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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
17. 疑いという毒
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祝杯 エルジェーベト

 エルジェーベトが注いだ酒は血のように深い紅い色をして、酒杯に(たた)えられると蝋燭の仄かな灯りの下で静かに揺らめいていた。用意した杯は、ふたつ。ふたつ目の酒杯を満たす頃には、室内は芳醇な葡萄酒の香りが充満している。


 めでたく側妃を王宮から追い出すことに成功したことを祝う、祝杯だ。


「娘たちのために命を捧げた()()に――」


 目の前に運ばれた杯を掲げてリカードが微かな笑みと共に告げたのは、いささか趣味の悪いことだった。あの女を最終的に追い詰めたのは、ミリアールトの貴公子が唱えリカードが手配した醜聞ではなく、たった一頭の犬の死体だったというから、杯を捧げてやるのは決して間違ってはいないかもしれないけれど。


「――犠牲を悼んで」


 リカードに応えて、金の髪の美しい青年も杯を掲げる。述べた言葉はリカードのものよりは殊勝だけれど、それでもその整った唇は優雅な弧を描いている。死んだのは王女の愛犬だったと聞かされてはいても、犬も、そして幼いマリカ王女のことも知らないのだから当然だ。この青年の頭にあるのは例によって忌々しいあの女、かけがえのない従姉とやらのことだけなのだろう。


 もちろん、マリカたち――王妃と王女のためなら犬の一頭や二頭、惜しむべきでないとはエルジェーベトも考えているけれど。でも、彼女だってあのアルニェクを撫でてやったことはあるのだ。何の思い入れもない癖に形ばかり忠犬などと呼んで悼んで見せる男どもに対して、微かながら苛立ちのような感情を呼び起こさずにはいられなかった。


「お前も飲むが良い。息子の代わりに褒美をやろう」


 ――と、俯いて表情を隠していたところに突然声を掛けられて、エルジェーベトははっと顔を上げた。見ればリカードが一度空けた杯にまた酒を満たして彼女に差し出している。


「……もったいないことでございます」


 もしやまた酒を浴びせられて嗤われるのでは、と半ば身構えながら両手を杯に伸べると、意外にもというかリカードはちゃんとエルジェーベトにそれを手渡してくれた。褒美、というのは本心らしい。


「マリカたちを無事に取り戻した暁には、改めて息子を取り立ててやろう。お前も、またあれに仕えてやれば良い」

「ありがたいお言葉ですわ……!」


 老人の気まぐれとは思うけれど、それでもまたマリカの傍近くにあることができるかもしれない、という言葉は甘かった。既に酔いしれたように、ふわふわとした心持ちで杯を飲み干すと、極上の美酒が喉を灼いてエルジェーベトの脳髄を蕩けさせる。




 リカードが息子のラヨシュへの褒美を口にしたのは、それなりの根拠がある。王宮の奥を騒がせ、イシュテン全体に更なる噂を広めた事件をしでかしたのは、どうやらエルジェーベトの息子のようなのだ。


 当初、一連の出来事は表向きは事件として発表されることすらなかった。側妃は例の醜聞とは関係なく療養のために一時王宮を離れるのだ、と伝えられただけ。無論、ティゼンハロム侯爵家の者による襲撃を警戒していたのだろう、いつどのような経路で側妃とその娘が住まいを移すのか、王は決して漏らそうとしなかった。


 続けて情報が入ったのは、使用人たちや出入りの商人を介した噂としてだった。曰く、側妃の離宮の庭先で王女の愛犬が死んでいたらしい。それもただの事故ではなく、何者かに毒の餌を食わされて。側妃が王宮を出たのは、生まれたばかりの王女が害されることを恐れてのことだ、と。

 それを聞いたリカードは、最初はやはり恐れ怒ったのだ。マリカ王女が黒い犬に父王の愛馬の黒馬と同じ名前をつけて可愛がっているのは周知の事実。それを敢えて害した者は、ティゼンハロム侯爵への敵意をそのようにして表したのではないか、と考えたのだ。娘や孫が怯え悲しむのを喜ぶはずがないだろうに、王やその側近に睨まれ蔑みの目で見られたのも気に障ったらしい。エルジェーベトにとっては閨でのリカードの振る舞いから推測したことだった。


 そして更に事件の全容が分かったように思われたのは、久しぶりに息子からの手紙を受け取ってからことだ。以前よりもずっと間遠になった手紙は、息子の目から見たマリカたちの様子が綴られていた。王妃の不安は、愛犬を殺された王女の憤りはいかばかりか。王が側妃にばかりにかまけるせいで、ふたりがどれほどの我慢をしていることか。

