憎しみに満ちた目 ウィルヘルミナ
『私は娘とこの王宮から去ります』
娘の愛犬の無残な死に、見つかりそうにない犯人。夫とアンドラーシが交わす意味ありげな会話。次々ともたらされる情報に混乱の只中にいるウィルヘルミナの耳に、シャスティエの声は不思議とよく通った。これ以上複雑なことを考えるなんてできそうにないと思えるのに。
それでもやはり誰に何を尋ねたらよいかは分からないまま。ウィルヘルミナは呆然と、夫が顔を顰めてシャスティエに答えるのを聞いていた。
「決心はついたか。このような形になるとは思わなかったが」
「はい。このような恐ろしいことが起きた場所に娘を置いてはおけません。――そのように思わせることこそが狙いなのかも知れませんが……」
「……否定はできぬ。だが守れるように力を尽くすと約束しよう」
このような場所。ウィルヘルミナが十年を過ごした王宮を、シャスティエはひどく忌まわし場所のように語った。そのことに驚き衝撃を受けながら、同時にずるい、ひどいという思いも湧いてしまう。幼い娘を抱えているのはウィルヘルミナも一緒だ。今回のことに怯えと不安を感じるのも。どうして夫はシャスティエだけを安全なところに移してくれるのだろう。ウィルヘルミナとマリカはどうなっても良いということなのだろうか。
――いえ……アルニェクのことが起きる前からお話をされていたのよね……? そういう風に考えてはいけないわ……。
暗い感情に囚われかける心を必死に奮い立てて、ウィルヘルミナはようやく口を開く勇気をかき集めた。何も分かっていないくせに口を出して良いものかどうか、ずっと機会を掴めないままだったのだ。でも、急に呼び出されてマリカについて幾つかの問いに答えただけで、彼女はいないもののように扱われている。これから愛犬の死を知らされることになるマリカのためにも、母であるウィルヘルミナが何も知らないままでいて良いはずがない。
「あの……シャスティエ様はどちらに……?」
「ああ……療養を勧めていたのだ。この通りの窶れようだからな、静かな場所の方が良いだろうと」
彼女に答える前に夫はシャスティエやアンドラーシと素早く視線を交わし、ウィルヘルミナに夫の言葉が全て真実ではないのだろうと思わせた。とはいえ彼女には夫が嘘をついていると指摘するなどできない。根拠は夫たちの様子がおかしいと思うというだけだし、ほぼ確実に本当の理由には彼女の父が絡んでいる。
「もう、会えなくなってしまうのですか……?」
だからウィルヘルミナは夫ではなくシャスティエの方へ水を向けた。言葉通りに離れてしまうのを惜しむだけではない、ひとりだけ安全なところに逃げるのか、という非難もきっと滲んでしまっただろう。そう考えると、自分の浅ましさが汚く思えてならなかった。
「ミーナ様、そのようなことは……」
事実シャスティエは気まずそうに碧い目を伏せた。歳下の美しい友人――この期に及んでも、ウィルヘルミナはそう信じたかった――の傷ついた表情に、この方もウィルヘルミナたちのことを案じていない訳ではないと確かめられて安堵する。これもまた、性根の捻じれた確かめ方だとは思うけれど。
「――どこに移すのかを言っていなかったな」
妻たちがわずかに顔を背け合っているのを見て取って、夫がウィルヘルミナの方へ歩み寄ってきてくれた。夫の関心が完全に失われた訳ではないのを知って嬉しく思うと同時に、シャスティエの表情が心もとなげに曇るのに気づいて胸が痛む。
シャスティエの青ざめた顔を直視できなくて俯いていると、頬に夫の大きな手が添えられて上向かされた。青灰の目に間近で見つめられているのに、胸に湧くのが無邪気な喜びや恥じらいだけではないことがあるなんて。
「祖父の屋敷が空いているからな。手入れも欠かしていないことだし、急ではあるが赤子の世話をするのにも足りると思った」
「祖父君の……」
ぼんやりと夫の言葉を繰り返したのはシャスティエの声か、ウィルヘルミナのものか。それともふたりして同時に呟いたのだろうか。夫の妻として十年過ごしていながら情けないことに、ウィルヘルミナは侍ったばかりのシャスティエと同じ程度のことしか、夫の実家について知らないのだ。
夫の祖父君にも、彼女は数えるほどしか会ったことがない。さほどの門地を持たないからとウィルヘルミナの父に――また、父だ――遠慮して王宮に姿を見せることはあまりなかったから。もちろん老齢だったこともあるのだろうけれど。マリカの顔を見せることができないまま亡くなったから、その方との交流があったのもほんの数年のことでしかない。
それでも、父である前王との縁が薄く王宮から離れて育った夫にとって、父代わりの大切な人だったということは知っている。その方の屋敷とは、夫が少年時代を過ごした場所ということではないのだろうか。
――そんな大切な場所を、シャスティエ様に……?
