


 シャスティエが呟いたひと言に、王もあの事件のことを思い出したのだろう、軽く眉を寄せた。


「……犯人はまだ見つからぬ。犬を見かけた者や構ってやったという者はいたが、やはりよくあることだったらしい。誰も不審には思わなかった、と……」


 ――そう言った者のうち、誰が嘘を吐いているのかしら。


 シャスティエも王女の犬を見たことはあるから、身体の割に人懐っこい気性だったのは知らないでもない。彼女自身は牙のある大きな獣に近寄りたいとは思わないし、娘の傍でそのような獣が放し飼いにされていたというのは、それだけでも身震いしてしまうけれど。でも、王が尋問させた目撃者の中には、犬を殺しておいて素知らぬ顔を貫く犯人が紛れているかもしれないのだ。


 そのような場所からフェリツィアを遠ざけることができたのは、成果と言って良いかもしれない。とはいえまだ王宮に起居する方々のことを思うと、単純に喜ぶことはできなかった。


「ミーナ様もマリカ様も、さぞ不安な思いをなさっていることでしょう」

「ミーナは、確かに。マリカは……子供なりに色々と思うところがあるようだが」

「そうですか……」


 王が顔を顰めた姿からミーナやマリカの不安が察せられて、ひとり逃げ出したシャスティエとしては胸を締め付けられる思いがする。ミーナも――あの穢れを知らない優しい方も、きっとシャスティエを恨んだだろう。


 ――それさえも目的だったの、ティゼンハロム侯爵…?


 あの黒い犬が離宮で殺されていたのは、シャスティエへの脅しに違いない。ならばその背後にはティゼンハロム侯爵がいるはず。しかし、マリカ王女を悲しませミーナを怖がらせるような真似を敢えてするとは、侯爵が手段を選ばない男だと知っていてなお信じられない。何といってもミーナは侯爵の娘で、マリカは侯爵の孫、いずれも血を分けた近しい存在だというのに。


 憎い側妃を追い詰めるためならふたりの心など知らぬというなら許しがたい。しかしそもそもミーナの苦悩の元凶である彼女がそのようなことを考えるのは、おこがましいことではないのだろうか。


 シャスティエが俯いたところに、王の気遣うような声が降ってくる。


「この館には慣れたか? 手入れはさせていたから不便なことはないはずだが」

「――はい。とても居心地が良くて――このようなことを申し上げて無礼かもしれませんが、とても安らぐ気がいたします」


 こちらの機嫌を窺うような調子が慣れなくて、どこか慌てた、取り繕うような答え方になってしまった。形ばかりの言葉とは思われぬよう、シャスティエは部屋全体を見渡してみせる。

 シャスティエが自身と娘のために選んだ部屋の窓からは、黒松館の名の由来になった木々の枝ぶりがよく見えた。見るほどの花をつける訳でもなく、葉の形は刺々しくさえ見える木をわざわざ選んで植えたのは、イシュテンらしい剛健な気質を現したものなのだろうか。とはいえそれは無骨さというよりは堅実さを示すようで好ましい。磨き込まれ使い込まれた部屋の調度からも同じような印象を裏付ける。

 王の祖父の一族は、質素を好み、一族の牙城たるこの館を大切に手入れして長年過ごしてきたのだろうと、容易に窺い知ることができた。


 部屋を眺める目から思いを伝えることができたのか、王の眼差しは明らかに和らぎ、口元は嬉しそうに微笑んだ。


「側妃と王の子がここで過ごすのは初めてのことではないからな、分不相応なことではないだろうと考えた。まあお前と母とでは出自の格が違うが……」

「とんでもないことでございます。大切な場所を賜ってしまったと――感謝を申し上げる言葉もございません」


 黒松館の警備が万全なのかどうかについては、正直に言って信頼しきることはできない。王宮にどのような手段でか忍び込んできたレフのこと、それにあの哀れな犬のことを思うと、何があってもおかしくないと思ってしまう。

 でも、この館の温かい雰囲気はシャスティエの荒んだ心を慰めてくれた。更には周辺の村の者たちが、黒松館に側妃と王女が入ったと聞いて何人も訪ねて来たのだ。是非とも召し上がっていただきたいと、彼らが作った野菜やら育てた家畜の肉やらを献上しに。

 シャスティエ自身やフェリツィアが、それらの食材を口にすることは――それなりに調べさせてからでなければならないので――まだないが、この館の一族が領民に慕われていたことがよく窺える。だから、今まで考えたこともなかった王の母君や祖父君への興味が、自然と湧いてきているところだった。


「母君様はどのような方だったのでしょうか」

「――母の記憶はほとんどないな。俺がまだ幼い頃に亡くなった」


 するりと立ち入ったことを聞いてしまったことに、シャスティエは内心で驚いた。そして王にとってもシャスティエの問いは唐突だったのだろう。それでも軽く目を瞠った後に、首を傾げながら答えてくれた。