 そこまでの部分を、エルジェーベトとリカードは大層苦々しく読んだ。側妃がいなくなったのは喜ぶべきことかもしれないけれど、彼女たちが愛し守りたいと願う方々の苦しみと引き換えでは、成果に見合っていると言えるのかどうか。

 ――だが、息子はどのような感情によってか震える筆致で続けていた。


『私がしたことは全て、仕える方のために。侯爵家の恩義に報いよと教えられた通りに努めました』


 する、や努めると未来のことを語るのではなく、した、努めた、と既に為したことを語るかのような文だった。歳の割に賢しいあの子供のこと、単純な書き間違いではないだろう。息子が王妃たちのためにしたこと――状況を考えれば、その答えはただひとつ。


 犬を殺したのは、息子だ。


『なるほど、意外と良い手かもしれぬ』


 使用人風情に孫の愛犬を害されて激怒するかと思いきや、リカードの機嫌は一転して晴れた。正体の分からぬ者が王宮で暗躍しているとなれば不快だし憂うべき事態だが、この男は、エルジェーベトの子のことも彼女と同じく自身の所有物と考えている。

 ()()がラヨシュと分かった以上は、マリカたちに危険はない。残ったのは、めでたく側妃を怯えさせ、王と王妃、そして王宮から離れさせることができたという()()だけ。そうと知れた途端に、事態はリカードの手の内に収まった――あるいは、そのように考えたのだろう。


『マリカ様は悲しまれるかと思いますが……』


 安堵したのはエルジェーベトも同じこと、それでもリカードとは異なる懸念をまだ彼女は持っていた。あの黒い犬を王女がどれほど可愛がっていたか、彼女は間近で見てよく知っている。王女の方のマリカの歳では、側妃とその子を追い払うことが出来た利益よりも、遊び相手を喪った悲しみが勝るかもしれない。


 ――こんなことを言ったら、あの子は罰せられるかしら。


 別に息子の身を案じてやった訳ではないが、リカードが機嫌を損ねたらそれを収めることになるのは恐らくエルジェーベトの役目なのだ。だから、あらかじめ怒りの原因になることは気付かせておいた方が良いと考えて進言したのだが――


『孫には新しい犬を贈ってやろう。幾らでも代わりはいるのだからな』

『……左様でございますか』


 リカードはあくまでも無造作に笑うだけだった。マリカ王女はあの犬の真っ黒な毛並みや従順な性格こそを、ことのほか気に入っていたのだけれど。

 でも、しつこく言ってもそれこそ主の機嫌を損ねることになりかねないのを知っていたので、エルジェーベトは口を(つぐ)むしかなかったのだ。




 マリカたちの心の持ち方について、エルジェーベトはずっと密かに気に懸けていた。リカードたちがいっそ無邪気に乱の計画を詰める横で、犬を殺した目に見えない犯人に怯えているのではないかと気が気ではなかった。無論、本当に誰がやったのかは決してふたりには知られてならないという事情もある。母と同様、息子のラヨシュも末永く王女に仕えさせるのがエルジェーベトの前々からの宿願なのだ。


 だから、どうにかして息子が疑われぬようにしなければならないと思っていたのだけど――


 ――そうだわ。


 リカードから賜った酒をひと息に干した瞬間に、エルジェーベトの脳裏にきらりと閃くものが見えた気がした。滅多に味わうことのない馥郁として豊かな香りが、彼女の思考にどのような刺激を与えたのだろうか。


「息子のしたことについて、ご提案したいことがございますわ」

「何だ、言ってみるが良い」


 やはり今宵はリカードの機嫌が良い夜だ。女風情の進言に耳を貸す気になってくれるとは。


 天啓のように降り立った考えを口にする前に、エルジェーベトはちろりと酒に濡れた唇を舐める。まだ生きていることを隠さなければならない身の上のこと、彼女は今も化粧気のない無様な姿を晒している。だが、葡萄酒の紅と酒精は唇にせめてもの(いろどり)をくれたかもしれない。その、ささやかな自信のようなものが、エルジェーベトの舌を滑らかに動かしてくれる。


「何者が、何の目的があってあのようなことをしたか――マリカ様方もさぞ不安に思っておられるでしょう。ですから、()()を教えて差し上げるのが良いと思いましたの」

「ほう? 誰がやったというのだ?」


 さすがにリカードは、彼女が正直に息子の罪を打ち明けるつもりだ、などとは思わなかったようだ。話の分かる主に、エルジェーベトの自信も笑みも深まって、次の言葉を高らかに述べることができる。


「側妃ですわ」

「何……?」


 そのひと言に、白皙の頬をわずかに染めて、祝杯に酔っていた青年が身じろぎした。整いすぎた顔が狼狽の表情を浮かべるのが楽しくて、エルジェーベトは彼の方にも笑みを向けながら続ける。