真っ先に胸に浮かんだ思いは、多分恥ずべき種類のものだ。ウィルヘルミナと比べれば、明らかにシャスティエの方が危険が身に迫っている。娘がいるのは同じとはいえ、フェリツィア王女は一歳にもならない赤子。夫が優先するのは当然のことだし、ウィルヘルミナとしてもふたりが危ない目に遭うことを望んではいない。今日の事件で被害に遭ったのはマリカの犬だけれど、先ほどもシャスティエが言った通り、毒を使う犯人は離宮のすぐ庭先にまで入り込んでいたのだ。
「――古くから祖父の家の領地だった場所だ、王に対するもの以上に俺自身への忠誠がある。実際に守る兵たちだけではなく、侵入しようとする者があれば必ず注進が来るだろう」
だから、夫がシャスティエの肩を抱きながら、ちらりとウィルヘルミナに視線をくれたことだけで我慢しなくてはならない。シャスティエたちを追って他人の領地までを侵そうとするなど、父の手の者以外にはいないのだろう。娘である彼女の前でそれに言及することを、夫は気遣ってくれたのだ。
――私は、それで十分……。
傍に置いていても何ひとつ利のない女を妻として扱ってくれる、それ以上に何を望めるだろう。
「あの……マリカの様子を見てやりたいのですが。私に、まだ何かご用はありますでしょうか……?」
ウィルヘルミナは声を震わせないように必死で腹に力を込めて、夫に尋ねた。愛犬の死を娘に告げなければならないと思うと、そのことも恐ろしくてならなかったけれど。でも、夫はこれからシャスティエと話さなければならないことが沢山あるはず。
「ああ……話すとしたら俺からかと思っていたのだが」
夫が眉を寄せたのは、泣き喚くであろう娘と対峙しなければならないウィルヘルミナの心痛を慮ってくれたのだろうか。――それもまた、嬉しいことだ。
「いえ、母親からの方が良いかと思います」
「全てを話す必要はないぞ。事故ということで――」
「いえ、後で知った方が傷つくでしょうから。マリカも、犬に与えるものには気をつけていましたし」
下手な言い訳は信じないだろう、と。言外に告げたのは、ウィルヘルミナ自身を奮い立たせるためでもあった。知らなかったのは自分だけだと気づいた時の驚きと悲しみは、彼女もよく知っていることでもある。
「……そうだな」
夫が一瞬痛みを堪えるような表情をしたのは、多分彼女の言わんとしていることを察してくれたのだろう。それに最近の娘の頑なさを思い出したのかもしれない。マリカにとっての優しいおじい様が、父にとっては悪い人だと――娘にはまだ受け入れられていないようなのだ。この上父の印象を悪くするような役回りをさせることはできなかった。
――私の、役目……。
妻として母として何かしらの役割を受け持つことは、きっと誇らしいことだろうと思っていた。でも、実際には胸を圧し潰されるような苦しいことばかり。こんな痛みを知りたくはなかったけれど、何も知らなかった頃に戻りたいと思ってしまいそうになるけれど。でも、それはこの痛みを他の者に押し付けるということになってしまう。
「大丈夫です。マリカの母親は私ですもの。ファルカス様はシャスティエ様についていて差し上げてくださいませ」
何か言いたげな夫を遮るように。気まずげに目を伏せたシャスティエを励ますように。ウィルヘルミナは精いっぱいの微笑みを作って強がってみせた。
「なんで! どうして……っ!?」
それでも、実際に娘の悲痛な叫びを聞くと、ウィルヘルミナのなけなしの覚悟は揺らいだ。落ち着いて聞いてね、と前置きを繰り返すうちに目に浮かぶ不信の色を強めて表情を強張らせたマリカは、母がそれを告げた瞬間に高く叫んだのだ。
動かないアルニェクに取り縋って泣くマリカを見ると、ウィルヘルミナの胸も張り咲けそうに痛む。見ない方が、という気遣いなど無駄だった。父に似た強情さを持つ娘は、死を目にしなければならない恐怖に震えながらもアルニェクを最後に撫でてやらなくてはと言って聞かなかったのだ。
「私が、一緒だったら……!」