「それは――」


 悲しいことを思い出させてしまった非礼を詫びようとしたシャスティエを遮って、王はどこか不思議そうな口調のまま続ける。


「王妃――寡妃太后(かひたいこう)があの調子だったからな、王宮にいては娘と孫が危ないと、不調を理由に祖父が強引に実家(ここ)に下がらせたと聞いている。……口実のはずだったが、結局王宮に戻ることはなかったそうだ」

「そう、なのですか……」

「覚えてもいない母だと言っただろう。そんな顔をするな」


 人の亡くなった身内の話を聞くことに、シャスティエの歳では慣れていない。ましてあの寡妃太后の気性の苛烈さは、彼女自身も身をもって知っているから、王の母だった方がどれほど脅かされ、祖父君がどれほどの不安を感じたかは想像に難くない。だから何と声を掛けたものか悩んで言葉を途切れさせてしまったのだが――王は軽く笑うと先ほどシャスティエがしたように視線を室内に巡らせた。王の目には、ここで過ごした日々の思い出が見えてでもいるのだろうか。


「――それに祖父にはよく躾けてもらったからな。側妃腹の王子などという厄介な立場でも生きていけるように、と」

「そうだったのですか」


 ――ならば何もかもその方のお陰ということなのね……。


 先のイシュテン王亡き後、王が兄王子たちを退けて王位を得たのも。後に、王がミリアールトを滅ぼしたのも。祖父君が王を甘やかしたり教育を怠るようなことがあれば、王は今まで生き延びることはなかったのだろう。だからシャスティエはその方を恨んでも良いはずだった。


 ――なのに、なぜ?


 シャスティエの胸に浮かぶのは、単純に良かった、という思いだけだ。もちろん祖国を滅ぼされて肉親を殺された憎しみは消えないし、叔父たちの死に顔も忘れない。ただ、それとは別に、王が肉親に恵まれていたのは――心の中で思うことすら後ろめたかったけれど――良かった、と。シャスティエは感じてしまったのだ。


「……俺は妻や娘たちが争うようにはさせぬし、フェリツィアもマリカと分け隔てて扱うつもりはないぞ」

「はい。そのようなことを疑ってはおりません」


 戸惑い黙りこくったのを、何か別の理由によるものだと思ったらしい。王が弁明するような口調になったので、シャスティエはまた慌てて首を振った。あいにくというか、王は信じなかったようだが。


「ここはいわば俺の実家だからな……傍目にも追放のようには見えまい」

「はい」


 気遣うように、そっと髪に触れられる。王の指先が更に頬へと伝うのを感じながら、シャスティエは憂うべき事柄の多さに暗澹とした。


 犬を殺した者の思惑も知れないし、フェリツィアの将来も――そもそも無事に成長できるのかさえ――不安でならない。祖国も、またいつ目の前に現れるかもしれないレフについても常に心を痛めている。加えて、例の不名誉な噂はまだ消えてはいないのだ。王はこのように言ってくれるけど、果たして世の者はどのように思っていることか。


 短く答えたきりまた固まってしまったところを、王に抱き寄せられる。例によって壊れ物を扱うような優しげな手つきで――居心地が悪い。


「イルレシュ伯を呼び戻すことも考えている。心細いだろうが、しばらくの辛抱だ」

「小父様が……ミリアールトでの任務があるのでは……」

「そうだ。だがリカードとの内戦に際して、お前の傍に信用できる者が必要だろう」

「それは……あの、ありがとうございます」


 ――小父様になら、レフのことも話せるかしら……。それに、ミリアールトで何があったかも聞ける……?


 王の鼓動を聞き、感じながら、シャスティエが思い出していたのはあの新月の夜の従弟の言葉だ。彼女が誰よりも信じている老伯爵のことを、レフは裏切者と罵っていた。それには正当な理由があるのか、彼の思い違いなのか、やっと分かるというのだろうか。


「……ここは静かですし、周りの領民の心も温かいと分かりました。その上イルレシュ伯までつけていただけるなんて……」

「妻と子のためだから当然だ。ミーナとマリカにも同様に心を配っているし――今のお前はひどい有様だ。落ち着いてゆっくりと休むが良い」

「はい。ありがとうございます……」


 夫の胸の中で夫以外の男に思いを馳せていた後ろめたさに、シャスティエの声は弱々しくか細くなってしまう。それを弱気と捉えたのか、王は彼女を抱く腕に力を込めた。多分、身体を強張らせて拒むことをしなかったからでもあるのだろう。どうしてそのように身を委ねるようなことをしてしまったのか、シャスティエ自身にも分からなかったけれど。




 王は少しだけフェリツィアと遊ぶと、また馬のアルニェクを駆って王都へと急ぎ戻った。次の訪れはいつになるか分からない。娘と水入らずの時を過ごす機会と考えれば良いはずなのに、シャスティエはなぜか館ががらんとして寂しい、と思ってしまった。

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