「だって、犬は側妃の離宮で死んでいたのですもの。毒も、どこにでもある草花だったとか。例の醜聞で身を隠したいと思ったけれど、逃げたように思われては噂を認めるようで癪――でも、何者かに狙われていて恐ろしいからということにすれば言い訳も立つではありませんか?」


 滔々と述べた彼女に対して、聞き手ふたりの反応は対照的だった。


「そんなこと……」

「なるほど、いかにも人が好みそうな話だな」


 とんでもないとでも言いたげに――今さら、と嗤ってしまうのだが――顔を顰めた青年と、いかにも楽しげに声を立てて笑ったリカードと。忌々しいあの女を今以上に貶めるための進言だから、それぞれ当然の反応と言えるだろうか。


「不貞の上に、それを隠すために犬まで殺すとは。とんでもない女だな……?」


 リカードの笑みに青年はますます顔を顰め、ふいとそっぽを向いた。子供っぽい仕草が、彼の苛立ちをこの上なく明らかに伝えて微笑ましいほど。


「……シャスティエがこの国にいたくないと思わせられるなら構わない」


 顔を背けたままで呟いたのは、半ばは強がり――でも残る半ばは本心、と言ったところだろうか。異国の者に囲まれて、動揺を見せまいと気を張っているのもまた、未熟な若者の態度からよく見えた。恐らくリカードも青年の緊張を分かった上で、さらに揺さぶり挑発する。当面は手を組んでいる相手に対して利のあることとは思えないが――やはり、リカードにとっては他人の苦悩は娯楽なのだ。


「今度こそ()()に成功していただきたいもの。たしかに、側妃の方でも不安と苛立ちは募っていようが」

「当然。……そんなに王女が大事なら一緒に連れて行くし」


 ――そうなれば良いわ……そうすればマリカ様たちの憂いは全てなくなる。


 ふて腐れた表情の青年が信用に値するかは別として。エルジェーベトはあの女が肉親を信じて逃げようとして――そしてこちらの手の内に落ちることを切に願った。

 側妃のみならずその娘もティゼンハロム侯爵家にとっては邪魔な存在だ。本来ならば王女など何人いたところで王位に手が届くはずはないのだけれど、リカードはマリカ王女を擁立して――恐らく一代限りのこととはいえ――女系で王家の血を繋ごうとしている。対立する者がフェリツィア王女を担ごうとするのは必至、ならばなるべく早いうちに始末しておくのが良いだろう。


 王も当然それは承知で、だからこそリカードが手を出しづらい自身の直轄地に側妃たちを移したのだろう。更に今やティゼンハロム侯爵家の手勢は王に厳しく見張られている。わずかでも兵を動かす気配があったなら、即座に反逆と見做されてしまうだろう。


 だが、こちらには王が知らない手札がある。


「どれくらいかかる?」


 リカードがごく端的に尋ねたのが何を意味するか、この部屋に分からない者はいない。青年も背けていた顔をリカードの方へ戻すと淡々と答える。


「少しずつ件の地に手勢を侵入させる。民に気付かれることがないように。秋になるかもしれないが――王がミリアールトに兵を向けるなら遅い時期の方が良い。ミリアールトの冬は早いから、雪の中で挟み撃ちに遭うことになる」


 ティゼンハロム侯爵家の兵を動かすのは、難しい。だが、ブレンクラーレのアンネミーケが送り込んだ間者たちは、商人などに化けて民に紛れる技に長けている。王も側妃を守ろうと兵を配することは怠らないだろうが、しょせん館ひとつを守る程度の数だ。王宮の警備に比べれば何ということもない。しかも王はリカードとブレンクラーレの密約を知らない。王の鼻先から守ったつもりの側妃とその子を攫ってやったら、どれほど胸のすく思いがすることだろう。


「冬の戦か……前回はさほどのことではなかったが、今回はそうはいくまい……」


 前回ミリアールトの乱を収めたのはあの女の口車だ。ミリアールトの臣下は、挙兵しておきながら女の言葉に従って剣を収めた惰弱者ども――だが、それほど大事な女が、今回はいない。青年があの女を()()して連れ出すことに成功したら、すぐにこちらの兵で囲んでなぶり殺しにしてやろう。そして既に殺された女を巡って争う王とミリアールトを、リカードは纏めて屠るのだろう。


 ――次の春は、きっと……!


 側妃の懐妊を知ったのは、昨年の秋だった。そして冬から春にかけて、腹が膨らんでいくあの女に手出しができずにエルジェーベトは大層歯がゆく悔しい思いをしたのだ。


 だが、次の春こそは、きっと晴れやかな想いで迎えることができるはずだ。

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