使われた毒を調べるために無残に切り刻まれたはずの犬は、主に会わせることを慮ってか見た目は生きていた頃と同じように傷ひとつなく整えられている。でも、命を失った肉の固さ冷たさは触れるまでもなく明らかで、生きていたころの愛らしい仕草を覚えているだけに胸が詰まる。
とはいえ身代わりになりたかったとでも言いたげな娘の言葉にさすがに黙っていることはできなくて、ウィルヘルミナはそっとマリカをアルニェクごと抱きしめた。
「貴女が無事で済んで、アルニェクもきっとほっとしているわ。貴女のせいではないのよ」
「でも、お母様……」
「悪い人はお父様が捕まえてくださるし、貴女のことも守ってくれるわ」
「アルニェクは、私の犬だったのに。私が守ってあげてれば……」
幼い王女でありながら、周りの者を守ろうとするマリカの気概は心強い。ここにも夫の面影を見るようで嬉しくて、でも、同時に危なっかしくて。ウィルヘルミナは娘を抱く腕に力を込める。
「犬は人を守るものよ。きっと、そう……フェリツィア様の代わりになってくれたのよ」
アルニェクの運命は悲しいし、犯人の狙いが分からないのも恐ろしい。でも、少なくとも子供たちは、マリカもフェリツィアも無事だった。窶れ切ったシャスティエを見れば最悪のことが起きなかったのだけは良かったのだろうし、マリカも姉として喜んでくれるはずだ。あれほど――シャスティエを戸惑わせてしまったほど、フェリツィアを構いたがって傍にいようとしたのだから。
そう信じて、マリカを宥めようとしたのだが――
「フェリツィア様。なんで……? なんでアルニェクが赤ちゃんのせいで……!?」
「マリカ……?」
顔を上げた娘の、声の視線の鋭さに、ウィルヘルミナは思わず絶句した。しかもマリカは言葉を失った母に対しても手を休めることなく詰問を続ける。涙に濡れた目が、もう激しい感情に燃えているのがありありと見て取れた。
「お母様、アルニェクが死んだのはあの子のせいなの!? あの子さえいなければ良かったの!?」
腕の中の娘が全身に力を込めて歯を食いしばっているのに気づいて、ウィルヘルミナは慌てて声を出すことを思い出した。娘の行き場のない憤りの矛先が、生まれて間もない赤子に向かおうとしてしまっている。
「違うわ! フェリツィア様は何も……第一、貴女の妹じゃない……!」
「全然会えないのに妹なんて……!」
ぎり、と歯軋りする音さえ聞こえるようだった。娘の幼い顔に、似合わぬ憎しみの色が満ちているのを見てウィルヘルミナは恐怖した。そして自身の失言を悟る。妹に会いたがっていたのも以前のこと、マリカにとってはフェリツィアを抱こうとしたら理不尽に叱られたという思い出だけが強く残っていたのだ。そしてそれ以来、大好きなおじい様の悪口を聞かされ、父の不機嫌な顔を多く見るようになってしまった。――フェリツィアが切っ掛けで、と。大人の事情が分からない娘には思えてしまっているのだ。
アルニェクの冷たくなってしまった毛皮を、マリカの小さな手指が握りしめた。
「絶対に許さないわ……!」
「え、ええ。お父様がきっとアルニェクの仇を――」
「お父様はフェリツィアの方が大事なんでしょ……!」
マリカは吐き捨てると、ウィルヘルミナの胸にぐいぐいと頭を押し付けてきた。その力強さが娘の父への不信と鬱屈の深さを教え、母を絶望させる。母を抱きしめる腕、母に向ける言葉だけはまだ優しさが残っているのが、一層辛い。
「お母様、ずっと一緒にいようね。何があるか分からないもの」
「マリカ……」
娘は母を守ってくれるというのだ。犬の時のように、知らない間に危ないことがあってはいけないから、と。娘の思う敵とはいったい何者なのだろう。犬を殺した影のような相手か、まさか――父をその中に入れているというようなことは、あるのだろうか。
――そんなこと、ダメ……!
その後もウィルヘルミナは言葉を尽くしてマリカを慰め、怒りと悲しみを和らげようと務めた。けれど娘の瞳から昏い憎しみを取り除くことはついにできなかった。